story 1
───ピピピピピピ。
部屋中に鳴り響く電子音に目を覚ました。
どうやら音の主はリビングに置いてある携帯アラームみたいだった。
僕はゆっくりとベッドから出ると、テーブルの上に置き去りにされていた携帯を手に取り、アラームを止めた。
「…あれ、そういえば」
そういえば、さっきのことが嘘のように身体が軽い。
(あれはどこまでが夢だったんだろう…?)
さっきの不思議な夢。
確か、変な声が聞こえて、金縛りにあったかのように身体が重くて……。あれはどこまでが夢だったのだろうか。
そんなことを考えながら、腹を満たすために適当な食事を用意する。
賞味期限ギリギリの食パンにハムとレタスをのせ、もう一枚で挟む。そして、少し贅沢をして買った珈琲メーカーに豆を入れ、珈琲を淹れた。
料理は嫌いじゃないし、むしろ好きな方だ。だが、今日はなんとなくしっかりと食事を取りたい気分では無かったので、これらを適当に腹に押し込んだ。
「…ごちそうさま」
そう言ってから食器をシンクに流し、ワイシャツに袖を通した。
洗面所の鏡に向かうと、尻くらいまで伸びきった黒髪を鬱陶うっとうしそうにしている青年と目が合った。…まあ僕なのだが。
面倒臭がりながらも髪にブラシを通す。そこまでして髪を切らないのは、美容院の雰囲気があまり好きではないからだ。一時間以上も鏡に写った自分を見続けなければならないなんてとても耐えられない。
しかも他人にベタベタと触れられるなんて。お金を払って他人に触れられに行くなんて。考えただけでも吐き気がする。
そんなことを思いながらブラッシングを終えると、しっかりと歯を磨き、腕時計をはめた。
携帯、鍵、手帳、財布……と必要なものを一つひとつ確認して鞄に詰めると、いってきます、という情けない声だけを残して、僕は扉に鍵を掛けた。
*
見慣れた街並み。所々に積もっていた雪は溶け、もうすっかり春になっていた。
暖かい日差しを全身に浴びながら、僕は目的地へと歩いた。普段、日光を浴びることはなるべく避けているのだが、春の日差しというものも悪くないな、と少し気分が良くなった。
それからもう少し歩くと、街が落ち着いた雰囲気へと変わった。
そこでひっそりと息をするように建つ一軒の喫茶店、「Cafeカフェ : violetバイオレット」。此処こそが、僕────黒瀬望生みゆの職場であり居場所なのだ。
一つ息をつくと、アンティーク調の白い扉を引いた。
カランカラン、という気持ちの良い音と共に、珈琲の良い香りが漂ってきた。
フロアから奥に歩くと、キッチンがある。そのさらに奥にある部屋の前で立ち止まると、コンコンと二回扉を叩いた。
「どうぞー!」
よく透る元気のいい声。そんな好青年を連想させるような声を確認してから、僕はゆっくりと扉を開けた。
「おはようございます」
「うん、おはよう望生みゆくん。今日は早いね」
「今日は少し早く起きてしまって」
そう返すと、青年はそっか、と微笑んだ。
茶髪を綺麗に整えた黒縁眼鏡の好青年────岡本 祐ゆうは、この喫茶店に長い間務めている僕の先輩だ。
「…先輩は、今日も泊まりですか?」
「…うん、この頃店長の調子がね」
「…そうですか……」
この喫茶店の店長────美鈴は昔から身体が弱く、小さい頃は病院生活を送っていたそうだ。
それが最近少し悪化してしまっているようで、この喫茶店を管理している祐がつきっきりで様子を見ているのだ。
「…店長も心配ですが、先輩もちゃんと休んで下さいね。僕に出来ることがあればしますし」
「ありがとう。……あ、そうだ、今日バイト組が来れなくなっちゃったみたいで…」
「ってことは…」
「…そうなんだ。今日は僕と望生くんで回さなきゃいけなくって……」
そう言うと、祐ははぁ…と長いため息をついた。
この喫茶店はそこまでたくさんの客が来るわけではないが、有り難いことに常連が多く、昼間は人で賑わうのだ。
それを僕と祐二人で回すとなるとかなり大変だ。
しかも僕はキッチン担当、祐はフロア担当なこともあり、今日は普段していない仕事もしなければならない。
仕事内容を頭の中で整理すると、祐へ頑張りましょうね、と微笑み、制服のエプロンを身につけた。
僕がキッチンへ向かうと、祐も美鈴のいる仮眠室の明かりを消し、制服に着替えた。
開店まであと一時間くらいあるが、のんびりしている暇はない。
(今日は忙しくなるぞ…!)
そう言い聞かせると、僕は新鮮な野菜に刃を入れた。
*
あっという間に昼過ぎになっていた。
朝の静かな喫茶店からは考えられないくらいフロアは人で賑わい、昼の暖かさを感じさせた。
もちろん僕達は忙しくて堪たまらなかった訳だが、何とか半日を終えることができた。
今入っている客のオーダーを全て済ませると、僕は一旦スタッフルームへ戻り、近くの椅子に腰掛けた。
すると、今までの疲れが一気に身体にのしかかり、酷い疲労感に襲われた。
少しの間椅子に座っていると、祐もフロアから戻って来た。
「おつかれさま」
祐はそう言うと、勢いよくソファへと飛び込んだ。
半日とはいえ人手不足に参ったのであろう。祐は深く溜め息をつき、目を瞑った。
このまま眠ってしまおうかとさえも思ったが、オーダーが済んでいるとはいえ、さすがにまずい。
勢いよく瞬きをして眠気を誤魔化していると、フロアの方から、カランカランという快い音が聞こえてきた。新たな客だ。
「僕、オーダー行ってきますね」
「…あぁ、ごめんね。」
「いえ。祐さんはもう少し休んでいて下さい。」
「ありがとう」
僕はもう一度瞬きをすると、重い身体にムチを打ち、急いでフロアへと向かった。
*
「いらっしゃいませ」
と軽く一礼する。
顔を上げると、そこには綺麗な金髪に青い瞳を持つ、まるで童話から飛び出して来たかのような美青年が立っていた。
うっとりと見とれてしまいそうになるのを必死に堪え、彼を席に案内した。
お決まりになられましたらお呼び下さいね、と声をかけると、僕はそそくさとキッチンへと戻っていった。
男の僕でさえも見とれてしまいそうになる程の美しい容姿の美青年は、やはり周りからの注目も集めていたが、本人は何の気にもせずメニューを眺めていた。
それから少しして、フロアのベルが鳴った。さっきの客からの注文だろう。
僕はメモとペンを手に取ると、彼がいるテーブルへと向かい、お待たせしました、と一礼した。
「ご注文をどうぞ」
「…では、ミルクティーを」
「ミルクティーですね、かしこまりました。
…他にご注文はございませんか?」
「………」
「……どうされましたか??」
僕が声を掛けても、美青年はじっと僕の手元を見たまま反応しなかった。
僕が動揺して何度か声を掛けると、彼はやっと口を開いた。
「…あなた、お名前は?」
「…えっ?…黒瀬……、黒瀬望生みゆと申します。…「望」みが「生」まれると書いて、望生です」
「黒瀬…望生さん……」
僕は突然のことに驚きを隠せなかった。
胸元に名札が付いているのに急に名前を聞かれたからだ。
すると、彼はまた口を開いた。
「俺、あなたに決めました」
「…は……?」
「ありがとうございました。また伺いますね」
彼はそう言うと、頼んだミルクティーを待たずに席を立ち、僕に微笑んでから店を出ていった。
突然の出来事に最後まで驚きを隠せなかったが、また少し休憩が取れる、という喜びが勝ち、僕は軽い足取りでスタッフルームへと戻っていった。
*
太陽も顔を隠し、いつの間にか日が暮れていた。
春とは言ってもまだ冬の名残りがあり、夕方にはもう辺りは暗くなり始めている。
客も完全に捌け、店内は夜の静けさに包まれていた。
「……やっと閉店時間ですね」
僕がそう口にすると、ずっと黙っていた祐がはぁぁ、と長い溜息をつき、フロアにへたり込んだ。
それもそのはずだ。深刻な人手不足の中、たったの二人で店を切り盛りしたのは自分でも凄いと思う。
使った分の皿を乾燥機から取り出し、棚へと仕舞った。人工の灯りのみに照らされたフロアには、カチャカチャ、という皿が擦れる音だけが響いた。
全ての仕事を終えると、僕はようやくエプロンを外した。隣では、もう既に身支度を済ませた祐が疲れきった顔で微笑んでいた。
「お疲れさま」
「お疲れ様です」
「今日は本当に大変だったね…。疲れているだろうしもう帰って休んで」
「ありがとうございます。…祐さんもしっかり休んでくださいね」
「あぁ.....うん。ありがとう。それじゃあね」
そう言うと祐は、美鈴がいる仮眠室へと入っていった。今からまた美鈴の様子を見るのだろう。
きっと自分なんかより何倍も疲労が溜まっているであろう祐のことを思うと、申し訳なさで一杯になる。
でも人間疲れに勝てる訳もなく、今すぐに夢の中へと吸い込まれてしまいそうになる危機感を覚える。
ふるふる、と頭を振り無理矢理目を覚ますと、お疲れ様でした、と言い残し僕は「Cafeカフェ : violetバイオレット」を去った。
*
暗い暗い夜道だが、自然と昼間のような暖かさを感じた。
それは春だからなのか、僕が疲れ過ぎて感覚が麻痺しているからなのかは解らないが。
疲労を感じながらも何故か少し良い気分だった。忙しい中でも"生きている"という実感を持てる。人はこれを充実感と云うのだろうか。
そんなことを考えながら家へと向かう帰り道を歩いている。あぁ、こんな僕でも必要とされる場所が有るのか、と静かに微笑みながら脚を進めていると、ふと背後から聞き覚えのある声がした。
「黒瀬くろせ望生みゆ、さん。」
ゾッとして後ろを振り返る。
優しい口調の中に悍おぞましい雰囲気を持つその声は。
「随分お疲れの様ですね。お疲れ様です。」
「あ...貴方は.....」
「はい。先刻さっき振りですね。黒瀬さん」
その声の主は、昼間の金髪の美青年だった。
青年は綺麗に笑うと、一歩僕に近付き、口を開いた。
「黒瀬さん、俺は貴方に決めました。」
「は.........、え...........?」
僕が情けない声で返事をすると、青年は一歩、一歩と近付き、続ける。
「Equivalentイクイバレント Exchangeエクスチェンジ第一被検体は、貴方以外には務まらない」
「いく.......え、く.........??」
「イクイバレント エクスチェンジ。等価交換の事です。貴方に "与える" 代わりに、貴方の大切なものを "奪う" 。」
「...先刻から...何を言っているんですか.....?」
「簡単な事ですよ。俺と契約を結んで下さい。
そうすれば.....」
「そ、そんな怪しい取引に、賛成する訳ないじゃないですか!...失礼します」
「.....店長が、大変なんですよね...?」
「.....................え」
「店長に付きっ切りの先輩も疲労困憊ひろうこんぱいでもう三日と持たないでしょうねぇ.......後輩のバイト達も大学生で不定期出社.....4月なんて1番忙しいんじゃないですか?」
「...何故.......それを」
「そもそも持病持ちの店長を店に置いておいていいんですかねぇ?だって彼の病気は...........」
「五月蝿うるさい!...........お前に、何が解るって言うんだ.......今日初めて会ったばかりの、お前に.........」
「さぁ。俺は何も知りませんよ。興味も有りません。興味があるのは、黒瀬さん、貴方だけです」
「...」
「等価イクイバレント 交換エクスチェンジは「欲」と「感情」を交換します。
例えば、貴方が店に人手が欲しいと願うなら十分過ぎる程の人手を与える。そして、それに見合う等価.......そうですねぇ...「自卑じひ」の感情を奪う、みたいな」
「...自卑.......?」
「 "自分が他人よりも劣っていると感じる悲しい気持ち" の事です。
だから.....自分に自信が持てるようになる、といった処ところでしょうか」
「...自分に.....自信.....」
「もちろん貴方に不利を被こうむる事も有ります。然しかし、こんなに良い話は他に無いでしょう?
貴方にとっても俺にとっても、良い話なんですよ」
「...貴方には、どんな利益が有るんですか」
「俺はとある実験をしているだけです。
黒瀬さんにはそれに協力して貰うだけだ。
...そんなことより、どうされますか?黒瀬さん」
「......」
こんなに都合の良い話が転がっている訳がない。
人手不足が解消されて、僕のコンプレックスが無くなる?そんな筈はずがない。普通に考えて有り得ないし、人間技じゃない。
解っている。解っている筈なのに。
僕は、
僕は。
「その話に嘘偽りは無いですよね.....?」
「はい。当り前です」
「.....そうですか。
...............良いですよ。その話、乗ります。」
「.....有難うございます。
黒瀬さんならそう言って下さると思っていました」
ニヤリと笑う青年を前に、僕は。
「説明だけ簡単に済ませておきますね。
等価イクイバレント 交換エクスチェンジは一週間に一度。何処に居ても何をしていても、必ず行います。」
「貴方は俺に、「欲」と引き換えに「感情」を差し出す。また、貴方の「欲」に見合った価値の「感情」を頂きます。」
「...と、こんな感じでしょうか。気になることが有ったら応えられる範囲でお応えしますので。
さぁ、それでは始めましょうか。
...貴方の願いは何ですか?」
「...violetバイオレットの人手不足を、解消して下さい」
「解りました。
では、対価として「自卑」の感情を頂きます。
宜しいですね?」
「...はい」
「契約は成立しました。それでは儀式を開始します。
無事を祈ります。.....少し痛いかも知れませんが。」
僕は。
「.....之これより、契約に従い、青年 黒瀬 望生みゆは私の生贄とす。
一週の刻を期限とし、「欲」と「感情」の交換を約束しよう。」
「一度目の等価は.................」
僕は、
「左様さようなら、自分に自信が無い黒瀬さん。」
僕は、馬鹿げた選択をしてしまったのだ。
Equivalent Exchange(イクイバレント エクスチェンジ) 桜良 らの @_onigiri_tabetai
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