オーランド戦記

森山智仁

オーランド戦記

「くそっ、最悪だ!」と言って、レオニード男爵は空になった酒瓶を砦の石壁に叩きつけた。

 飛び散る破片が月明かりを反射してきらきらと輝くのを見ながら、年老いた副官フルブライトは、まだ最悪ではない――と思った。

 こちらに有利と言える点もある。

 だが、勝算があるとまでは言えない以上、最悪もその手前も同じなのかもしれない。

「やはりこんな砦にこもらず、あのまま夜通し駆けるべきだったんだ」と、レオニード男爵が吐き捨てるように言った。

「いや、それは無理だ」と、フルブライトはなるべく相手を刺激しないように言った。「馬も人も適宜休まねば走れん。あのままでは間違いなく途中で力尽きただろう」

「気力で補えば走れた」

「お前さんだけならそうかもしれんがな」

「しっかり休んで、それでどうなった? 今や完全に囲まれている。状況は明らかに悪化したではないか!」

 いや、ほんの少しだけ良くなっている――と、フルブライトは考える。

 この砦にこもった時、敵が攻撃の手を緩めなければ、我々は確実に壊滅していただろう。

 慎重に、囲んでくれた。

 バチスアン帝国最強と名高い銀狼騎士団グレンツェン・ヴォルフにしてはぬるい動きだ。騎士団長ロレンスが不在という噂は本当なのかもしれない。

 ――そういった考えをフルブライトが口にしないのは、結局のところ、包囲網を突破できる公算が極めて低いからである。

 九分九厘、なし得ないだろう……アトレーユ王国史上、最弱と言われるこの青銅騎士団エラン・クルセイダーでは。

 この不運な騎士団を率いる不幸な少年、第二王子ユミルは先ほどから、壁に貼られた周辺地図をじっと見つめている。

 長く伸びた白いあごひげを指先でもてあそんでいるフルブライトも、よく発達した上腕を組んで悪態をついているレオニードも――いや、敵味方を問わずほとんどすべての人間が、この頼りないなで肩の王子がまもなく囚われの身となることを確信していた。

「レオニード」と、ユミル王子が言った。

「なんでしょう、殿下」と、レオニードが大儀そうに答えた。

「突破は難しいと思うか?」

「……ええ、率直に申せば」

「それなら、いっそ、僕に任せてくれないか?」

 おや、とフルブライトは思った。

 王家への忠義に厚いフルブライトだが、その時感じたことをありていに記せばこうなる――でくの坊がなにを言い出す?

「最後かもしれないなら、最後ぐらい自分の考えで行動してみたい」

「なにをおっしゃいます」と、レオニードはあきれたような声で言った。「我々の団長は殿下でしょう」

「じゃあ、任せてくれるんだね?」

「ですから、なぜ私にそんなことを訊くんです?」

「僕は自分が団長だと思ったことはない。実質、僕たちを動かしていたのは君とゴドウィン男爵だ」

 それは事実である。

 青銅騎士団エラン・クルセイダーは、レオニードと、今は亡きゴドウィン、二人のタカ派が牛耳っていた。副官フルブライトの役割は、二人の決定について「殿下、よろしいですな」と確認することに終始していた。

 とは言え、王家直属の騎士団とはえてしてそういうものだ。温室育ちの少年に戦の指揮などできるわけがない。人望と実力を兼ね備えた大人が実権を握るのは当然のことと言える。

 ただ、ゴドウィンが戦死して以来、レオニードはしばしば投げやりな態度を取るようになっていた。それに伴い、騎士団全体の統率は乱れている。

「私とゴドウィンが出すぎた真似をしていたとおっしゃるので?」と、レオニードは語気を強めた。

「そんなことは言っていないよ」と、ユミルは静かに言った。

 これもフルブライトには意外であった。普段のユミル王子ならうつむいて黙ってしまうところだ。

「……お好きになさればよろしいでしょう」と言い、レオニードは肩をいからせて部屋を出ていった。

 ユミルはまた壁の地図を見つめ、数秒沈思した後、口を開いた。「敵はおよそ五〇〇。味方は一〇〇。まともにぶつかり合えば勝ち目はない」

 フルブライトは返事をしなかった。王子は今、声に出しながら考えをまとめているのだろうと察したのである。

「でも、まともにぶつかり合う必要はない。僕たちの勝利条件は王都まで逃げ切ることだ。敵が慎重に囲んでくれたおかげで、少しだけ勝機が見えてきた」

「……!」気づいていたのか――と、フルブライトは目を見張った。

 では、ここへ駆け込む前、王子が疲労の限界に見えたのも、もしや演技だったのか? 戦術として砦に入るべきだと王子が言葉で主張しても、レオニードはまず認めなかっただろう。

「深い森に囲まれ、丘の上に建つこの砦から王都方面へ向かう道は三本。それ以外の道から迂回する可能性や、強引に森を抜ける可能性も考えると、敵は戦力を広範囲に分散させざるを得ない。こちらが一丸となって攻勢に出れば衝突地点での頭数は負けない。増援が来るより早く突破し得る」

「恐れながら」と、フルブライトはつい口をはさんだ。そこまではこの副官も考えていたことなのだ。「二つ、難点がございます」

「それは?」

「隊の質、そして兵の質です。相手はバスチアンの精鋭、銀狼騎士団グレンツェン・ヴォルフなのです。一〇〇対二〇でようやく対等な勝負になるというところでしょう……決して大げさでなく」

 銀狼騎士団グレンツェン・ヴォルフが実力主義をもって武名を轟かせているのに対し、青銅騎士団エラン・クルセイダーが重んじているのは家柄である。すなわち、貴族が点数稼ぎをするための集まりであり、戦闘集団としての練度は低い。

 それでも、第一王子マグナスの鉄血騎士団フェル・クルセイダーに選ばれた者たちはそれなりに意欲も高く、訓練も積んでいた。あわれなユミルの下に来てしまった者たちの間には、愚鈍な子供のお守りをさせられているという、淀んだ雰囲気が流れていた。

「運よく最も手薄な道を選べたとしても、突破はほぼ不可能と言わざるを得ません。敵も突破されない自信があるから分散したのだとお考えください。兵が一日や二日で劇的に強くなるはずはないのですから」

「……」

「明朝にはこの砦に至るすべての道から敵が攻めのぼってくるでしょう。一か八か、我々も数隊に分散して、森へ逃げ込みましょう。各隊に王子らしき兵を一人ずつ紛れ込ませれば多少の目くらましにはなるはずです」

「駄目だ」と、ユミルは言った。

 長年付き従ってきたフルブライトでも、彼のそんな声を聞いたのは初めてだった。

 ユミルは続けた。「兵を集中することは用兵の基本だ。敵がせっかく油断して悪手を指しているんだから、つけ入らない手はない。夜が明け切らないうちに打って出る」

「殿下、心意気はご立派ですが」もう遅い――とフルブライトは思った。王子の目覚めの時がもう少し早く訪れていたら、この騎士団も最弱の汚名をすすぐことができたかもしれないが。「心意気で戦には勝てません」

「兵を強くすることは、できる。僕に考えがある」

「……」

「ただ、その考えを実行できるかどうかが、わからない。今はフルブライトじいやが相手だからこうして話せているけど、皆の前で……でくの坊だと思われてる僕が、皆に向かって堂々と命令できるかどうか、わからない。さっきレオニードと話している時だって、膝は震えていたんだ。もしかしたら、声も」

「……」

「でも、今考えていることが全部言えたら、僕たちはきっと強くなる。少なくとも、悔いのない戦いができる」

「では、まずじいやにお話しくだされ」

「!」

「この老いぼれのお墨付きでも、多少は勇気の足しになるでしょう。無論、子供の浅知恵の域を出ない策でしたら、遠慮なくそのように申し上げますので、そのつもりで」

 少年は澄んだ灰色の瞳で、老人の水色の瞳をまっすぐに見つめながら、「そうしてくれ。ありがとう、じいや」と言った。


 ◆ ◆ ◆


「あらましはすでに聞いた。詳細を聞こう」と、銀狼騎士団グレンツェン・ヴォルフ団長ロレンスは笑顔のままで言った。

 戦場においてですら微笑みを絶やさないこの男の深刻な表情を見たことがあるのは、おそらく細君だけであろうと専らの噂である。

「申し訳ございません。我々はユミルを取り逃がしました」と、副官ルートヴィッヒは猪のような顔を歪め、額に汗をにじませながら言った。

「あらましは聞いたと言ったはずだぞ」と、ロレンスは形のよい金色の眉をぴくりとも動かさずに言った。

「は。それでは、申し上げます」と、ルートヴィッヒが畏まって言った。

 真面目さしか取り柄のない、戦士より役人が似合いそうなこの男がロレンスに取り立てられたのは、ひとえに真面目さのためである。命じられたことに全力で取り組む――地道な積み重ねによって、ルートヴィッヒは今の地位を得た。

「敵は夜明け前、ほぼ一丸となって、コレアンダー街道に出る西の道を進軍してきました。直線距離では王都から最も遠いその道が本命であろうと踏んでおりましたから、私と直属の一〇〇名はまさにその道の先で待ち構えておりました。全兵力を集中しての一点突破――史上最弱と嘲笑される彼らが正しい戦術を選んだことに対して、私は驚くと同時に、なにやら褒めてやりたいような気持ちにもなりました。

 さて、一〇〇対一〇〇といっても、こちらは精鋭です。突破される道理はありません。当然、慢心して事に当たったつもりもございません」

「だが、突破された」と、ロレンス。

「その通りです。かくなる上は、どのような処分も覚悟しております」

「詳細を聞こうと言ったはずだぞ、ルートヴィッヒ。奴らはどう戦った?」

「……まず、騎兵が固まって突撃してまいりました。この一点だけをとっても、以前の奴らとはまるで違いました」

 格式を重んじる青銅騎士団エラン・クルセイダーにおいて、従来、馬は士官の威光を示す装飾品にすぎず、その機動力はほとんど活用されていなかった。

「さらにその騎兵隊は、突っ込んできたかと思いきや、まともにはぶつからず、ただ駆け抜けていったのです――まるで一足先に逃げ出すかのように。まさかと思いつつも、その中に王子がいる可能性も捨てきれず、私は追撃を命じました。と、我々が背中を見せた瞬間、敵の歩兵隊が突撃してまいりました。加えて、騎兵隊も反転し、我々は挟撃を受ける形となりました。

 今思えばごく初歩的な戦術ですが、端的に申しまして、奴らにあんな動きができるとは考えておりませんでした。慢心は……やはり、あったということになります」

 意表を突かれただけではあるまい――と、ロレンスは考えた。こちらにはユミル王子を生け捕りにしたいという思惑がある。殲滅すればよしという戦とはわけが違う。敵はそれを十分理解していたのだ。

 それにしても……「挟撃の形を取られた程度で、我々が負けるか?」

 兵の質が違うはずだ。味方一人が敵二人に挟まれても負けるとは思えない。ましてや、ほぼ同数だったのである。

「……それが、ひどく間抜けな表現になりますが、奴らは強かったのです。まるで全員が別人になったかのように」

「……」

「騎兵・歩兵共に、敵ながら見事に統率の取れた動きをしていました。あの戦いぶりを見て、奴らを最弱などと笑う者は一人とていないでしょう」

「つまり、一夜のうちに化けたということだな?」

「は」

「何が奴らを変えた? お前はどう見る?」

「私めには……わかりかねます」

「うむ」と、ロレンスは穏やかに言った。

 ルートヴィッヒの真面目さは正直さにも及ぶ。無意味な見栄を張らないところもこの男の美点だとロレンスは考えていた。

「手負いの猫が獅子に化けたか。できればこの目で見ておきたかったな」

「……」

「まぁ、いずれ戦場で相まみえることになるだろう。ご苦労だった、ルードヴィッヒ。下がってよいぞ」

「は。それでは、失礼致します」と言って、上官に恵まれた男は深々と一礼した。


 ◆ ◆ ◆


 青銅騎士団エラン・クルセイダーを変貌させたのは、ユミルによる再編成であった。

 十名いる分隊長のうち、出自のみでその地位についていた九名を一般の兵卒に降格させ、統率力に優れた者たちを新たな分隊長に任命した。

 この采配には、驚嘆すべき点が二つある。

 一つは、ユミルの観察力である。ほとんどお飾りでしかない立場にありながら、約一〇〇名の資質を正確に把握していたというのは神業というほかない。これまでの戦闘や平時のふるまい、仲間との会話などを総合して、人の上に立つ資質のある者を選び抜いたのだ。

 そしてもう一つは、レオニードの態度である。ユミルは全員の前で、レオニードをそれまでの親衛隊長という座からただの一兵卒にすることを宣言した。この短気な男の激昂を誰もが予想した。ところが、レオニードは黙って階級章を外すと、片膝をついてユミルに差し出した。さらには、分隊長たちの降格が発表され終わった後、よく通る声でこう言い放ったのである。

「なぁお前ら、この悔しさは敵にぶつけようじゃないか」

 ユミルは分隊長たちを騎乗させなかった。十二頭いる馬はすべて馬術に長けた者たちにあてがい、騎馬隊とした。

 青銅騎士団エラン・クルセイダーにとって幸運だったのは、カスケードという駿馬がいたこと、そしてティリオンという乗り手がいたことである。

 つややかな黒毛のカスケードが十二頭の中で最速の脚を持っていることは誰もが知っていたが、ティリオンはあまり目立たない一兵卒に過ぎなかった。しかしユミルは、ティリオンが心を込めてカスケードの世話をしていることを知っていた。それまでカスケードに騎乗していたのはティリオンが属していた分隊の分隊長だが、慣習として上官の馬の世話は部下がするものだった。

 ティリオンがなにやら言葉をかけながらカスケードの毛にブラシを当ててやっているのを見た時、ユミルの目には彼らが光の糸でつながっているように見えた。長年人々から軽んじられてきた第二王子は類まれな鑑識眼を備えていたのである。

 ティリオンの背格好はユミルとよく似ていた。そこで、フルブライトの提案と本人の強い希望により、ティリオンはユミルの鎧兜を身に付け、おとり役となった。そして、本隊とは別の道を行き、遮二無二走り回って数多の敵を引きつけた。ルートヴィッヒの下に増援が駆けつけるのが遅れたのはティリオンの活躍によるところが大きい。

 当然、ティリオンは死を覚悟していたが、無上の主を得たカスケードの脚はかつてない力強さで大地を蹴り、とうとう追っ手を振り切った。稀代の忠臣ティリオンとユミル王子の再会は三年後のことである。

 急ごしらえの編成であるにもかかわらず兵たちが存分に力を発揮できたのは、心の働きによるものと考えられる。以前よりはるかに動きやすくなったという新鮮さと、ユミルの成長に対する感動が、兵たちの体を奥底から突き動かした。前述したレオニードの言葉も作用していたことは言うまでもない。

 戦闘において、ユミルは歩兵隊の中央にいた。単純にその位置が最も安全だからという理由であり、戦記として特筆すべきことではないが、青銅騎士団エラン・クルセイダーにとっては大いに意義深いことであった。この戦いで初めてユミルは名実ともに騎士団の中心に立ったのである。

 オーランド暦七一四年九月六日――この日こそが、後に「軍神」と呼ばれるユミル王子の真の初陣であった。

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オーランド戦記 森山智仁 @moriyama-tomohito

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