31 I SCREAM

東埜 昊

第1話 サーキュレーション

 三叉のもりが玄関の上に掛かっている木造の古い庵のすぐそばで、筋肉質の若い大男が満月のもとでひざまずいていた。


「神よ。どうか間に合わせてくれ。あと一時間もないのだ」


 男は両手を合わせて月になにかを祈っているらしい。創世以来、一日も欠かさず闇夜に慈悲のような光をもたらす荘厳そうごんな存在の前では、男の鍛えられた屈強な肉体も矮小に映る。


「さあ、いきんで!」


 庵の中から気の強そうな女性の声が発せられた。それに呼応して、もう一人の、なにかをひり出しているような息張った女性の声も伝わってくる。


「いいわ。顔が出てきたわ! もう一踏ん張りよ、リナ!」


 そこは男の自宅であった。このポータラカと呼ばれる島にある小さな村で、男は魚獲りを生業としている。これまで村の末端にある浜辺に近いちっぽけな庵で、妻のリナと二人暮らしをしていた男は、ついに新たな家族を迎えようとしていたのである。


 いよいよかと思った男は祈りをやめて立ち上がり、拳を強く握って玄関をまじまじと見た。今にもその扉を蹴破って激励したい、そういった感情をむき出しにしているがぐっと堪えている。出産は女人にょにんのみで行うという村の掟があるのだ。男にできることは、許可がくだるまで月光に照らされながら、医者の合図を待つことだけである。


 これまで聞いたこともないリナの息む声は男に不安を募らせるばかりであったが、ついに産声が上がると男は再び月を見上げる。


「ま、間に合ったか……」


 大男はつい力が抜けてしまい、腰が砕けてその場に座り込んでしまった。


 産声が止むと診療所の入口が開き、長髪を結った白衣の女性が現れた。村の医者である。


「アレス、もう中に入っていいわよ」

「お、おう」


 アレスと呼ばれた男は顎を上げて、医者と目線を合わせた。


「も、もしかして腰を抜かしていたの? 図体の割に情けないわね。これからが育てていかなければならないのに」


 医者は腕を組んで、憐れむように言った。


 二十代前半、いや、へたしたら十代にも見えるその容姿とは裏腹に堂々としたたたずまいと物言いであった。


「あ、いや……」

「ほら、時間がないわよ。急いで!」


 アレスは目尻を指でこすってから、地面を蹴り上げて庵の中へ、子を抱いた妻の元へ向かった。


「リナ! やったな!」

「あなた……本当に良かった。間に合って……」


 ベッドに横になって息子を抱えているリナは汗だくで息を切らせている。本来であれば頬が火照っていてもおかしくないが、顔面蒼白であった。


 よく見ると若々しい夫のアレスに対して、妻のリナの方が随分年増に見える。それもそのはずで、リナは間も無く三十一歳を迎えるのに対し、男の方はというと今年で二十二。十近く歳の差がある結婚は、では特に珍しい。


「ああ、よくやったぞ。本当によくやった」


 歓喜に満ち満ちた暖かく優しい言葉であるが、男の頬はなぜか強張っている。とても出産に成功した夫婦とは思えない。医者の方はというと、診療所の外へ出てゆき月の位置を確認し、大きな溜息をついた。


「抱いてみて」

「お、おう」


 リナが震えた腕で赤子を少し持ち上げると、アレスは素早く両腕を差し出し、二人の赤子を抱え込む。


「……男の子?」

「そうよ。私の勝ちね……」

「名前は決まっているんだろ?」

「ええ……」

「教えてくれ」

「この子の名前は、アルカ……!」

「アルカ……いい名前だな。そんなに長くはないが、俺が大事に育ててみせるから」

「お願いね。一緒に育てていけないのが本当に残念だけど……こうなることが分かっていながら,こんな私を愛してくれてありがとう。もうそろそろ……」

「ああ、リナ。嫌だよ。逝かないでくれ……」


 アレスは膝を床につけて、リナにすがるように言った。


「運命には逆らえない。月の位置が見えなくても分かるものね。私はもう間もなくいなくなる。向こうで待っているわ……」


 リナはゆっくりと眼を閉じた。


「リナ!」

「……」

「リナ!」

「……」

「……」


 アルカを出産して間もなくリナは亡くなった。出産に失敗したわけではない。リナの命が潰えることは、あらかじめ決まっていたのであった。自分の手で子育てをすることができないこともあらかじめ分かっていたことであった。それでも、リナは心から愛したアレスとの間にできたアルカをこの世に産み落としたかったのである。この島で生まれてぴったり三十一年間、リナは全力で生き抜き、その証でもある息子を遺していった。


 この島の人間は何人なんぴとも例外なく三十一年間しか生きられないのである。

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