エピローグ.



 夢を見ていた気がするけれど、内容は思い出せない。

 そんな平凡な目覚めをするほどに、その朝のわたしは平静だった。

 カーテンの閉め切られた部屋の中は薄暗く、朝の来た証は枕元の時計だけ。横になったまま手探りして、目覚ましのアラームを切る。登校時間までには、まだいくらか余裕があった。

 自分の額に手を当てる。昨日と違って、いつもの薄ぼんやりした体温だった。ぐっすり眠れたせいか、熱はすっかり引いてくれたようだ。

 初夏の暑さに辟易へきえきして、浴室での読書にふけってしまったことから患った風邪は久しぶりに三九度を超える発熱をもたらした。昨日の午前中のことは、意識が朦朧としていたようで思い出せない。お祖母さんが世話を焼いてくれて、学校への連絡もしてくれたということすら、よく覚えていなかった。

 そして、これも覚えていないが、新巻あらまきくんには欠席するむねのメールを送っていたらしい。

 そうしたら、この部屋まで来てくれた。

 彼がお祖母さんに案内されて扉を開いた時、わたしは忘我の境にあった。……いや、それは修辞がおお袈裟げさだ。適当ではない。正確には、とても寝ぼけていた。

 薬を飲んでいたせいか、熱に浮かされていたせいか、単に眠かっただけか。ともかく視界がぼんやりとして現実感がなかった。そもそも、新巻くんが自分の部屋にいるという現実に現実感がない。しゃちほこばった彼の顔が、直前に見ていた夢と混ざり合った。

 それから新巻くんは一度部屋を出て、お祖父さんと会っていたという。お祖母さんはわたしを着替えさせながら「なんだか苦労の多そうな子ね」と言って笑った。その通りだと思う。


 新巻くんと出会ったのは高校に入ってから間もなく、文芸部の部室でのことだった。

 それまでお祖父さんの家と学校を往復して、時々本屋や図書館に寄るだけの生活をしていたわたしは、お祖母さんの勧めもあってなにか新しいことを始めようと思っていた。本を読むのに飽きることはなかったけれど、我ながら、日々細胞がしぼんでいくような味気なさを感じていたから。

 部活動の説明会で「自由参加で特に決まったノルマもない」と言っていた文芸部は渡りに船だった。それなら、体を動かすのが苦手でコミュニケーションに失敗しがちなわたしでも、少なくとも足を引っ張って迷惑をかけることはないだろう。

 わたしは両親とすら上手く関われない人間だ。せめて、邪魔にだけはならないように生きないと。

 部長の汐崎しおざき先輩や神田川かんだがわ先輩はわたしを歓迎してくれた。汐崎先輩は受験で忙しくてあまり来られない人だったけど、とにかく次代に部員を残せそうだと喜んでいた。一番熱心に活動していた神田川先輩は積極的に話しかけてきてくれて、話が噛み合わない時は適当なところで受け流してくれた。

 今にして思えば、二人とも大人だった。文芸部という性格上のこともあってか、変わり者との付き合いに慣れていて、変哲なわたしとも折り合って面倒を見てくれた。

 ここでならやっていけるかもしれないと思った。でも同時に、目下なのにお客さんとしてもてなされているような居心地の悪さも感じていた。

 そんな風に思いながら部室に通い始め、数日経った頃に、新巻くんはやってきた。

 その時わたしは、脚立に乗って棚の上の方から本を取ろうとしていた。

 でも、入り口の近くだったのに注意が足りなかった。不意に引き戸が開いて、注意のそれたわたしは脚立を踏み外し、入ってきた人の上に落ちてしまった。

 それが新巻くんだった。尻餅をついて倒れた彼の懐にすっぽり入ってしまったわたしは、あわてて立ち上がろうとしたけど上手くいかない。からみ合った体勢から体を起こそうとしても、手首がくねって相手のももの上を滑る。彼の体の中でさざなみが走ったのが解った。

 彼の膝に手を突いてようやく顔を上げると、今では見慣れた、あの生真面目でいつもなにかを探しているみたいな顔が目の前にあった。

 息のかかるような距離で固まってしまったわたしに、彼は、

「あ、だいじょうぶ……?」

 と、わたしよりも緊張したような声をかけてきた。

 わたしはただ、うなずくことしかできなかった。受け止めてくれたことにお礼を言わなければいけなかったのに。

 他の部員は新入生の勧誘のため出払っていて、留守番のわたしだけが部室に残っていた。

 どうやら部活を見学に来たらしい新巻くんを、わたしは先輩たちに言われた通りに引き留めた。他人になにかを要求するのは苦手で、嫌だと言われたらすぐに放す気でいたのだが、新巻くんは素直に待ってくれた。

 それだけでなく、わたしの取ろうとした本を代わりに取ってくれた。本棚から取り出した『薔薇の名前』の上巻を手渡す時、彼の手は小さく震えていたように思う。

 わたしは、なんだか不思議な心地でその本を受け取ったのを覚えている。

 なにかおかしかった。先輩たちに出会った時とは違う感じがした。


 新巻くんは、わたしの話をよく聞いてくれた。

 今と違って、一年生の頃は向こうから話しかけてくることはあまりなかった。部室で二人きりになることがあっても、ちらちらとこちらをうかがう気配はあるのに、何度も口を開こうとする気配はあるのに、なかなか声にならない。

 それでいて、こちらから視線を向けると敏感に察して、ちょっと困ったような顔をしながら相手になってくれた。

「新巻くん」

「っ? なに……かげさん」

 そんな人だったからかもしれない。わたしは解らないことや思い付いたことを、新巻くんに話した。酒々井しすいさんに聞いた話や、読んだばかりの本から考えついたことなんかを。

 新巻くんはただ聞いてくれるだけでなく、自分の疑問や意見も出して、時にわたしの知らないことを教えてくれた。お愛想ではなくて、自分の興味や知識につなげて話を発展させることのできる人だった。

 わたしのおかしなところを受け入れてくれたり適当にスルーする人は他にもいたけれど、本気で向き合ってくれる人は、お祖父さんとお祖母さん以外では初めてだったかもしれない。

 いや、初めてだとかはどうでもよくて、ただ、わたしは新巻くんと話すのが面白かった。表情豊かで、言葉の一つ一つに大きく感情を動かしてくれる新巻くんを見ているのが面白かった。


 文化祭の時、新巻くんは小説を書いた。ごく短い短編で、わたしとの雑談の中で出てきたアイディアを物語に仕立てた掌編だった。

 いかにも書き慣れない生硬な文章だったけれど、読む人を迷わせず、伝えたい情報を一つずつ置いていくことに腐心した、とにかく親切な作りになっていた。

 地球人類滅亡後に地球を訪れた異星人が、遺された漫画やアニメから現地人の文明について考察するという内容だ。

 その異星人は、本ばかり読んで世間知らずなわたしをモデルにしているように読めた。地球の遺産を見てとんちんかんなことを考え、最後には「この『萌え』とは文明を生み出す脳の作用を指す言葉に違いない」と結論を下す。

 それを読んだ伊井いいさかさんは「あははバカだなー!」と笑っていた。そのくせ、作者の新巻くんに抱きついて感激を表していた。伊井坂さんは人との距離感が近い人だけれど、あんな風に抱きついているのを見たことは他になかった。

「いや、正直文章も構成もそんなに『上手い!』って感じじゃなかったんだけどさ、だからこそ、自分の書きたいものを一生懸命、真剣に他人に見てほしいって気持ちが伝わってきてさ……勇気だと思うんだよね、それ。要は裸踊はだかおどりだもん。

 あたし、ちょっとスランプってーか、自分の創作に悩んでるとこだったから、なんかシンパシーでやる気出てきたんだよね。だから、つい乙女の慎みを忘れてね……」

 と、これは、後になって伊井坂さんに聞いた話だ。恥ずかしいから新巻くんシャケせんせいには言わないでね、と口止めされたので、約束通り新巻くんには話していない。わたしと伊井坂さんだけの秘密だ。

 わたしはその作品を、文化祭の終わった夕方、改めて部室で読んだ。不思議な感覚だった。いつも部室で見ている新巻くんが書いた物語。わたしが織り込まれた物語。

 二人で作った、物語。

 わたしと新巻くん。印字された時点で作者は死んだけれど、わたしは読者として何度もそれを読むだろうと思った。


 新巻くんに恋人としての交際を申し込まれたのは、二年生になってすぐのことだった。

「僕と……お付き合い、しない、ですか?」

 正直に言うと、困った。よく解らなかったのだ。

 それでいて嫌な気はしなかった。全然しなかった。好きか嫌いかで言えば、わたしは好きだ。新巻くんが好きだ。ふと視界に入れば目で追ってしまうし、彼が文芸部を休んだ日はなんとなく気が重くなるし、お風呂から送ってしまった写真のことを思い出した夜はなんだか寝苦しくなった。

 もちろん、お祖父さんやお祖母さんも好きだ。二人には感謝しているし、いっしょにいて落ち着ける人たちだ。でも、一番「面白い」のは、新巻くんといる時だった。

 新巻くんと交際関係を築く。人付き合いが得意とは言えないわたしにとって、それはまたとない人生経験を得るチャンスだ。新巻くんなら恐くないし、他の人には突飛に思われるわたしの話も聞いてくれる。わたしに欠けている体力もあって、部で力仕事が必要な時はいつも求める前に助けてくれた。

 帆影あゆむにとって、すこぶるであることは間違いない。

 ただ、それが恋愛感情なのかと言われると確証が持てなかった。

「それは恋人同士になる、という意味ですか?」

 念のために確認すると、新巻くんは起き上がり小法師こぼしのようにフンフンとうなずいた。わたしは考えた。

 まず第一に思ったのは、セックスは困るということだった。

 わたしにはまだ子供を育てられる能力はないし、レクリエーションとしてのそれに対する欲求についてはたぶん、そんなに強い方ではないと思う(恋愛や性愛を扱った小説などの登場人物と比較した場合は、そうだ)。『カーマ・スートラ』を読んでもほとんど意味が解らなかった。

 しかし、少し考えて、その点についてはあまり心配なさそうだと結論した。

 わたしは女子として無防備すぎると酒々井さんや妹さんに指摘されることがあるが、そんなことはない。不用意に男性の劣情を刺激すれば、暴行をこうむる危険があることくらいは理解しているのだ。だから新巻くんの前でも不必要に肌をさらしたりしなを作ったりすることはなく、きっと彼も、わたしを性的な目では見ていなかっただろう。

 それ以外の意味での恋人というのは、なにをするのだろうか。創作の中ではよくデートをしている。それなら好ましい気がした。新巻くんと二人で出かけるのはちょっと、楽しそうだ。

 あとは喧嘩だ。創作のカップルは九割九分、喧嘩をする。相手を知れば知るほど、相容れないところも見えてくるわけだから、それは自然な流れだ。これは嫌だった。誰とだって争いたくはない。とはいえ、うちのお祖父さんとお祖母さんも頻繁に口喧嘩をしているのにおおむね仲良しなのだから、過度に恐れることもないのかもしれない。

 でも……遊びに行ったり喧嘩したりするだけなら、友達同士と変わらないだろう。それでもいいのだろうか? そもそもなんでわたしなのだろう?

 新巻くんはよく、神田川先輩なんかとの会話の中で友達がいないと言っていたけれど、たとえば伊井坂さんとは仲良く見えた。文化祭の後、伊井坂さんがよく文芸部室を訪れるようになったのは新巻くんがいるからだろうし、わたしが横で聞いていて理解できない趣味の話で盛り上がったりしている。インターネットのゲームをいっしょに遊んだりしているようなことも言っていた。

 だったら、伊井坂さんと交際すればいいのではないだろうか。

 ちょっと想像してみると、上手くいくように思えた。新巻くんはにぎやかすぎる伊井坂さんを持て余して邪険にすることもあるけれど、それも親密さの表れのように見える。伊井坂さんも、消極的なのに最後には構ってくれる新巻くんをからかうのが面白いようだ。

 二人ならきっと、良い恋人同士になれるのではないだろうか。

 そんなことを考えて、断ろうかと一瞬、考えかけた。考えかけて、ためらった。理由は明確でなかったけれど、断りたくない自分がたしかにいた。胸が重くなって、頬に寒気が走った。

 っ……と、からえずきしそうな感覚に口元へ拳を添え、新巻くんを見ると、真っ直ぐにわたしを見ていた。他の誰でもない、わたしを見ていた。

 解らない。

 解らないけど、わたしでいいのだろうか。

 わたしは、想いをそのまま口にした。

 新巻くんは呆気にとられてまばたきした後、「…………OKってこと?」と訊き返してきた。わたしがうなずくと、ゆっくりと笑顔になって、ぐっと拳を握った。

 そうしてそれから、また途方に暮れた顔になった。たぶん新巻くんも、恋人同士になったらその後どうするべきか、考えていなかったのだろう。

 わたしと向き合ったまま、たっぷり数十秒も固まった後、

「……とりあえず、いっしょに帰ろうか」

 と言った。どうにも忸怩じくじたる、といった顔をしていたけれど、わたしが「はい」と深くうなずくと、彼は顔を真っ赤にしてはにかんだ。


 新巻くんには可愛らしい妹さんがいる。今年の新入生主席の美少女という嘘のような出色ぶりで、活発かつ社交的な性格。文芸部で新巻くんや伊井坂さんと話す会話の端々から、友人の多さや先生たちからの信用も垣間見える。

 けれどお兄さんのこととなると見境のなくなるきらいがあるようで、わたしは嫌われてしまっている。お兄さんの恋人だから、ということに加えて、わたしの性格が生理的なレベルで受け付けないことが原因らしく思われる。

 新巻くんは気にしないでいいと言うけれど、わたしは妹さんに近付きたかった。

 妹さんはいわゆるロマンチストなところがあって、人間の意志や愛の尊さを信じている……少し、わたしのお父さんに似ているタイプの人だ。それでいて、わたしから逃げず、根気よく相手をして自分の意見や想いをぶつけてきてくれる。

 特に、お友達のむら瀬果穂せかほさんのしていることを理解するためにライトノベルを学ぼうとする姿に、わたしは尊敬の念を覚えていた。

 妹さんは、両親との関係を惜しみもしなかったわたしとは正反対の心を持っている。新巻くんの生活や趣味に口出しするのも、お兄さんを諦めない、放さないという強い想いの表れだろう。

 わたしにはそういう執着が薄く、だから人が離れていくし人を傷付ける。

 正反対の妹さんを知り、比較し対照することで、わたしはわたしを知りたい。そうすれば、柔らかくて優しい人間になれるかもしれない……

 そう思う一方。それこそ自分のために妹さんを利用する卑劣な行為だと非難する自分もいる。いや、卑劣とは少し違うかもしれない。妹さん言うところの、冷血トカゲの振る舞いだ。

 妹さんばかりでなく、恋人のはずの新巻くんのことも利用しているのかもしれないと思うこともある。彼の好意をいいことに甘えて、人間を、異性を学ぶための道具にしているのではないかと。わたしはきっと、そういうことを人間だと、思うから。


 つい先日、わたしは体育の授業中に転んで脚を痛めた。その時、保健室で休んでいたわたしのところに新巻くんがお弁当を届けにきてくれた。

 その前日、妹さんに人間性の欠如を指摘され、少しばかり悩んでいたわたしは、前から気になっていたことを新巻くんに訊いてみた――どうしてわたしと恋人になったのか。

 新巻くんはいろいろ考えた後、最後にこう答えた。

「だから、僕が帆影と付き合いたいと思った理由は……よく解らない」

 その時わたしは、どうしようもなく不安になった。それはつまり、「もう興味がないから関係を解消しよう」と言われたのかと思ったからだ。

 でも新巻くんは、むしろ改めて恋人関係の継続を願ってきた。わたしは安堵したけれど、そういうあやふやな日々がいつまで保つものなのか、不安が残った。


 新巻くんは大きな人型ロボットが好きらしい。

 伊井坂さんが文芸部室でプラモデルを作っていた日、わたしはその巨大ロボットを否定するようなことを言ってしまった。

 なんであんな風にむきになってしまったのか、自分でもよく解らない。人が好きだと言っているものを真っ向から否定するなんて、態度が好戦的に過ぎる。

 後になって、廊下で出会った妹さんがこんなことをいてきた。

「……あれ、もしかして嫉妬しっとしたんですか? 兄が伊井坂先輩にばっかり構うから。この間も壁ドンしてたし」

 妹さん自身も新巻くんと伊井坂さんの関係には釈然としないようで、ブツブツと続けていたが、それはそれとして。

 嫉妬。

 わたしにそんな感情があるだろうか。

 ある種のムクドリのメスは繁殖期、オスと巣を求めて既に成立しているつがいのメスを殺して、巣とオスを乗っ取ろうとすると聞いたことがある。ムクドリのくちばしは長く鋭く、恋敵の眼窩から脳へと執拗に突き込まれ、頭蓋の中身を赤い泥粥どろがゆに変えるという。

 それと同様に、ロボットの眼(カメラ?)にくちばしを打ち込みたくなったのだろうか。

 自分がそこまで誰かに執着しているということに、現実感はなかった。

 でも、新巻くんに誘われて巨大ロボットの立像を見に行って、そこで新巻くんと同じ時間を過ごして、わたし専用のサイン本を持って帰って。

 利己心なのか、社会的な強迫感なのか、喪失への恐怖なのか、あるいは性欲なのか。それは判らないけれど、わたしは新巻くんと離れたくないのだと、そう思った。


 ――そんな日々の中で、わたしは風邪を引いた。

 必然だったのかもしれない。最近、前にも増して入浴時間が長くなっている。タブレットで本を読むせいもあるけれど、その本の内容も頭に入りづらい日があった。ふとした時に別のことを考えてしまう。

 それで梅雨つゆざむの気候にさらされ、わたしの弱い体はあっさりダウンした。

 そうして伏せっている時に、新巻くんは来てくれた。

 わたしが着替えている間に、わたしの両親のことをお祖父さんに聞いたのだという。お祖父さんは決して無愛想な人ではないけれど、無駄口をする人でもないのでちょっと驚いた。初対面の相手に家族の話をするとは思わなかった。

 この家庭がコンプレックスになっているかと訊かれれば、答えは否だ。不都合のない生活をさせてもらっているし、わたしが怠惰にならない程度に厳しくしてくれる。不満を持つ理由がない。新巻くんにも他の人にも、特に家庭環境を隠してはこなかった。意味もなく言いふらすことでもなかったけれど。

 お祖父さんがなぜ話したのか、真意はよく解らない。

 とにかく新巻くんは、それまでわたしに聞こうとしなかったことを謝ってきた。

 新巻くんに請われて、わたしは最近なにを迷っているのか、なにを不安に思っているのかを話した。つまり、新しく得たものを失いたくないと思ったら、過去になにも得られなかった自分が怖くなってきたという話だ。

 そうしたら、抱き締められた。

 新巻くんは時々、そういうことをする。机の下で急に足を踏まれたこともある。手をつないでみたら急に力を込められたこともある。そのたびにわたしがどれだけ戸惑っているか、新巻くんはきっと知らない。

 戸惑うのは新巻くんに対してばかりでなく、自分の反応に対してもだ。

 その時もそうだった。

 熱で気だるかった体の神経が急に目を覚まし、新巻くんの喉が震わせた空気をほとんど直接に受け取る鼓膜が炭酸の弾けたようにぞわぞわした。混乱しながらも力が抜けて、それでなくても意外なほど強い新巻くんの腕の中に閉じ込められた。

 逃げられないわたしに、新巻くんは、わたしを理解できなくてもいいと言った。理解できない相手だから発見があって、だからいっしょにいたいと言った。

 それはたぶん、わたしも同じだ。新巻くんとわたしは違ったところが多くて、わたしは伊井坂さんのように彼の理解者にはなれないかもしれないけれど、だからいつも新しい場所を見せてもらえる。

 と言って、その時のわたしは頭でそう考えたわけではなかった。ただ、自分でも気付かない内に泣いていた。あの時は泣けなかったのに、泣いていた。

 その涙が新巻くんの言葉に対してなのか、不器用な抱擁に対してなのか。それはよく解らないし、きっとどうでもいいことなのだと思う。

 とにかくわたしは涙を流した。

 以前にわたしは、人が泣くのは、赤ん坊の時に泣けば世話してもらえるシステムを覚えて、大人になっても苦しい時、悲しい時に反復しているからだと話した覚えがある。新巻くんも覚えていたのだろう。

 わたしが泣いているのに気付くと、彼はわたしを抱き寄せて、一段と強く、密に、体を重ねた。最初はそれこそ子供をあやすように優しく、それから少しずつ強く、引き付けてきた。

 特にいかつい印象もない新巻くんだったけれど、わたしとは全然違う、男の人の体をしていた。骨格は工具のようにがっちりしてわたしを押さえ込み、肉付きは鉱物めいてわたしの体に自分の形を押型おしがたする。

 それが解るくらいに、直接に重ねて比較できるくらいに、わたしの体は新巻くんに重ねられた。他人の心臓の鼓動を自分の肌で感じたのは初めてのことだったかもしれない。

 苦しいと訴えても力を緩めてはくれなかった。熱の籠もった息が喉に詰まったのは背中を圧迫されたせいなのか、風邪がぶり返してきたせいなのか、それとも別の理由なのか。判らなかった。でも、そういういきれを吐き出すことに抵抗があった。それは、恥ずかしいことだ。

 それでも息苦しさと全身から噴き出す熱のむずがゆさに体をうごめかすと、自分に向けられている力の強さと別の肉体の意志をこれでもかと感じ取ってしまう。自分の体の内側がこんなにも臆病だったのかと脚が震えて、文字通りに足掻あがいた爪先がシーツに絡まった。

 新巻くんがそういう無理矢理な仕方をする人だとは思っていなかった。でも、不思議と恐くはなかった。「ひどいこと」はされないと思ったし、それならば、抗っても暴れてもどうにもならないという状況は、いっそ気が楽になるような心地すらした。

 絶望や怖気おぞけに似て、でも熱いくらいなものが背筋に沿って流れ落ちて、力が抜けて。

 わたしは涙が止まるまで、新巻くんに身を預けた。

 その間、二人とも言葉を発さなかったけれど、体の中で響く鼓動が窓外の雨音を忘れさせた――



 ……あの時のことを思い出すと、風邪が治ったはずの今も体中が熱を持ってくる。まさにこの布団の上で、わたしは新巻くんと少しばかりの時間を過ごした。

 ………………

 にわかに鬱陶しくなった布団を跳ね上げ、上体を起こす。平常寝起きの悪いわたしだが、まどろみの中で昨日のことを思い出す内、むしろ目が冴えてしまった。

 喉の渇きを覚えて、枕元に目を落とす。お祖母さんが置いていってくれた水差しの中身がまだ残っているはずだ。

 ――と、その拍子に目に留まったのは、A4型の紙束かみたばだった。新巻くんが置いていった短編小説だ。昨日、眠る前に読んでそのまま置きっ放しにしてしまっていた。

 タイトルは『秋葉原ゴールデンフリース』。天変地異によって浸水し、歩く死体だらけの秋葉原に取り残された希少グッズを回収して依頼人に売り飛ばす主人公たちを描いた、冒険小説だ。

 今回読ませてくれたのは、その最初のエピソードのようで、ごく少数生産されたフィギュアをメーカーのショールームから回収するというストーリーだった。最後に語られる依頼者の事情にひねったオチが付いていて、思いのほか考えられた作品だった。

 奇想横溢おういつな世界設定や、死んだ街を探索する変則的な冒険が主眼の娯楽小説なのだと思う。設定が煩雑で空回りしている感はあるかもしれないけれど、読む人を楽しませようという努力が端々に見て取れた。

 でも、わたしがこの作品から感じた面白さは、ほとんど全ての人には無価値でも愛好者にとっては大きな価値を持つ「宝」を見つけ、サルベージするという構造そのものだった。

 自然と、妹さんが文芸部室に持ち込んで、みんなで検討したライトノベルに関する四方よもやまばなしが思い出された。

 おっぱい、後宮ハーレム、異世界、性別、巨人像、作者と読者。

 娯楽作品の一要素として消費されていくテーマの中にも、観点によっては思わぬ深みがあった。それまで特に興味がなかったライトノベルという書架が秘めた含蓄を、わたしは新巻くんや伊井坂さん、妹さんと出会うことで見つけることができた。

 そういうことの驚きが、発見が、喜びが、この原稿からは読み取れた。新巻くんが意識して込めたものかは判らない。でも、新巻くんだから書けた作品だと……いっしょにいたわたしには、思える。

 立ち上がって原稿を机の上に置き、カーテンを開く。真っ白い陽光に目を細めながら窓を開けた。

 久しぶりの快晴だった。二階の窓から見上げる空はどこまでも青い。空一面のあおきんだ。

 早朝の風が火照ほてっていた頬を心地良く冷ます。ずいぶんと寝汗をかいたようだし、学校に行く前に軽くお風呂に入らないといけないだろう。

 でも、その前に。

 わたしは新巻くんの原稿を机の上でトントンとならし、バッグの中にしまいこんだ。



 ――手早く入浴したつもりだったが、学校に着いたのは始業ぎりぎりだった。湯船に浸かりながら新巻くんにメールするのに、文面を考えるだけでだいぶ時間をかけたのが悪かったらしい。

『お疲れ様です。帆影です。今日は登校します。』

 結局、送ったメールの本文はそれだけだった。これ以上を書こうとすると延々長引きそうで、続きを何度も入力しては消して、結果こうなった。

 新巻くんからはすぐ返信があった。安心したことと無理しないでほしいということを、必死に言葉を選んだ感じで書いてあった。

 教室でも酒々井さんや先生に体の具合を案じてもらった。しかし、病み上がりだというのにむしろ、近来ないくらいに好調だ。だから肩を回して元気をアピールしてみたのだが、逆に心配されてしまった。挙動不審に思われたようだ。

 休み時間や昼休み、何度か教室を出たが新巻くんには会わなかった。教室を訪れて昨日のお礼を言うのが筋なのだろうけど、急に訪ねていっていいものか判じかねた。

 第一、どんな顔をして会えばいいのか解らない。

 そのまま時間は過ぎて、放課後がやってくる。幸いにも体調不良に揺り戻しがくることはなく、念のため持ってきた風邪薬も使わないで済んだ。

 だから、ホームルームが終わったらいつものように部室へ向かった。特殊教室棟の片隅、使い古されてすっかりいろせた一室。

 鍵は全部で三本。部長あらまきくん副部長わたしが一本ずつ管理していて、後は顧問の先生が職員室で保管している。部員が二人きりのせいで、関係者全員が鍵を持っているという奇妙なことになっていた。

 例によって新巻くんはまだ来ておらず、鍵を開けていつもの席へ座る。もう何度腰を預けたか知れないパイプ椅子のきしみが不思議なほど落ち着く。

 隣の漫画研究会はスロースタートなので、今はただ静寂が部屋に満ちている。小さな頃から暗い書庫にいる時間が長かったせいか、独りでいるのも静かでいるのも苦にならない。ここにも四方に本があり、読む物には困らなかった。

 でも。

 今日は本を開く気にならなかった。

 なにもせず、一年と少しを過ごした部屋を観察して、ちょっと暑くなってきたから窓を開けて換気して、彼が来るのを待った。退屈を感じる余裕はなかった。


「帆影っ」

 間もなくして現れた新巻くんは、わたしの姿を見て顔を輝かせた後、ゆっくりとうつむいていった。

「……ぁ……昨日は…………お邪魔して…………」

 窓外が夕日に染まるにはまだ早い。けれど、新巻くんの頬はあっと言う間に赤く染まっていった。

 昨日、わたしの部屋であったことを思い出しているのだろう。そう思うと、わたしの胸も跳ねた。

「いえ。来てくれてありがとうございます」

 それなのに、自分でも違和感を覚えるくらい平静な声が出た。この部室と新巻くん、環境と習慣の賜物たまものだろう。

 新巻くんも、それで少しは緊張が解けたようだ。いつもよりはぎこちなく、でもいつもと同じように、わたしの隣の席に座る。

 いつもと同じはずなのに、わたしは自分の左半身がぞくりと震えるのを感じた。今、隣に座っているこの人が、昨日はあんな風に自分を抱き締めたのだと、体が覚えていたのかもしれない。

 ひょっとしたら、二人きりになるなり同じようなことをされるかとも思ったが、特にそういう気配はない。新巻くんは、風邪が治って良かったとか、お祖父さんとお祖母さんによろしくだとか、今川焼きを手土産にするチョイスに呆れられてなかったかだとか、主にうちのことを話しかけてきた。

 そのことに返事をする内に、わたしはすっかり力が抜けた。リラックスできたということでもあるし……少しだけ、拍子抜けしたということでもあった。

 病み上がりを気遣ってくれる言葉に答えている内に、段々と新巻くんの声も小さくなって、ついには黙ってしまう。新巻くんは新巻くんで、なにを話していいか解らないのだろう。昨日はあったから。

 部屋が静かになったせいで、わたしの息を吸う音がくっきりと聴こえた。

 ――吐き出す息に乗せて、頭に溜めてきた言葉を声にしていく。

「新巻くん」

「? うん」

「昨日もらった小説、読みました」

「ぁ…………どうだった?」

「序盤の設定がいっぱい出てくるところが冗長で、ちょっと読みづらかったですが」

「そ、そうだよな……あそこは自分でも――」

「でも、楽しいお話でした。ストーリーの構造はシンプルで、でもトリッキーで、なにが起こるか解らなくて。最後、やっと帰れるとなった時に巡視船へ拿捕だほされるシーンは緊迫感がありました」

「ぅ…………ありがとう……」

「ところで、ゴーレムの話です」

「うん……え? ゴ、ゴーレム?」

 照れくさそうにうつむいていた新巻くんが、面食らったように顔を上げる。

 ゴーレムというのは、ユダヤ教の伝承に出てくる、土塊つちくれで出来た人造人間のことだ。

「ユダヤ教の聖典、バビロニア・タルムードの『サンヘドリン篇』には、カバラの基本教典の一つ『創造の書』を研究した学者が、その成果として子牛を創って食べたとあります。子牛のゴーレムですね。

 ただ食料にしたばかりでなく、神を模倣して生命を創る技術を学んだことへの、確認や祝いの意味があったのでしょう」

 新巻くんは話の流れに付いてこられていないようで、額に手を当てて、まず思い浮かんだであろうことを言ってきた。

「いつも思うけど、よくそんな話を知ってるな」

「新巻くんがロボットが好きだということだったので、ちょっと調べてみました」

 ロボットの語源は、カレル・チャペックの書いた戯曲『R.U.R.』に登場する人造人間を表す造語だ。ここで言うロボットは生体部品を使った、人間のコピーのような存在で、労役を課され時に暴走するという意味でゴーレムに通じる存在と言える。

「それは……なんか、ありがとう」

 新巻くんは、なにか不意を突かれたような顔になって、それからゆっくりと頬を緩めていった。

 その素直な顔に……ちょっと喉が詰まって頬の熱くなるような感覚があったけれど、そのまま話を続けた。

「作品を作るということは、子牛のゴーレムを作ることと似ているかもしれません」

「……と言うと……

 読んだことを実践して、自分で作ってみるってことか?」

 少し考えてから答えてくる新巻くんに、わたしはこくんとうなずいた。

「はい。読者が作者になる。世界を学ぶことによって人間に成った人間が、人間と世界を描く。それが物語。読者と作者、不正確なコピー機を繰り返して使うことで少しずつ変化していく、世界のかたです。

 物語を書くということにはきっと、自分を確かめ、再認識するという意味もあるのだと思います。物の見方、考え方、感じ方、希望と絶望。きっと直喩では語れない、いろいろなこと。それらを整理して、登場人物に託して動かしてみて、検証する」

 書いた当人は、困ったように後頭部をいていた。

「あー……正直、そこまで考えてなかったけど……でも、そうか。仕事でもないのに物語を書くっていうのには、そういう意味があるのか」

「作者は書くことで死んで、自分の創ったものから自分を再生して、また進んでいくのかもしれません」

 そこで言葉を切って、わたしは椅子ごと新巻くんに向き直った。

 わたしの言ったことを咀嚼そしゃくするように口へ手を当てていた新巻くんは、わたしの様子に気付いて緊張した顔になり、同じく椅子ごとこちらを向いてくれた。

 新巻くんの方が背が高いので、向き合うと少し見上げるようになる。斜め上に眺める、何事かと警戒するような彼の顔へ、わたしは言った。

「新巻くん」

「うん……」

「新巻くんと恋人になってから、わたしはなんだか悪いような気がしていました」

「悪い……?」

「はい。妹さんにも言われましたが、わたしはただ、優しくしてくれる新巻くんに甘えて利用しているだけなのではないかと」

「そんなこと――」

「わたしはと両親を拒んで捨てた人間です。だから、新巻くんといるのも、都合良く自分の弱い部分を守ってもらいたいからなんじゃないかと思うと、自分が嫌になることがあります」

 そうして、そんな片利共生へんりきょうせい的な人間なら早晩、誰からも、新巻くんからも見捨てられてしまうだろう。それが怖かった。わたしがお父さんたちを捨てたのかお父さんたちがわたしを捨てたのか、今はもう判らない。

 でも今は、両親と別れたあの時とは違う点もある。

「帆影……」

 目の前の新巻くんは、生真面目に諭してきた。

「帆影のいえのことは、僕にも偉そうなことは言えないけど……でも、帆影は果穂ちゃんを探すのを手伝って、あの子を助けてくれただろう。自分で思ってるほど冷たくないよ」

「それだって、新巻くんや妹さんに良い印象を与えようとしただけかもしれません」

「そんなのは、でも……みんな同じだよ」

 新巻くんは、もどかしそうに宙を手振りでかき回した。

「心の話をしてくれたじゃないか。良いことをするのを得だと思う人は、良い人なんだよ。

 それに、動機で言ったら僕だって――…………」

 ? 言いかけて、なにか耐え難いように下を向いて、それから、何事か観念したように、新巻くんは続けた。

「……僕だって、帆影のことが気になりだしたきっかけは、最初に抱き留めた時にすごく柔らかくて、すごく良い匂いがしたって…………そんな感じなんだから。

 と言うか、きっかけだけじゃないのかも」

「っ……………………」

 咄嗟とっさに。

 返事ができなかった。

 そんなわたしの反応をどう取ってか、新巻くんは情けなさそうに床へ言葉を落とす。

「こっちこそ、不純でごめん…………」

 寸前までわたしを慰めようとしていた人が、ひたすらいたたまれなさそうに頭を下げている。

 ……………………

 少し、笑ってしまったかもしれない。お祖母さんの血だろうか。お祖母さんはよく笑う。

 わたしは、静かに口を開いた。

「動機はともかく」

「ぇ……」

「新巻くんは、新巻くんとわたしの関係をどう思いますか?」

「関係…………それは……うん、悪くない――いや、上手くいってると思うし、続けたいって思ってるよ! ……僕は」

 前のめりに言ってくる新巻くんに、わたしはまた、うなずいた。

「わたしもです。わたしが新巻くんといっしょにいる理由が利己心だったとしても、新巻くんの理由が……ぇと、肉欲だったとしても」

「肉欲って言わないで……」

 新巻くんの抗議はあえて無視して、続ける。

「それでも、わたしたちの作った関係が『良いもの』なら、わたしはそれを理由にわたしを認められる気がします。

 今日は、それを言いたかったんです」

 自分で自分が本当に嫌いなのか、失敗だと思うのか、それを知るには自分の作ったものを見ればいい。ゴーレムロボットの伝説がそれを教えてくれた。

 そして、作ったものの価値には作者の意志など介在しえないという考えを、わたしは支持している。

「それって……」

 新巻くんもピンときたのだろう。

 でも、言われる前にわたしが身を乗り出して、彼の胸に頭を付けた。昨日感じた通り、見た目よりもずっと硬くて厚い胸板だった。

 今朝は念入りにシャンプーしたので、悪い匂いではないはずだ。

 言葉を失った新巻くんに、これからもよろしくお願いしますと、そんな想いを込めて口を開く。口の中の空気は、心なしか暖まっていた。

「はい――」

 暖められた空気は、上の方へ向かっていく。

 だからわたしは、空の方へ殺しの言葉を放ったのだ。


「作者の死ですよ、新巻くん」




The Hokage's L/RightNovel

Book #2

The Killing of the Author

Fin.

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好きって言えない彼女じゃダメですか? 帆影さんはライトノベルを合理的に読みすぎる 補巻 玩具堂 @hisao_gangdo

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