この連休は、実家近くに泊まりに行こう

ラクリエード

この連休は、実家近くに泊まりに行こう

 心地よく揺れている車内で、はっと意識が覚めた。淡々と告げられる音声案内に、脳が反応したのだ。じっとりとへばりついているシャツに、不快感を覚える。

 抱きしめていたリュックサックの形をなおしながら、懐かしさを覚える案内を聞き入る。どうやら目的地は、もう数駅ほどかかるらしい。損をした気分だ。実家を離れて何年も経つが、つい最近、普通車以外も止まるようになったらしい。十分も長く寝れる、と兄が喜んでいただろうか。

 もう一度寝なおすのもどうかと考え、手元の荷物の中から地元の地図を取り出す。目的地までの道のりはおぼろげながら覚えているが、この数年で変わっていないとも限らない。レンタカーでも使えば観光気分を味わえるかもしれないが、何もない田舎だ。期待なんかできない。

 地図に描かれている道を駅から追っていくと、ちょこんと載っている宿のマークが目に止まる。

 この長期休暇を利用して、そんな場所へ何をしに来たのかというと、親友の実家が経営している宿に泊まろうと考えたのだ。

 小中高と同じ学校に通っていた仲で、よく遊んでいた。たまにその宿に遊びに行ったような気がするが、少し記憶がおぼろげだ。それなりに繁盛していたらしく、遊んだのは閑散期の最中の数回だ。曖昧なのも当然だろう。

 彼とはたまたま気が合った。よくある話だろう。不思議と続く仲というものだ。

 そこまで一緒だったが、大学だけは違う場所に進学した。あいつは実家の手伝いをしながら経営あたりを勉強したいとか言ってただろうか。学生身分を謳歌すればいいのに、と嘆息交じりに言った覚えがあるが、そういうわけにはいかないんだ、と返されたか。

 時折連絡を取りながら、なんでもない四年間が過ぎた。就職は、いくつか面接して、内定をもらったところに決めた。

 来る入社式。まさか、そんなところで彼と出会うことになるなんて思いもしなかった。同じ場所に就職していたのだ。もちろん、お互いに就職先が決まったかどうかは話していた。実家の宿を継いだのだろうと考えるのは自然なことだろう。

 いわく、父親から社会経験を積むのも必要なことだと言われたらしい。たしかにそういったものをやりくりする上で、社会経験ゼロというのも問題だろう。もちろん、宿の経営がどんなものか分からないが。

 それから何事も起きずに二年と少しが経過したある日、親友は仕事を辞めた。二回目の後輩の教育が始まる頃、彼は辞表を提出した。何の理由も聞かされることもなく忽然と姿を消した彼に、尋ねることもなく数カ月後、すなわち本日に至る。

 この大連休の前に連絡を取ろうかと考えたが、驚かせてやろうという気持ちが勝った。突然現れた元同僚兼親友にどんな顔をするのか。まぁ、客として現れるのだ。予約も済ませてあるし、大した問題にはならないだろう。

 無論、行こうと思えば実家にも顔を出せる。逆を言えば実家から会いに行くこともできるが、半年前に帰ったばかりだし、別にいいかと考えた。

 一カ月前に、予約する前にこの宿が潰れていないことと、レビュー情報だけは目を通しておいた。ぎりぎりの時期だったが予約は取ることはできた。ついでにどれくらいの部屋が空いているか尋ねてみれば、残り数部屋だったという。

 この宿が運営をしているウェブページはないため、レビューサイトで情報収集。それほど口コミは多くなかった。こんな田舎にある故に当然のことだろう。

しかしその少ない評価の中に、数件、同じようなことが書き込まれていたのが気になった。何らかの組織による書き込みなのかもしれないが。

 おおよそ、こんな内容だ。ここに泊まるといつも、夢も見ずにいつも快眠です。寝不足を感じた時に通わせていただいています。

 たしかに、自宅で眠ることと比べれば、寝床も整えられているだろうし、快眠には違いない。だがそれと、夢を見るかどうかはまた違う話ではないのだろうか、もちろん、文字だけの情報。信じられるかといえば、ノーだ。

 地図を畳んで、無造作にリュックに突っ込む。ついでにペットボトルを取り出して一口。ほのかなすっぱさのある甘味を感じながら窓の外を見やる。

 帰ってきた。脳裏に短い言葉が浮かんだ。

 抜けるような空と山林を背景にして、若緑色の田園が広がっている。ただただ広い見慣れた景色に自然と吐息が漏れる。安堵に近いこの感覚はどこから来るのだろうか。

 目的の停車駅を告げるアナウンスに、立ち上がって忘れ物がないことを確認する。リュックサックは背負った。旅行鞄は持っているし、何も取り出していない。ポケットにはチケットや財布はある。確認の度にうなずいてから降車口へと向かう。

 既に、ここで降りるらしい人が近づいていたが、知っている顔はいない。いつものことだ。次の目的地へは、思い浮かべるだけでいい。手足が荷物を引いて、連れて行ってくれる。


 遮蔽物が低い家屋ばかりの道ゆえに、心地よいくらいの日向を歩くだけでも軽く汗ばんできた。背中はリュックに圧迫されてじとじとと気持ち悪さが増してきているのが分かる。まぁ真夏に比べればはるかにマシであることは容易に想像できる。

 バスを降りて数十分、軽い登り坂を歩き続けてきた。こんなに長かっただろうかと思い返してみるが、車で送り迎えに来てもらっていた記憶しかない。たまに見覚えのあるものがあるため、道を間違えた、というわけではないはずだ。

 例えば、道の脇にある、文字の刻まれた石碑。今では腿あたりの高さしかないこれの説明を、車内で母親にされたような気がする。たしかこの辺りで名をとどろかせていた人と関係があるとかなんとか……まぁ、どうでもいいか。

 ときたま人とすれちがうものの、挨拶などをかわすことはない。親友以外に、誰かここらに住んでいるヤツはいただろうか。パッとは思いつかない。

 ゴロゴロゴロと荷物を従え、目的の宿にたどり着いたのはそれから降りて三十分くらいのことであった。これだけ歩き続けたのはいつぶりだろうか。汗を流して、軽く息が上がってしまっている。

 大学の部活で運動していたが、ここまで体力が落ちてしまうものなのか。たしかにデスクワークばかりなのは事実だ。帰ったらジムか何か、検討しておこうか。ランニングはどうだろうか。

 目の前にあるのは、看板も何もない大き目の建物だ。少し田舎に行けばあるだろう老舗の宿。建物自体に目を引くものはないが、塀の内側にある広くない庭には、ほぼ一面に白い花が植えられている。鼻をつく甘い匂いに、そういえばこんな場所だったか、と胸いっぱいに空気を吸い込む。

 玄関へと手を伸ばす前に花畑を見渡す。初めて遊びに来た時に、まるでおとぎ話の中みたいだとはしゃいだ記憶がある。親友はなんと言っていたか。

 数分間、夢心地を味わってから扉を開けて足を踏み入れる。チェックインをしようとカウンターに近づく。ようこそ、と迎えてくれた女将さんには見覚えがある。だいぶ老け込んではいるが、彼の母親だ。名を告げると、微笑みをたたえながら折り目正しく手続きを済ませていくが、特に何が起こるでもなかった。部屋へと案内されて、ごゆっくりおくつろぎください、と言われた。

 部屋に入る直前に、あの、と声をかける。目を丸くする彼女に、親友の名を告げてから、改めて名乗る。するときょとんとしてから、下の名前をちゃんづけで呼んでくる。十何年前に呼ばれた呼び方に、くすぐったさを覚える。

 肯定してから彼に会いたいと口にすれば、夜遅くになるかもしれないが、こちらに向かわせてくれると約束してくれた。立ち去る女将さんに礼を言って、どっこいせと荷物を部屋に運び入れた。

 畳の敷かれた、一人には少し広い空間。邪魔にならないだろう部屋の隅に旅行鞄を寝かせ、その上にリュックを立てる。ぐっと体を伸ばしてから備え付けられている座椅子に座る。

 客室に入るのは初めてだ。宿の仕事の邪魔をしないために、遊びに来たときは客のやって来ない裏庭や、近所の道を走り回ったしていた。あるときは厨房に潜り込んでおやつをせびっていたときもあったと思う。

 懐かしい日々。脳裏を駆け巡る景色がちらつく中で、今更ながら何を話そうかと思い始めた、たった数カ月前に別れたのだ。なぜこちらにやってくることになったのかは尋ねるとして、こちらの近況に大きな変化なんてない。

 まぁ、そんなに気にする必要なんてないだろう。そう思うことにした。

 背もたれに全体重を預け、天井を見上げながら長旅の疲れを噛みしめた。足の指を開閉させ、深呼吸をする。肉体がほぐれていく感覚がするが、また戻る。時折聞こえる廊下からの足音以外は、しんと静まり返る。一人だけの個室。

 キンと耳鳴りが聞こえてくるのはいつぶりだろう。鳴り止まない雑音から逃れて、住み慣れているわけでもない宿の個室にいる。そのままじっとすること数分、ようやく体の熱も落ち着いてきて、汗も引いてきた。

 昼はバスに乗る前に食べた。特に名物などもない田舎の夕食は何が出るのだろうか。特にコレといった好き嫌いも、こだわりもないため、おいしいものならなんでもいい。もしかしたら、親友も手伝っているかもしれない。手先は器用そうだったが、家事はどうなのだろうか。

 今日は休んで、明日は実家に顔を出す。明後日は適当に近くを見て回って思い出巡り、そしてその翌日にここから離れる。予定を組み立てながら、時間だけが過ぎていった。


 コンコンと扉を叩く音に、目が覚めた。いつの間にか眠ってしまったらしく、つっと頬を伝っていく汗と服が皮膚からはがれていく感覚を覚えながら姿勢を上げた。途中で見えた窓の外は夕闇に染まりかけていた。まぶしい西日が朱色に染まり、部屋をさみしく照らしていた。

 はい、と返事をすれば、くぐもった聞き覚えのある声が返ってくる。どうぞ、と返せば、失礼します、とノブが回され、スリッパと床が擦れる音の次に、ドアの閉まる音。

 体を起こしてそちらに直る。お盆を一枚、両手で運ぶ見慣れた顔があった。きっちりとした服のせいか、仕事場で見た時よりも引き締まって見える。

 よう。声をかければ、おう。そっち座れよ、ともう一つの座椅子を指させば、少しだけな、とかわいらしい包み紙の茶菓子と伏せられた湯飲みを乗せたお盆を机に置いて、おいしょと座る。

 彼は手際よく湯飲みをお互いの前に置き、湯飲みの中に隠されていたお茶の粉末をそれぞれに入れ、机の上にあるポットから湯を注ぐ。次に茶菓子を置く。お盆を机の脇に寄せてから親友は茶に手を伸ばし、仕事の方はどうだ、と口にした。後輩の基礎教育ばかりでへとへとだ、と茶菓子の封を開けながら答える。

 あの上司は元気にしてるのか、と熱さなどを感じさせない様子で一口すする。おまえがやめちゃって残念がってたけど、元気にしてる。お菓子は手のひらサイズの饅頭だ。

 ゴト、と彼は湯飲みを置いてから茶菓子の袋を指で裂こうとするがビニールが伸びて失敗する。眉をひそめると反対側から口で破く。

 饅頭の半分を数回咀嚼して飲み込む。口の中に残る粒餡を、流し込もうと恐る恐る湯飲みを掴む。ほんのり温かく、思いのほか熱くはなかった。ためらいなく顔に近づけた。

 だが中身は本物だったらしく、顔にかかる湯気はそれだけでも熱い。口をすぼめて吸い込むだけでも、唇が熱を恐れこわばっているのが分かった。

 どうして、と親友は饅頭を口につけようとしてやめる。帰ってきてるってわかった。

 下唇が焼ける感覚に、とっさに遠ざけた。何年一緒だと思ってんだ。

 それもそうか、と彼は改めてかじりついた。すぐにお茶すする姿は熱を感じていないかのように口に含んだ。

 実際のところ、辞めたら会社の寮にもいられないし、こいつに女の影はない。それほどお金もないくらいの青年が、どこかにいなくなる方法なんて限られているだろう。そこに実家の跡を継ぎたいということも聞いていれば、ここにいることは子供でも分かるだろう。

 手元の残りの饅頭を口に含んで、甘みを味わってから飲み込む。警戒しながらお茶を口にした。なんでこんなものを平気で飲めるんだ。味は普通のお茶だが。

 それから少しだけ会話をしてから、彼は仕事があるから、と立ち上がった。お盆も持ち上げて、またな、と口を開いた。おう、と答えれば、足早に親友は部屋から立ち去った。どうして辞めたのかを聞きそびれたが、急いでいるようだし、また時間がとれたらでいいだろう。

 変わらない。そんな、あっという間に変わるものではないか。

 その日は、もう顔を合わせることはなかった。女将さんが夕食を運んできてくれて、ちょっとした与太話を挟みながら食事を終えた。

 明日のために、休もう。まだまだ休暇は始まったばかりだ。


 翌日、朝早くから出発して少し遠い実家に顔を出した。兄の用意した昼を一緒に食べて、数時間だけ過ごした。ほんの半年間なので、目新しいことはなかった。あるとすれば、親がサボテンを鑑賞しはじめたことくらいか。

 それ以外は、ときたま来る連絡そのままだった。

 あっという間に夕方になり、実家を離れた。

 その帰り道、自分の足で宿まで向かった。小さくなった景色と、見えるようになった景色を交互に眺めながら、感傷に浸る。

 商店もなければ、明かりもない。見上げれば四角い光が点々と灯る建物ばかりしかない都会と違い、心地いい風が吹き抜ける。

 ぽつんとある踏切を渡れば、平たい家屋ばかりの並ぶ田舎の景色。出張で何度か田舎と呼ばれている場所に行ったが、ここまで人がいない場所は見たことがない。そういうところへ行っては、本当の田舎者であることを思い知る。

 宿への道をたどる。昨日、バスの中でも見かけた商店は、もう店じまいをしている。シャッターを叩く気にもなれないので、母親に渡された紙パック飲料の一つをリュックサックから取り出してストローを刺す。ズルズルと音を立てながら吸い込む。最近安売りしていたヨーグルト飲料だそうだ。

 犬の散歩、分けられていない車道と歩道。座れる手押し車に、意味を成さない切れかけの街灯。少し整えられたアスファルトの道に、ぼんやりと浮かんで見える家の明かり。中でも一際明るい明かりを灯しているのは、宿泊先だ。

 だいぶ時間がかかったが、戻ってきた。受付に誰もいないため、カウンターにあるインターホンをカチッと押せば割れたコール音が鳴り響いて、女将さんが奥から現れた。おかえりなさいませ、とにこやかな彼女はテキパキと鍵の貸し出しの手続きを済ませてくれた。

 そそくさと戻ろうとするものの、そうそう、と声をかけられる。明日の午後、親友の仕事を減らしてくれたらしい。積もる話もあるだろうから、と続けた女将さんにいいんですか、と尋ねれば、いいのよ、とえくぼを深くして笑みを向けてくれる。

 挨拶の時間も用意してあげられなかったもの。あなたとくらいなら、と付け加えた。

 そんなに急な出来事があって、彼はこちらに戻ってきたのだろうか。だが見たところ、他の客の姿はちらほらと見かけるし、女将さんも含め、顔色はいい。急な出来事があったのだろうか。

 夕食を持ってきてほしいとお願いしてから、部屋に戻った。

 あまり汚れていない部屋とはいえ、戻ってきてみれば特有の匂いが鼻腔をくすぐる。スリッパに履き替え、昨日と同じく座椅子に腰かけた。机にある湯飲みをひっくりかえし、茶の粉末を入れる。次にポットから湯を注げば、即席のお茶が出来上がる。

 茶菓子も用意されていて、一人で食べた。夜も更けた暗いばかりの景色が窓の外に。

明日の思い出巡りツアーは中止だ。ゆっくり彼と語り合うとしよう。


 寝ざめもあまりよくないまま、朝食、昼食と出されたものをいただき、彼がやってくるまでのんびりとしていた。携帯端末で渋滞情報や記事を見たり、たまに触っているゲームも長めにプレイした。

 まぶしい窓の外と液晶に映る時計を見比べて一時間、再びドアがノックされた。

 一昨日と同じように返事をすれば、彼もまた同様に入ってきた。少し多めのお菓子と共に。お疲れさん。そう口にすれば、昔と同じような短い返事がくる。

 見覚えある私服姿の親友は挨拶もなしにずかずかと部屋の中に入ってきて、お盆を机の上に置くと座椅子に座る。また用意させるのも申し訳ないので、すぐさま湯飲みを奪い取り、お茶の準備を始めれば、彼は遠慮なく携帯端末を取り出して触り始める。

 アツアツのお茶ができあがったところで、同じゲームとお菓子を楽しむ時間が生まれた。とはいえお互いに熱中するほど遊んでいるわけでもなく、数十分で終わりを迎える。

 空のお菓子の袋が散乱し始めたため、上半身と右腕を伸ばし部屋の隅にあるゴミ箱を掴んで引き寄せる。ポイポイと無造作に捨てれば、食べかすが散らばる。そうやって汚れるんだな、と親友が冷たい視線を向けてくる。

ところで、と切り出す。ん、と視線を上げた彼に、面と向かってようやく尋ねることができた。

 どうして、仕事を辞めたんだ。それも、急に。

 変わらぬ表情で彼は答えてくれた。そろそろ、こっちに戻って実家を継ぐための修行を始めようと思ってな。少ししたら、仕事もすぐに辞めるつもりだった。お茶に手を伸ばしてすする。

 でも急すぎるだろ。お菓子がひとつ減る。

 ゴト、と湯飲みが置かれる。父親が急病でな。足を伸ばした後、視線が端末に落ちる。

 女将さんも元気じゃないか。嘘だ、と心の中で否定しながら口にすれば、営業スマイルだよ、と逃げた。あまり売上げも変わってないけどな、と付け加えて。

 親父さんがいないなら人手がなくて大変だろ。本当にな。なんて病気なんだ。  あぁ、癌だってよ。どこの。肺。どれくらいで帰ってこれるんだ。悪い、俺は医者じゃねぇからよく分かんねぇんだ。親父さんの急病で急にいなくなったのにか?

 あー、と親友が天井を仰いだ。端末を伏せて机の上に置いて、大きく息を吐く。癌は急に発症しないぞ、と告げれば、そうなのか、と丸くした目でこちらを見た。

 もう一度尋ねる。どうして何も言わずに仕事を辞めて、煙のようにいなくなってしまったんだと。小学校以前からの付き合いなのに、どうして何も相談してくれなかったんだ。

 夕日に染まるにはまだ早い光が、白く横顔を照らしている。親友は視線を少しばかり泳がせるが、目を逸らすことはしなかった。お菓子もお茶も減らない状態が、長く続いた。

 言いたくないのか、言えないことなのか。あるいは、関係のない内容なのか、

ぬるくなったお茶をすすった親友がようやく口を開いた。

 おまえは魔物とか妖怪とか、そういうのを信じるやつか。コト、と軽い湯飲みの音と同時に、つい素っ頓狂な声が漏れる。いや、どうしてそうなるんだ。

 部屋の入り口をちらりと見やって、声の一回り小さくしつつ、この宿にはいるんだよ。苦笑いのようなものを浮かべながら続ける。人には害を加えないから安心しろ。

 そういう問題じゃない。どうしてそこで、そんな夢物語が出てくるのだ。割と現実的なことばかりを言う彼も、とうとう頭がおかしくなったのか。

 そうだよな。背もたれに体重を預け、懐かしさを覚える笑顔になる。けどな、いるんだよ。夢を食っちまうヤツでさ、とりわけ、悪夢を好んで食いやがるんだ。昔っからこの宿があって、棲みついてる。

 ほぼ同時に、腕を伸ばしてお菓子を取る。思考は追い付くが、送る言葉は思い浮かばない。

 そのおかげで、宿はずっと続いてる。ここに寝泊りすると、悪夢を見ずに済むってな。だから、常連さんばっかりで、特別繁盛しないまでも、どうにでもなってたんだ。

 袋を開けて、先にお茶を飲んだ。親友は逆に、後にお茶を口にした。

 軽くうつむき、足を伸ばした。でな、問題はこっからなんだよ。そいつが子供を残して、死んだんだ。それがちょうど、半月とちょっと前の話。

 ちょっとした好奇心が芽生える。妖怪って死ぬし、子供もできるのか。

多分、便宜上の話だけどな。そう返してから続ける彼は静かに沈みゆく夕日を見つめた。

 子供はなんも知らない。だから、悪夢以外も食っちまう。それを教え込むために、親に呼び戻されたってわけだ。おかしな話だろ。

 本当だな、と口にするしかなかった。嘘としか思えない物語だが、反論する気が起こらなかった。したとしても、何の利にもならない。だから、橙の明かりを見つめることにした。もっとかける言葉があったはずだが、喉の奥へと引っ込んだ。

 夢って味があるみたいでな、いい夢はすっぱくて、悪夢はどろどろとして塩辛いんだとさ。それを見た目で教えるなんて、ばかげてる話だよな。小さく笑った親友。

 そうだな、と小さく返すと、彼は夕飯をとってくる、と言いつつ立ち上がる。二つの湯飲みをお盆に乗せ、出ていった。取り残され、やることもないために食べかすをゴミ箱に入れていると、間もなく、女将さんと共にトレイを運んで戻ってきた。

 女将さんが出て行ってから、早い食事を始める。お菓子を食べすぎたと思うが、不思議と会話ははずみ、楽しく完食できた。ようやく、親友同士らしく言葉を交わすことができた気がする。


 目覚めのいい朝支度を整え、忘れ物がないかの最終確認を行う。替えの服、財布、携帯端末、日用雑貨。不要なものはゴミ箱に捨てて、旅行鞄を閉じる。リュックサックは昨日に確認済みだ。

 さて、荷物を引いて部屋を引き払い、受付にいた女将さんに鍵を手渡す。またいつでも来てね。忙しかったら、おかまいできないだろうけれど。にこにことまぶしいくらいの笑顔をたむけてくれる。また会いに来ます。そんな言葉が自然と口から出る。

 社交辞令ではなく、親友がいるからではなく、ここに来たいと。

 女将さんが後ろのスタッフオンリーと描かれた暖簾に向かって彼の名を呼んだ。間もなく、見慣れた顔が姿を現す。深い笑みをたたえながら右手を差し出し、また来てくれよ。もちろんと答えて、右手を差し出す。だがよく見てみると、その目元には薄い隈ができているのがうかがえた。

 だがこの場で尋ねることなどできず、宿を後にすることに決めた。それじゃ、と言い残して玄関へと向かい、出口を開く。親友と女将さんも、見送ろうと追ってきてくれた。

 後ろ姿を見送られながら、白い花でできた道を歩き出す。花咲く時期が終わりを迎えるのか、風も吹いていないというのに桜のように舞い上がっている。

 そんな幻想的な光景も、長くは続かない。敷地を抜ければ、温まり始めている空気が全身を包み込む。今一度振り返ってみると、ふらりと日常に戻ろうとしている後ろ姿が見えた。嬉しそうに笑っている二つの横顔が妙に記憶に残る。

 帰ろう。今の日常の待つ我が家へ。残りの休日は何かおいしいものでも食べようか。たまには、料理もいいかもしれない。

 どことなく軽い体で、丁度やって来たバスに乗り込んだ。ガラガラのバスの席に堂々と座り、もはや見えなくなった宿の方向を眺める。

 そういえば、毎日のように見ていた夢を、今朝は見ていない気がする。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

この連休は、実家近くに泊まりに行こう ラクリエード @Racli_ade

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ