続・メトロ/発光

韮崎旭

メトロ/発行の続編!

 信号灯が赤から青にその光を変えるとき、ふたご座流星群が降ってくるとき、朝もやの中で空回りした情緒不安定を眺めているとき、どうにもできない抑うつと無気力に屈服するしかないとき、雨どいを冷たいゆびさきのような水が滑り落ちるとき、さめきった紅茶を飲みながら来客の不在について考えるとき、倉庫のコンクリート打ちっぱなしの埃っぽい床の上を歩き回る甲虫について普段より注意力を割いて考えようとするとき、私たちが日常生活における公衆衛生としての個々人のスポーツ習慣のあり方について考えるとき、あたたかな陽だまりで時間を忘れたバビロンの住人に思いをはせるとき、金角湾と砂糖を足して2で割りかき混ぜるとき、あさはかな憂愁が閉ざされた回廊にこだまするとき、西側の棟などで本棚が倒れることはありませんが、小刻みな縦揺れの後ゆっくりとした横揺れを感じるとき、タピオカミルクティーをわけもなくかわいがるとき、水彩画のような窓の外の叙景をするとき、私たちはいつも、私たち自身についての、反復する様式となる。その車輪はまるですり減った舗装道路の上の不安定な走行のように、がたがたと音を立て、時に乗客に並一通りでない不安を与えるだろう。私はミルクティーに歌集の中身を一つ、二つ、と溶かしながら、雨季の街並みのネオンサインのしけた輝きとその見当違いなノスタルジーを反芻する。

 広場恐怖が懐かしい靴音を連れてくる通りには、語学教材の充実した古書店があることをずっと前から知っていた。まるである種のカミキリムシのように、焼け焦げた現実感は記憶を食害する外来種だった。それはコンテナの隅に息をひそめて隠れていたのだ……。教養を身に着けた人間が話す言葉には、人間離れした韻律がある。それはさながら新古典主義の音楽のように響く。野外では、月のようなランタンがいくつもいくつも、木々の間に渡された線からつるされて、滑らかな山吹色の光をぼんやりと持っている。もう冬も深まろうかというころ合い、公園には、せっかくランタンを釣るしても見る人間がほとんどいなかった。寒いので足早に通り過ぎると、まだ30分も経過していないということがはっきりと認識されてしまい、苦虫を噛み潰したような気分になった。久しくも、知らぬのが雪、半月に振りかけてみた粉砂糖、灰。

時間も住む家も暇もあるのに死のうと思うとは滑稽ですよまったく、とそうあの住所不定は私に述べたはずだ。そうだ、いつも端正に身なりを整え、流暢な話し方をした、得体のしれない見知らぬ人間。「そういうことは私のように、あらゆる娯楽を飽食し、あらゆる生涯を謳歌し、あらゆる不幸を賞味して、可能な限りの煉獄と地獄を見聞してからいうものですよ」その住所不定は私に言う。滑らかに整った言葉で、つらなりのない意味を重ねてゆく。住所不定は初対面の私に、「これはこれはお久しぶりですね! 待ち焦がれていましたよ、わたくし、住所不定と申すものですが、お元気そうで何よりだ」そのころ私は中程度の鬱状態だった。図書館の入り口の隙間の敷石を眺めながら、日がな一日途方に暮れていたというのに、住所不定はきらびやかな修辞をごく自然にちりばめながら、とりとめのない近況を語った。私はそれを聞き流しながら、何も頭に入ってこない、つまり、意味内容として識別されないのは、時折感じる中程度よりもさらに深刻な抑うつ状態によるものなのかどうか思い悩んだ。しかしあなたは銀杏の散る街路をのどかに歩くこともできるし、まだ夏の名残を残した夕べに談話や社交を楽しむことだってできる。あなたは私ではないのだから。この夜の訪れを待つ亡霊と、公共の場の無言の戒律。悲しみはいつだって、初めからそうとは判別できない発作の姿をとる。あたたかな光に満ち溢れためまいは、やがては枯れた睡蓮たちが折り重なる陰気な水辺の所有物になる。誰よりも早い日没刻む則、理由もないなら倫理でもない。私にはいまだに、深刻なうつ状態が付きまとっている。そんなことだから、地下鉄に乗るにも多大な労力が要された。


 気がふれたように、蛍光ペンで塗りつぶしている。


足に合わない靴。氷をはぐくむ温室で、踊る君は

公共芸術。

一時の閃火の代償。

ひび割れた、レースの手袋と、黒い日傘、ジェットのネックレス、喪章を合わせた君は。

公益の財。

港の喧騒から遠く離れた旧市街、麻薬の売人と最安値の売春婦がよくいる通りの先、

薄暗い砂漠が、その標本箱である。

時を止めた人形の、朽ちた台詞が血に似て汚した。

第2回退廃芸術点はこれまでにない盛況を以て終了しました。ご来場の皆様には、感謝を。

退廃芸術には、懲罰を。

瞳に合わぬ景色、黒く揺らいだ灯火と手を取って、踊る君は

過ぎ去った信仰の名残か?

コンクリートと鉄の妖精、飾り気のない姉妹たち。

銀行員、タイピスト、桜桃の降る5月、銃殺刑。

議題に合わない会議室、踊る速記は

瀟洒な半月、市民の福祉。

別れを告げる、場所がない。ない場所でこそ言葉は砕けて、

その飛沫がうち止められた熱だった。

氷をはぐくむ温室は、さびれて久しい廃病院。


 蛍光ペンは気がふれた聖書を塗りつぶした。


 それにしても。「渋谷区 天気」で検索する。すぐさま(予報を)見ることができた。信頼性に関して何も考えずに、(今日は最低気温が1℃か。道理で今朝私が6時ごろに目を覚ましてしまったはずだ。昨日からの天気は晴れ。夜間の晴れは放射冷却現象を伴って翌朝の気温をかなりの度合いで低下させるだろう。だが、渋谷は乗り換えで東京メトロの駅を利用するにすぎず、結果的には目的地ではないので、そこまで最低気温を気に掛ける場所でもなかったのも確かだ。今晩の寒さはまるで見る者のいない絵葉書のように空洞だ。耐え難い沈黙から私は、気が付くと

「境港ではしばしば経典が取引されてきた。その始まりはAC1300年にさかのぼる。この近辺はかつて温暖な気候を持つ陸地であり、シダ植物がよく繁茂していた。人の背丈を優に超える、その高さ。それらが地層となり掘り返されたのがBC423年ごろのことで、その頃カルタゴは辞書の編纂と、清教徒系の反政府武力抗争への対処で忙しかった。市民の行動ということもあり当初警察で対応にあたっていたカルタゴ政府だったが、運動が激化し、デモの参加者が暴徒化して近隣の建物(特に徴税局の窓口が分かりやすく狙われた。彼らはあくまでも業務を請け負う一市民に過ぎないのに。しかも徴税は、違法でも非人道的でもなく、国際法などで禁止されてもいなかった。)のガラスを叩き割ったり店舗で強盗を働くなどの動きが見られ始め、とうとうユリウス暦でいうところの(のちのビザンツの歴史の解説書は語る。)4月10日ごろに地下鉄の駅構内で爆破テロが起こり125人が死亡するにあたり、政府は対処への軍の使用を決定した。彼らの主な主張は信仰の自由と、政府からの独立ないしはそれに類する自治権の獲得であったが、彼ら(清教徒系反政府勢力、ただし党派がいくつかあり内部抗争もあった。)の主な居住地が当時の需要な資源であるところの天然ガスの生産地に集中していたため事態が複雑化した。というより、天然ガスの生産地を有することが独立への志向に拍車をかけていた。当時のカルタゴにおいては基本的には信仰の自由は認められており、それというのもカルタゴは度重なる周囲への侵攻・征服によって拡大した版図によって、多民族国家になっていたからであり、そこには統治上のさまざまに面倒な便宜などが関連していた。詳しくは『カルタゴ15年戦争――内紛の内訳と文化』(恒洋出版、2001)を参照されたい。まあそんなわけだから、その辺でとれる地層ってのが未知の経典であることが分かったのだ。主に生物学者がその解読に躍起になった、はじめは。そしてこれはおそらくC4植物の光合成を応用した発電技術に関するいたって実用的な解説文であるとの説を発表した。一方で曹洞宗の経典を専門的に読み解く宗教学者たちは別の見解をもっていた。つまり、…………だがそれはのちの経典エネルギー経済の経過からすれば枝葉末節でしかなかったことが分かることになる。当時、境港に限らず西日本では、不完全燃焼による大気汚染や死亡事故などの問題から石炭の燃料としての使用が問題視されており、しかしLNGの主な輸送ルートは近隣での戦争や洋上の治安の悪さから、使用がほとんど困難であり、したがって天然ガスの安定的な利用は難しい状態だった。そこで(株)松富技研が目を付けたのが、ここ5年ほどで国内での採掘量が急増している境港産の経典だった。いいね、そのウラン硝子、素敵な蛍光グリーンさ、ご婦人方が喜びそうな繊細で優美な植物文様といい、かなり出来がいい品に入るだろう、いくらだ?」

 と鉄道の駅構内の放送に向かって話しかけていた。放送は言う。「80年代のオーストリア産、今じゃめったに見ないような良品だ。だが君は、ときに革命広場駅はひどく混雑しており、私は印欧語系の古典語の習得に、そのせいで必要以上の時間をとられてしまった。司教ではないのでとくに急な入用ではないのだがね。さて、私は『渋谷区 天気』で検索をかけた。するとそこには最低気温1℃とある。なるほど寒いのももっともだ。昨日の夜間の天候は晴れ。これは放射冷却でさぞかし、この乗換駅で有名な地区の気温を下げたことだろう。だが渋谷駅は基本的に、それこそ乗り換えに使うだけなので、特別天候に注意が必要な地域では渋谷区はなかったわけだ。むしろ目的地の高雄(台湾)のほうが問題だった。」)とひとしきり考え込んだ。

 

 電車は人形町にとまり、それは革命広場駅から乗り込んでから、12分くらいのちのことだった。


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