幕間2
黒い部屋 凭れる骸
そこは、黒い、黒い、地平線の先まで黒さが広がっている部屋だった。
冷たい孤独と永遠の時間だけが約束された密室。
そこに、怪物はいた。
怪物はこのような環境に適応した。
その四肢を繋ぐ鎖も、肌を刺す冷たい空気も、気が狂いそうなほどの孤独にすらも慣れてしまって。
それはもう、怪物であった。
竜や鬼、
りんごすら片手では潰せないし、刃物を持ったところで深くまでは突き刺せない。
なぜなら、したことがないから。
げに恐ろしいのはその怪物には底がないのだ。
溶岩の中だろうが、形を保てない海の底だろうが、空のさらにその先だろうが、身を置けばその環境に適応してしまうのだ。
人の皮を被った怪物とそれを見たものは揶揄する。
それが怪物と呼ばれる少女がこの広い孤独を与えられている理由である。
「おい、002番、出てこい。実験の時間だ」
黒い孤独の部屋に一条の光が差してくる。
それは救いの光ではなく、怪物に現実を突きつけ、より濃い影を生み出すものだった。
扉の脇に経つ戦闘服を着た男など、その象徴だった。
「──ぁ…はい」
久しく開いていなかった口は音を絞り出すのに多少の時間を要した。
繋がれていた鎖が独りでに地面に落ち、怪物は歩くことができるようになった。
座り込んでいた姿勢からフラフラと立ち上がる。
最初は覚束無い足取りだったが、二、三歩も歩けばしっかりとした足取りに。
痩せ細った足が、薄汚れた白いワンピースが、そして蒼穹の瞳とくすんではいるが、鋳溶かしたような金のような髪が光に照らされる。
「よし、付いてこい」
「はい」
戦闘服の男は冷たい一瞥を怪物に送ると、そそくさと歩いていこうとした。
怪物は頷いたが、待ったをかける者がいた。
「待て、いくら【
「
「いやいや、反旗翻されたらバッドエンド直行でしょこれ。『跪け』!」
来栖とは呼ばれた男の声は怪物の体を勝手に跪かせた。
体が言うことを効かない。
というか怪物にも、元々反抗の意思はない。
温もりはないとはいえ、これが他者と関わる唯一の機会だからだ。
反抗することはそれを捨てることと同義だと幼いながらも理解していた。
「拘束衣をクロッシング!」
来栖の後ろに控えていた人物が怪物に白い服を着せる。
両手にはそれぞれ大きい輪具が。
首には物々しいチョーカーが。
凡そ、その体の大きさに施すには過剰な拘束だが、それでも来栖は安心しない。
そんなもの、この怪物の前ではちっぽけなものだと知っているから。
「他にもオーダーしとくか。『俺の3歩先を歩け』『決して変な動きをするな』」
力ある言葉で命令し、怪物を歩かせる。
そこには油断も隙もない。
来栖は先程の男に質問を投げかける。
「そういえば」
「…?」
「今回の実験内容はどんなものだ?俺はこいつを連れてこいとしか聞いていない。それオンリーだぜ。アバウトすぎるだろ?」
「俺は006番と接触させると聞いた」
「──何?」
その言葉を聞いた瞬間来栖の雰囲気が変わった。
どこかヘラヘラとした余裕すらを感じさせる態度から一転、天災に晒されたかのように。
「上は、ボスは何考えている?気でも狂ったのか?006って超デンジャーな野郎だろ!?」
「野郎ではないが」
「は?雄だろうが、クレイジーか!?」
「お前は何を言ってるんだ?あいつに性別はないだろう」
訳の分からない話題で平行線を辿ろうとしていた話の行方に終止符を打つ。
「ってジェンダーの話はどうてもいいんだッ!006はいくらなんでもデンジャーだろ!?違うか!?」
「違くはないな。しかし、なんでも006自ら望んだそうだ」
裂帛に淡々と返す男はまっすぐ前だけを向いている。
嘘はついていない。
つく理由がなく、ついているものの態度でもない。
しかし、その事実を来栖は認められない。
「なんだってそいつはこのモンスターを求めてるんだ?モンスターはモンスターを必要とするのか?」
「それを見定めるのが今回の実験だ」
「…そういうもんか。だが、ストップした方がいいと思うが。何をどうされるか分からないしな。『現実改変』ってのは」
「現実改変、か。字面だけじゃ実際よく分からないな。006番は何をするんだ?」
「願ったことを叶える『現実改変』、過去を書き換える『過去改編』、そして結果を書き換える『因果逆転』……っとそんな感じかな。どれかひとつでも起きてみろ、俺たちじゃあどうしようもできないぜ。奴は決定論を味方につけてる。チートだチート」
1:29:300の法則というものがある。
ひとつの失敗には小さな29の失敗があり、さらにそれを引き起こした目に見えない300もの原因があるというもの。
これは何も失敗に限った話ではない。
何か一つの物事が起きるということは必ずしも一義的な関係ではなく、複雑な要因や状況が絡み合って起きている。
つまり、物事は偶然ではなく必然なのだということが出来る。
例えば人が人を殺すのも、相手を恨んでいたという原因や凶器を手に入れたということ、生活に困窮していた、相手が金を持っていた、相手がその人に近づいたなど様々な要因が考えられる。
そのようになったのもその国の経済状況が芳しくなかったり、親が原因だったりとひとつの結果を生み出すには非常に多くの要素が絡んでくる。
決して殺人が快楽殺人犯だけによるものでは無いということだ。
では、物事が起きる原因の原因は果たしてどのように決定されるのか。
それは結果または原因が起きる前、つまり過去だ。
過去があるから現在があり、現在があるから未来がある。
よって過去が変われば現在が変わる、現在が変われば未来が変わる。
つまり、人の一生、もっといえばこの世の全ての事物は生まれた瞬間から既に辿る運命とも言うべきものが決まっていると言える。
それも、過去が存在する限り。
その過去や決まっているはずの未来を書き換えるもの。
それを怪物と言わずしてなんと言うのか。
「なるほど、だから〈ラプラスの悪魔〉か」
〈ラプラスの悪魔〉とは宇宙全ての物体の運動と未来を知る超人間的生命体のことである。
未来を知るというのは、全ての運動法則や結果を知ることとも言える。
そしてその未来や運動法則や人の動機などあらゆる現象は過去の産物である。
だから〈ラプラスの悪魔〉は全ての過去が及ぼした影響なども知る全知全能の存在とする。
例えばサイコロの出る目はそれぞれ6分の1であるとされているが、サイコロの表面に刻印された丸の数で微妙に出やすさが違い、また完全な中心が重心である立方体など存在はしない。
だから重心の偏りや投げる放物線手のひらの形など全てを理解していればサイコロでなんの目が出るかわかるという仕組みだ。
つまり〈ラプラスの悪魔〉というものはこの世の全ての結果を演算できる〈スーパーコンピューター〉か何かだと思えばいい。
しかし、例えば運命論や決定論によって悲惨な死を遂げる人がいたとして、そこにその事象を知る〈ラプラスの悪魔〉とも言うべき存在が居たとする。
〈ラプラスの悪魔〉はその人を助けようとするとする。
そうなった場合決定論に基づき、その人は悲惨な死を遂げるのか。
はたまた〈ラプラスの悪魔〉の力により助かるのか。
〈ラプラスの悪魔〉が助けようとしたその人が運命論や決定論により悲惨な死を遂げた場合、〈ラプラスの悪魔〉はこの世の全ての事象を把握出来ていないことになる。
つまり〈ラプラスの悪魔〉なんて存在では無いことが分かる。
逆にその運命を打破し、悲惨な死を救ったのならば過去によって全ての事象は決まるといった【運命論】や【決定論】そのものが否定されてしまい、やはり〈ラプラスの悪魔〉は存在しないことになってしまう。
つまり、〈ラプラスの悪魔〉と言う〈スーパーコンピューター〉は〈ラプラスの悪魔〉という事象については記録媒体内に記録されていないのである。
だがしかし、過去を変えてしまえばその2つを矛盾することなく解消出来てしまう。
以上の理由によってそんな存在はありえないのであるが、過去を変えてしまうため結果的に未来を全て知っているという存在であるということになる。
そういった皮肉を込めた揶揄である。
お前は全知全能ではなく結果や過去を改竄しているに過ぎない、と。
ただ、負け惜しみにも聞こえるのは玉に瑕か。
「あぁ。しかも決定論に基づいてはいるが、結果から変えちまうからな。オリジナルのような矛盾が生じないときた。というか矛盾をさせても、現実を無理やり変えて解消させるんだけどな」
「どの力を使っても最悪この世界が産まれる前まで遡って行けば解決すると」
「な?手の施しようがないだろ?ホールドアップだホールドアップ」
「能力がそこまで判明しているのか」
「まぁな。アイツは他の生物をキルしようとはしない」
「会ったことがあるのか?」
「まぁな。【
話ながらの護送もついに終わりを迎える。
認証式の扉を何枚も通過すると、怪物だけが通された。
他のものは二枚目辺りで引き返し、管制室に入る。
入ってからまもなく反対側からも一人、怪物が入ってきた。
正確には連れてこられた。
拘束衣に目隠し、そして台に斜め四十五度に固定された人型の怪物だった。
固定台座を運んできたものたちが退出すると、管制室のボタンが押され、怪物の拘束の一切が解かれる。
軛を解かれた怪物は寝台から立ち上がり、大きく伸びをする。
目の前の人型は大きく伸びをしただけだが、少女の形をした怪物にはそれが巨大な竜が立ち上がったかのように見えて少し、恐ろしかった。
藍色の髪がふわっと広がり、甘い匂いが鼻腔を擽る。
そう、そんな怪物が少しだけ恐ろしかった。
それよりも、恐ろしくも自分と同じような空気を感じて安心した。
安心は恐れを上回り、目の前に怪物が現れても警戒も逃亡もしないようになった。
畏敬と安心を二律に抱く存在。
それを王と呼ぶならば、これ程相応しい存在はいないだろう。
それは特殊なカリスマのなせる技か。
「へぇ君が002番?初めまして私は006番」
「えっと……はい」
目の前の
その声音は優しく、流麗で、慈愛に満ちている一方、残酷で、恐ろしくも聞こえる。
006番が002番の前に屈み、蒼穹の瞳を覗き込んむ。
その姿勢は嘘を答えることを許さない。
「君は私に傅くことも無く、何かを願うわけでもなく、王の座を取って変わろうとすることもない。では、君は何を望むのか」
「何を、望む……?」
「あぁ。君の願いを聞かせて欲しい。私はそれに非常に興味がある。ちっぽけでも大それていても構わない。君が心の奥底から願うことを私に聞かせてくれまいか」
「私は、私は……」
急な質問に虚をつかれた怪物はドギマギして上手く答えを返せない。
答えはもう、決まっているのに。
その間に邪魔者は行動を起こして。
「おい006番、それ以上勝手な言動を取れば直ちにお前ら二人を終了するぞ」
そんな脅しにやれやれと嘆息して怪物は言う。
「おいおい、狂花が言っていた話と違うじゃないか。実験に協力したらこの願いを企画してくれるって約束じゃないのか」
「002の願いを聞いてみたいというものか?脱走補助を願ったらどうする。お前らのような危険物外に出すわけないだろう」
「ちぇ」
「あと3秒以内に行動を開始しなければ狂花が突入するぞ」
「…さすがに狂花になにかしたくは無いな。しょうがない、またあの暗闇の世界に戻るか」
そう言って自らの
その手に手を重ねて、瞳を見つめ返す。
「どうして、そんな話を私なんかに。…私の、名前も何も知りもしないのに」
そんな怪物の問いかけに、去り際にラプラスの悪魔はウィンクして言った。
「幸せってなんだと思う?人間にだけ許されるもの?人間には許されないもの?齎されるもの?手に入れるもの?奪うもの?そもそも存在しない物?…答えは、分からない。でもだからこそ、私は、見つけたい。でもきっと私自身の身に何が起こっても必然になってしまう。だから、だから、私はね、誰かを幸せにしたいんだよ」
「幸せ…」
「思うだけでいい。願うだけでいい。いつの日か、いつかどこかでそれを叶えよう」
去り際の言葉は怪物の中で永遠と反芻され続ける。
答えは、初めて会った時から孤独と共に胸にあった。
(私は、私は、幸せになりたいです。普通の幸せが知りたい。あなたと一緒の普通と幸せが欲しい。それが私の願いです──私たちの王様)
───例え、記憶が書き換えられようとも。
────────────────────
ラプラスの悪魔のくだりなんかはとても哲学的で難しいのでもしかしたら自分の論だと穴があるかもしれないです(汗
ですので興味を持たれた方は調べてみると面白いし、納得がいくと思います。
説明下手ですみません
Pretender たまマヨ @tamamayo999
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