知は力、無知は暴力


 本というのはどうしてこうも、重々しく厚くて鼻の奥にツンとくる臭いがするのだろうか。

 メアリはそんなことを思いながら遥か頭上にまで続く大書架を見上げて呆然としていた。場所は王立図書館。長く続く王朝の歴史と知識を詰め込んだ情報の缶詰である。

 缶、というのは単なる形容的表現ではない。実際の姿の比喩である。円筒型の建築物が数棟、王城を差し置いてもなお高く聳え立つ様は正に壮観。白亜の外壁は数里先の地平を照らす物見櫓の役割も兼任していた。

 彼女がここにいるのは主人からの指示があったからだ。

 曰く、


「庶民の出とはいえ、知識がなくては困る。余が求めるのは小間使いではない。余の支えとなり、時として鋭敏たる知見によって余を取り巻く状況を分析し、時として余の過ちを正すことすらも必要だ。そういった者でなくては、側に置く価値がない。意味がないのだ。ただのメイドでよければ、余には不要なのだ……大抵自分でできるからな」


 ──最後は少し寂しそうではあったが、とにかくそういうことらしい。

 彼の言うことは分かる。王の侍従たるもの相応の品格と知見を備え、ただ身の回りの世話をするだけではなく総合的に主を支援していく構えが無くてはいけない。宮廷における貴族の動き、経済に絡む策略の察知、挙げればきりがないその類の問題を受け止めねばならぬというのだ。

 無茶だ。無理だ。完全無欠に手の施しようがない不可能だ。何のことやら分からないかもしれないが、せいぜい文字が読めるだけの娘に国家の最高学府に通った連中の相手をせよと言っているのと同じなのだ。出来るわけがない。

 ないのだが──メアリはこほんと咳払いをして、視線を正面に戻した。

 彼女が椅子にだらんともたれかかっていたのは、奇妙な知の建築物を内側から堪能したかったという理由ではない。

 目前の、古い文机に積み上げられた様々な分野の専門書の山から、目を逸らしたかったのである。

 この状況に含まれるメッセージはひとつ、知恵をつけろ。

 一番薄い本を開いて、メアリは額に手を当てた。

 全く分からない。文字が読めても内容は一つも理解できない。たぶん、数字と図形が書いてあるのでその分野の本なのだろう。だが、これが何の役に立つのかが、一切想像もつかないのである。どれだけ優れた道具であったとしても、使い方を知らぬものの前では湿気た薪よりも役に立たない。

 発想が貧困なのである。深くものを考えようとすると面倒になって思考を放棄してしまう。

 勉学に励んだ者とそうでない者の差は、基本的な思想体系に表出する。論理的な、という以前に長考に脳髄が堪えられないのだ。

 だからといってやめるというのも、ここまで手配してくれたレノに申し訳ない。

 メアリは変なところで律儀だった。


「もし」


 難解な読み物に苦戦する彼女に声をかけたのは、司書の老爺であった。深いしわに後退した生え際、たっぷりと蓄えた白いあごひげが見事である。


「もし、何かお困りかなお嬢さん」

「ええ、とても困っています」

「どうしたのかね」


 メアリは書物を広げて見せた。数学の本の最初の見開きである。内容としては初歩的な距離計算の数式だが、彼女には理解が難しかった。

 老人は頁をのぞき込み、頷いた。


「アリスターの距離算出の第一方程式か。これがどうしたね」

「分かりません。困っています」


 老人は無言で娘の顔を観察し、それが嘘でないことを察した。


「きみ、どこの家のお嬢さんかね」


 まさかベルチャイム、などと名乗るわけにはいかない。そんなもの何の役にも立たないし、本来貴族の関係者しか立ち入ることの許されないこの施設である。ただの町人が無断で立ち入れば衛兵につかまってしまう。

 

「――ミドラストの者です」

「ほう、ミドラストとはまた古い家だの。うん?ああ、あの坊主の従者か」


 坊主は昔からよく来ておったのう、と彼はひげを撫でる。


「ということは、あの坊主継承戦に出るつもりか」

「そのようです。無謀でしょうに」

「……きみも出場するんじゃぞ」

「存じております」


 本当に分かっているのか不安になる返答であった。

 老人はメアリの目をのぞき込み、容姿の割に濁ってもいない、曇ってもいない何とも言えない色合いをしていることに嘆息した。


「最近の若者は何を考えておるか、全くわからん」

「よく言われます」

「褒めておらんからの」

「そうなのですか」


 あきれたように肩をすくめる老人に、メアリは首を傾げた。彼女としては自分がどういわれるかというのは案外どうでもよいことで、それよりもどうして老人が自分に構ってくるのか不思議でならなかった。

 知り合いでもないのに随分熱心に話しかけてくる。友人によれば「あんたが美人だからよ」ということらしいが、それだけで親切心を擽られてくれるものなのだろうか。


「ところで、本当にこの方程式が理解できんのかね」

「はい。私にできるのは加減乗除くらいで、あとの小難しいほーてーしきとやらは全く分かりません」

「……よかろ。お嬢さん、名前は」

「メアリと申します」


 そうか、と老人は頷いた。


「わしは司書だ。その本は台車にのせて、ついてきなさい。少しだが、教えよう」


 親切なおじいさんだなあ、とメアリは老人の背を追って隔離された区画へと歩いていった。

 その後屋敷に戻ってきた彼女に話を聞き、レノは理由も言わずにその老爺と仲良くしておくように、と申し付けた。






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遥か彼方のメイドーン 御倉院有葉 @Neco-Neco

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