AM 02:30 The Room in Persona

秋鳴

第1話

「AM02:30 The Room in Persona」




 愛し合う二枚には互いを抱きしめる腕がない。だから彼らは、閉鎖された白い空間の中で視線で性行為をして、互いに仮面を外し合っていた。それをひとたび剥いでしまえば欲望の表情が姿を現す。暗い深夜の中心さえ過ぎた世界が彼らにとっては光に満ちた愛詠の時だった。彼らは言葉を知らない。性愛の台本を知らない。感情の名前を知らない。互いの「美しい」相貌を正面からただただ見つめ続けるという運命に、熱烈なキスを贈っている。

 中世芸術の女は人魚姫のような表情をしている。彼女は失われた恋人を待ち続ける油彩画だ。悲嘆を湛えた藍色の瞳はまっすぐ前を見ているようでどこか虚空を見つめているようだ。首から上だけを描いた作品であるために、柔らかな筆致の白い肌の繊細さは他の美術品よりも光彩を放っている。西洋の婦人でありながらオリエントな匂いの漂うみどりの黒髪。前髪は細く整った眉の上でカールされ、後ろ髪は美しい波を描いている。

 対面する男もまた米国俳優のような美しさを放つ青年の顔だ。しかし一つだけ大きく彼女と異なっているのは、彼が西洋の中世芸術とは時代のかけ離れた存在であるということだった。『悲劇のキメラ』、それが表面の世界における彼の名前だ。半人半獣。人としては美しくても左半分の獣の顔は毛むくじゃらで、実験に失敗されたライオンのようだった。

コラージュの失敗作、とある評論家は批評した。もちろん彼はコラージュではなくれっきとした現代絵画であるし、これを失敗作だと思ったことはないと画家自身は言った。右半分に残った青年はブロンドの髪を持ち、おとぎ話の王子のように完璧である。もし顔全体がこの人間であったなら、間違いなく世の中のありとあらゆる人々は虜になっていただろう。碧色の大きな瞳は彼女と同じで虚空を見つめているかのようだった──そう、昔までは。

 明朝にも死んでしまいそうだ、と彼は恋に落ちた。彼女の瞳をじっと見つめる。

最初、彼女はどこか今よりも明後日の方向を仰いでいた。彼は彼女の「生前」を想像した。絵画には寿命というものは存在しないが、それでも美術館に展示されているということがそもそも死を意味しているからこそそんな思いは成立した。のどかな青空よりも、中心街の灰色を一身に受けて憂いを帯びた表情を浮かべている立ち姿を想像する。

自分は失敗作と揶揄されながらも丁重に扱われるというジレンマの中、日中は生きている人間の見世物になる。その間彼女の美しさに魅了され、多くの人々が自分の前に立ち塞がるのが許せなかった。彼女が一体今何を考えているのかは分からない。ただその揺らぐ視線の先に、ただ自分だけが映ればいいと思った。しかし同時に、こんな醜いと言われる自分が数え切れないほどの衆目を浴びる彼女の正面などに存在していいのかという思いと交錯していた。だから最初のうちは罪悪感に駆られた恋心を封じ込め、もう二度と彼女の視線は追いかけまいと心の瞳を閉ざしたのだった。それが数年前のこと。永遠のようにも感じられる時間はだんだんと流れていき、やがて変化が訪れる。

 ──明らかな好意の視線を感じた。

 彼女の視界では絶えず雨が降っている。憂国の狭間、彼女の愛する恋人は降りしきる霧雨になってしまった。怒りと悲しみを同時に爆発させた人間が迎える最期だ。自分の世界の中でのみ降り続く雨粒は、愛する人の身体の一部であったもの。それを避けるわけでもなく一身に受け続けているとやがて髪の間に、服の間に水流ができて、彼女は変わらずプラトニックな性愛に見えない部分まで愛撫されている気分になっていた。彼女としてはそれだけで幸福だったのだ。

 しかしそれにも充足感とはまた違った感情が訪れる。「飽きた」のだ。愛する人、愛してくれる人を失った彼女には永遠の時間をそのようにして過ごすのは到底耐えられるものではなく、すぐに別の愛を欲しがった。

この監獄的な空間から楽しみを見つけ出すのは簡単だった。自分と成り立ちもしない対を成すように飾られた成人男性の現代アート。顔の半分は醜い毛むくじゃらの肉食獣に侵食されており、彼女に凄惨な時空の潮流を感じさせた。朝日が凪ぐ人間の彼の背景とは反対に、獣の背後には新聞記事の見出しのようなものが乱雑に羅列されている。

 その人獣の青年が、まっすぐに自分を見つめているのだ。昼間には決して見ることはできないが、碧色の瞳が己の藍色の瞳を穴が空きそうなくらい凝視している。彼女は最初、不思議で仕方なかった。時代背景も何もかもが異なる自分のことをどうしてそんな風に見るのか。歴史に小さく名を残す美術品としての自分の心はこれ以上ないくらいに別の意味で鈍かった。ある程度己が美しいとは知っていても、相手の恋情など自分とは違う世界に生きる者の感情ならば完全に察せるはずもない。しかし試しに彼女が星を飼うような瞬きをしてみると、彼の鋼鉄の顔色は一転した。生身の愛を望むゆえの錯覚ではない。確かに彼は喜色をその瞳に湛えたのだ。目は口ほどにものを言う。いや、口よりも多くを語る。瞳孔の開き具合、視線をそらす角度、その感情を裏付ける証拠は揃っているように見えた。

 ──この悲しい雨が降り止んだら、こんな劇は終わりにしよう。

 自分たちを止める者は誰もいない、その事実は彼らを欲望のままにさせた。




 真実の愛など、腐った林檎の味がする──彼の視線は彼女の左目を舐めた。堕落。昇天。超越。身体の痛みを伴わない無限の性の暴走。知性を匂わせるそれを封じてしまおうと思ったのだ。彼女は恍惚の悲鳴を上げる。嬌声は出ない。意識は完全に亜空間にいた。彼女は自らの創造主の名前を刻むように彼の頬を撫で上げる。片方の性が片方の性を抱く時代など過ぎ去っていた。二人は、見えない相手の胴体を透視するように視線に色を混ぜ合わせる。

黄、赤、青、白、と繋がり、青、白と色彩は運ばれた。やがて二人の頭の中には幻想ながらもれっきとした人間の身体が完成した。ある国の神話において、愛の神の肌色は官能を表す深い青色だ。青色はまたある国においては高貴な軍服の色となり、聖なる絵画には光を表す色として使われた。

 白は純真無垢の色とされながら、ある国においては不浄の色だ。絵画であるためか美術館という空気に触れ続けてきたためか、色についての知識はお互いに時代を超越しながらも持ち合わせていた。彼は彼女の屈託無く笑う口元を撫でる。一つ一つの行為に完全なる意味がある訳でもなく、彼はただただ彼女が自分に与えてくれる情報の全てを愛している。凜々しい眉、柔らかな前髪、すっとした鼻筋に至るまで、想像の中で精液を混ぜて愛をまぶした。彼女もまた雨の中で花の奥底の底を濡らしていた。空想の腕を回された腰が、少しずつ熱を持っていく。恍惚。甘美。子宮が疼くほどの生物的な熱い視線。キメラという概念がエロスに拍車をかけているのかもしれない。次々と流し込まれてくる愛。だんだんと高揚する心臓を貫く鋭い目。お互いに、深く深く溺れてしまっていた。

 人と獣の優生思想に争う彼の顔に、彼女は慈しむように幻想卵子を振りまいた。そうして解きほぐしていけば、もっと背徳感を味わえると思ったのだ。粘着質な音が響いて、本能の中に住む猿が目を覚ます。愛し合うと呼ぶには心が足りない彼らの気分を満たすには充分なほどだった。次第に食事をしているような、そんな気分になってくる。ここが夢の中なら男性器を女性器に挿入することもできただろうが、悲しいくらいにここは現実だった。彼は名残惜しさを抱きながらも彼女に切なげな視線を送る。それを察知したかのように無垢だった彼女もまた瞬きをすることで応じた。

「それ」を夢想してしまえば、あとはもう声にならない声を上げるだけで精一杯だった。砂糖菓子のように甘くも確かな強度を持った肉癖の中に、そろそろと自らを飲み込ませていく。お互いの汗が滴る曲線と曲線。執着質に抽送を繰り返す欲望のままに彼女もまた腰を振った。

 時間を忘れ、「芸術品」の「尊厳」を忘れる。足の踏み場もないくらいに二人の脳内の部屋に埋め尽くされた無秩序な色彩が、一本の線を結んだ。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

AM 02:30 The Room in Persona 秋鳴 @remember-asphyxia

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ