もう、貴女の声も聞こえない

密家圭

冬枯れにひとり取り残された

 曇り、若しくは雨になるだろう。

 朝日の昇る様子がない夜明けの暗さと、少し湿っぽい土の匂いで、わざわざ縁側に出ずとも分かってしまう。

 この数日は気持ちの良い秋晴れが続いていたというのに、随分と冷え込んだ。

 なにも今日という大事な日に限ってこのような寒さをもたらさなくとも良いだろうに。


「寒い……」


 寝起きの自分が一人布団で丸くなっているだけの部屋で呟いた独り言は、白い息となって霞んでいった。




 ―― ついに今日が来た。長年心から愛したヒトを、私は今日やっと娶ることとなった。

 今朝方の寒気が嘘だったかのように、空には晴れ晴れと太陽が輝いている。

 このような日に、愛するヒトを迎え入れることができるのだから、私は大変な幸福者である。


 本来であれば、私のような小さな商人の家に生まれた者が、豪商の娘である静さんを娶るなどということは到底できなかっただろう。商人らしく口達者な父が、旧知の仲である静さんの父と日頃から懇意にしてくれていたおかげだ。


 静さんは、生まれを鼻にかけるような態度もなく、春に咲く野花のように素朴な顔で微笑む。

 彼女の飾り気のない清廉な姿やしぐさにはどうしようもなく美しく、私にとってはいつも眩しかった。

 薄汚れた自分が責められているかのようで、その眩しさには苦しさを覚えることもあったが、ありがたくもあった。

 生まれ育ちがちっぽけな商人という庶民であり、もともと卑屈な性格で友もいない私にとって、庶民であることも、惨めに一人ぼっちであることも気にせず話しかけてくれる彼女の気さくさは救いであったのだ。

 出会ってから何年経ったか思い出せないが、彼女の素直な心は幼い頃の、初めて言葉を交わした時ときっと寸分も変わらない。

 しかし、白無垢に身を包み、白粉を肌に乗せた彼女の横顔は、大人の女性のそれであった。いつもと姿を見て初恋の乙女のようにときめき踊る私の胸の内など、静さんはちっとも知らないだろう。

 一人舞い上がる気恥ずかしさに俯き、ごまかすように手元の猪口からちびちびと酒を呑む。盗み見るように横目でしばしば彼女の様子を伺うっていると、彼女の顔がこちらに向いた。


 ――赤い、紅。


 紅色に彩られている彼女の小さな唇の美しさに、私の目は釘付けになった。

 その美しさをずっと見ていたい。そう思う反面で、私は無性に目を逸らしたくもなった。

 酒を呑む手をすっかり止めて、鮮やかな紅色をぼんやりと眺めていると、彼女の唇が何かを我慢するように、きゅっと引き結ばれた。


「どうしたんだい、」


 平常を装って問うと、紅に縁取られたふっくらとした唇が、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 だが、何故だろう。隣に居るというのに、ずっと遠くから話しかけられているかのように、彼女の声が全く聞こえない。

 しかも、どうしたことか、白霞のようなものが視界の隅から広がってくる。手元にあったはずの猪口も忽然と消え、周囲の賑わう声も無くなってしまった。

 目の前の彼女の姿も、白霞に包まれつつあり、その紅色の唇だけが、白い世界の中で視認できた。何かを伝えたいのか、「あ」だとか「う」だとか、鮮やかな紅色の唇が音を形作ろうと動く。


(な、ん、で、す、て、た、の――)


「違う。違うんだ。静さん――」


 彼女の声は聞こえないのに、自分の死にかけの烏のよつな醜い声は良く聞こえる。薄汚いこの手もはっきりと見える。

 彼女の姿はすっかり白霞の向こうに隠れてしまい、声はついぞ聞けず終いだ。

――そもそも、彼女の声はどんなだっただろう。

 最後に、声を聞いたのは、何時だっただろう――。



――夢を見ていた気がする。

 まだぼんやりとする頭を緩やかに掻きながら、何の夢であったか思い返す。この寒い日に不自然なほどの汗をかいているのだから、きっと悪夢だったのだろう。それにしても、幽霊話なども大して怖くなくなったというのに、このような汗をかくほどとは、一体どれ程恐ろしい夢だったのだろう。


 そうだ。たしか、白霞に覆われていく夢であった。さて、白く霞んでいく視界の中で、鮮やかな赤色を見た気がするが、あれは一体何だっただろう。


 思い当たりに辿り付きそうになった手前で、襖の開く音がした。


「失礼致します。清十郎様、朝食の時間でございます。」


 この大事な日にまで寝坊とは……等とぶつぶつ小言を言いながら、古参の使用人が去って行く。

 せっかく思い出せそうだったというのに、夢の内容はすっかり霧散してしまった。朝食を終えたら夢を見たという事実さえ忘れてしまうのではないだろうか。

 屋敷の者達が慌しく動くのが襖越しでも分かる。今日という此の家にとっての「大事な日」にむけて、空気までもが忙しなく動いているようだ。

 嗚呼、全く憂鬱な日が来てしまった。


 そう、ついに今日が来たのだ。長年愛しあった静さんを捨て、私はとうとう妻を娶ることになった。この夏に倒れた父に代わり、当主としてこの家を守るため、由緒正しい良家の、器量が良いと噂の娘と一緒になることとなった。

 長年愛していた静さんは、風が吹けば飛んでいくのではないかと思えるような、ちっぽけな商人の家の出で、豪商の家の跡取りである私は、もしかしたら親しく口を利くことなどなかったかも知れない。

 彼女と口を利くようになったのは何時だったか、それは幼い頃に遡る。

 当時、人見知りで寡黙であった私のことを、周囲は商人の跡取りとして不適格ではないかと評していた。そんな中、それを知ってか知らずか、静さんだけは他の友人たちと接する時のように、私に話かけてきた。

 彼女と話すようになったのは、それからだ。

 話すと言っても、彼女が一方的に喋っていただけであったし、話の内容は、道の小脇に名も知らぬ黄色い花が咲いていたとか、当時の私には心底どうでも良いものばかりだった。

 しかし、他愛ない話をするそれだけの時間が、私には得難いものだった。

――眩しかった。


 しかし、年を重ねる毎に、彼女が生まれの違い故に引け目を感じていることは明らかになった。

 しかし人見知りで寡黙という自分の性質を、私は生来のものであるから仕方ないと、心の中で誰に対してか分からない言い訳をしながら、彼女を気遣って自分から話かけるということなどはしなかった。

 そうとなれば距離だけが日に日に離れていくのは当然のことで、どうにもならない焦りだけが募った。

 結局彼女とは話すこともなく今日という日を迎えることになったが、私はそれすらも家を守るために仕様のないことであったのだと、誰に対してか分からない言い訳を心の中で重ねている。

 私は、薄汚れている。

 考え方は後ろ向きで皮肉めいている上に、とんでもない卑怯者だ。

 身分さえ同じだったら彼女と幸せになれたのではないかと夢想することがあったが、こんな薄汚れた男では、それは到底叶わぬ夢だろう。


 既に決まったことだというのに、気の進まなさにごろりと寝返りを打つ。

 すると、文机の下に出来た真黒な影が妙に気になった。

 床からむくりと起き上がり、這うようにして机の下を覗いてみると、印池のような大きさの何かが転がっている。腕を伸ばしてみると、思っていたよりも小さく、薄いものが手に収まった。

 掴んだものは、白い貝殻に入った真っ赤な紅であった。


 嗚呼、この紅は静さんに贈ろうと、屋敷の者の目を盗んで手に入れたものだった。

 渡すことで、彼女がますます遠慮をしてしまい、私たち二人の間にある距離が縮まらないことを確定させてしまい得ること、また私が金で彼女の興味を魅きつけようとしているようであることが情けなくて、紅はついに机の影にひそりと隠したままであった。

 野良猫、若しくは野鳥が拾って、愛しい彼女の元へと届けてくれないだろうか。相も変わらず、そんな夢のようなことを考えながら、私は紅の入った貝を、整然と並ぶ冬枯れの垣根の向こうへと投げてしまった。

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