眩しいきらきら
山田(真)
第1話
野間は医者だ。とは言っても、華々しく手術をしたり大きな病院で回診をしたりというわけではない。主に軽度の患者を診る、いわゆる町医者だ。温泉が好きで、休みの日には一人で愛車を飛ばすのが趣味。忙しいが充実した毎日。彼は自分の人生をそう思っていた。
ある日の夕方、近所に住む八〇歳のご婦人を診察しようとして机のカルテに目を下した時、野間は何かがおかしいと思った。カルテが読めないのだ。字が雑だとか薄いとか、そういう問題ではない。一本一本の線は認識できるのに、その線の集まりが文字として読めなかった。
「老眼か?」
一人で呟く。いや、ちょっと疲れただけだろう。明日は休み。一ヵ月ぶりに箱根にでも行こうと思った。
「西部さん、どうぞー」
看護師が名前を呼ぶと、ご婦人が「失礼します」と言いながら診察室に入ってくる。そして野間の顔を見ると「先生宜しくお願いします」とお辞儀する。
「お加減はいかがですか」
「お陰さまで」
「じゃあこのまま継続でお薬出しときますね」
そう言って処方する薬の名前のハンコを選ぼうとして、野間はまた同じ症状に襲われた。読めない――。
確かにハンコの文字は小さいが、今まで見えなかったことはなかった。いくつか手に取ると、無意識に腕を伸ばして遠ざける。
「先生老眼ですか」
「そうかもしれませんね」と今度は近付けてみるが、やはり読めない。
「まだお若いでしょう? おいくつなんですか」
「もう四〇になります」
「あら。まだ私の半分じゃない。頑張って」
「ははは、ありがとうございます」
とりあえず「同じ薬をもう二週間分」と看護師に指示してこの場は乗り切った。
この日の患者はあと二人で終わりだ。両方とも顔馴染みなので、カルテが読めなくても診察には困らない。薬の名前も覚えていたし、口頭で指示すればいい。多少ぎこちなかったが、辛うじてこの日の勤務を終えた。
「先生お疲れじゃないですか」
冷や汗を拭っていると、看護師がそう言って野間を気遣った。野間は「あぁ」と簡単に返事すると、手早く身の回りを片付けて、「後はよろしく」と更衣室へ消えた。
どうしてしまったんだろう。同じ文字を見続けているとゲシュタルト崩壊を起こすことはある。でも、こんなに長い間続くのはおかしい。初めは老眼も疑ったが、ピントが合わない訳ではないのだ。線ははっきりと見えている。なのに読めない。まるで識字障害になってしまったような感じだ。まぁ、明日ゆっくり休めば元に戻るだろう。これは働き過ぎだ、という、身体からのサインなのだ。そうやって野間は自分を納得させた。
ドアノブに触れると優しく鍵が開く。シートに身を沈めてエンジンをかけると、しばらくその音に浸った。真っ白のクーペ。ドイツ車だ。今年の初め、開業して三年のご褒美に買った。七百万円払ったが、その価値はあると思う。家までのいつものドライブは、彼の気持ちを穏やかにした。
翌朝、何気なくテレビをつけて画面の右上に目をやる。
「あれ?」
昨日までは時間が表示されてたと思ったけど、今日は何もない。壁の時計を見ると、長針は真上を指している。ちょうど九時だった。耳だけ傾けてニュースを聞く。
「……デジタル美術館の開設により、これまで未公開だった秘宝など、貴重な美術品の数々がどこからでも鑑賞できるようになります……」
一人暮らしの家に、雑多な物は何もなかった。家具も光沢のある白で揃えた、まさに美術館のような家だ。野間はこの無機質で人工的な空間が気に入っていた。でも時折、山間の温泉につかって、美しい自然を堪能したくなる。今日は鎌倉の方から海沿いを走って行こうと決めた。
海沿いの道のいい所は、信号が少ないことだ。しょっちゅう止まっていては燃費にも響く。窓を開けてみたが、思ったほど海の匂いはしなかった。空はどんより曇っている。
「白い乗用車の方、左の側道に入って止まってください」
何度か言われて、野間は初めて自分のことだと気付いた。慌てて車を止める。車は市街地の幹線道路を走っていた。
「運転手さん、速度超過です」
パトカーから降りてきた警官が開いたままの窓から顔を出した。
「本当ですか」
野間は本心からそう聞き返した。彼はこれまでの人生で法律を破ったことは一度もなかった。ハンカチの落とし物だって交番に届けるような男だ。
「この道の制限速度知ってます? あそこに書いてありますけど」
警官が指さす先には青っぽい看板が見える。しかし、何が書いてあるか全く分からなかった。はっとして手元の速度メーターを覗く。針が真下を向いている。他は、暗くて見えなかった。この車は何キロまで出るんだっけ。確か二四〇だ。しかし、二四〇という数字はどこにも読めなかった。
「見えないんです」と野間は警官に訴えた。「いや、読めないんです。多分文字が読めなくなっちゃったんです」
野間は真剣だったが、警官には伝わらなかった。「視力が心配ならちゃんと眼鏡作ってくださいね」と言いながら書類の束を取り出して、「免許証見せてもらえますか」と言った。
この日、野間は箱根市内でもう一度警察のお世話になった。今度は一時停止義務違反だ。「止マレ」が見えなかったと何度言っても、「注意義務は運転手にあります」と、聞いてもらえなかった。
これは何かの病気かもしれない。野間はそう思って、車をコインパーキングに止めた。これ以上運転すると重大な事故を起こすかもしれない。歩き始めると、一人でぶつぶつと診療室を思い浮かべる。
「急に文字が読めなくなったんです」と患者が訴える。
「急なことなんですね。それまではしっかり読めていたんですか」
「はいそうです」
「これまで似たような症状が出たり、目や頭に持病があったりしませんか」
「いえ、まったくありません。頭をぶつけたわけでもないのに……」
野間の頭の中の医者が、一つの仮説を打ち立てた。
「脳の中の識字にかかわる部位で血管が詰まり、脳梗塞を起こしている可能性があります。直ちに精密検査が必要です」
「それだ!」
一人で叫ぶと、スマホに「MRI、近くの病院」と話しかけて地図を出す。
「病院まで、四、キロメートル、です」
「遠いな」
もしこれが脳梗塞なら、一刻を争う。命に関わる場所が詰まったら終わりだ。野間は車を降りたことを後悔した。やっぱり車で行こう。信号の色は分かるし、文字が読めなくても赤い看板で一時停止すれば大丈夫。落ち着け。とにかく深呼吸しよう。酸素を取り込むんだ。
車を出すには、精算機でお金を払う必要がある。
「くそっ」
白いクーペは見れば分かる。しかし、それが止まっている枠の番号が読めない! 精算機のボタンも分からなくなっていた。もちろん、細かい字でびっしり書いてある説明書きなど読めるはずもない。
お金を払わないとタラップが下がらないから出庫できない。どうしようもない。逆に言えば、お金さえ払えばタラップは下がる。こうなったら――。
野間は適当なボタンを押して、続けて緑のボタンを押した。
「現金を投入してください」と精算機が読み上げる。
「よしっ!」
全部のタラップを下げてやる。いくら入れればいいのか分からなかったが、多過ぎればお釣りが出る。
「これはいくらだ?」
財布から出した紙幣の上に、金額を読むことはできなかった。いや、顔を見れば分かるはずだ。千円札を何枚も入れて、何とか車を出すことに成功した。
ハンドルを握る野間の手は汗でびっしょりだった。途中タクシーとすれ違って、あれを使うべきだったと悔やんだが、ここまで来たらこのまま行くしかない。
こんな時に限って渋滞に巻き込まれる。
「落ち着け。一時的に文字が読めなくなっているだけだ。血栓を溶かせばある程度は戻るはず……」
ハンドルには車のエンブレムが付いているはずだったが、いや、今も確かに丸っぽい物は付いているのだが、このマークはどのメーカーを意味しているのだろう。記憶では間違いなくここにはaudiのマークが付いているはずなのに、野間にはそれが分からなかった。
「進行している――」
外を見ると色んな看板や標識があることは分かったが、どれも意味が分からなかった。一方通行や駐車禁止のような、文字でないものもあるはずなのに、何も分からない。幸運にも渋滞しているから、違反することも人を引くこともない。そう自分に言い聞かせて、ゆっくり前の車についていく。
何分かかっただろう。野間にはもう時計が読めないから分からないが、やっと病院に着いた。予約診療のみのところを無理矢理お願いして、野間は医師と向かい合った。
「文字が読めないんです」
野間が慌ただしく、昨夜から今に至る経緯を説明する。医師は穏やかな表情で応対した。
「この後精密検査をしますが、ご心配なさらないでください。文字が読めない人は数多くいらっしゃいますし、数百年前はほとんどの人が読めなかったのです」
野間は「そういうことじゃない」と反論したくなるのを堪えた。とにかくすぐに検査をしてほしかったからだ。
検査台に横たわりながら、野間は改めて自分の症状について考えた。
識字障害になったのかもしれない。医学生時代に発達障害の一つとして習った。意外と多いんだっけ。もしくは相貌失認のようなものかもしれない。顔の同定や表情の認識が難しくなる脳機能障害の一つだ。しかし、頭を強く打った覚えもないし、親戚に同様の症状のある人もいない。
これまでずっと、がむしゃらに働いてきた。その末路がこれだとしたら、あまりに悲し過ぎる。医者を続けられるだろうか。文字が読めないということは、文字を書けないのだろうか。まだ試していなかった。いくつもの不安が頭をよぎっては消えていく。
「お疲れさまでした」
検査が終わり、また診療室だ。
「どうでしたか」
どんな結果でも聞く覚悟はできていた。
「結果は来週の火曜日に分かります」
「来週?」
野間は思わず大きな声を出してしまった。結果が分かるのが来週? それでは遅すぎる。
「ご心配には及びません。私が見たところでは大きな問題はなさそうです。仰っていた血栓も観察されませんでした」
「え? でも――」
「青信号が何を意味するか分かりますか」
「えーと」
医師の突然の質問に、野間はたじろいだ。色は見分けられる。信号は分かるはず。いや、さっきまでは分かっていたはず――。信号には青と赤と黄がある。そうだ。しかし、なぜ三色も必要なんだ。どれかが「進め」でどれかが「止まれ」で、あと一つは何だ。
「分からないのですね」
「……はい。これはアルツハイマーですか」
野間は、時計が読めなくなるという自身の症状を思い出していた。それは認知症の症状でもあった。
「脳の萎縮なども見られないように思いますよ。今日が何曜日か分かりますか」
「木曜日です。六月六日の」
「その通り。もしかするとストレスなどの心因性かもしれません。記号と、その記号が指し示す実物との関係が分からなくなっているように見えます」
「……」
野間は病院のタクシー乗り場に向かった。車を運転して帰るのは怖かった。タクシーに乗ると、「駅まで」と呟いた。
「箱根湯本駅でいいですか?」
「はい」と言ってから、「いや、やっぱり芦ノ湖の湖畔に」と言い直した。少し休んでからでないと、家まではたどり着けそうになかった。
野間は運転手の挙動をよく観察した。運転手は時折ハンドルの後ろにあるレバーを動かす。するとメーターが緑色に点滅した。今の野間には、何のためにやっているのか分からなかった。
「お客さん、どちらからですか?」
「え、病院からですが……」
何を分かり切ったことを聞いてくる運転手なんだろうと思った。しかし、運転手は「あぁいや、冗談がお上手なんだから」と笑って、「湖のどの辺りで?」と、質問を変えた。
「ミズウミ?」
知らない言葉に、野間は首を傾げる。
「え? 芦ノ湖ですよ。そのどの辺りに行きましょうか」
「えーと、き、綺麗な場所にお願いします」
野間はしりとりをしているような気分だった。何か知っているものがあるのに、そのものの名前が思い出せない感覚だ。自分がそこへ向かっていることは分かっていた。何度となく遊びに来た場所だ。ただ、その場所を指す名前(湖)が、思い出せなかった。
適当に支払いを済ませると、野間はふらふらと湖畔に座った。水の上に浮いている船を眺めて、「あれは何という名前のものだろう」と思った。とても綺麗だった。遠くの山が緑色に見えた。彼のすぐ横にも立っているこの大きなものが、無数に立っているのだろう。それは美しい光景だった。この発見を喜んだ。
上を見ると、真っ青な中を白いもやもやが動いていく。男は目を細めた。こんなに美しいものを見たことがなかった。
最後に男は、目の前に広がる眩しいきらきらを見た。そして満足そうに笑った。この美しい世界が自分の中に入り込んできて、自分もその一部になったような気がした。何度も見てきた光景のはずなのに、全てが新しく感じられた。もう名前を思い出す必要はなかった。
眩しいきらきら 山田(真) @yamadie
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