なりきり垢でお姉様として絡んでいた人が職場の年下だったんですけど
@yu__ss
なりきり垢でお姉様として絡んでいた人が職場の年下だったんですけど
「ではー、社長賞の発表でーす!」
スクリーンには社長賞、という文字が、変なアニメーションと共に大きく映されている。壇上のCS部の女の子の声が、スピーカーを通して私の耳にも届いた。
まあ、正直あんまり興味は無いが、見てるだけで孤独感は和らぐからいいか。
「では社長、ご登壇くださーい」
毎年10月は会社の創立記念月ということで、創立記念のパーティが催される。
今年は会社のそばのパーティスペース。
正社員から派遣さん、常駐の人など合わせて50名ほどが集まっている。仕事終わりでそのまま来てるので、ほぼ全員がラフな私服。
3年目の私も今年は幹事から外れ、気楽に楽しむ側。
……まあ、楽しくは無いんだけど。
立食形式のパーティだから、私みたいな話す人が皆無の人間は食べてるか飲んでるかしかやることが無い。
話しかけてくれる人はいないし、話しかけられる人も、別の人と話し込んでいたりする。
食べたいものを適当に紙皿に載せたら、あとは隅っこ。
目立たないよう大人しくしながら、時が過ぎるのを待っている。
もう少しして良い時間になれば、こつそりとフェードアウトするいつもの流れだ。
ポテトを箸で掴んで口に放る。
孤独感はあるけれど、まあこんなものなのかなぁ……。
「今年の社長賞はー……」
登壇したスーツでメガネの社長が勿体つけるように言葉を切った。
なんていうのか知らないけど『でれでれでれでれーじゃん!』みたいな効果音が挟まったあと、
「
と発表される。
周囲から拍手喝采が巻き起こり、私も義理で小さく手を叩くと、一人の女性が壇上に上がる。
ブラウンがかったアシンメトリーのマニッシュショート。オーバーサイズのシャツに細身のデニムパンツをゆるっと履いている。
井上蒼さん。
マーケティング部企画課の2年目。
「えー、井上さんが1年目から企画したボルダリング専門サイトが、年初から徐々にDAUを伸ばしており……」
となにやら紹介されているが、総務の私にはDAUがよくわからなかった。
しかし、さすがの私もボルダリングは知ってる。ボルダラーはみんなチャラいから。
壇上で照れくさそうに笑う井上さんも、きっとチャラいんだろうなぁ。彼氏と一緒にカラフルな突起を汗だくではあはあ言いながら登っているんだろうね。
「はぁー」
ため息が出た。
別に羨ましいからではない。
住んでいる世界が違う人に、羨ましいなんて感情は湧かない。
いや、ほんとはちょっと羨ましい。
私が今この場で抱えているような孤独感は、彼女が感じることはないんだろう。
それが、少しだけ羨ましかった。
スマホを取り出して時間を確認する。
待ち受け画面の『お姉様』が笑いかけてくれた。
19時7分。帰るには、まだすこし早いかな。
ついでにお姉様からの『手紙』も確認したが、来ていない。たぶん中の人がまだ仕事中なんだろう。
「ボルダリングは小さい頃からやっていて……」
井上さんはスマホを向けられながら、サービスを企画したきっかけを語っていた。
壇上までの距離は、画面の中のお姉様よりも遠くに感じた。
昔から姉が欲しかった。
五歳くらいの頃、妹が出来ることはあっても姉が出来ることはないという事を知って、世界を儚んだことをよく覚えている。
そのあと高校生になった私は、あるアニメにハマった。
正式名称で『私立聖凛女子学院高等学校』、通称『聖女』。
長崎の離島にあるキリスト教系の女子校を舞台にしたアニメで、主人公の
正直に言うと、私には緻密に描かれていると言われてもピンと来なかった。
最初に興味を持ったきっかけは、主人公が私と同じキリエという名前だったから。まあ私は
何となくつけたテレビの中で呼ばれる私の名前。
興味を持ってしばらく見ていると、私は気付いた。
主人公のきりえには姉がいる。
しかも、血の繋がった姉ではない。
義姉でもない。
『お姉様、すみません……』
『まったく、あなたってば本当にダメね、きりえ』
厳しい言葉と共に、優しく微笑む黒髪ロングで上品な雰囲気を纏う女性。
お姉様とはすなわち、少し特別な関係の上級生。
『私立聖凛女子学院高等学校』の歴史の中で永く培われてきた伝統で、生徒同士が結んだ疑似姉妹という絆。
単に仲が良いというだけでない、不思議な関係。
こんな世界があるのかと、私は一気にのめり込む。
翌日私は本屋で原作小説を見つかっただけ購入した。我が家のルールで、小説の場合は親がお金を払ってくれるので安心してまとめ買いした。
あとは、沼。
私はすぐにきりえの憧れのお姉様、
テレビから流れる『きりえ』というボイスは、作中のきりえを呼んでいるとわかってはいたが、私も同じ名前なのだ。ベッドに潜り目を閉じ、お姉様のボイスを聞きながら手足をバタバタさせていた。
この時ほど親に感謝したことはない。お母さんありがとう。
茉莉花役の声優さんにも少しハマったが、アニメ放映の後すぐに結婚してしまい失恋した。
その後しばらくは悶々と過ごしていた私は、社会人になってから、なりきりアカウントというものを知ることになる。
「ご飯食べるのー?」
階下から聞こえた母の声に「食べてきたから大丈夫ー」とだけ返事しておいた。
帰宅した私はいつものようにすぐにテレビを点け、ブルーレイを再生する。
映し出されたのは礼拝堂。
『素敵な夜ね』
茉莉花お姉様が呟いた。
お、と声が漏れた。そういえば今朝はここまで再生していたんだった。
着替えを一旦やめて、ベッドに座り込む。
画面の中ではステンドグラスが月明かりに煌めいていた。
『……西園寺さん?』
『きりえ、いえ、桜さん』
茉莉花お姉様がきりえの手を取る。
『……はい』
『……わたくしの妹になってくださいませんか?』
そのまましばらくの沈黙の後、きりえは頷くと二人は意味深に見つめ合う……。
という、もう何度も見返し、読み返した場面に見入る。
きりえと茉莉花が姉妹になるという『聖女』一巻のラスト。一番の名場面とも言える場面だった。
いや、名場面は他にも無数にある。あるが、まあ一つだけ選ぶとなれば、このシーンを選ぶ人は多いのではないだろうか。
はぁー、何度見ても良い。
最初は一方的に慕うだけだったきりえがの想いが伝わり、お姉様から姉妹の契りを申し出る。
その過程をもう一度思い起こすと、また吐息が漏れた。
ひと通り浸ってから、通知を確認したくなりスマホのロックを解除。待ち受け画面ではお姉様が微笑んでいる。
空色のアイコンをタップしてSNSの画面を開くと、お姉様が呟いている。
『学院の催しに参加しておりました。皆さま楽しそうで何よりでしたわ』
お姉様も、何やらイベントに参加していたらしい。
『お疲れ様でした、お姉様』
とリプライを送ると、スマホが震えた。スマホに直接通知が来るのは、『お手紙』のほうだろうか。
画面内のベルのマークをタップすると、お姉様からの『お手紙』、ダイレクトメッセージが届いていた。
『きりえ、明日はいよいよ島外への外出日よ。寝坊しないように早めに寝なさいね』
茉莉花のアイコンから出た吹き出しには、そんなメッセージが書かれてた。
『島外への外出日』というのは『聖女』の作中に出てくる設定で、3巻のきりえとお姉様のお出かけの際に使われたもの。私達もそれに倣ってなりきっている。
私はいそいそと返信をしたためる。
『もう、小さな子ではありませんのに……。お姉様ってば、心配性なんですから……』
何度か読み返し、きりえのキャラクター的に違和感がないことを確認。
うん、問題なさそう。
慎重に返信ボタンを押すと、ぴょこんときりえのアイコンと吹き出しが出て、お姉様のセリフ下に表示される。
再度自分で送ったメッセージを確認し、胸をなでおろす。
ぶぶぶとスマホが震え、今度は別のアカウントからダイレクトメッセージが来た。
こちらは『あおい』さんというアカウントで、こちらはお姉様の中身のアカウントだ。
『ではきりさん、明日は宜しくお願いします!楽しみですね!』
というメッセージに、よく見る楽しそうな絵文字。
『こちらこそ、よろしくお願いします!お姉様にお会いできるのが楽しみです!』
後ろに音符を並べて送信。
ちょっとはしゃぎ過ぎかなぁ……。
でも嬉しいもの。
明日は初めてのオフ会。
『聖女』原作発売から15周年ということで、アニメの原画などが展示される展覧会が都内で開かれている。
行きませんかと、あおいさんからお誘いがあったのがしばらく前。
普段なら絶対に断るところだが、二人で行くと何やら特典があるらしく、それに惹かれて行くことにした。
……という自分への建前。
本当は、あおいさんに会ってみたかった。
もしかしたら、本当にきりえとお姉様とのように仲良くなれるかもしれない。
そんな願望も、私は心のどこかに持っていた。
ぶぶぶとスマホが震え、今度は茉莉花、お姉様からのお手紙。
『ふふ、ごめんなさい。でも、少しははしゃいでも良いのよ。はしゃぐ貴女も可愛いもの』
そのお手紙を見た時に、すぐにピンとくる。
これは原作4巻の中盤くらいのセリフ。
紙の本も部屋には置いてあるが、電子書籍のアプリを立ち上げて、4巻の表紙をタップして該当箇所を探す。
『もう、お姉様ったら……』
『ふふ、だって本当のことですもの』
と、原作のきりえのセリフと同じメッセージを返信すると、同じく原作の茉莉花お姉様のセリフと同じメッセージが返信される。
こういったやり取りができるのも、お互いの聖女知識が同じレベルくらいだからだろう。
『きりえ、一年生の寮はもう消灯の時間のはずよ?』
『そうでした。お休みなさい、お姉様』
『ええ、お休み、きりえ。明日、楽しみにしていますわ』
いよいよ明日か。緊張する……。
茉莉花お姉様みたいな方だったらいいなぁ……。
「あー、紙野さん……」
絶望だ。
絶望しかない。
「そうなんですねー、紙野さんがきりさんなんですね」
おかしくない?
おかしくない?
ボルダリングやる奴がアニメの展覧会なんか行くなよ!
「……そ、ですね」
「紙野さん、そういえば下の名前きりえさんですもんね」
井上蒼は爽やかに笑う。
やめてくれ、まるで私が道化じゃないか。
「知らない人と会うのめっちゃ緊張してたんですけど、紙野さんで良かったー」
……私は知らない人の方が良かった。
なんでよりにもよってこの子なの?
そりゃあ、歳上で茉莉花お姉様みたいな人が来るなんて本気で思ってなかったけどさ!
「でも紙野さんが聖女好きって意外ですー」
そのセリフ私のだよ……。
まじなのかこれ。
まじなのか。
「コーデめっちゃ可愛いですね!チュールのスカートもタートルのニットもすごい似合ってますー!」
「あー……」
井上蒼は普段の落ち着いた雰囲気は何処へやら。高めのテンションで褒めてくれる。
「私ももう少し可愛いの着てくれば良かったかなぁ」
井上蒼はシャツの裾を持ち上げる。
今日は黒のジョガーパンツにオーバーサイズの白いシャツ。その上にグレーのニットカーディガンをラフに羽織っている。
ショートの髪型と合わせてとってもマニッシュな感じだ。
……まあ、茉莉花お姉様とは正反対だが。
「いや、そんな……」
ここは嘘でも褒めまくって距離を縮めるのが正しいんだろうけど、緊張と絶望でなんにも言葉が出てこなかった。
え、だってあんなに聖女に詳しくて些細な原作ネタにも必ず反応してくれて毎朝おはようを言ってくれて毎晩おやすみを言ってくれる敬愛してやまない私のお姉様がボルダリングやってるわけないよ!
「あー、ごめんなさいテンション高目で。行きましょうか」
「あ……はぃぃ……」
歩き出した井上蒼の後を、私は付いて行くことしか出来なかった。
これたぶん、なんかの間違いだと思う……。
「あ、これ7話ですね……この後の茉莉花さんの表情は忘れられません……」
「そうですね……きりえの想いを知ってしまい嬉しくも騙されていたという複雑な胸中がよく表れていますよね……」
二人で押し黙り、たっぷり五分ほど原画に見入る。原画のシーンと、それに続くシーンに思いを馳せると思わず涙がこぼれそうになる。
私が軽く鼻をすすると、井上蒼は目頭を軽く押さえた。
学院生(聖女ファンの呼称)として同じ想いなのだろう……。
「ああ、こちらは8話ですね。この回の明るい雰囲気も素敵ですよね……」
「ええ、聖女には珍しいコメディティックな回でしたわね……。ですが……」
「ええ、勿論です……!きりえと茉莉花さん以外のカップリングにも初めて注目された回でもありました」
「そういった点でも貴重な回でしたね……」
二人で入った展覧会。
最初のアニメの原画展示のコーナーで、すでに20分は経っている。
時には二人で押し黙り、自由に想いを巡らせる。
時には二人で語り合い、お互いの認識を合わせていく。
「わたくしとしては、この回の
「同感です……、相反する白と黒のお二人でありながら、深い信頼関係で結ばれているのが素敵ですわ」
気のせいか、徐々に口調が作品内で使われる口調に寄ってきています。
歩む速度も、ゆらり揺れるようで、まさしく今のわたくし達に相応しいものです。
「こちらは9話。9話でしたらやはりこのシーンですわね……」
「わたくしも同じことを考えておりましたの……」
わたくし達二人、暫しの戯れ。
歩く速度とは裏腹の、弾む鞠のような心。
ええ、ええ。とても良いものですわ……。
終わってから、私たちは会場近くの喫茶店に入っていた。
会場が駅から離れていたのもあり、広い店内に客はほぼいない。
店内最奥の四人がけの席。向かいあって座り、隣の椅子には会場の物販コーナーで買った聖女グッズの詰まった紙袋を置いている。
「はー、楽しかったぁ……」
頼んだ紅茶が来るまでの間に、うっとりとした表情で彼女が呟く。
完全に同意だった。
入り口の関係者直筆のサインが入ったポスターから、最後の学園の購買部を模した物販コーナーまで全て聖女で占められたいた。
こんな素敵な空間がこの世のものだとは……。
「やっぱり勇気を出して誘ってみてよかったです」
彼女は微笑んで私に目線を合わせると、私はつい俯いてしまった。
「最初は驚きましたけど、やっぱり一緒に行けて楽しかったです!」
彼女は楽しそうに笑う。
そちらも、悔しいが同意だった。
最初こそ絶望感しかなかったが、最初のポスターからもう意気投合してしまった。
思っていた通り、作品に関する知識のレベルも近いし、作品に対するファンとしての熱量も近い。まあお互いなりきりやるような人種だからね……。
作品の解釈の仕方、妄想の方向性もかなり近い。主人公カップリング推しというのも同じ。
「あ……私も、楽しかった、です……」
悔しい……。
ボルダリングやってるくせに……。
そんことを考えていると紅茶が運ばれ、彼女は店員に会釈をする。
私はポーションのミルクを一つと角砂糖を一つ入れた。
実はこれは聖女のきりえと同じ飲み方で、作品に影響され私もミルクと砂糖を入れて飲むようになった。
彼女はストレートで飲み始める。
ストレートで飲むのは、茉莉花お姉様と同じ。
ちらりと彼女に視線を合わせると、同じことを考えていたのか彼女は声を出さず楽しそうに笑った。
ああ、楽しい……。
そして悔しい……。
「……あの、一個やりたいことがあるんですけど」
紅茶を半分ほど飲んだところで、彼女が小声で提案する。
「ハンカチ貰いましたよね」
「はい、そうですね……?」
目的であった特典はお揃いのハンカチだった。これは聖女における重要アイテムで、きりえが憧れのお姉様から興味を持ってもらうきっかけになった小物だ。
彼女が紙袋の中に入れていたハンカチを取り出したので、私も同じようにハンカチを取り出す。
彼女はテーブルに乗り出すように前のめりになると、小さく手招きをした。
……なんだろう?
招かれるまま同じようにテーブルに前のめりになる。
顔が近くなり結構恥ずかしい。
「……貴女、大丈夫?」
その芝居掛かった言葉を聞いて、私はすぐに思い当たる。
聖女原作の一巻の最初、きりえには憧れの上級生がいた。
姉妹になりたいと願いながらも、話しかけることもできず、その上級生が持っているハンカチと同じハンカチを購入し、遠くから思っていることしかできなかったきりえ。
「すみません、大丈夫です」
ある時きりえは寮のエントランス前で転んでしまう。ハンカチを取り出して膝の土を払っていると、心配して声をかけてくれた上級生がいた。
「……西園寺さん!」
それが西園寺茉莉花。
二人が初めて言葉を交わすシーンだ。
「あら、貴女わたくしを知っているの?」
「は、はい……」
近くに客はいないとはいえ、聞かれたらかなり恥ずかしい。
出来るだけ顔を近づけて、彼女は耳元で囁く。
「貴女は一年生?名前は何て言うのかしら?」
「さ、桜です、桜きりえ」
彼女はさらに唇を耳元に寄せる。
唇が開く音ですら聞こえそうなほどの距離。
耳たぶを甘噛みされてしまうのではないかという謎の妄想が脳内を掠めた。
「きりえ、素敵な名前ね」
彼女が『きりえ』と呼んだ瞬間、ベッドに潜って顔を覆いたくなる衝動に駆られる。
違う違う、彼女は私の名前を呼んだわけではなく、あくまで聖女の主人公の名前を呼んだだけ。
わかってる。
わかってるけどめっちゃ恥ずかしい……。
「きりえ、また会いましょうね」
彼女は顔を離し、微笑む。
自覚できるほどに、鼓動が早くなっている。
えへへと、彼女は笑う。
「ありがとうございます、良かったです」
はにかみながらお礼を言う彼女の顔も、少しだけ上気しているように見えた。
* * *
『お早う、きりえ。遅刻しないようにね』
週明け月曜、会社に向かう電車の中でお姉様からお手紙が届いた。
いつもならただただ嬉しいだけのメッセージが、今日はなんだか複雑な心持ちだ。
メッセージ画面に表示されている茉莉花お姉様のアイコンを見つめると、井上蒼の顔が思い浮かぶ。
『お早う御座います、お姉様。今日も良い天気ですね』
字面だけなら、いつもと変わらない調子で返信する。
しかし脳内は一昨日の出来事で持ちきりだった。
憧れの茉莉花お姉様(の中身)がボルダラー井上蒼だった。
最初は落胆しかなかったが、話してみると完全に同族で性格も普通に良い子。
楽しかったけど、なんだか今までの価値観が吹き飛んでしまったようで、悔しい気持ちも結構ある。
その辺が、素直に楽しかったと言えない原因なのかなぁ。
お姉様からの返信が無いまま、会社最寄りまで到着する。駅を出て2分も歩けば、もうオフィスの入っているビルに到着した。
オフィスの自席に着くと、いつものようにパソコンの電源を入れる。
総務の島はオフィスの端っこで、マーケティング部は反対の端っこ。ちらりとそちらを見れば、井上蒼はまだ出社していないようだった。
会社では学院生であることは内緒にしようとお互いに決めたので、会社内ではいつも通り話すことはないだろう。
しかし、なぜか顔を合わせるのが気まずい。
『きりえ、素敵な名前ね』
耳元で囁かれたセリフが脳内で蘇ると、吐息がこぼれる。
顔も見えないほどの耳元で囁かれた生声は、今思い出しても悶えそう。
……あれはなんだろう。
気持ちよかった、のかなぁ……。
ぶぶぶと机上のスマホが震え、私も驚いてピクリと体を揺らしてしまう。
案の定、お姉様からのメッセージ。
『一昨日は貴女と出かけられて良かったわ。また行きましょうね』
ちらりとオフィスの反対側をみると、井上蒼がこちらを見ながら、周囲にバレないように小さくてを振っていた。
結局その日は全然ダメだった。
彼女のことを考えてしまい、仕事が全然手につかない。
考えなくてもできるような作業系の仕事をやろうとしたが、それもまるで進まなかった。
とっくに定時は過ぎており、オフィスには誰もおらず電灯は私の頭上以外は全て消えている。
ため息が出る。
もともと仕事はできない方だけど、今日はとくにひどい。
自分はなんて無能なんだ……。
もう何度嘆いたかわからない自分のポンコツぶりを嘆く。
オフィス反対側の端、マーケティング部の島にも誰もいない。井上蒼も当然いない。
同じ学院生ながら、2年目から社長賞をもらう井上蒼と自分を比べてしまい、もう一度深いため息をついた。
今日予定していた仕事は全然終わらなかったが、せめて切りのいいところまでとキーボードを叩く指を動かす。
ピボットテーブルを作って明細書を日付毎にサマっていると、ぎ、と隣の席の椅子が鳴った。
人の気配を感じて隣を見れば、井上蒼がこちらを見ながら楽しそうに微笑んでいた。
彼女が片手に持っていたスマホに何やら操作すると、机上の私のスマホが震えた。
『また居残り?貴女ってば普段ちゃんと勉強をしているのかしら?』
確認すると、お姉様からのお手紙だった。
それは、原作二巻の中盤あたりのセリフ。
一緒に帰る約束をしていたきりえが、数学の課題を忘れて教師に居残りでやるように宣言されたシーン。
一緒にいたお姉様は、呆れたようにきりえに声をかけた。
『隣で見ていてあげるから早くおやりなさい。今日は一緒に帰る約束でしょう?』
続けて届いた二通目。
普段はきりえに厳しいお姉様が、優しく微笑みかけるという尊み溢れる名場面。
井上蒼の顔を見れば、照れたように微笑んでいる。
彼女に見守られながら、私は指を動かす。
彼女がいないときは彼女のことばかり考えていたのに、彼女が隣にいると不思議と集中できた。
オフィスを出てエレベーターの中で、彼女は言った。
「よく頑張ったわね、きりえ」
そのセリフに、ぴくりと体が反応してしまう。
「なにかご褒美をあげようかしら……何がいい?」
彼女にきりえ、と呼ばれたこともそうだが、それ以上にそのセリフの持つ意味に反応してしまった。
先ほどの居残りのシーンに続くシーンで、茉莉花お姉様がきりえにして欲しいことを聞く。
「……あの、なんでも良いんですか?」
「ええ、でも、あまり高い物は許してね?」
ふふっと、井上蒼は原作通りに笑う。
その後のセリフを言うのは、少し躊躇ってしまう。
「じゃあ、手を繋いで帰りませんか?」
私は原作のきりえ同様、自分の顔が赤くなるのがわかった。
大丈夫大丈夫、これはなりきりの延長みたいなもんだから……。
と、必死に自分に言い聞かせる。
「あら、そんなのでいいの?」
きりえが求めたご褒美に、お姉様は拍子抜けしたように承諾した。
同じように、私が求めたご褒美に、井上蒼は拍子抜けしたように承諾する。
動くエレベーターの中、彼女は私の手を取った。
しかも、原作通りの、恋人繋ぎ。
なんかもう、色々と叫びたくなる衝動を抑える。
一階についたエレベーターを降り、そのまま私たちは駅方面に向かう。
ビルの外は割と人通りもあった。会社の人が近くで呑んでいたりしたら、もしかしたら鉢合わせてしまうかもしれない。
そんな懸念が頭をよぎったが、彼女は手を離そうとせず、むしろ握る手に力を込める。
それが嬉しくて、2分程度の道のりを私はわざとゆっくり歩いた。彼女もそれに合わせてくれる。
会話は、何もなかったが、なんとも言えないふわふわとした、たぶん幸福な心地。
しかしいくらゆっくり歩いても、駅舎の入り口についてしまう。
絡めた指をほどき、彼女は手を離してしまう。
夢から覚めてしまうような心地でいると、彼女は私の正面に回り私の両肩に手をのせる。
そして、ゆっくりと額を合わせる。
「今日はよく頑張ったわね、きりえ」
雑踏の中でも、ここまで近いと彼女のセリフはよく聞こえた。
原作ではしばらく見つめ合うのだが、彼女は照れたように笑って離れてしまう。
「あー、私地下鉄なんで、ここで失礼します!お疲れ様でした!」
いつもより少しだけ早口で言うと、くるりと翻って足早に去ってしまう。
そんな彼女の後ろ姿を見ながら、私は呟く。
「好き……」
うち、あの子のこと、めっちゃ好きやわ……。
* * *
帰りの電車内、私はすごいニヤついていた。
はー好き。
めっちゃ好き。
顔が良くて性格も良くて趣味が合って仕事もできるとか最高。好きにならない方がおかしい。
やっぱボルダリングってすごい。今まで勘違いしててごめんな。
甘えさせてくれる黒髪ロングの年上が好みだと思ってたけど、甘えさせてくれるショートヘアの年下もいいなぁ……。
彼女があわせてくれた額を撫でる。
ここから多幸感が溢れてくるようだ。
はー、好き……。
すっごい好き……。
ニヤつきながら額を撫でていると、目の前のシートに座っていたおじさんが怪訝な顔をした。ごめんなさい。
『お姉様、今日はありがとうございました。一緒に帰ってくださって、とても嬉しかったです』
顔をできるだけ無表情に戻し、お姉様宛てにお手紙を送信した。
恥ずかしすぎて手を繋いだことも、額をあわせたことにも触れられなかった。
ニヤつきながらスマホを見つめていたが、結局電車を降りるまでに返信はなかった。
メッセージが、来ない……。
あの日から数日経ったが、いまだに返信が来ない。
深くため息をつく。
目の前のシートに座っているおじさんが、ちょっと嫌そうな顔をした。ごめんなさい。
朝の電車の中で、スマホを睨みながらいつものメッセージ画面を開いているが、あの日の夜のダイレクトメッセージが最新のまま。
なぜかあの日以来、お姉様からメッセージが来なくなった。
こんなこと、なり垢を始めてお姉様と姉妹関係になってからは初めてのことだった。
いつものように日常の呟きはしているが、私とは一切絡もうとしない。リプライを送ってもスルー。
会社では元から雑談をするような仲では無かったが、仕事の話ですらも全く無くなった。
総務に用事があるときは敢えて私が離席しているときに来るらしい。トイレから戻った時、隣の席に彼女発の稟議書が置かれているのを見た。
つらい。
こちらからダイレクトメッセージを送ろうかとも思ったが、あの日の返事が来ないうちに送るのもどうかと思って送れないでいる。
何か嫌われるようなことをしただろうか……。
好きになったと思ったらその瞬間に嫌われるとか、辛すぎる……。
もう一度ため息をついてから電車を降り、会社に向かう。
数日前、この道を恋人繋ぎで帰ったのが夢のようだ。儚い……。
オフィスに到着し自席に着くと、オフィスの反対側の島では何やら盛り上がっていた。
「昨日楽しかったよー」
「はい、私も楽しかったです!」
「井上さんやっぱ若いよねー」
「そんなことないですよー、私も腕がパンパンで……」
「じゃあまた行こうね」
「そうですね、ぜひ!」
あの辺は確かボルダリング同好会の面々だ。
井上さんが企画したボルダリング専門サイトを立ち上げる際に、有志で実際にやってみようとなって一緒に立ち上がった同好会。
昨日は隔週に一度の活動日だったらしい。
輪の中心にいるのは、やっぱり井上さん。
一番若いのに経験も知識も一番豊富となったら、まあそうなるよね。
楽しそうに周囲と話す井上さんは、こちらをちらりと見ることもしない。
ふと、寂寥感に苛まれる。
数日前、パーティの時に壇上にいた彼女との距離感を思い出した。
あの時は少しも寂しいと思わなかったが、今はこの物理的な距離が苦しかった。
その日も結局、いつものように仕事は手に付かなかった。
結局仕事が片付いたのは定時を2時間も過ぎてから。
点いている電灯は私の頭上だけ……ではない。
オフィスの反対側、マーケティング部も明かりが灯っていた。
残っているのは、井上さん。
遠くから見てもカッコ良かった。好き。
……これは、チャンスかもしれない。
絡みたい欲が、むくむくと湧いてきた。
帰り支度を済ませた私は、オフィス入り口で総務側の電気だけを消した。
その後一度オフィスのドアを開け、そのまま閉める。
この間彼女がやったみたいに、帰ったと思わせてこっそりと横に座って驚かせよう。
足音を立てないようにこっそりと近づいて行くと、彼女がくるんと振り返った。
「あの、紙野さん?さっきからこそこそしてるの気になるんですけど……」
「……すみません」
一言謝って、私を深呼吸した。
覚悟はしている。
嫌われているとしたら、もうとっくに嫌われているはずだから、これ以上のマイナスはない。
それならば、少しでもプラスに転じる可能性のある方に、私は賭けてみたい。
だって、好きなんだ。
彼女の席の横の椅子にかけた。
「お姉様」
緊張で、だいぶ声が上ずっている。
「今日は、私がお姉様を待っていたいです……」
彼女の目を見る。
驚いているようだ。
「だめですか?」
精一杯可愛らしく、聖女のきりえのように尋ねた。
こんなシーンは原作には無い。
だからこれは、私の精一杯の二次創作。
少しだけ涙声になっていたのは、緊張し過ぎておかしくなっていたからだ。
「……」
彼女は俯いてしまう。
……やはり迷惑だっただろうかと、私も俯いてしまう。
なんかいまさら、悲しくなってきた……。
目元を拭おうと腕を持ち上げると、彼女は黙ったまま私の手を取り、そのまま会議室まで引っ張られた。
* * *
二人きりの、明かりもつけない会議室。
ブラインドは降りておらず、周囲のビルの明かりがきらきらとガラス越しに瞬いている。
「素敵な夜ね」
距離にして50センチほど離れているだろうか。優美なセリフとは裏腹に、彼女は悲壮な表情をしていた。
そのセリフには、覚えがあった。
「……井上さん?」
「きりえ、いえ、紙野さん」
それは、私が大好きなシーンだ。
何度も何度も読み返して、何度もアニメを見返したシーン。
人気の無い夜の校舎。礼拝堂にて。
ステンドグラス越しの月明かりがきらきらと瞬く。
茉莉花お姉様がきりえの手を取ったように、井上さんが私の手を取る。
「……はい」
そして、その先のセリフも全て知っている。
わたくしの、
「……わたくしの」
妹に、
「恋人に」
!?
「なってくださいませんか?」
え、え。
まじか。
「……ごめんなさい、驚かせてしまったみたいで」
私をまっすぐに見つめる目は、情熱を灯している。
「でも本気なんです……!」
その顔は、茉莉花お姉様では無い。
井上蒼のものだった。
だから、断る理由など何一つなかった。
「……喜んで、お受けいたします」
桜きりえではなく、紙野桐絵としての答えを返した。
少しだけ涙声になっていたのは、嬉し過ぎて泣いていたからだ。
翌朝、オフィスにて。
パソコンの電源を入れ、スマホをバッグにしまった。
結局あの後、なぜ急にメッセージをくれなくなったのかと井上蒼に訊いたら、
『本気になっちゃいそうで、迷惑かなと思って……』
といっていた。
こっちはとっくに本気なんですけど、と言ったらなんか笑ってた。
まあ二人とも本気だったということで、ひとまずハッピーエンドかな?
パソコンが立ち上がるのを待っていると、バッグの中にしまったばかりのスマホが震えた。
『昨日は楽しかったわ。ありがとう、きりえ』
もちろん、お姉様からのお手紙。
総務部の島から離れたオフィスの反対側の端を見やれば、井上蒼が周りにバレないように小さく手を振っている。
『いえ、こちらこそ、とても嬉しかったです』
そう、返信して、苦笑しながら手を振り返す。
返事はすぐに返ってきた。
『そう?じゃあ今晩も一緒に帰りましょうか』
その返信はとても意味深長。
昨夜のことを思い出し、体が少し熱くなる。
今日の私の髪が、彼女の髪と同じ匂いがするのは、二人だけの秘密なのだ。
なりきり垢でお姉様として絡んでいた人が職場の年下だったんですけど @yu__ss
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます