夕暮れ時

亀虫

ツジ

 街は茜色に照らされていた。ビルの窓は茜色を跳ね返し、光っていた。これは私が一瞬だけ見た景色だ。車窓から見える景色は右から左へ流れ、そしてすぐに私の視界から消えていった。

 八月の暮れだった。お盆が終わり、夏休みも終盤。あと一週間ちょっとで学校が始まる。この日はアルバイトに精を出していて、それが終わり電車で帰宅する途中だった。夏休み限定のアルバイトだったので、これもあと一週間ちょっとで終わりだ。少し寂しい気分だった。夕陽を眺めていると、より一層しんみりした気持ちになってくる。

 電車に揺られること十数分、家からの最寄り駅へ到着した。私はそこで降りた。バイトの後はだいたい疲れているので、寄り道する気はあまり起こらない。今日も例外ではなく、家への直帰ルートをたどっていた。

 駅を降りて、正面にある横断歩道を渡った。私の家は駅から徒歩二十分程の距離にある。いくら疲れているとはいえまだ高校生なので、この距離を歩く体力くらいは残っている。毎日のように通っている道なので、迷う心配もない。半年前くらいに高校入学と同時にここに引っ越してきたのだが、もう慣れたものだ。だから私は真っ直ぐ、いつも通りこの道へ進んでいった。

 私は駅から家路への中間地点にある小さな交差点に差し掛かった。ついさっきまで茜色に輝いていた太陽は沈みかけ、赤い景色は徐々に青色に変わりつつあった。間もなく夜がやってくる。夜がやってくると、一日が終わる。そして、夏休みの終わりも一日近づく。できればまだ終わってほしくはないと思う。でも、悲しいけど仕方のないことだ。自分の心も太陽のように沈んでいくのを感じたが、今沈んでも仕方がないと思い直し悪く考えるのをストップした。

 横断歩道を渡り、右に曲がる。そうすれば、あとはほぼ直進するだけで家に着く。

 私は一旦ここで立ち止まる。赤信号だったからだ。わずかな信号待ちの時間だが、足が疲れていたのでちょうどいい休憩時間だった。

 信号機が青に変わるのを待っているとき、斜め向かいに人影があることに気付いた。私はそちらへ目を向けた。近くに塀があり、その影の下にいたのでよく見えなかったが、身長からして小さな子どもだということがわかる。

 子どももこっちを見ていた。子どもという生き物は何か気になるものを見つけるとそれを凝視することがある。今私を見ているのはその類のものだろうか、と考える。私も小さいころはそんなことがあったんだろうな、と軽く記憶の糸を手繰り寄せていた。

 でも、あまりにもジッと見つめ続けるので、私は少し異様な、不気味な感覚を覚えた。ただそこにいるだけのその子は、この場に似つかわしくない、妙な存在感を放っていたように感じた。私はできるだけその子と視線を合わせないように信号機を注視した。

 信号が赤から青に変わった。私は横断歩道をゆっくりと渡る。ちょうど真ん中まで渡ったとき、不気味に思いつつも、怖いもの見たさに近い感覚でまた子どもの方をチラッと見てしまった。子どもはやはり私に注目しているようで、横断歩道を渡っている間も視線を外さなかった。私は思わずそこで立ち止まっていた。

 信号が点滅しているのに気付くと慌てて視線を前に戻し、そそくさと信号を渡った。私のすぐ後ろを車が通り過ぎていった音がした。

 渡った後、やっぱり気になったので、また子どもの方を見た。子どもはまだ私を見ていた。一瞬目が合った。子どもの顔は暗くて見えないが、その視線は無表情で冷たい感じがした。私はまた怖くなってすぐに目を逸らした。

 何か胸騒ぎがする。これから良くないことが起こる予兆なのだろうか、とネガティブな想像に一瞬囚われた。が、そんなことあるわけないよね、とすぐに思い直した。これは私の悪い癖だ。何か気になることがあると、すぐに嫌な方向に物事を想像してしまう。大抵はただの妄想に終わって何も起きやしないのに、ついついそう思ってしまうのだ。ダメダメ、そういう癖は直さなきゃ、と私は思考の軌道修正を行う。ちょっと変な子どもに見られただけじゃないか。それだけで悪いことが起こることなんてあるはずはないのだ。

 家へ向かう私は、帰ったら何をしようか、と考えながら歩くことにした。まずはお風呂に入って、お母さんが作ってくれるごはんを食べて、それからゲームでも……いや、今日は宿題を終わらせなきゃ。夏休みの宿題は大体終わってはいるけど、まだちょっとだけ残っている。早めに片付けておかなくては。うわあ、また嫌な気分になってきた。これだから長い休みの終わりは嫌いだ。

 私は交差点にたどり着いた。あとは横断歩道を渡って右折すれば家に帰れる。

「……あれ?」

 ここさっき通らなかったっけ、と私は違和感を覚えた。考え事をしながら歩いていたから、もしかしたら間違えて元来た道を戻ってしまったのかもしれない。私はしまったうっかりしてたな、と反省し、速足で横断歩道を渡り右に曲がった。

 再び交差点が見えた。今しがた通り過ぎたばかりの交差点だ。今度は考え事なんてしていないから、うっかり道は間違えたなんてことはないはずだ。おかしいな、思いつつ、また同じように通過する。そして、また交差点に戻ってきた。変だ。迷ったことのない道で、私は迷子になってしまったのかもしれない。もう一度同じように進んだ。戻ってきた。

 同じ道を繰り返し行き、その度に同じ交差点に戻ってくる。道は合っているはずなのに、気付けばと戻っている。私は走った。早くこの交差点を抜け出したい。繰り返すたびにそういう思いが募るが、結果は何度やっても変わらない。そのうち、私は発狂しそうになった。

 私は十数回目の交差点で息が切れ、足を止めた。いつの間にか目には涙が浮かんでいる。もう迷い始めてから随分時間が経った。

 一度、落ち着いてみよう。でなければ解決することも解決できないぞ、と自分に冷静になるよう言い聞かせる。深呼吸する。乱れる呼吸は徐々に落ち着きを取り戻す。それに伴い、パニックになって視界になかった周囲の景色も少しずつはっきりしてきた。

 青くなりかけた、赤い景色。人気のない道。森閑とした家々。まだ日が沈んでいない。もうとっくに沈んでいてもいいはずなのに。今はとっくに夕方から夜になっていて、街灯と家々の明かりだけが頼りになっているはずだった。まるで時間まで止まってしまったようだった。 

 私は冷静になったとき、ようやく思い付いた。こういうときこそ文明の利器の出番だ。何故今まで思い付かなかったんだろう。私はポケットからスマホを取り出した。地図のアプリを呼び出し、それで現在地点を確認しようとした。迷子になったときでも、一発で場所がわかるはずだ。

 でも、地図は現在位置を表示しなかった。このとき、私は電波が「圏外」になっていることに気付いた。圏外なので、電話も誰にもつながらないことも同時にわかった。ここでは文明の利器は無力だった。

 誰もいない。物音も聞こえない。何もない。

 事の重大さを感じてきた私は、ついに恐怖を感じた。どこかこの世の物ではない場所に、突然隔離されてしまったのかもしれない。声を上げて泣き出したい気分だった。二度と帰れない気がした。私の心は再び冷静さを失った。どうしよう、どうしよう、どうしよう。それだけが私の中を支配していた。


 私が途方に暮れて一人でそわそわしていると、人影があることに気が付いた。

 人がいる。よかった。もしかして、これで救われるかもしれない。不安な気持ちは少しだけ和らいだ。私は人影を見た。

 それは小さい子どもだった。ここで少し前の記憶が蘇る。確か、先程交差点にいた子どもだ。子どもはまだ同じところに立っていた。相変わらず、少し不気味だ。

 それでもいい。まだ小さい子に道を聞くのは少し恥ずかしい気がするが、そんなことを言っている余裕はない。やっと会えた人なのだ。恥ずかしさや不気味さよりも、人と会えた嬉しさのほうが大きく勝った。私は子どもに近づこうとした。

 しかし、子どもは私が動くと、スズメが飛び立つようにパッと走っていってしまった。

「あっ、待って!」

 私は思わず声を上げた。折角見つけた“人”を逃したくない思いでいっぱいだった。子どもは左の道を真っ直ぐに駆けて逃げていく。私がさっきまで行っていた道の反対側だ。私はそれを追いかけた。すばしっこく、私の足ではなかなか距離を詰めることができない。それでもあきらめずに一生懸命追いかけた。

 子どもは右へ左へと無軌道に走り回り、私はそれに振り回された。とはいえ、元々疲れていた私は途中で息を切らしてしまう。気付けば立ち止まってぜえぜえと荒く呼吸していた。子どもを追いかけたいが、もう限界だ。

 諦めようとしたが、何故か子どもも距離を置いて立ち止まり、こちらを見ていた。まるで私がまた追いかけてくれるのを待っているかのようだった。追いかけっこでもしているつもりだろうか。

「ねえ……ちょっと……聞きたいことがあるんだけど……」

 息切れ切れに私は子どもに話しかける。このとき、子どもの姿を初めてはっきりと見た。髪型は坊ちゃん刈りで、クリーム色の短パンと白いTシャツを着ている。男の子のようだ。年齢でいえば、六歳前後。小学校に入るか入らないかくらいの年頃に見える。男の子はその場から動かず、その三白眼で私をじっと見ていた。

「道を……聞きたいんだけど」

 男の子は黙ったまま答えず、やはり私を見つめるだけだった。

 私は息が整うまで休んでから、もう一度聞いた。

「道教えて欲しいんだけど、いいかな?」

 私は思わず足を一歩踏み出して詰め寄る。男の子はそれを見るなり一歩後退りした。

「あっ、待って。私、怪しくないから」

 何を言っているんだ、私は。息は整っても、思考はまだまとまっていないらしい。これは怪しい人がよく言う台詞だ。怪しくない人はこんなこと言わない。

 男の子はその後また逃げ出すかと思ったが、その場から動かなくなり、数秒間無言で見つめていた。その後、やがて彼は悲しそうな顔をして、スウっと消えてしまった。

「消え……た?」

 私は目を丸くした。あまりに突然視界から消失したので驚いた。

 手がかりが消えてしまったので、私は再び途方に暮れた。その上、散々振り回されて道がわからなくなってしまった。もっとも、既に迷子なのであまり状況は変わってないとも言える。

 仕方なく歩いていると、また例の交差点に着いた。相変わらず人気がない民家が立ち並ぶだけで、しんと静まり返っている。夕陽もまだ沈んでいない。太陽が建物の影からわずかに赤い顔を覗かせている。時間は夕暮れ時に固定されたままだった。とりあえず、疲れてしまったので、少し休憩してからまた策を考えよう。


 私は信号機にもたれかかり、ポケットからスマホを取り出した。もしかしたら、男の子が消えるというイベントを消化したことで見えないところで状況が変わり、電波が繋がるのではないか。淡い期待を抱いて電源を入れてみるが、圏外のまま変わっていなかった。私はがっかりして肩を落とした。小さな期待は一瞬で打ち砕かれた。

 私はスマホをポケットにしまった。ここにいるだけでは埒が明かない。何かいい打開策はないものか、と考えたが、私の足りない脳みそではそんなものは思いつかない。やはり、歩き回って道を探す以外に方法はないのか。でもそんなことをしてもどうせここに戻ってくるだけだ。いくら考えても、肯定的な思考より否定的な思考が優勢だった。私はその場にしゃがみ込み、しばらく頭を抱えて考えていた。

 そのとき、突然私に向けられていた太陽の光が遮られ、影が差した。私の目の前に何かが現れたのだ。ハッとして顔を上げた。しゃがんだ私より少し高い位置に男の子の顔があった。

「あ……さっきの」

 私は思わず声を上げた。一度消えた男の子が、再び私の前に姿を現した。私の目の前にあるのは影だが、私の中には光が射しこんだ気がした。

 男の子は立ったまま何も答えなかった。しかし、何か言いたげに口をもごもごと動かしている。もしかしたら何か話してくれるかもしれない。

「ねえ、君。ここがどこだかわかるかな……? 私、迷子になっちゃって」

「……」

 男の子は口の動きを止め、また口を閉じてしまった。

 しまった。もう一押し、と思ったのに。逆に振出しに戻ってしまった。

 そのとき、どこかから声がした。

「見つけた」

 ……声? 男の子の口は動いておらず、彼の声ではないことは確かだ。確かに彼の後ろから、低いとも高いとも取れない、どう形容していいかわからないような声が聞こえてくるが、影も形もない。

「……ごめんなさい」

 男の子が怯えた様子でついに口を開いた。すると、再び声がした。

「では、行け。向こう側で両親が待っている」

 そう言った直後、男の子の身体はふわりとした光に包まれ、また消えてしまった。

 そして、代わりに靄の様な何かが私の前に現れた。

 私は、その靄が大人の女性のような姿をしているように思った。実際に形はないのだが、何故かそう直感した。目では姿がはっきりと見えないのに、脳は姿をとらえている。なんとも不思議な感覚だった。

「あなたは……」

 私は靄に話しかけていた。得体のしれない何かであるのは確かだ。恐怖心はあったが、ここで初めて話せそうな存在に出会った気がしていた。もしかしたら、帰る方法を知っているかもしれない。

「わたしは“ツジ”という。この世界である役割を担っている者」

 ツジと名乗る靄はゆっくりとした口調で答えた。

「……あ、あの、ツジさん。ここはどこ……なのですか。私、道に迷ってしまって」

 立ち上がり、意を決してこの場所のことを訊ねた。

「ここはどこか、と言われましても、あなたに答えることはできない。これはあなたが知ってはいけない、世界の理。あなたが来るべき場所ではない」

 どういうことだろう。答えられない場所というのは。世界の理というのは。今の私は頭が働かない。

「ここは……何なんですか? 異世界か何かなんですか? 人気もないし、どこまで行っても交差点に戻ってくるし、ずっと夕方だし、明らかに普通じゃないですよね。私はどうしてしまったのですか」

 きっとこの世界は、私が普段暮らしている世界ではない。もうとっくに気付いている。夢のように、まるで現実感がない。夢なら覚めてほしい。覚めて、元の世界に帰して欲しい。そう思って訊ねた。

「異世界、と言えばそうかもしれない。正しい名前は教えられない。仮に今いるこの世界を“狭間の世界”とでも呼んでおこう。異世界とはいっても、少し歪めばあなた方の世界に繋がってしまうくらい、近い場所。風景も、あなた方の世界を模したものになっている」

 狭間の世界。知っている風景を持つ、知らない世界。いつの間にかそんな場所に迷い込んでいた。でも、何故?

「どうして私はこんなところに……」

 私がそう呟くと、ツジは答えた。

「今しがた“帰った”あの男の子が原因、とだけ答える。あの子はもはやあなた方の世界の住人ではない。この世界を歪め、繋げてしまうくらい強い思念を持ってしまった。そして歪めたこの世界にあなたを引き込んでしまった」

「あの子が……」

 関係ない人を自分の世界に引き込むなんて、まるで性質の悪い悪霊のようだ、と私は思った。でも、私にはこの子がそんな悪いものには見えなかった。

 私は異様な出来事が連続していたせいか、異世界のような突拍子もない話をすんなりと受け入れていた。

「これは世界の理に反すること。悪意はなくとも、歪めてしまったこと自体がいけないことだ。だからわたしがあの子を“帰し”た。それがわたしの役割だ」

 ツジは淡々とした口調で語る。怒りも悲しみ、何の感情もこもっていない、冷たい感じの声だった。

「帰すってどういうこと? ……あの子は一体、あなたは一体何者……」

 その男の子の処遇が気になった。無関係な他人だが、少し心配に思ったのだ。無限に続くこの世界へ私を連れてきた彼が一体どうなってしまうのか。

「答えられない。さて、あなたも帰る時間だ。あまりここに長居すると、あなたも理から外れた存在になりかねない……あの子のように」

 ツジはただ靄をくゆらせていた。

「まだ聞きたいことがあります」

 私は何故か少し寂しい気持ちになった。私は何も知らないままここを去ることが少し惜しかった。その気持ちは、ただの好奇心だった。恐怖心は、このツジと名乗る靄に出会ったとき、そう変わっていたのだ。

「質問の時間は終わりだ。今のあなたの状況は、帰ったらすぐにわかる。あの子のことを心配するより、自分のことを心配しろ。そして、あの子のことはもう忘れろ」

 ツジがそう言うと、先程男の子を消した光と同じような光が私を包んだ。

「でも……」

 私は食い下がろうとしたが、ツジはそれを無視した。そして、彼女の役割を果たそうとする。

「さようなら、もう二度とお会いすることはないだろう……」

 光が強く輝く。私の目の前が白くなっていき、やがて前が見えなくなった。そして、段々と意識が遠のいていった。


 目を覚ますと、視線の先に白い天井があった。私はベッドに寝かされていたようだ。カーテンでベッドの周りが仕切られているのがわかった。

 私はすぐにここが病院だとわかった。私は病室で寝ていたのだ。静かで音が少ない。部屋の外で台車を走らせる音やコツコツという靴の音がわずかに聞こえてくるだけだ。

 私はゆっくりと上半身を起こした。カーテンの内側には誰もいない。起き上がるとき、一瞬頭がズキっと痛んだ。頭を右手で触ると、包帯が巻かれていた。

 私は何をしていたのだろう。ケガをして寝ていたということは、何か事故に巻き込まれたのだろうか。全然覚えていない。眉間に指を当てて思い出そうと試みたが、結局何も思い出すことはできなかった。

 そのとき、足音がして、その後でガラッと引き戸を開く音が聞こえた。誰か入ってきたようだ。足音はゆっくりとこちらに向かってきて、私のベッドの前で止まった。カーテンの向こう側に人影ができていた。

 人影はサッとカーテンを開けた。影の主は母だった。

「……よかった。起きたのね!」

 母は私にいきなり抱きついてきた。起きたばかりの私は、状況がよく呑み込めず、困惑した。

「お母さん、私……」

 私は自分の身に何があったのか聞こうとしたが、母は私が言い終わるのを待ちきれず話しだした。

「あんたねえ、死んじゃうかと思ったのよ。起きてくれなかったら、あたしどうすればいいかと思ったわよ」

 なんと、死にかけていたようだ。頭に包帯を巻いているのはそのためか。その瞬間の記憶がないのでなんとなく釈然としない気持ちだ。

 記憶……そうだ、まだ覚えている。私はさっきまでいたあの世界のこと……“ツジ”がいた狭間の世界のことを。あれは夢だったのだろうか。人は死が近くなると、不思議なものを見ると聞いたことがある。これもそれと同じようなものだろうか。それとも、本当に魂だけが私の身体から抜け出して、あの世界に行っていたのだろうか。今となっては確かめる術もない。

「ねえ、お母さん。私、ケガしたときのこと全然覚えてないんだけど……教えてくれない?」

 私は母に質問した。母はポケットからハンカチを取り出し、涙と鼻水を拭ってから、ゆっくりと答えた。

「交通事故よ、交通事故。あなた交差点で車に轢かれたのよ。そのときに強く頭を打ってね、しばらく意識を失ってたの。ああ、ケガだけで済んでよかったわ」

「交差点で……?」

 私は少し驚いた。自分でも気付かないうちにそんな大きな事故に巻き込まれていた、というよりは、私が見てきたものと関係がありそうなだということに、だ。永遠に続く道だけがあり、永遠に時が動くことのない世界。夢の世界かもしれないその場所の記憶がより鮮明に蘇ってくる。

 母のおかげで、今の状況はなんとなく理解した。

 もし夢に見た世界が本当なのだとしたら、ツジ……得体の知れない彼女が私を元の世界に戻してくれたのだろうか。そして、もし本当ならば男の子はあの後どうなったのだろうか。

 頭がズキっとした。まだ少し痛むようだ。考えるのはよそう。夢か現かわからない狭間の世界について思いを巡らせるより、今は休んでおこう。私は、一旦寝ることを母に告げ、横になって目を閉じた。

 その後、しばらくこの世界のことを思い出すことはなかった。


 後日、私は意外なところで“ツジ”にまつわる話を聞く。

 交通事故から数か月。夏休みが終わり、二学期。そして、それも終わって、冬休みが明け、三学期。今年度もあとわずか、という時期だった。

「でさー。あの芸能人、旅行中に見ちゃってさ。意外にフツーなんだなって思ったよ」

「あはは、マジでー。私も見たかったなー」

 私は友達と他愛のない会話を楽しんでいた。こんな他愛のない会話を楽しめる喜び、死んでいたら味わうことができない! などと退院したばかりのときは思っていたが、今はいちいちそのように噛み締めることもなく、また漫然とした日々を暮らしている。

 私たちは短い冬休みの出来事について話し合っていたのだが、そのうち話の内容が夏休みの話題にシフトしていった。

「ところでさ。あんた事故ったじゃん、交差点でさ」

「あー、アレね……あまり思い出したくないわ。アレのせいで残り少ない夏休みが入院生活で終わっちゃったんだよね。ホントに萎えたよ」

 軽い調子で私は答える。思い出したくない、とは言っているが、事故の記憶がないせいかトラウマになることもなく、話題に出すのも意外と平気だ。

「あそこさあ……結構ヤバいところらしいよ」

「ヤバい? 何が?」

 友達の言う「ヤバい」は、本当にヤバいのかそうでないのか判断に困る。日常的にこの言葉を使うので、きっと「ヤバい」のレベルが低いんだろうな、と思うが、時々本当に「ヤバい」内容もあるので、軽い「ヤバい」なのか重い「ヤバい」なのか話を聞いてみるまでわからない。

「昔から事故が多いんだって……もしかしたら、何かいるのかもね。幽霊とか」

 私はハッとした。友達はオカルト好きで、よくそういう話をする。私は別にそういうことが好きというわけでもないので、いつもなら軽く受け流す……のだが、今回はそうしなかった。心当たりがあったからだ。忘れかけていた記憶が再び蘇る。もしかしてあの子のことだろうか。私を狭間の世界に誘った、あの男の子。

「それって、男の子?」

 私はそう友達に聞いた。

「ん? 男の子? いやあ、そこまでは知らないけど……。“ツジ”っていう名前らしいよ。」

「ツジ?」

 まさか、と思った。こんなところでツジの名前が出るとは。

「うん、夕方ごろに交差点に現れてね、気に入った人の魂をあの世まで引っ張って行っちゃうんだって」

 友達が言うツジと、私が知っているツジとは少し違う。私が引っ張られたのは、男の子による仕業だと認識している。ツジはむしろ私を帰してくれた。でも、それに近い噂話が存在しているなんて、思いもしなかった。

「ああ、うん……そうだね。でも、夕方って微妙に暗いから普通に事故起きやすいらしいよ。何かいるかいないかに関わらず、気を付けなきゃね。私が言うのもなんだけど」

「ホントにねー」

 友達と私はと小さく笑い声を上げた。


 学校が終わったら、私はあの交差点を目指した。あの世界を思い出したことで、どうしても訪れたいと思ったからだ。

 私は交差点に着くなり、周りを見回した。今は誰もいない。ぶぅん、と音を立てて車が一台だけ通過していったが、それだけだ。

 そこに男の子はいなかった。最初から彼は存在しなかった、とでも言うように、気配も何も感じない。本当に、もういなくなってしまったのだろう。

 私は思う。ツジはあの世界の死神なのかもしれない。魂の在処を決める、死神。彼女らはあるべき場所に導いている。

 男の子は、きっと私と同じように事故に遭ってしまった不運な人だ。私と違うところは、さらに運が悪いことにそのまま元の世界に帰れなくなってしまったところだ。そして、居てはいけないところに居座ってしまったので、死神によってあるべき場所へ導かれた。

 私はたまたま元の場所に戻ることができる魂だった。だから男の子と同じ世界ではなく、元の世界に戻された。でも、もう少し運が悪ければ、男の子と同じ世界へ行っていたかもしれない。運命は紙一重だ。

 きっとツジは何度も同じように魂を導いているんだろう。噂が立つくらい事故の多い場所だから、尚更だ。脳内に彼女の冷淡な声が一瞬蘇った。ここにいると死神の声が聞こえてきそうだった。

 まあ、そんなこと今更考えても仕方ないか、と私は頭を切り替えた。きっとこの噂を以前どこかで目にしていて、それが夢の中に出てきただけだろう。私は来る途中にあった小さな花を男の子がいたところに添えて、その場を離れた。

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夕暮れ時 亀虫 @kame_mushi

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