初恋

鹿月天

晩夏の向日葵



 僕が彼女を初めて目にしたのは、ほんの少しだけ日が和らいできた晩夏の朝だった。

 見慣れた公園のベンチに座って本を読む彼女の姿は朧気で、眩い光にゆらゆらと揺らめいていて......正直はっきりとは覚えていない。


 つまり、あの時の僕にとって、彼女はただ"公園で本を読んでいる人"に過ぎなかったんだ。




 でもそんな考えが次第に覆されていった。


 なぜかって?


 それは、その日を境に彼女が毎朝あの公園に現れるようになったから。


 そう、文字通り毎朝。


 雨が降れば片手に傘をさしつつ、水溜まりに靴を濡らしながら本を読む。

 冬であれば人が一人座れる分だけ雪をかきだしたベンチで、傍らにスコップを置いたまま本に目を落とす。

 ここはベンチがすっぽりと埋まってしまう雪国だというのにわざわざ.........面白いだろう?


 だから僕はそんな不思議な彼女に興味を持った。


 最初はそれだけだったんだ。


 でも何でだろう…彼女のことを考えれば考えるほど僕は彼女に惹かれていった。

 それは今まで感じたことのないもどかしさ。


 でもあの頃の僕にはそれが何なのかが分からなかった。




 あれからもう60年。

 僕は久しぶりの日本の空気をめいいっぱい胸に詰め込んで伸びをする。


 僕があれは恋だと気づいたのはいつのことだっただろうか。

 でも恋心を自覚しながら彼女を見つめた記憶があるということは高校を卒業する前には気づいていたはずだ。

 だって僕は高校を卒業すると同時にあの雪国どころか日本をも離れてヨーロッパに渡ったのだから。


 それでも......僕はそれでも彼女が好きだったらしい。

 おかげで70を超えた今でも独身のままだ。



 久しぶりの通学路。

 だいぶ見慣れない家や店も増えたが、のんびりとした雰囲気はあの頃のまま...。


 "あの角を曲がれば彼女がいる"


 そう思って歩いていたあの頃が懐かしい。

 あれは紛れもない僕の初恋だった。

 そしてそれは今も僕の心に宿ったままだ。

 全く......60年も初恋を続けるなんて僕はほんとに諦めが悪い。


 そんなことを考えて少し口元をほころばせながら例の角を曲がった僕は、そのままそこに立ち尽くしてしまった。


 なぜかって?


 彼女がいたからさ。


 初めてあったあの日のような爽やかな光の中で、同じベンチに腰掛けて彼女は本を読んでいる。

 まるであの日のまま...いや、少し違う。

 彼女の腰があの時よりも丸く曲がっている。

 よく見るとページをめくるその指だってあの頃とは違い、幾つもしわが刻まれている。


「夢...?」


 思わず口にしてしまった僕の言葉に彼女は顔を上げた。

 ばっちりと目が合う。

 なるほど...あの頃は横顔しか見たことはなかったし、今はあの頃とは違ってしわが目立ってはいるがやっぱり彼女は美人だ。


 美しい。


 そんなことを考えている僕をよそに、彼女は少し驚いた表情をした後、なんと彼女の方から優しい声で言葉をかけてきた。


「貴方.....。


 ふふっ...そうね。私が大人になったのだもの。貴方も変わっているわよねぇ。

 ねぇ貴方、あの時の...男の子でしょう?毎朝青いリュックを背負ってた...学ラン姿の男の子。」


 そういって彼女がふわりと笑う。

 思ってもみなかった言葉にドキリとした。

 彼女のいう言葉は確かにあの頃僕の姿だった。


「えっ...?なぜそれを...。」


「ふふふ、気持ち悪いと思ったらごめんなさいねぇ。どうしても忘れられなかったの。貴方のその変わらない澄んだ瞳が。貴方は昔、川で溺れかけていた私を助けてくれたから。」


 僕は目を丸くした。


 そういえば僕が中学生の頃近所で溺れかけていた同年代くらいの女の子を助けてあげたことがあった。

 何度もお礼を言うその子の優しげな目元にある泣きぼくろが印象に残っている。


「貴方のことが忘れられなくて私は毎朝貴方に会うためにこのベンチに座るようになったの。大して本が好きなわけでもないし、貴方に声をかけるような勇気もないのにバカよねぇ。」


 そう言って、彼女がふっと困惑したような笑みを浮かべる。

 そんな彼女に僕は思わず口を開いていた。


「それをいうなら僕だってっ.....!...あ、いや...。」


 咄嗟に年甲斐もなく恋心を告白してしまいそうになって、直前で思いとどまる。


 彼女は不思議そうに僕を見た。


「いや、その......確かにそれは僕だと思います。でも、なんで分かったんですか?もうだいぶ歳をとって、容姿だってあの頃のままではないのに...。」


 そう僕が問うと彼女は泣きぼくろのある目元を緩めて口を開いた。


 雲のあいだから差し込んだ日光が、木の葉を通して淡い光を地面にうつしだす。

 遅咲きの向日葵が一輪。

 公園の隅でゆらゆらと夏風に遊ばれていた。



「だって...忘れられなかったんだもの............私の初恋の人を。おかげでバカな私は今でも独身のままよ?」




 彼女はいたずらを見つかった子供ような顔で優しく笑う。

 白髪混じりの髪の毛が、まだ夏の香りを残した風に吹かれてふわりと揺れた。




 人生80年。

 初恋の告白は今からでも遅くはないのだろうか。



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初恋 鹿月天 @np_1406

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