第9話
——最悪、殺されていたかも。
午後の陽射しを避けて、湿った配管通路を歩きながら、落ち着きを取り戻してきた身勝手な気持ちは、呑気にそんな声を吐き出す。
前からは、ひんやりとした風が吹き流れ、湿気にまみれた体を冷ます。
頭はまだ、じんわりと残る恐怖や興奮、何か感じたことのないような複雑な感傷の整理に忙しい。
触れられたくないところを無断で踏まれ、衝動に駆られたとしても、無茶なことをしてしまった。
果たして、天使に唾を吐きかけて殺されなかったことを武勇伝として語れる日は来るのだろうか。
僕が生きるこの世界で、普遍に知られている天使の逸話は、どれも血生臭いものだ。
天使に支配されていた人類を神が開放し、この国は造られたという話は、多くの信奉者の酔狂話であるはずだった。
伝説や伝承、まして信仰なんかでは腹は膨れない、なんて暗部の酒場で小馬鹿にしているような、現実に生きる鉄と油の人々でさえも、天使という存在を鮮烈に脳に抉り込まれ、恐怖し、信仰に頼るようになってしまったのは、とある災害があったから。
一つは、28年前、南西部の境界沿いの繁栄都市、リンバールが天使の襲来によって、地へ落ちたのだ。
それは500mを越える翼を生やした女体、天使はたった1体で境界を破り、その圧倒的な膂力と魔法で都市を血溜まりにして、地へ叩き付けた。
天使の胸から紫の光が一筋に発散した直後、吹き上がるようにして飛散する肉塊や臓物が雲の白を赤く染めながら、落ちていく都市と、空に歪な律動で佇む、女体を醜く象った何か。
その凄まじい映像資料は、国民なら誰もが見たことがあるもの。
僕が教育棟で初めて見た時も、教室の誰もが吐き気を催してトイレに駆け込むか、瞠目のまま涙を流すかだった。
そして、もう一つ、3年前の二空界都市ドーウォルの大虐殺。
商街の活気に沸く白昼が、一瞬にして赤く染まった、千人規模の天使による殺戮。
実行を確認された天使は、巨大な種ではなく人型で、中央で有名な博物館に骨標本として展示されている種に極めて近いということが、調査団からの公式見解だった。
その中央博物館の展示骨標本も、40年ぐらい前に飛来し、他国と協力の末に辛うじて落とした個体であることも、広く知られている。
あの女の人は天使なのだろうか。
僕の浅い見識では、翼が生えていることしか、共通点は見出せないし、作り物のように綺麗な人だった。
それに、あの傷。
あれは、間違いはなく拷問の傷だ。恐らくは、この国のどこかで幽閉されていたのかもしれない。
逃げ出したのだろうか。
だとすれば、自身の立場もある、公的な機関に届け出る必要がある。
では、取り合ってくれるだろうか。
頭に浮かんだのは、レド3丁目警団所の受付で迎える兵士の、いつものような嫌悪と嘲笑の表情、そして暴力。
最悪、虚偽を広めたとして、刑罰が下ることだってある。
僕は軍人ではなく、背神者であった。
僕が報告を怠ったことで誰かが傷つくかもしれない、そんな義務感を胸裏に押さえつけることが出来るほど、自分を自分で哀れむしかない境遇の中に僕はあった。
視界が明るくなった。
気付けば配管通路は抜け、僕は真っ青な空と錆びた鉄骨の地に挟まれるように立っていた。
空に無法図に突き出ている、寂しく崩れた工廠の港跡を目指し歩いていく。
錆び朽ちた廃墟に入っては、散らかっている鉄骨を潜り進んで、その端に見えたのは、僕の工房。
もともと昔は、大型飛翔機の整備工廠だった粗野で巨大な倉庫を、まるで隠れ家のように仕立てて住んでいた。
中には、飛翔機の整備に必要な設備は整っていて、数台の工作機械に、クレーン、推力器の出力試験室、電算制御構成室、基礎魔粒子錬成の小型プラントまで揃っている。
そして、この工廠の中心にあるのは、有翼の中型飛翔機、僕が不法に所持している機体、名前はヘルハンダー。
先端から
両主翼の下部には、左右それぞれに3つ、
メインブースターの左右に伸びた水平尾翼には急機動用の雅羽が仕込まれ、上に乗るように空冷機構を兼ね備えた尾翼が、機体方向に沿って突き出されている。
機体腹部は、拡張された独立融合炉式の浮遊魔導が大きく目立ち、そのため全高は10mを超えるほど。魔粒子吸入口は前方に開けられている。
一般的な中型飛翔機と異なり、特徴的なところは、単座操縦席が機首付近ではなく、機体中央部にあることと、各部位に溶着された、多重に覆うような装甲が一回り大きな風体を作り上げているところ。
それら多重層装甲の弊害は、過多重量に見合うだけの大袈裟なまでに拡張された浮遊魔導と、誤って設計から過剰に昇圧された循環粒子を、緊急排出するための安全機構部が全て装甲で塞がれて機能しないという欠陥。
操縦盤も多分にセオリーから外れる仕様で、自動制御が干渉するのは最小限、運転の殆どが手動のスピル調整に頼っている。
また、その操縦席は基本、空に剥き出しで、僕が父さんに黙って取り付けた簡易透過天蓋が、長年使われずに折り畳まれて格納されていた。
浪漫の欠片もない鈍重な古物と言われてしまえばそれまでだが、手動調整に頼る機体バランス保持や、推進制御には学ぶことも多く、飛ばしていて兎に角、面白いことは僕だけが知っていればいい。
僕はいつも、この愛機を工房から南東に丁度100㎞、監査塔のレーダーの隙間、高濃度魔粒域の合間に滑り込ませ、鉄空を脱して更に拝空へと侵入する。
商用駐屯要塞の流路から隠れるように飛上した先、中層空域と上層空域との境目、高度477㎞、祭透帳:ソベルカークアのすれすれまで高度を上げれば、そこには神空の白く輝く構造物が、青の霞に綺麗に映っている。
ゆっくりと旋回して、その薄青の城々をしばらく眺めた後、自然落下速度に船を委ねて帰港するのだ。
思い描いた空への期待に、午前中の出来事はもう頭にはなく、陰鬱な気分は自由な解放感へ振り切れる。
それは当然分かっていたこと、愛機と空を飛んでいる時間ほど、幸福を得られるときはないのだから。
腰に力を入れ、入口のシャッターを開けると、いつもの匂いが心を満たす。工具と部品に埋もれた、油まみれの部屋を縫うように歩いて、整備主要甲板に入った。
その時に僕が妙だと思ったのは、いつもより甲板内が明るいと感じたから。
光に視線を導かれた先を見れば、天井は破れており、陽の光がそのままデッキを照らしている。
中央にあるのは、僕の愛機。だが、その隣には異物がいた。
「あれ? また、会ったね」
体には緊張が走り、咄嗟に銃を取り出そうとする、が、銃がない。
機巧服の上から手で慌てて叩きながら、自衛の術がないことを悟った時には、思考は硬直して、恐怖で溢れ出た汗が背中を伝ったことだけを、その冷ややかな感触から確かめていた。
———今度こそ、殺される。
うまく呼吸が出来ず、涎を垂らすだけの口を何とか拭い、足を動かす。
数歩後ずさり、勢いよく背を向けたところで声が掛かった。
「待ってっ! ねぇ、話がしたいの!」
それはとても必死で、悲痛な声に聞こえた。
命知らずの僕は、何故か思わず立ち止まってしまう。
「大丈夫、怖がらないで。なにも、なにもしないから」
まるで、子犬をあやすような声。
その可憐な少女の憐れみに、心の内を逆撫でされるような感覚が湧いてくる。
まだ、そんな自尊心があったのかと、嘲笑風味の息を吐き捨てれば、たちまち心を覆ったのは、いつもの諦めの味。
———殺すつもりなら、とっくに殺されている。
息を整え振り向き、ゆっくりと彼女に歩み寄る。ふわり、と笑顔を見せる天使に、僕は苦い顔で返す。
「この船は、君の? 凄いね。ここが操縦席かな」
機体の鋼鉄に白い手で柔らかく触れながら、優しい視線で僕を伺っている。
そのたどたどしい会話の紡ぎ方には、精一杯の気遣いを感じ取れる。
ただ僕は、そんな彼女を呆然と見つめている。
「私のことが、知りたい? どこから来たか、なんで、ここにいるのか?」
僕は否定、しようと首を振りかける。
正直に言えば、彼女とはこれ以上関わりたくもないし、僕が余計な事を知ってしまう前に、ここから去って欲しい。
だけど、真っ直ぐに拒絶できないでいるのは、彼女との対話を拒んでいるから。
そして、それは僕の癖。
いつものように、神の命に従って、僕は存在を溶かす。
胸に埋まっている神に監視されている、背神者との対話、関係を持つことは重罪なんだ。
その原罪に耐えかねて、何度も終わろうとした僕が留まったのは、空があったからだった。
心の繋がりよりも、空を取った哀れな僕は、虚無の表情で彼女を見返す。
ただ願う、僕と繋がる前に、ここを去って欲しいと。
そんな僕の虚ろな態度に、彼女は柔らかくはにかんだ。
「私がここに居るのは、この船に、呼ばれたから。君に会えたのは、たぶん————」
体が瞬時に撥ねた————。
とても大きな音が空間を震わしていた。
状況が掴めないまま、目線を泳がせ、体を回す。
迫ってくる雑踏を混乱に膨れ上がった意識がやっと認識すれば、軍装の集団が甲板閉鎖壁を吹き飛ばしたことに驚愕し、その滑走路先には明確な敵意の壁が出来上がっていることに絶望する。
そして、驚愕に打たれた身体に楔を打ったのは、男の怒号。
「手を後ろに、そのまま跪け」
拡声器からの怒号はハウリングし、耳をつんざく。
脳が揺れて痺れる、動悸は高まり、呼吸が苦しい。辛うじて、僕は両腕を上げる。
足が震えているのが、滑稽なほどに分かった。
その繰り返される怒号の中で、軽い音がした。
「誰が、撃てと言ったかっ」
その発砲音を火種に爆発した一段と大きな声は、びりびりと、工房全体を震わせる。
振動、続く高音域の音の揺らぎが収まった後、静かな空間を支配していたのは、ライフルを構えて、僕らを広く取り囲んでいる黒い軍式装甲服の集団。
寂れた甲板に場違いな程、重厚な装備の兵士達、その圧倒的な現実味の乖離に、渇いた笑みがこぼれ出る。
拡声器を首元に取り付け、集団の中央にいたのは、口元に怪しげな髭を蓄えた眼帯の男。白い腕章から、警団関係者であることが、恐慌に溺れる脳味噌でも分かったことだった。
「おい、貴様、天使の方だ。魔法は使うなよ、既に制圧部隊は揃えている。ゆっくりと、両手を上げ、膝を付け。そこの、男もだ」
男の声は淡々としていた。
その冷静な声色に、僕は容易く諦観を煽られ、意識は深淵に沈み込んでいく。
ぐんっ、と体に力が掛かった。
首に白い腕が絡みついている。そして側頭には、拳銃が宛がわれていた。
「その構えている銃を下ろせ。この男を撃ち殺すぞ」
彼女の発した響きは凛とし針のように鋭く、得体の知れない迫力で警団を気圧していた。勿論、僕は木偶と化す。
しかし、髭の男は楽しそうに口元を歪ませた。
「おいおい、随分と人らしいことをするではないか。何処で教わった?」
構わず一歩前に出る男の姿に、恐怖は感じられない、多くの修羅場を制してきたかのような落ち着きさえも感じられる。
逆に殺気立ったのは、周りの兵士。
その兵士達のライフルの構えのざわつきを、髭の男が抑える。
「おい、はやるな。銃を下ろせ」
渋々と構えを解き、ライフルの角度を下げていく兵士。されど、極限まで引き締められた緊張は決して緩まない。
「で」
僕達に視線を戻した男の表情は、冷たく、片目でもはっきりと伝わったそれは、虫を見るような目という奴だろうか。
「国を血に染め上げた魔法は使わんのか?」
僕の首を締め上げる彼女の腕が、一瞬力んだ。
彼女の体温や、鼻に届く甘い匂いも、今この場では不協和音の様に頭に轟いていた。
「早く、その男の頭を潰し、脳漿を啜りながら飛び立てばよいだろう、あの天井から」
横目に映るのは彼女の横顔、なぜか唇を噛んでいる。
「人の命に価値があるなどと、何処で入れた知恵だ。おい、貴様らは、人の肉を余すことなく魔法の触媒にして、一瞬にして巨大な災害を起こすのだろうが」
さらに一歩と踏み込んだ男は、囁くように、ざらついた音を彼女に届けた。
「この街も、どう落とす気でいた?」
「そんなこと……」
首に絡まる彼女の腕は、微かに震えていた。
「できないよ」
消え入りそうなその呟きが聞こえたとき、彼女の傷だらけの裸体が、影絵のように脳を走った。
そして僕は、ポケットからヘルハンダーの鍵を取り出し、それを彼女に気付かせていた。
僅かに視線を揺らした彼女は、息を呑む。
「これって…」
どうか、逃げて欲しい。
何故だか、今は強く、そう思っていた。
————視界が、回った。
確か、その発砲音は2つ聞こえた。
体が、後ろに突き飛ばされている。
軽やかに揺れている白銀の髪、飛び散っている鮮血。
その十分に痛みつけられた華奢な体は、僕を庇って撃ち抜かれていた。
「ちっ、確保しろ」
前からは、堰を切ったように警団兵士が走ってくる。
直ぐに立ち上がろうと、膝を立てたら、眼前には彼女の顔。
「大丈夫?」
その表情を見たとき、気が付けば、彼女を両腕に担いで走り出していた。
だけど非力な僕は、数歩、駆け出したところで態勢が崩れる。
音は、ゆっくりと流れていた。
零れ落ちる彼女は、僕の腕から飛び立ち、僕はただ落ちていく体を捻って彼女を追った。
迫る兵士の鬼の形相から逃げるように、輝く白を追っている。
音もない世界で、彼女と目が合った。
瞬間、僕に世界の速度が戻ったことを伝えたのは、腰の衝撃と、浮遊感だった。
僕は彼女の片腕に抱えられ、空を飛んでいた。
下に見えるのは、警団の群れ。まばらに聞こえる軽音と火花のように明滅する銃光が、他人事のように散らされている。
そんな呆けた僕の意識が戻ったのは、愛機の操縦席に叩き付けられてからだった。
痛みは焦燥に掻き消され、鍵を差し込んだのは無意識の所作。
「飛んでっ、いこう!」
暖気のない点火から、最高圧力までの昇圧には、数秒もかからない。これは、僕でも誇れる技術。
起動排気に怯んだ警団をそのままに、急浮上、浮遊魔導を偏向させ機体を傾け、敵の射線を装甲で遮る。
操作盤の各指示計器は、メインブースターの点火準備完了を伝えている。
魔粒子の循環量を最大まで増やし、圧縮粒子を臨界炉に噴射させる。
点火確認、ヘルハンダーは工房を突き破り、そして、即最高速度へ。
驚いているメインブースターの困惑に構うことなく、粒子の出力を上げていく。
襲う風と重力に引き剥がされないように、操縦席にしがみ付く身体。全神経は、両手が掴むスピルにある。
工房の開けた天井を最後に、景色は変わり続ける。ひしめく錆びた鉄の街は、どんどんと小さくなる。
気付けば既に遥か下となった廃港には、警団の飛翔機の陣形隊列が見えた。
臨戦機動に移行するため、速度を抑え、機体の傾きを落ち着かせた後、やっと見えた空には澄んだ青。
尚も早まり続ける動悸に混じって、背中に感じている熱に気が付いた。
「ありがとうっ、ウィル!」
頭が揺れているのは、彼女が抱き着き、僕を揺らしているから。
「私は、レフィ。レフィ・レギン・レイヴ。君は、ウィルッ、ウィル・クラウス!」
ほら、と背中越しに腕を伸ばす彼女は、操縦盤の隅に小さく印字された名前を指差した。
僕は振り返り、彼女の顔を見る。
この日初めて、笑顔を見せた。
飛翔恋騎ラスト・ヴァルキュリア 名切 斗鉄 @tetsuhara
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