無限を知った少年

湿原工房

無限を知った少年

 声ではない言葉が感じられる。その声を繰り出すのは誰なんだろうか。足もとの俺の犬と並んで歩いていた。俺はときどき立ち止まる。すると犬は俺のほうに首をひねって、疑問符を秘めた目でこちらを見てくる。でも、そのとき、言葉にとらわれていて、俺も疑問符をこめた眼差しをそそいでいて、動くわけにはいかなかった。

 何を俺に伝えようとしているのか。そんなにチカチカと喋られても、俺にはその言葉がわからないよ。それから、もうひとつ、君はいったい誰でどこにいるんだ。どこからどこまでが君なのかい。

 右手がぐいと引っ張られる。犬がたまりかねて進もうとしていた。俺は一瞬バランスを崩しながら、犬の歩調に追いつく。

 舗装された黒い道。左には車道と歩道を隔てる花壇になっている。背の低いピンク色の花の一列の向こうには、片側一車線の車道が敷かれている。車がときおり通り過ぎていく。車道を横切ったところは擁壁が山のかたちを支えている。コンクリートでできたそれに、ぼつぼつと空いているのは土に溜まった水の抜け道だ。そのどれもが二次関数の上に凸のグラフみたいなシミを下方につけている。一昨日から降り続いた雨によるのだろう、そのグラフの面積はカビ臭い。

 コンクリートは四、五メートルはあり、山の斜面に身をあずけるようにしている。上辺にフェンスが設えているのは、落石を防止するためだろうか。

 歩いているとまた道路の右手から話しかけるものがあった。もとは左方の山からひとつらなりの勾配だったのだろう、急な斜面がむき出しの土を羊歯で覆って立ち上がっている。斜面の上は枯れた木立になっていた。話し声はその木立からするのだった。枝が幾重にも錯綜するのを、つなぐように絡みついているのはツタやカズラだ。それらの間に間に浮かんだり沈んだりしている太陽があり、その明滅がまるで話をしているように思われて仕方がない。歩けば歩くだけ、そいつは俺に話しかけてくる。いったい、何を話しているのか。俺には分からなかった。

 でもほんの少しだけ夕陽に近づいた陽の、濡れたようにるらり……るらり……と明滅する姿は、必死に……しかし、活き活きと俺に、たしかに何かを訴えかけてくる。伝わらぬ言葉は、すこし、涙をにじませているようでもある。

 言っていることは分からないけど、伝わらぬことの悲しさ、伝えたいと思う意思は分かるらしい。

 ……

 でも、俺はひとつ訊きたいことがある。おまえはたしかに俺に話しかけている。……けど、話しかけてくる、その“おまえ”とはいったい誰だ。

 俺はその場にまたぴたりと立ち止まった。言葉それも止まる。風が木々に吹き込んで揺すった。揺れた木々はすなわち、どもる“おまえ”の姿になった。そいつを可哀想に思ったが、俺はまだ動き出さないでいた。

 怒ったのではない。うんざりしたのでもない。嫌いなのでもない……ただ、俺を話し相手にしようとする‟あんた”が誰なのか、知りたかった。「話す」というのは、それだけでは生まれない。それに繋がるまでに道のりがあるものだ。鳥が鳴く……犬が吠える……人が喋る……煙突が煙を吐く……森がざわめく……すべて何か主体となるものがあってできるもの。それなのに、‟あんた”には主となるものが何もない。

 はじめ俺はおまえを太陽と思っていた。でも、途中で気づいてみると、喋っているときの太陽と、黙って日差しを注ぐ太陽とでは、全然その性格は違うようだ。どうやらおまえは太陽ではないらしい。そこでおまえは木か、と提起してみたが、それも違うように思う。おまえが喋っているあいだ、俺は木に気を向けていない、それでおまえを木だとはいえないだろう? 話を聞くとき、喋っている相手は誰かと気にかけているものだし、聞き手はその相手に存在感を感じているはずだ。すなわち、おまえは木でもないのだ。

 ではこのふたつを除いて、おまえではないかと言及できるものがあるか。……で、ふと俺は思ったんだ。――おまえは、俺じゃないだろうか。

 いやいや、それも変か。俺がおまえなら、なぜおまえの言葉がわからないのだろう。……で、またふと思い出す。おまえには名前があるな。おまえは「木漏れ日」と呼ばれているだろう? いや、ほんとうの名前は知らないよ、人がそう呼んでいるだけだけどさ。

 そうだ、おまえは木漏れ日じゃないか。そうだそうだ。何を悩んでいたのか、おまえの正体は……なんて探偵ごっこ、しなくても構わなかった。正体ははじめから「木漏れ日」なんて人の名づけがある、有名なやつだったんだから。

 ……ってことは、不思議なことにおまえは太陽で、木で、俺なんだ。なーんだ、簡単な話だったじゃないか。あっはっは。まさかこんなに俺が鈍感なやつだったなんて知らなかった。つまりこうだ、おまえの言葉が俺に通じないのは、俺の言葉が俺の喋っていることを理解できないようなものだというわけだ。俺はおまえの言葉というわけさ。

 うーん、これはなかなか不思議なことだ。俺のからだは俺のものだ――なんて思っているのは大間違いというわけだ。知らず知らずのうちに、からだはシッチャカメッチャカに色々の人格を入れているんだ。でも、誰ひとりとして相手には気づかない。誰ひとりとして同じ体積をもったやつはいない。俺には裸の俺と、パンツ一枚の俺、その上にズボンをはいた俺、上半身に服をまとった俺、帽子をした、サングラスをした、化粧をした……数え上げているとそれだけで人生が終わってしまうほどに無数の俺が、一人の俺を形成している。なんて宇宙なんだろう。この世には星の数と、その星々の砂の数を足してもまだ足りないことがある。そして誰もそんなことを気にもしないなんて……!


(執筆年 2004年 19歳 ネット公開するにあたり2019年1月4日33歳の俺により一部修正を施した)

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