少女と吸血鬼

諸葉

第1話

 部屋に響く聞きなれた低音で、少女は微睡みから覚めた。壁際に立てられた柱時計がただ一つ出すことのできる音と二本の針で、まだ眠るには早い時間だと主張している。重たい瞼をこすりながら少女が顔を向けた窓際には、一つを除いてカーテンを閉められた窓が等間隔で並んでいた。ただ一つだけ遮るもののないその場所から射し込む陽の光は丁度真上に差し掛かり、窓一つ分の光量では到底足りない室内を健気に照らしている。

 とはいえ部屋の半分ほどは暗がりに慣れない目で見通すのは少々難しく、少女はベッドから身を起こすと枕元の台に置かれたランプを灯した。昼間だというのに薄暗かった室内を、暖かな光が満たしていく。火の落とされた暖炉。本来の用途ではあまり使うことのない書き物机。何十着もの衣服が収められた、身の丈よりも大きなクローゼット。題名すら読めないものも混じった本がぎっしりと詰められた本棚。セピア色に染まる見慣れた家具の中で、唯一鮮やかに色づいた少女は栗色の巻き毛を手持無沙汰な指にくるくると絡めながら、ベッドの縁に目を遣った。そこには何も置かれておらず、腰掛ければ敷き詰められたカーペットが足裏を包むはずだったが──

 一人で使うにはいささか大きすぎるベッドの上を這うように進んで、少女は寝台の縁から下を覗き込む。

 窓から射し込む陽光からも、部屋を照らすランプの光からも逃れ、ベッドの脚にこびりつくように残った暗闇。光に巻かれてなお吸い込まれそうなほどの黒の中に、赤色が二つ、灯った。

 闇の中で、何かが蠢く。どれだけ見つめ続けても決して慣れることのない暗闇に向かって、少女は薄っすらと微笑んだ。


「おはよう」


 小さく、形の良い唇から紡がれた、高く、澄んだ声。まだ幼さを感じさせるそれはただ暗闇に吸い込まれるばかりで、何の返事も返されることはなかった。

 しかし、それは確かに少女の言葉に反応を示す。

 自身を浸していた闇から引き揚げるように、あるいは黒そのものが形を成したように、忽然とそれは現れた。白に近い、光を吸い込むような銀色の髪。向こう側が透けて見えそうなほど白い肌。ボロ布のような粗末な衣服が細身の身体を辛うじて隠し、およそ色というものが欠落してしまったようなその中において、唯一存在感を感じさせる赤い両の瞳が同じ目線になった少女を映しこんでいる。

 年の頃はベッドの上の少女よりも二つ三つ上だろうか。闇の中から浮かび上がるように立ち上がったそれは、ヒトの、未成熟な女の形をしていた。

 少女は手を伸ばし、同じ肌とは思えないほど色の落ちたそれの頬に、指を添わせるように触れた。指先に伝わってくるのはヒトとそう変わらない肌の感触と、石や鉄に似た硬質な冷たさ。生きているものなら必ず感じさせるはずの温かさを、目の前の彼女は持ち合わせていなかった。

 硬さと柔らかさを感じさせる頬を撫でると、少女はその細く小さな指先で、肌に比べればほんのわずかに色づいている唇に触れた。体温を奪うような冷たさは変わらず、しかし肌とは違う柔らかさと瑞々しさを感じさせる唇。その感触を確かめるように、しかし引き結ばれたそれを崩さないように艶やかな表面を撫でると、それまで人形のように直立していた彼女が反応を示した。

 赤い双眸が震え、揺れ動く。まるで身体の内から湧きあがる衝動を抑え込むように。

 少女は目を細め、笑みを形作る。あどけない顔立ちが、一瞬、蠱惑的な艶を宿した。


「いいよ。食べても」


 唇をわずかに動かして、誘惑の言葉をささやく。

 どくん、と何かが脈打つ音が聞こえた気がした。瞬間、目の前の彼女の身体が、存在が、膨れ上がったような錯覚を覚える。足元にわだかまる闇があふれ出し、部屋中を、このちっぽけな身体を飲み込んでしまいそうな──

 そう感じたのも、瞬きする間のことだった。次の瞬間にはそんな錯覚は全て消え失せ、少女とそう変わらない華奢な身体は、変わらず立ち尽くしている。二つの赤は揺れ動いていたのが嘘のように静止し、静かにこちらを見つめていた。

 ほう、と安堵とも落胆ともとれない吐息を漏らして、少女は手を離す。指先に感じた冷たさはまだ手の内に残っていたが、それに凍えることはなかった。


「そろそろ、ご飯の時間かな」


 ひとり言のようにぽつりとつぶやいて、少女はベッドの上をずず、と足を引きずるように移動する。そうしないと、このまま地面に足を下ろしては彼女を踏みつけてしまうからだ。

 ベッドの傍に備え付けられた、簡素なテーブル。前面に取り付けられた金具を引っ張って、さほど重みの感じられない引き出しを開く。多少は揃えて収められていたメモ書き用の羊皮紙が滑り、一緒に放り込んでいたペンがころころと転がり出てきた。横着なのか、あるいはそうすることのできない理由があるのか、少女はめくり上げることもせずに紙束の下へ手を潜り込ませる。

 紙にくすぐられながら目的の物を探し当て、引き揚げられた手に握られていたのは、小さなナイフだった。果物などを切るのに使う、どこにでもある玩具のような短刀。木製の鞘には飾り一つ付けられておらず、同様に質素な柄を握って、少女は大切そうに刀身を滑らせた。銀色に光る刃の片面が、その顔をちらりと映し込む。手入れがされているというよりは、ただ使ったことがないだけのようだ。

 ただ、一点を除いて。

 少女はナイフを逆手に持つと、切っ先を下に向けた。その先にあるのは自身の手の平──人差し指の、先端。恐る恐るナイフを下ろし、刃先を指の腹に沿わせるように、当てる。

 ぷつ、と刃が肌を切り裂いた。指先に一瞬走った鋭い感覚に、少女は顔をしかめる。痛みを追いかけるように、真っ赤な血が指先に小さな斑点を作るのを見て、切っ先を離す。文字通り、針の先ほどの小さな傷。しかし、それで十分なのだ。

 ナイフを机の上に置き、少女は指先に乗った鮮血をこぼさないように、ゆっくりと差し出す。

 それを向けられて、彼女が初めて、動いた。

 目線を下げて指先へ移すと、ぱったりと膝を折る。ぎしぎしと軋む音が聞こえそうなほどぎこちない動きで腕を上げて、恐る恐る──少なくとも、少女にはそう感じられた──その小さな手を両の手で包み込んだ。温もりの欠片もない掌の抱擁に、しかし少女はそれを不快に思うことはない。

 そして最後に、ずっと引き結ばれていた口が、開かれた。

 ヒトと同じ口腔に、しかし全く異質なものが覗く。白く、鋭く、自身の口腔すら傷つけてしまいそうなほど巨大なそれは、尋常なヒトが持つものではなかった。

 牙だ。まるで獣のような、あるいはそれ以上に鋭利な二つの牙。獲物を喰らい、あるいは殺すためのもの──

 どくん、と再び鼓動の音が聞こえる。しかし今度は、間違いなく自分のものだ。その牙に、その唇に、焦がれるように少女の視線は釘づけになる。

 開かれた口が、掴まれた手が、何かを煽るように、焦らすように、ゆっくりと近づく。彼女が近づいているのか、自分がそれを差し出しているのか、判然としない。縮まる距離と比例して、鼓動は早鐘を打っていく。掴まれた手は冷たさを感じているはずなのに、少女の頬は確かな熱を帯びていた。薄く開いた唇から、浅い呼吸が繰り返される。

 先ほど手にしたナイフよりもよほど鋭く冷たい、剣のような二つの牙。きっと少しでも触れたら、少女の小さな手など切り落とされてしまうだろう。痛みが好きなわけではない。耐えるのが得意なわけでもない。小さな刃先で指先を突いただけで、顔をしかめてしまうくらいだ。それなのに──


 それなのに、それはとても、甘美なことのように思えた。


 あの牙に触れたい。この指先を、身体を、貫かれてしまいたい。はっきりとそう言葉にして想うことはなかったが、異形の口腔へ自身の指先が呑まれてもまた、抵抗することはなかった。きっとその牙が突き立てられても、同じだっただろう。

 蝶番が錆びついた扉を苦労して閉じるように、彼女はぎこちない動きで口を閉じ──その唇が、少女に触れた。


「ん──っ」


 びく、と身をすくませて唇を引き結び、それでも耐え切れず少女は微かに吐息を漏らす。指先からぴりぴりと痺れるような感覚が走り、頭の奥を突き抜ける。

 痛みはなかった。牙も、歯の先端すらも、触れてはいない。代わりにその指先を包み込んでいるのは、冷たく、濡れた感触だ。ざらついた舌が指の腹をこすり、柔らかな唇と濡れた肉の感触が、咥えられた全てを優しく包み込む。


「んっ、ふ、うぅっ……。く、ぅ……っ」


 自由な片手で口をふさぎ、その指の間から漏れ出る淫らな吐息を少女は必死に抑え込もうとした。声を上げるのははしたないこと──幼い少女の知識にそんなものはなかったが、何故だか、こんな声を彼女に聞かれるのが、恥ずかしかった。

 気持ちいい。そう感じていると知られるのが、たまらなく恥ずかしかった。

 そんな健気な努力の成果か、あるいは最初から意に介してなどいないのか、彼女は咥えた手を見つめるように目を伏せたまま、少女の未熟な性感を苛んでいる。氷のような口腔が蠢く度、舌先で舐られる度、少女は艶やかな吐息を漏らしながら身をよじり、繰り返し襲ってくる甘い感覚を必死に堪えた。

 ふと、彼女が視線を上げた。跪き、下がった目線のおかげで上目遣いとなった二つの赤が見つめてくる。何も変わらず、何も宿さない、ただ見ているものを映すだけの鏡のような無感動な瞳。それに映り込んだ少女が感じているような興奮も、一片たりとも映していない。

 その突き刺さるような無機質で冷たい視線が、少女が必死に抑え込んでいたくびきを破壊した。


「んん──っ!」


 背筋を突き抜けるような快感に、少女は身体を反らせる。もはや抵抗のしようがないほど強く、何度も何度も襲い来るそれに少女は脚をこすり合わせ、抑えた手の下でだらしなく開いていた唇から、唾液がぽたぽたとこぼれ落ちる。


「あっ、ぁ……。い……っ、あぁっ……!」


 くぐもった嬌声を上げて、その声とは不釣り合いに小さな身体が痙攣するように震えた。繰り返し寄せてくる何度目かの快感の波に押し流されるように、少女は座り込んでいたベッドの上に仰向けに倒れ込んだ。

 掴まれていたはずの手は、いつの間にか解放されていて。


 咥えられていたはずの指先には、血も、自身がつけた傷痕も、塗れたはずの唾液すらも、残ってはいなかった。







 吸血鬼。

 吟遊詩人の詠う伝説やおとぎ話に語られる、不死の怪物。人を襲って生き血を啜り、最後には決まって勇者に倒されるそれらと彼女が同じ存在なのかどうか、勇者でもなければ詩人でもない少女に確かめる術はなかった。ただ、こうして日に何度か与えるたった数滴の血だけを糧として存在し、短いとはいえ十年余りの少女の人生の中で成長も老いもせず、姿かたちの全く変わらない彼女のような存在を、他に知らなかっただけだ。

 人の生き血を啜る──その一点においては、彼女は間違いなく吸血鬼だった。量はそれほど必要ではないらしく、今のところは血を吸い尽くされて干からびるような目に遭ったこともない。それどころか、あの牙を突き立てられたことすらなかった。少女が自発的に血を与えない限り、彼女はただじっと暗闇の中にわだかまっているだけだ。それがただ餌としての自分を生き永らえさせるためなのか、あるいはもっと他に理由があるのかはわからなかった。

 そう、餌だ。彼女にとって、自分はきっと餌に過ぎないのだろう。しかしこうして日に何度か、手ずからそれを与える様はまるで──


 ぎし、とベッドのスプリングが軋んだ。仰向けになったままの少女の上に、ふっと影が差す。

 彼女がベッドに上がり、覆いかぶさるように見下ろしていた。髪も肌も正反対の色をしているのに、何故だか闇を連想させる彼女は、変わらぬ二つの赤で少女を見つめる。

 いまだ乱れる息を整えて、少女は優しくささやいた。


「足りなかったの……?」


 彼女は何も答えない。返答も、うなづくことすらしなかった。しかし少女は目を細め、年齢に見合わない大人びた微笑を湛えながら、唇を小さく動かす。


「いいよ。おいで……」


 身体のすぐ傍に彼女が手をつき、ベッドがわずかに沈み込んだ。その腕がゆっくりと折り曲げられ、無機質な表情が、赤い双眸が、冷たい唇が、少女の眼前へ迫る。顔の横から垂れ下がった銀髪が、少女の栗色の髪と交わった。重力に押さえつけられながらもわずかに存在を主張して、少女が浅い呼吸を繰り返す度に上下し、ふるふると震える発展途上の双丘に、ボロ布同然の粗末な衣服で隔てられた彼女のそれが押し付けられる。投げ出していた両手を気だるげに持ち上げ、少女はゆるゆるとその華奢な腰に回すと、少しだけ残っていた隙間を失くすように抱き寄せた。こすり合わせ、閉じていた脚を彼女の膝が割り、互いの脚を挟むような恰好になる。

 圧し掛かってしまわないようにだろうか、身体を支える両手を除けば、触れ合っていないのはあと一つだけ。

 押しつけられた胸も、その手に抱いた腰も、触れ合う脚も、相変わらず生きているとは思えないほど冷たかった。あるいは本当に、生きていないのかもしれない。だが彼女が本物の死人と違うのは、こうして抱き寄せ、触れ合っていると、まるで体温を思い出したように温もりを返してくることだ。もしかしたら、それは冷たい石床に触れ続けて自分の体温で暖めることと変わりないことなのかもしれない。

 だが、少しずつ、確実に感じられる彼女の温もりを、その心地良さを確かに感じて、少女は身を委ねるようにゆっくりと目をつむった。

 視界が暗闇に閉ざされ、耳に届くのは自らの鼓動と浅い呼吸。重ねられた胸からすら、彼女の鼓動は感じられない。確かにそこに居るのに、こうして触れ合っているのに、目を閉じてしまえばそれだけで失われそうになる儚い存在感。胸の奥が軋むような寂寥は、しかしほんのわずかな間だった。

 少女の唇に、冷たい何かが触れる。それは自らの指先で散々味わった、彼女の感触だった。


 吸血鬼が喰らうのは、ヒトの精気──命そのものだと云う。生き血を啜るのは、それに流れる命を喰らっているのだ、と。

 それが真実かどうかなど、吸血鬼本人に聞きでもしない限り確かめようのないことだ。しかし少女はその真偽を、身を以て感じていた。


 冷たく濡れた彼女の舌が、唇を割って口腔へと侵入してくる。蕩けそうなほど火照った舌を舐られて、少女はびくりと身をすくませた。重ねられた唇がこすれ、吐息を交換するように開かれる。

 程なくして、それはやってきた。

 少女の身体から少しずつ、力が失われていく。吸血鬼はヒトの命を喰らう──それが本当なら、これは自らの命が喰われている感覚だ。しかしそれに不快さはなく、どころか飴玉を舌の上で転がして、舐めしゃぶって溶かすようなじれったさすら感じさせた。年若い少女には経験がなかったが、その感覚は酩酊に近く、心地良さすら感じさせるものだった。霧がかかったような頭の中で次第に鈍っていく思考と、それに代わって理性を埋め尽くすような欲求に従って、少女は粘度の高い唾液を塗すように舌をこすりつけ、ねだるように唇を吸った。


「んぅ……。ふ、ぅん……っ」


 自らがかき鳴らす淫らな水音を意識の片隅で聞き、甘ったるい声を上げながら、少女は想う。

 手ずから餌を与え、そしてそれを大人しく待っているのは正しく家畜と主人の関係だ。それは血を与えられるまでただじっと待っている彼女にも──こうして貪られ、その快楽に身を任せる自分にも当てはまるのだ、と。

 彼女のことを、飼っている、などと思ったことはなかった。だが、相手も同じように思っているかはわからない。何も言わず、自発的に動くことがほとんどない彼女の思惑を知る術などないのだ。飼われているのは、自分の方なのかもしれない。ただの餌だと、思われているのかも、と。

 しかし──


「んふぅっ……。はぁっ、ぁ……」


 満腹になったのか、唐突に放された唇から艶やかな吐息が漏れる。変わらず見下ろしてくる二つの赤を、感情のひとかけらすら感じられない表情を、涙に濡れた瞳を物欲しげに潤ませた少女が見上げる。ただ荒い呼吸を繰り返す幼いその唇は、しかしまたすぐに塞がれた。

 火傷しそうなほど火照った口腔を、再び彼女が犯す。今度は、いつまで経ってもあの感覚が襲ってくることはなかった。ぼんやりとした頭がそれ以上霧に覆われることもない。ただ一つ──快感を求めるだけだった先ほどまでとは異なる情動が、少女を衝き動かす。

 胸の奥を締め付けるようなその感情に従って、少女は自らを犯す彼女に応じた。


 彼女が贈ったそれはただ、少女を安らがせるに足るだけの、口づけだった。


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少女と吸血鬼 諸葉 @moroha818

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