孤児院にて
レノの屋敷は廃れていて、取り繕いようがない程擦り切れたボロ屋であった。内部が辛うじて清潔に保っているだけで、かつての王族としての権威は地に落ちて腐れてしまったようである。
メアリはじゃっかじゃっかと床をブラシで擦りながら世の無常を感じていた。
──単純作業は好きだ。何も考えないでいいし、何も悩まないでいい。実は食器磨きと並んで楽しい作業が床磨きなのだ。
一度磨けば汚れが剥がれる。二度擦ればこびりついた何かが削れる。三度払えば落ちた汚れが向こうへと流れていく。
ある意味で美しい工程である。単調な家事の中に隠された不文律が、ささやかにその姿を見せて遊んでいるかのようであった。
年頃の娘の楽しみが床磨きというのも不健全な気がするが、彼女の周囲の人間は何一つ困らないので止めようとか意見しようといった動きはなかった。
バケツをひっくり返して水を流すと、くすんでいた床板がひと時の輝きを取り戻した。少なくとも彼女はそう考えて、傍目にはつまらなそうに嬉々として手を動かす。
「──お姉さん、楽しいですか」
「楽しいですよ」
ちょっかいを出してきたのはダリオであった。煌めく顔を惜しげもなく頬杖で崩して、気怠げに階段の手すりにもたれている。
──彼は何となく、自分を歓迎していないような気がする。追い払おうとか、嫌がらせをしようという感じではないが、何となくそこはかとなく緩やかに刺々しい。
可愛いのになぁ、と彼女は年下の男の子に目もやらず、黙々と濡れた床にモップをかける。
自分が着ているメイド服をこの少年が着たならば、と思うと内心の興奮を抑えきれないメアリであった。彼女の弟妹は幾分しっかりとし過ぎていた為、そういったお遊びができなかったという経緯が、彼女にそのような妄想を抱かせる原因となっていた。
少年としては迷惑この上ないだろうが。
「掃除は楽しいです。意外と」
「あなたにはそういうのが合っているんでしょうね」
「だからメイドになったのでしょう。たぶん。自信はありませんが」
もうちょっとはっきり言ってくださいよ、とダリオは嘆息した。年上の女が堂々と適当な言い草を撒き散らすのに、呆れているようだった。
メアリが掃除をしているのはレノの指示だった。
彼は今後のことを考慮して、もしかすると誰かを屋敷に招く時に備えてメアリと孤児院の子どもたちに清掃を命じたのである。
彼本人は掃除などせずに──金槌と釘を手に外装を直しにハシゴを登っている。
大工仕事が好きな王族というのも珍しい。いや、もしかすると金が余ったり下々の生活を実感する為にそういった行為に及ぶ者もいたりするのかもしれないが、メアリには覚えがなかった。
と、彼女はようやくダリオが何もせずにだらけていることに気付いた。
手すりにつかまっているだけではないか。
「──サボっているわけじゃないさ。僕は僕で、これはこれで頑張っている。眠たくて眠たくてたまらないのに、必死こいてチビたちのお守りとお姉さんの監視をしているんだよ」
「眠いなら寝てきてもいいのでは」
「そんなことをしたら……まぁいいさ」
彼は短く会話を区切って、首を回した。
「ま、お姉さんが掃除が好きなら良かったよ。これからも頑張ってね」
「うん、ありがとう」
どうでもよさげなメアリである。
少しくらい苛立って見せないと少年の立つ瀬がなかろうに、そういった機微を解する娘ではないのだから仕方がない。
微かな舌打ちをしてダリオが去っていくと、蹴立てられた埃が射し込む西日にきらめいていた。
「きれいだと思う?」
「どうでしょう。アレは結局埃だし。でもきれいといえばきれいね」
ところであなたは?とその場のノリで話を合わせていたメアリは、傍の少女に平坦に問いかけた。
少女は、黒い煤けた髪色をしていた。顔立ちは十かそこらにしては大人びている。年月を経れば相当の男泣かせの魔女となることだろう。
──異国風の顔立ちは少しだけ羨ましい。自分が他者からすればずば抜けた部類に入るのは分かっていても、柔らかな雰囲気のある顔の作りは心が落ち着いて良いのだ。
しかしいつの間に背後に立っていたのだろうか。
「ミーコ。掃除の手伝い中」
「そう。私はメアリ。同じく掃除中」
「知ってる」
「そうですか」
メアリが床を磨くその横で、ミーコも小型のデッキブラシでこじごしとやり始めた。
それ以降何を言うこともなく、のんびりと毛束が木材を擦る音だけが発生しては消えていく。
「メアリさんは」
「ええ」
「何でウチに?」
「なりゆきで」
口下手同士がサシで話をしようとすると、ともすればとっ散らかった短文のやり取りのようになってしまう。
少女と女は何となしに見つめ合って、同時にぽんと手を打っていた。
彼女らはお互い無口な方で、そこはかとない対人能力の欠如を感じ合っていた。
この人のこういう物言いに悪気はないのだろう、たぶん同類なのだろう、と2人が当たりをつけるのにそう時間は必要なかった。
似たような性質をした人間同士は、大抵同族嫌悪に駆られて嫌い合うか意気投合するかの二択に陥る。この場合、良い方向に娘らの性格が噛み合ったらしい。
──騒がしくないのは助かる。子どもは好きだが何故か怖がられるか、やたらと悪戯をされて困るのだ。こちらが好きなのに逃げられると悲しいし、鬱陶しいのも好きではない。話すことを考えないでよいのは楽だ。楽なことはいいことだ。
黙っていれば美人というのがタチの悪い話である。中身はぐうたらした怠惰と無神経な塊のような女だというのに。
ミーコはため息をついて、ブラシを動かす手を止めた。
「荷物、片付いた?」
「ええ。それなりに」
「手伝う?」
「そうしてくれると助かります」
どうしようかなぁ、とミーコもまた何も考えていなさそうな顔で呟いた。なめくじが這って欠伸をしていそうなくらい、気の入っていない会話であった。
仮にレノかダリオが聞いていれば頭を抱えて悶え出すだろう。彼らは彼らで多少せっかちなところがあるが。
まぁいいよとミーコは薄っすらと笑って頷いた。
「レノを助けてくれるんだし」
「助けられる自信はありませんよ」
「かわいいから助けてあげてね」
無茶を言わないでくれ、とメアリは首を振る。彼女はただのメイドであるし、礼儀作法はともかく小難しいことはほとんど分からない。というか知らない。かわいいとはなんのことだ。
俗世小説ならばともかく、学術的な本となると高級品だった。よほどの好事家でない限り、一市民が溜め込んで適当に読むことなどできやしない。貴族たちが当然とする知識など、一般市民には溜め込む術がないのである。
少女はうんと唸って、人差し指を立てた。
「文字、読める?」
「……まぁ、一応」
「分かった」
何が?
メアリは尋ねようとしたが、先回りをしてミーコが口元に指を当てていたので黙った。
可愛いのでまぁいいかと思ったのである。笑顔にはならなかったが、この女も可愛らしいものが好きなのである。
「明日、分かる。レノに言っておくから」
「そう。ところで、レノ様を呼び捨てにしてもいいの?」
「レノはメアリさん以外に様なんて付けさせないよ」
喜んでいいのか悲しむべきか。
メアリは小首を傾げた。
──あの男が自分を特別扱いしている、とすると何か気分がいいかもしれない。しかし何か面倒な事情─からかっているだとか、ばかにしているだとか─であれば面白くない。
だが、あの短気そうな男が回りくどい真似をするだろうか。たぶんしない。面と向かって貴様はナメクジのような顔をしている、とか言い出しそうである。いや、言わないだろうが──。
と、丁度レノが梯子から降りてきて、彼女らに片手を挙げて声をかけた。
「仲良くしているようだな。よろしい。そうだな、今月の標語としよう。余の臣民たるもの友愛をもって第一とせよ……うむ、なかなかよい」
「──いいですね、響きが」
中身はどうなんだ、と早速苦悩し始めた主人に対し、メイドは率直に尋ねた。
「何故私には様と付けさせるのですか?」
喧嘩を売っているかのような発言であったが、レノは彼女の隣にミーコがいることを認めると、大体の経緯を察して鼻を鳴らした。
「ふん、当然だろう。こやつらは余の家族である。お前は余の
「なるほど。格好がつきませんね」
「その通りだ。格好がつかない。それが問題なのだ。余にとっては特にな」
メアリは彼に仄かな自虐の匂いを嗅ぎ取った。
貴族様といえどもやはり、そういった悩みはあるのだ。人間なのだ。
「承知致しました、レノ様──」
「──ところでレノ。この人、明日あそこに連れて行ってあげたら?」
可愛い子と言えども頼むから話を遮らないで欲しかった。
或いは、わざと遮ったのか。彼を独占されるのが嫌だったか。確かに小さい頃はそういうものだ。弟妹も小さい頃は遊んで遊んでとよく手を引っ張ってきたものである。
勝手に微笑ましい気分になるメアリである。それを完全に無視してレノは笑顔で頷いた。
「そうか、あそこか。なるほど、流石はミーコだ。余の自慢の妹である」
「自慢の義妹です」
「そうだな。あそこか。そうか……いい考えだ。確かに必要だな……よし、ではミーコよ。メアリに教えてやりなさい」
にこやかにレノはミーコの頭を撫でる。
しかしミーコは微笑んだまま、レノの袖を引いた。
「レノ、分からないならそう言った方がいいよ」
レノは沈黙した。
彼にそれという考えはなかったのだ。上手いこと流れに任せて格好をつけようとしたのだ。そして、年下の女の子に看破されたのである。
「……あー、そうだな。済まぬ。どこだ」
「王立図書館」
「なるほど。ふむ……確かに、それは必要だな。分かった。手配しておこう」
驚くほどすんなりと方向転換して、彼は頷いた。それほどによいところなのだろうか、図書館は。
メアリが今ひとつ事態を飲み込めぬままに傍観していると、彼女の主は少女の髪をひと撫でしてずかずかと自室に戻って行ってしまった。
「いいの?行ってしまったけれど」
「いい。とっても良かったから」
何の話だ、とメアリが隣の少女に目をやれば、自分と話していた時とは比較にならない熱のある笑みを浮かべて少年の背を目で追っていた。
視線の熱量が凄まじい。
生易しい初恋などではなく、何故か悍ましい灼けるような情念が込められているような眼であった。
顔色に変化はない。声色もそのままだ。
だが、薄い胸の最奥に、赤い臓腑とは異なる不可視の意思の混沌が蠢いている。害を為そうというものではない。苛烈な友愛か過剰な親愛か、素晴らしい感情が疎ましいものに変わるまで煮詰めたような──不吉な感覚。
「メアリさん」
少女の声にメアリは思考を中断した。
「何?」
「レノって、かわいいでしょう」
否定したら何かあるのではとメアリは無言で頷いて、見つめられるのが嫌なのでミーコを手元に抱き寄せた。
──無性に荷物の整理がしたくなった。
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