忘るるまなく時の間も見む
一条中納言従三位藤原朝臣公麿
本居家所蔵文書 第██号
祖父、父、弟と私の他にこの話を知る者は少ない。末代まで記録せんが為、手紙として遺す。
あれは私がまだ幼い頃、世間では享和に改元してから一月くらい経った頃の事である。
この私、本居建正は、当時は兵衛と呼ばれていた。この年に祖父宣長は世を去ってしまうが、まだ本題の時からは半年先の事であり、また本筋からも外れるので省略する。
さて、幼いとても同い年の中では元服を迎える者もいた歳である。満月が好きで、夜中にこっそり近くの川まで見に行ったものだ。父に知られれば叱責は免れなかろうが、あの美しさは見なければ到底分かるまい。
話を戻そう。享和元年弥生の半ば、私はいつも通り月を見に行った。水面に映る満月の美しさたるや、大判小判や金銀財宝さえ比べるべくも無い。いつもと変わらずそう思っていた私の目の前で、それは起きたのである……
────
川に映る満月から、少女が出てきた。書いている私も訳が分からないが、そうとしか表現しようがないのである。
水から出てきたのに何処も濡れているようには見えないその少女は、あまり異性とは関わらない私をして「美しい」と思わせる美少女であった。上様の正室側室や、今上帝の中宮も叶わぬと言っても過言ではあるまい。
だが、いくら美少女とは言え、水からいきなり飛び出してきて驚かぬ人はおるまい。無論私も仰天したが、腰が抜けて動けなかった。情けないことである。
少女は頻りに水面を確認しつつ「月は欠けたかしら」とか「これで一周はいられる」とか独りごちている。そして辺りを見回すと、私を見つけたのだ。
「そこのあんた、こっちに来なさい」
此方を指差してそう言い放った彼女は、まるで便利な手下を見つけた人間のような顔をしていた。いや、この後のことを考えると実際そうなのかも知れないが。
なんとか動けるようになっていた私は、先ず後ろを振り返った。他に誰かいればそっちに押し付ける算段だったが、生憎というかやはりというか、誰もいない。向き直って自分かと尋ねると、彼女は「当たり前じゃない」と返した。
「あんた以外に誰がいるのよ。兎に角、あんたを私の家来と認めるわ。あんたの家に案内なさい!」
この時点で私は、何故水から出てきたのかとか、何故家来にならにゃならんのかとか、そんな事は考えていなかったと思う。恐らく、この段階で私は彼女を既に好いていたのかも知れない。そんな私と彼女が出会った、最初の出来事である。
────
家まで連れて帰ったは良いが、大きな問題が待ち受けていた。抑も、私は子一つか二つ頃に家を抜け出して月を見に行っており、父や祖父や弟はこれを知らぬ。つまり、私はなんとかして月を見に行った事を隠しつつ彼女を合法的に招き入れねばならなかった。そこで私は、幼い脳を捻って一計を案じた。
彼女には一度外で待ってもらい、こっそりと音を立てずに私が中に入る。外に出るときには外用の浴衣に着替えていたので、これもやはり音を立てずに寝巻用の浴衣へ着替え、汗を拭い、たった今起きましたよ感を出す。この後に「来客が来た」と言って父を起こしに行けば、来客が来た事で目が覚めた少年の出来上がりである。客の名目で彼女も入れるので一石二鳥だ。
父は寝惚けつつ「勉強がてらお前が応じなさい」とか言って寝入ったので、彼女を家へ迎え入れる。以上のごたごたを彼女にも伝え、皆寝静まっている事を示す。すると彼女は、小声ながらも衝撃的な事を私に命じたのである。
「今日からしばらく、ここに泊まるわ!」
その日は取り敢えず、客用の布団と夜着を引っ張り出してきて彼女に使ってもらうこととした。寝る場所は私の部屋しか空いていなかったので、必然的にそうなった。元服前後の男児には甚だ厳しいものであった。
翌朝、改めて家族に彼女の事を伝えた。父は知らぬと言っているが、完全に寝惚けていたのかも知れない。結局祖父の一声で彼女の預かりが決定した。寝室は、祖父が自身の書斎である鈴屋(すずのや)に移り、父と弟が祖父の寝室に移り、私が父の寝室に移る事で、彼女が私の寝室を使う事になった。今思えば大分回りくどい方法だが、今となってはその理由も分からない。
それはさておき、拠点を確保した彼女の名前を聞いていなかった私は、彼女に自己紹介を求めた。
「名前は……〈竹〉とでも呼んでちょうだい」
どうも私にはこれが本名とは思えなかったが、私自身も兵衛と呼ばれるのだからそのようなものだろうと納得したと思う。以降彼女の事は竹と呼ぶ。
竹がやってきた経緯(いきさつ)は、竹も私も話さなかった。御伽噺のような内容だし、話したところで信じられるとも思えない。紀州藩のお奉行様から人相状が出ているわけでもなし、だからこそ祖父が認めたのであろう。多分。
それはさておき、竹がやって来てから十日ほどは、私と一緒に遊んでいた。近くにあった城の堀辺りまで歩いて行き、立派な天守を眺めた事もあった。その近くにある御城八幡にお参りした事も、その境内の杜で遊んだ事もあった。祖父の著した『玉の小櫛』を、祖父本人の講釈下で共に読んだりもした。尤も、これはあまり面白くなさそうにしていたが。
さて、竹が来てから十二日目辺りの事であったか。竹は「観光がしたい」と父に頼んだのである。竹の我儘は今に始まった事ではないのだが、こればかりは厳しいものである。この辺りで行けるところは殆ど行ったし、他に見るべきものもなかった。
「なら、お伊勢さんへお参りでも行って来なさい」
祖父がそう提案したのは、竹を如何に満足させるかと父と共に頭を捻っていた時であった。これに対して父は「近いと言っても歩きで一日掛かる、老体には厳しいし抑もその間のこの家は何とする」と反論したが、祖父はあっけらかんとして「鈴屋での門人への講義で明け暮らすさ」と答えた。流石の父も抗う気が失せたのか、私と弟に父、そして竹の四人でのお伊勢参りを決めたのである。鳥居前町の宇治まで一日歩いて宿を取り、翌日に参詣して帰る予定を立てた。
────
月は変わって卯月の一日、延々歩いた私達は遂に宇治へと辿り着いた。前日の卯一つ辺りに出発して、宇治の宿に入ったのが未四つ。その日はそのまま休んで、今に至る。
「人が沢山いるわね! 張り切ってお参りよ!」
すっかり疲れの取れた竹が、人の多い通りに興奮してはしゃいでいる。私も弟も当然同じ事になっており、保護者たる父はさぞ大変だったろう。祖父の言ったことには、お蔭参りにはまだ数年早いからそこまで混まぬという事だが、見通す限りの人の山でなお混んだうちに入らぬとは、その時になると恐らくとんでもないことになるのだろう。
先ず竹が見つけたのは素うどんの店である。注文すると殆ど間をおかずに出てくるこの麺は、通常のうどんよりも長く茹でられたものである。故に非常に柔らかく、たまりを用いた少ないつゆと絡めると大変に美味である。
次に弟が見つけたるは、赤福なる店である。赤い餡を餅に塗りつけたるこの菓子は、見た目から想像する以上に柔らかい代物であり、その上品な甘さと食べ易さがとても良く調和している逸品であった。
その他にも生姜糖や太閤餅などがあり、お参りのはずが食べ歩きになっていることに気がついたのは全て食べ終わった後だった。
慌てて御手水で手を清めて拝殿へ急ぐ。皇太神宮の御社は全て詣でる予定であったが、竹は何故か月讀宮へのお参りを避けたがった。当時は理由がよく分からなかったが、そんなに嫌ならと結局参らなかった事を覚えている。今考えれば、これこそ竹の出自を探る道しるべだったのやも知れぬ。
天照坐皇大御神の霊験あらたかなお札を受けてから、やはり徒歩で家へ帰る。子供の足にははっきり言って厳しい道程であったが、馬も駕籠も無いのだから仕方ない。父も竹も弟さえも元気そうだったので、私だけが弱音を吐くのも宜しくなかろう。思えば、竹の前で情けない姿を見せたくなかったのやも知れぬ。今となっては、最早確かめようが無いが。
────
伊勢から帰って来てからも、竹はずっと家にいた。別段文句を言うわけでも無し、寧ろいて欲しいとさえも思っていた。竹への想いに気付いたのもこの頃だろうが、当人に伝えるつもりもなかった。友の如く仲の良い者に気持ちを伝え、逆に関係が崩れ去った、なんて話はよく聞く。私はまだ、竹と一緒にいたかった。
だが、竹の様子は日を経るに従って変化していた。伊勢に行く前はあれだけ元気だったのに、帰って来てからはまるで空元気のように見える。最初こそ「疲れが取れていないのだ」と納得していたが、帰ってから四、五日もして尚休まらないのは流石におかしいと考えた。やって来てから廿日になると、それはより顕著に示された。あれだけ好きだった外遊びもせず、毎日鈴屋に篭って祖父からの教えを受けている。気が変わって書物が好きになったかと思って一緒に座学を受けても、どうも楽しそうには見えない。
父や祖父は「家が恋しいのだ」と言うが、私は認めたくなかった。ならば何故竹は家出同然でここにいるのだ、そう思うことも少なくなかったが、父や祖父の言う通りに思うこともあった。父母が恋しくてならぬから、と思うと、なんとなくそんな気もした。直接理由を聞こうと思っても、竹は明るく振舞ってはぐらかした。人に言えない何かがあるのは明らかだった。
夜中、竹が庭から月を眺めることが多くなった。今までそんなことは一度も無かったが、憂げな表情で竹は月を眺めていた。美しいと思っている顔ではなかった。泣いている時さえあった。そしてある時、竹は亥二つ辺りに私達を庭へ呼び出し、こう告げた。
「実は私、月に住んでいたの。家出して来たけど、明日には家族が迎えに来るわ」
とても、とても哀しそうな面持ちで彼女は確かに、そのように告げた。勿論俄かには信じられない内容だが、私は竹との出会いを思い起こし、それが真である事を悟った。皆にそれを説明すると、祖父がこう言った。
「なら、家族に挨拶が必要だな」
それは、竹との別れを皆が受け止めた事の代弁と取ってよかった。竹の言うには、十五日の夜にやってくると言う。竹が川から出て来たのは、月にあると言う自宅の庭から抜け道を使ったからだと。「お父様の口が滑ったのを聞いてたのよ」と彼女は言うが、何故そうなったかは教えてくれなかった。
────
卯月十五日、頭上には満月が煌々と輝いている。月光は、ただ冷たく私を、そして竹を見下ろしていた。祖父は、ただ静かにその時を待っていたが、その顔には若干の負の感情が見え隠れしていた。孫を一人失うような気持ちだったのだろうか。今になっても、私にはまだ分からない感情だった。父や弟は、純粋に寂しそうな表情をしていた。父とても娘の如く可愛がっていたし、弟にとっても姉の如き良き遊び相手であった。私はどんな表情をしていたかは分からないが、恐らく、納得出来ない、理不尽だと言った物だったろう。竹は、只々無表情であったが、陰りのある無表情だった。
亥三つ頃だったか、月の方向が突然眩く光ると、目の前には黄金色の雲が浮き、一人の女性が──周りには護衛と思しき男衆が──立って此方を睥睨していた。いや、厳密には睥睨していたのは周りの男衆であり、女性は慈母の如き顔であった。女性は唐風の華やかな衣装を纏っており、高貴な身分である事が一目でわかる。男衆はお侍様のようであり、これを見ても女性の護衛だろう事は想像に難くない。
「やっと捕まえましたよ、輝夜。さあ、共に帰りましょう」
女性が竹に話しかけた。あの女性こそが、恐らく竹の母君であろう。とすると、竹の本名は輝夜か。
「待って、お母様。みんなに別れの挨拶を……」
「良いでしょう。でも、早く済ませなさい」
竹……いや、輝夜は母君の許可を得て、一人一人に別れを告げていった。祖父には居候の礼を言った。祖父は寂しいながらも、笑顔で輝夜を送る事にしたようだ。父には短いながらも温かい愛情の、弟には遊び相手の礼を告げた。父は号泣しながら別れを惜しみ、弟は私の一つ下でありながら別れたくないと繰り返していた。輝夜が優しく宥めると、まだ別れたくない顔をしながらも大人しくなった。
そして私の番が回って来た。この時私の目の前にいたのは、最早お転婆娘の竹ではなく、月の姫の輝夜であった。
「こっちに来てから、あんた……いえ、あなたにはずいぶん助けられたわ。家来一号としてだけじゃなくて、他の面でも……ね。今日までありがとう」
輝夜は僅かに早口でそう言い切った後に、暫くもじもじしていたが、頰を赤らめながら口を開いた。
風騒ぎ むら雲まどふ夕べにも 忘るるまなく忘られぬ君
明らかに和歌であった。源氏物語の第廿八帖の野分にある歌であった。聞いた瞬間、私は意味を思い出していた。
(風が騒ぎ、叢雲が迷うような夕方であっても、忘れる間も無く忘れられない貴方……)
間違いなく恋の歌であった。自分の抱いていた感情を、彼女も抱いていたのである。私は、咄嗟に別の歌を送った。
秋の夜の 月毛の駒よわが恋ふる 雲居を駆けれ時の間も見む
月毛の馬よ、天を駆けて月の都へ連れて行け。束の間でも逢いたいのだ……
第十三帖の明石にある歌である。もしかすると返歌としてはあまり相応しいものでは無いのかも知れないが、これが私の素直な気持ちだった。輝夜もそれに気付いてくれたのか、自身が持っていた小さな鏡をくれた。
「それ、あなたにあげる。私の影が見えるかもね」
今度は第十二帖の須磨にある歌を意識したものだろうか。「身はかくて」の歌か「別れても」かは分からないが、何れにせよやはりここでお別れなのだ。
「ありがとう。もう会えないかも知れないけど、元気でね」
そう彼女は言い残し、従者の差し出した壺の薬を飲んだ。まるで竹取翁に出てくる薬のようだが、どうもそうらしい。輝夜はそのまま、あっさりと母君の隣に立った。そのまま雲は輝きつつ、月へと飛び去ってしまった。
────
以上、この私が幼少期に体験した事である。この時から五月程して祖父は世を去り、父が家督を継いだ。私は、今これを書いている時も病に侵されている。あれから十八年経った文政二年、あの時もらった小さな鏡はこの死に際でさえも懐にある。輝夜が来た理由は遂に分からず終いだが、謎を残すのもまた一興か。
最後に、輝夜宛の歌を記して筆を置く事にする。この手紙を見つけた者は、この歌を切り取って満月の夜に川にでも流してほしい。朝顔の如く美しかった輝夜の下に届くだろう。
見しをりの 露忘られぬあさがほの 花のさかりはすぎやしぬらん
忘るるまなく時の間も見む 一条中納言従三位藤原朝臣公麿 @Lord_ichijo
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