喜恵おじさんがやってきた

増田朋美

喜恵おじさんがやってきた

喜恵おじさんがやってきた

水穂が、川を渡ってしまうのではないかと心配された元旦のあと、蘭は、疲れきって、気分転換にお茶を買いに行くことにした。

まだ、三が日であり、スーパーマーケットは正月休みでしまってしまっていたから、仕方なく自動販売機にいった。そこには、先客がいた。一人の男性だった。蘭は、すこし待とうかと思ったが、その人は音に敏感だったようで、すぐに後ろを振り向いて、蘭に向かってにっこりした。蘭は思わずぎょっとした。その人物が誰なのかわかってしまったからだ。

「よ、喜恵おじさん!」

「やあどうも、よくわかってくれたな。蘭、この町にはビックルは自動販売機では手に入らないのかなあ?どこに行ってもないんだよ。」

「そんなもの、とっくになくなりましたよ。そんなすごくふるい飲み物。」

当の昔に忘れられている飲み物ではあるが、喜恵おじさんは、何よりもそれが好きなのを知っていた。

「もしかしたら、大きなスーパーマーケットであれば売っているかもしれませんが、今日は正月休みで、お休みですよ。」

「そうなのね。」

喜恵おじさんはがっかりした。

「おじさん、こっちは田舎なんですから、東京みたいに便利なものは、何一つないんですよ。おじさんはもともと富士市がいやで、東京に行ったはずなのに、何でまたここにいるんですか?」

「お前が心配だから、様子を見に来たんじゃないか。」

おじさんは、にこやかに笑った。

「様子を見に来た?」

「そうだよ。昨日、晴さんから電話をもらってね、お前が最近様子が変だから、ちょっと話を聞いてやってちょうだいな、なんていっていた。まあ、原稿は、メールで送ってしまえばいいことだし、暇人だから、すぐに引き受けたよ。」

と、いうおじさん。テレビやパソコンなどの電子機器をことごとく嫌う晴とは大違いで、何でも使いこなしていた。本当にお兄さんなのかと思ったこともあるほど、明るく陽気な人物だった。

「で、蘭。お前様子が少しおかしいというが、ちゃんとご飯は食べているんだろうな?」

「食べてますよ。おせっかい焼きもほどほどにしてくださいよ。」

「一応、晴から命令なので聞いておく。」

おじさんは、いたずらっぽく笑った。

「まあ、こんなところに長くいても寒いだけだ。お前の好きなのみもの買ってあげるから、お前の家に入ろう。」

「わかりました。じゃあ、コーヒー一杯。」

適当にそう答えると、

「そうじゃなくて、砂糖の有り無し、いろいろあるじゃないか。しっかり種類を限定して言え。」

そういう細かいこだわりも、喜恵おじさんならではであった。

「はい。じゃあ、ブラックで大丈夫です。」

「またつまらないことをいう。」

「だから、それで十分ですよ!」

少し語勢を強くして言うと、おじさんはそれを買ってくれた。そうやって、うじうじせず、決断が早いのは、男ならではだった。

「じゃあ、お前の家に行こう。道順なら、晴が電話で説明してくれた。このあたりは、昔出版社の人が住んでいたりもしていたから、見当もつく。よし、行こう!」

どんどん行ってしまう喜恵おじさん。蘭は急いでその後を、ついていった。

「えーとこの家だな。」

おじさんはすぐに蘭の家を探し当てた。まったく、母御前のやつ、すぐわかるようにうんと詳しく説明していたのだろう。

「なかなかきれいな家じゃないか。」

「ああ、中古ですけど、手軽なものがあったものですから。」

ところが、家の中にはすでに先客がいた。蘭がドアを開けると、カレーのにおいが充満している。

「あれ?お前の奥さんかい?馬鹿に料理上手だな。」

喜恵おじさんが聞いてきた。

「いや、あいつはまだ帰ってこないですよ。寄宿生の助産師学校に行っています。」

「そうだよなあ。じゃあ、誰がいるんだ?お前にカレーなんか作れるはずもないし?」

いたずらっぽく、おじさんが笑った。

と、いうことはつまり、、、。

蘭が急いで部屋の中に入ると、でかい声で、うーみはあーらーうーみー、むーこーうはさーどーよ、なんてうたいながら、カレーを作っている杉三の姿が見えたのである。

「もう、杉ちゃん。勝手に人の家に入らないでくれないかな?」

「へへん。お前のことだから、どうせ正月はカップラーメンで済ますだろうなと思って、カレーを作っておいたのよ!」

こればかりは、蘭もあきれてしまった。もうどうして、一人でこうやってのこのこと入ってくるんだろう。困って次の文句を考えていると、

「蘭、寒いだろ。何をしているんだ?早く入らせなさい。」

玄関先で喜恵おじさんの声がする。あーあ、僕はなんでこう貧乏くじばっかり引くのだろうかと、蘭は大きなため息をついた。

「はら、何をやっているんだ。もうおじさんは寒いから、入るぞ。」

という声がして、ドアをガチャンと閉める音。ああ、僕はもうおしまいだ、と思って蘭は頭をたれた。

「あ、どうも。僕は影山杉三だ。あだ名は杉ちゃん。どうぞよろしく。」

いきなり杉三がそう言い出すのではっとする。すでに喜恵おじさんは、部屋に入っていて、杉三としゃべっていた。

「蘭、何も気にしなくていいんだよ。こんな素敵な人がいるなんていいことじゃないか。昔はな、外出中に雨がふって、洗濯物をたたんでくれた隣のおばさんとか、そういうお隣さんは本当によくいたもんだ。いまどき、こんなお隣さんがいてくれるなんて、貴重なことじゃないか!」

ニコニコ笑う喜恵おじさん。蘭はほかのひととは、視点が違うなあと思った。

「人間誰しも一人では生きていけないんだ。それなのに、となりの家の人と顔を合わせないでどうする?」

「あ、あのねえ。杉ちゃん。この人は僕の亡き父のお兄さんで名前を、」

蘭は、またピントがずれた話を始めるが、

「檜山喜恵。ペンネームも何も持ってないからすぐわかる。」

と、喜恵おじさんは堂々と本名を名乗った。

「ペンネームなんてよほどの自分の名前がいやでなければ、作らなくていいのさ。よほど有名になれば別だけどな。」

「ひやまよしえさんね。確か、うちの母ちゃんが、赤の中の黒を映画化されたときに見に行ったような気がする。」

杉三が、急いでそういうと、

「まあ、本なんてな、一度出してしまうと、子離れしたようなもので、原作者は無反応なことが多いよ。」

と、喜恵おじさんはにこやかに笑った。

「まあ近頃は、本といえば、ファンタジーしか売れない時代だからね。僕は、一度もそういう本は書いたことはないけど。」

おじさんは、今の文学事情を話し始める。

「いや、それでいいんじゃない?本にもいろんなジャンルがあって、それぞれが面白いという人はいるよ。」

杉三がそう答えると、喜恵おじさんはちょっと悲しそうな顔をした。

「近頃は、テレビゲームの写しのようなものに、文学賞を与えなきゃいけないのが悲しいのよ。本当の文学はどこへ行ってしまったのだろう?」

「そうだね。僕は文字を読むことはできないが、本当に優れたものは、映像化しても、何も違和感ないようにできている。ちゃんと、面白くなっているよね。」

「えらいえらい。川端康成の作品なんかは、映像にしても綺麗に写るように書かれているんだ。単にせりふと動作だけの文章ではなくて、キャラクターの心情がわかるように、周りの風景も書かなくちゃ。それこそ、今の文学に一番かけていることだよ。中には、戦争のシーンをすごくうまく書ける子もいるけど、そういう描写を、ほかのところに使ってほしいな。」

おじさんは、やっぱり作家だな、と蘭はおもった。

「もっとも、僕も、出版社へメールで原稿を出しているから、同じかな?」

「いえいえ、おじさんのしているほうがよほどいいです。母のように、新しいものをすべて否定し続けているようでは困ります。」

蘭がそういうと、喜恵おじさんは、はははとわらった。

「とにかく、カレーを食べよう。さめちゃうぜ。」

杉三にそういわれて、蘭も喜恵おじさんも食卓へついた。

二人の前に山盛りいっぱい盛られたカレーが差し出される。飾り気のない、昔からあるカレー。

「うん、うまいじゃないか。杉ちゃんとやら、カレー屋でもだしたらどうだ?」

「いやあ、商売は苦手だよ。そうしたらカレーがまずくなる。」

喜恵おじさんがそういうと、杉三はにこやかにそれをことわった。蘭は、変なやつ、と杉三をあきれた目でみた。

「まあいい。確かに、その気持ちもわからないわけではない。商売にしてしまうと、別の意味でカレーの味が落ちてしまうというのは、間違いではないよ、杉ちゃん。」

喜恵おじさんはそういうと、杉三もそうだろうといって、笑いあった。

「ところで、おじさん。僕はこんなに元気なのに、なぜ心配してこっちに来たんですか?」

「いや、それは何も聞いていない。とにかく晴のやつが様子が変だから、そばにいてやってくれというので。」

蘭の質問に、そのとおりに喜恵おじさんは返答した。

「僕は、こんなに元気なのに。また母が変なこと考えているんですよ。もう、大丈夫ってわかったら、すぐに帰ってください。えーと最寄り駅は、日野駅でしたっけ?」

「まあ、それは確かだが、蘭、何もないわけじゃないことは見て取れるぞ。何か悩んでいることがあるんだろ?その証拠に部屋がしっちゃかめっちゃかになっているじゃないか。心がおちついていれば、もっと部屋が綺麗に片付くはずだ。」

もう、自分のことは見透かされているはずだ。蘭はこの際だから、話をしてしまうことにした。

「はい。実は、僕の親友が、大晦日から昨日まで本当に大変だったので。」

「ああ、水穂さんのことね。結局川は渡らないで、こっちに帰ってきたよ。」

蘭の話に杉三が付け加えた。

「そうか。大変だったな。で、その人は今どうしてる?」

「製鉄所で寝ているよ。つらそうな顔してな。その割りに、どっかの俳優さんみたいに綺麗な顔しているけどな。みんな深刻なかおしてんのによ。そいつだけが、なぜか綺麗な顔しているのが、不思議なところだな。」

蘭はこのとき、あることを思いついた。もし、言葉のプロであれば、水穂にも、感動的な励ましをしてくれるはずだ!

「おじさん、今時間ありますか?ちょっと、やつにあってやってもらえないでしょうか。いつまでも、布団の中で寝ているのは、さびしいでしょうし。」

「睡眠薬のないときはな。」

杉三がまた揚げ足を取ったが、蘭はそういうことは気にしなかった。

「わかったよ。そこへはどうやっていくのかな?」

「僕、タクシーよびますから。」

蘭はそういうと、タクシー会社に電話をかけ始めた。

そして、三人はやってきたタクシーに乗り込み、製鉄所に向かうのであった。


そのころ、製鉄所では。

水穂が、また食事をしようと試みていたが、

「あーあ、これじゃあ、まだだめね。どうしてだめなのかな。何がいけないんだろ。ほら、血液取替えしてもらったんだから、よくなったとおもってたんだけど、何にも変わらないじゃない。あたしの、何がいけないんだろう?」

恵子さんは、医学に関しては素人だったが、免疫細胞の暴徒化を止めることには成功したという事実は理解しているつもりだった。それでも、現実問題、水穂もがんばって食べようと思っているようだが、目の前にある食べ物を見ると、どうしても恐怖感を持ってしまうらしい。もう一度、出された牛肉を取ってみたが、口に入れる前から、激しく咳き込んでしまい、とても食べられないのだった。

ちょうどそのとき。

「おーい、蘭のおじさんだって。ちょっと顔を見たいってさ。職業は文章を書くことだ。」

杉ちゃんの声が玄関先で聞こえてきた。

「迎えに行ってくるから、ここで待ってて。絶対汚いものは出さないでね。」

「はい。」

恵子さんはきつく言って、玄関先へ迎えに行った。

「あ、どうも、はじめまして。蘭の伯父に当たります、檜山喜恵と申します。喜恵伯父さんとよんでください。」

喜恵伯父さんは、基本的には明るく軽い感じの人で、よくあるえらそうな感じは少しもなかった。

なので、恵子さんは、すぐに気を許してしまいそうな気がした。

水穂も、杉ちゃんまた偉い人と友達になったなと思ったが、それを批判する体力はもう残っていなかったから、何もいわなかった。代わりに出たものは言葉ではなく咳であった。

「ずいぶんたいへんですね。この寒い中ですからね。いくらフランネルの布団をかけても、本当におつらいでしょう。」

喜恵伯父さんが、いつのまにか自分を眺めているのに気がついた。

水穂は、起き上がって座例をしようとしたが、

「無理しなくていいよ。知り合いのおじさんが、会いにきたと思ってくれるだけでいいから、そのまま寝ていてね。」

その言い回しはとてもやさしかった。水穂は、そのとおりにして、再び横になると、喜恵おじさんは、親切に掛け布団をかけてくれた。

「つらかったらすぐ帰るから、遠慮なく言ってね。」

はいと言おうとしたが、咳き込んでしまった。

「これは大変だねえ。自分の体が自分をやっつけているんだからねえ。」

「一発でよくわかったな。」

喜恵おじさんが水穂を観察して、そういうと、杉三が、すぐにそう返した。

「当たり前じゃないか。今の時代であれば、昔の伝染病はすぐに治るさ。ここまで、重症化するのはまず、ありえない話だから、治せないとしたら、自己免疫性疾患だろう。」

おじさんは、さすがもの書きであるから、何でも知っている。蘭はつれてきてよかったと思った。

「で、病院にも相談したの?」

「それがな、みんなさじを投げているんだ。病気を調べても、何を調べてもだめ。肉も魚も相変わらず食えない。」

杉三が代わりに答えを出した。

「ええ、医学的に言えば、完了しているはずなのに、なぜか、こうして咳き込んだりして、理由がわからないんですよ。」

蘭は、付け加えるように、そういう。

「なるほど。つまり心がものすごく不安なので、体を守ろうとして、そういう反応が出るんだろう。それは人間が生活していくためだから、しかたないんだよ。そういうところでは、西洋医学というものは役にたたないこともある。おじさんがちょうどいい人材を探してあげるから、ちょっと待っていなさい。」

いったい何が始まるんだろうと思ったが、喜恵おじさんは蘭からスマートフォンを受け取った。

「あ、もしもし、影浦さん?私、檜山ですが、ご主人の影浦千代吉先生をちょっとお願いします。」

影山と影浦では、どうも対照的な苗字であるが、今は笑う気になれない蘭だった。

「千代吉さん。今ちょっと来てもらいたい男性がいるのですが、お願いできませんか?あ、そうですか。ありがとうございます。住所は、富士市のここはえーと、」

「大渕四丁目ですよ。」

蘭はささやいた。

「はい、大渕四丁目です。まあ、パソコンでしらべれば大体わかると思うんですけど。あ、わかりました。ぜひお願いしますよ。」

何が始まるのか、蘭は不安になっておどおどしていた。杉三は口笛をふいている。

「はい、お願いします。お待ちしています。」

喜恵おじさんは電話を切り、

「すぐ来てくれるそうです。」

と、優しく言った。その顔から見ると、変な宗教関係者とか、そういう人を呼び出すわけではなさそうだと、蘭は少し安心した。

数分後。

「こんにちは。」

ずいぶんしずかな声がした。若い男性のようだ。

「はい、どちら様ですか?」

恵子さんが応答すると、

「影浦です。影浦千代吉と申します。こちらにいらっしゃっている、檜山喜恵さんによびだされて参りましたが。」

と、その人は答えた。恵子さんは、そのやわらかい物腰に悪い人とはおもえなくて、彼を製鉄所の中に入れた。

「すみません。檜山さん、遅くなってしまいまして。」

と、言いながら入ってくる影浦さんは、なんだか背が高くやせっぽっちで、今までの治療者とはちょっと頼りない印象だ。でも、きちんと、いいたいことは言える、そういうタイプの人であるようである。

「結構かわいい男だな。」

杉三が思わずつぶやくほど、ちょっと女性的な印象もあった。

「まあ、少しばかりたよりないが、ちゃんと診察はしてくれるよ。」

喜恵おじさんはそういったが、確かになよっとした印象もある。

蘭と、杉三は、とりあえず形式的に自己紹介をした。影浦さんも座礼をして、自己紹介した。杉三が水穂を紹介したが、水穂はまた座礼はしなくていいからといわれた。

続いて、喜恵おじさんが、水穂の症状の話をした。いわゆる自己免疫性疾患であり、医学的に言ったら、解決したはずなのに、まだ症状がとれないこと。さすがに、文筆家というだけあって、要点をしっかり伝えることには優れており、影浦さんもすぐにわかってくれたようである。

「なるほど、それでは、心の問題といわざるを得ませんね。でも、僕は精神科医の免許をもっているのでわかるんですが、精神の薬って、のんでもあまり役にたたない場合が多くて、困っているのです。でも、体の不調が確かにあるわけだから、本人は困るわけですけれども、とりあえずこれを飲んでもらって、滋養をつけてもらうことからはじめましょうか。」

と、影浦さんは、もってきた重箱を開けた。はこの中には、たくさんの薬が、小さな袋に入ってつめこまれていた。

「少し、これを飲んでもらいましょうか?西洋医学みたいに具体的に症状が取れるわけではないのですが、安定は得られるのではないかと思います。」

と言って、影浦さんは袋に入った、山吹色の粉薬を取り出した。

「そのままでもいいですし、水に溶かしていただいてもかまいませんので。」

「あの、それは、副作用とかそういうものはあるんでしょうか。こいつ、結構過敏だから。」

蘭がその中に割って入ると、

「いえ、そういうものではないですよ。医薬品ではないし、ただの滋養をつけるだけの生薬なんですよ。単に、体を暖めて、緊張をほぐすだけの薬です。」

と、影浦さんは説明した。

「だってこいつは、そういう民間療法で何回もだまされて、、、。」

「まあ、いいじゃないの。今回は喜恵おじさんに任せよう。」

杉三に言われて、蘭は黙った。

「生薬ですのでね。食事の後じゃなくて、食事の前に飲んでもらうのが一番いいです。あるいは食間でもかまいませんよ。後に飲んでしまうと、効果が半減してしまいますから、できれば避けてください。」

と、丁重に影浦さんは説明した。まあ、これなら、特に怖い薬でもないでしょう、と、喜恵おじさんも言ってくれたので、影浦さんは、水穂の枕もとにそれをおいた。

その少し後、寒さはいっそう厳しくなった。また曇ってきて、これから雪が降るぞ!なんて地元の人たちはおおさわぎしていた。

最近は、雪が少ないと言われていた静岡でも、こうして雪に見舞われてしまうのである。ふぶくこともまれではなく、日本の冬はヨーロッパ並みになってきたぜい!なんていう外国人もいる。

寒くなると、当然、水穂の体も悪くなった。風が当たって、吸い込むと咳き込んでしまうのである。

「あーあ、またやってる。まだ晩御飯には時間もあるし、ちょっと飲んでみたらどう?影浦さんにもらった薬。」

恵子さんが、水穂を困った顔で見た。

「もう、血液の取替えはしたんだから、何もおかしなところはないわけでしょ?それなのに、だめなら、心の問題よね。それならちょっと影浦さんに頼ったらどうなの?」

しかし、咳で返答するしかできなかった。

「もう、しょうがないわね!」

恵子さんは、枕元にある水のみに、水を入れて、そこにあった山吹色の粉を入れてみた。粉はすぐに溶けて、山吹色の液体になった。

「ほら、飲んで!」

水穂は、咳き込みながらであったけれども、それを飲み込んだ。

飲む込むと、やっとと言うか体がホカホカしてきて、なんだか気持ちがほっとしたような感覚にみまわれた。それはよいのか悪いのかわからないけれど、ふっとため息が出て、うとうとし始めた。

恵子さんは、それでやっとほっとして、

「ああ、よかった。これで病人に邪魔されずに、仕事ができるわ。根拠も何もないのに、体がおかしいなんて、ただ、人の気を引きたくて甘えているだけの事に、気が付かないんだから!」

と言って部屋を出て行った。

その後も、部屋の中で水穂はうとうとしていた。たぶん仕事で忙しいとか、そういう人であれば、つかの間の快楽として、気持ちよいのかも知れなかったが、水穂には別の感情がわいてしまうのであった。これは、ある意味、ダニエル・キイスの著作の主人公と同じような絶望感であった。知らなかったことをしってしまうということは、決して幸福をもたらしてくれるとは限らない。

完全に眠ってしまうわけではないので、誰が何をしているか、はっきりわかってしまうのだ。だから、製鉄所の人たちの話を聞いていると、本当につらい気持ちになってきた。きっと、あそこの人たちは、今みたいな時代背景でなかったら、自分なんて、置いてくれないだろうな、と感じた。いや、もしかしたら、今の時代だからこそ、能率ばかり考えて、自分をどこかへやってしまうことも平気でできてしまうような気がした。

蘭はどうしているだろう。あいつを安定させてくれて、ありがとうと、涙を流して、喜恵おじさんに伝えているだろうか。そうなってしまったら、もっと苦痛になる、この苦しみをわかってくれる人は誰もいなくなる。ただ、よくなったからと言って、喜びがもたらされるだけではないのだ。

水穂の顔に、涙が一滴流れた。

「おい、大丈夫か。恵子さんの話では、だいぶ咳き込まなくなったようだけど。」

入ってきたのは杉三だった。

「また、蕎麦掻作ったぜ。食べよう。」

「杉ちゃん。本当は眠っていたほうがよかったね。確かに、気持ちよくはなったけど、完全に眠って周りの人の話なんか聞かないほうが、よほど楽にいられたよ。」

水穂が思わずそういうと、

「そうだな。どうせ言われてたの聞いちゃったんだろ?よくなったら、だれかが水穂さんの相手をしなければならんから、面倒だとかそういう愚痴。まあねえ、自分では何もできない人の相手をするってのは、一般的なひとにはむずかしいよね。だから、介護施設で、虐待なんかも起こるのだろうがね。」

「眠ってれば、放置していてもいいからね。」

介護施設だけではなく、精神科とか、障碍者施設でもいえるせりふかもしれなかった。

「とにかく僕は、どっちもできないや。逝けば蘭が何か言うだろうし、かといって、こうなっては、生きていても、ただの荷物としか見られないんだよ。」

「特に女の人のせりふはきついなあ。」

二人はこういって笑いあった。こうして笑い会える存在は、杉三だけかもしれなかった。

「また旅行にいこうや。だって、ここにいても、ただの邪魔なやつしか見られないだろ?それに、どこかへ出ていたほうが、げんきなんだってことも見せられるよ。」

不意に杉三はそんなことを言う。

「でも、この体では。」

「うん、六貫ではいけないな。だから、がんばって、体重ふやそうな。七貫でもまだ足りんよ。せめて八貫はほしい。」

八貫なんて、遠い遠い数字のように見えるが、水穂も杉ちゃんのいうとおりにするしかないと思った。

「お金のことは気にしなくていいよ。僕の貯金はたまる一方で食べ物くらいしか使い道がないからな。黒大島もさほど頻繁にかえなくていいし。それに、何か道具が必要なら、ジョチさんが買収した会社に、いいところがあるってさ。こういう病気の人を旅行させるの、手伝ってくれる会社。」

なるほど、今はそういうこともあるのか。何でも商売になってしまう時代だ。そういう芽の出ない商売を、次々に買収して有名にしてしまうのは、曾我のおなじみのやり方である。

「そうだね。でも養われるだけの人間が、旅行なんかしていいものだろうか?」

一般的に言えば働かざる者食うべからずであり、ましてや旅行なんて、なんていう親不孝なと公言している教育者が多いけど、

「それこそ、究極の偏見だ。旅先では、身分はばれないから、大丈夫。それに、遠方だけではなく近くの公園みたいなところでもいいじゃない。それでいいだよ。それに、僕等みたいな人が社会参加するって、そういうことしかないんじゃないの?あとは、引きこもりとなってしまう。そうなったら、また別の目で偏見が飛ぶ。」

杉ちゃんは、究極ののんきと言えた。水穂は笑ってしまった。

「結局のところ、僕らは、どこの人たちからも、好印象にはならないってことか。まあ、それならそれでもいいよ。慣れているから。」

「おう、笑ったぞ。それでは、目指せ八貫な。ほれ、蕎麦掻だぞ、しっかり食えよ。せめて八貫は超えないと、今言った計画は実行できんよ。」

口の前に、蕎麦掻が差し出された。


一方そのころ、蘭は、

「今日はありがとうございました。すみません、杉ちゃんたら先に帰ってろなんて無責任なこと言い出して。もう、本当に我儘な人で、申し訳ありません。でも、本当に、あいつを、楽にしていただいて、ありがとうございました。」

と言いながら、影浦さんにお茶を出していた。

「しかも、影浦さんが、富士駅近くに、診療所を開設したとは知りませんでした。」

「昨年末に、移転したばかりなんですよ。以前は東京だったんですけど、田舎の人のほうが、都会よりかえって負担が大きいと思って。大体の患者さんは女性であることが多いので、男性に施術したのは、久しぶりでした。」

なるほど、それで女性的な顔つきだったのか。確かに影浦さんの顔は、田舎の中年女性に受けそうな顔つきだった。

「まあなあ。田舎の女性は、意外に大変だからな。都会は比較的自由主義があるけれど、田舎ではそうでもないからねえ。」

喜恵おじさんが感慨深そうに言う。

「本当にまた、定期的に、訪問してやってください。そうすればあいつだって、きっと楽になれます。」

蘭は再度頭を下げた。こういうときに、杉ちゃんのカレーがあれば、もっと場を和ませられるのではないかと思った。

「よし、じゃあ、料亭でも行くかい、蘭。おじさんおごってあげるから。」

不意にそれを察したようにおじさんが言った。持ち金の少ない蘭は、それに従うことにした。

そこで蘭はまたタクシーを呼ぶために電話を取った。

後の二人は、タクシーを待つために電話を取ったが、外はことのほか寒かった。二人は、寒いですね。昨年の夏は、恐ろしいほどの暑さでしたけど、今年の冬は、どうなるんでしょうかと言い合っていた。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

喜恵おじさんがやってきた 増田朋美 @masubuchi4996

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ