JKとOL
諸葉
第1話
薄い壁を隔てた浴室から、シャワーの水音が聞こえてくる。窓の外でざあざあと音を立て、時折強風に煽られてガラスにぶつかる雨とは違う、人工の水音だ。
ふと、この部屋に住むようになってから、自分以外の誰かが浴びているシャワーの音を聞くのは初めてだなと思った。一人暮らしなんだから、当たり前だ──そんな寂しい結論を下して、訪ねてくるような友達一人作ることができない自分に、部屋の主は口許を歪める。
それにしても、妙な拾い物をしてしまった。今は浴室にいるとはいえ、この部屋に自分以外の誰かが入ったことに少なからず異物感を覚えてしまい、呆れたようにため息を吐く。
仕事帰りの電車から降りて、予報によれば明け方まで降るらしい雨の音を聞きながら、さっさと帰ろうとこのご時世には珍しい無人駅のホームを出たところに、それは居た。いつ交換されたのか、たまに危なっかしく明滅する駅の古びた蛍光灯が発する光から、ほんの少し外。道路に面した街路樹の傍に、誰かが立ち尽くしている。
元々終点の都市部より二つ手前という中途半端な場所で利用者も少なく、終電近い時間になれば滅多に人が通ることもない寂れた駅だ。幽霊、よりも不審者を思い浮かべてしまったのは、実家を出る時に女の一人暮らしは危ないから、と両親に散々脅かされたからだろうか。思わず鞄に入れっぱなしにしていた防犯グッズを取り出しかけて、気づいた。
そこに立っていたのは幽霊でも、帰宅途中の女性を狙うような暴漢でもない、ただの少女だ。傘もささず、雨宿りにも用を為さない冬の木の下で、まるでそれが義務であるかのように、彼女はただじっと雨に打たれていた。どこかの学校の制服を着て、元はもう少し明るい色なのだろう、夜の帳に半ば溶け込んでいる髪はべったりと顔に張り付きながら垂れ下がっている。
きっと、家出少女かなにかだろう。あるいは彼氏と喧嘩でもして自棄になったか。どちらにしろ、関わるべきではないと思った。どう考えても厄介事だ。
だが近くには交番もなく、この時間に巡回している警官も見たことがない。この辺りで今までなにか事件があったとは聞いたことがなかったが、こうしてただぼんやりと佇む少女はいかにも頼りなげだ。例えばさっき自分が鞄を探ろうとしたようなことが実際に起きれば、新聞の片隅にすら載ることもなく、消えてしまいそうなほど。
特に正義感が強いわけでもなかった。少なくとも、自分ではそう思っていた。捨て猫を見ても拾ったことはないし、バスや電車でも席を譲るのが煩わしくて、よほど空いていない限りつり革に掴まるような性格だ。
だから、未成年を犯罪から護ろう──なんて、大層な使命感もなく。
「どうしたの?」
声をかけたのは、きっとただの気まぐれだった。
「風邪ひくわよ。傘、持ってないの?」
手持ちのハンカチを差し出しながら自分の傘をかけてやり、そう言ってしまってから、間抜けな質問だったと後悔した。少女の両手はただだらりと垂れているだけで、制服にはお約束の学生鞄やスポーツバッグの類は持っていない。そもそも目の前に──寂れているとはいえ──屋根のある駅があるのに、こんな場所に立っている時点で雨を避ける気がないのは明らかだった。
案の定、ぼんやりとこちらを見上げた少女は、首を横に振った。張り付いた髪の間から覗いた瞳は、突然話しかけられたことに驚いている様子もない。
そこでやっと気づいたように、差し出されたハンカチに視線を落とすと、少しだけ迷うような間の後、受け取った。手渡した拍子に触れた指先は、冷え切っていた。
「そう。えっと……家は、近くなの?」
年下の相手なんて、社会人になってからはせいぜいが新入社員くらいのものだった。どう話しかければいいのかわからず、結局普段通りの口調でした質問にも、少女はただ首を横に振る。
「ええっと……あ、もしかして、親を待っているとか?」
一縷の望みを託した問いに、三度目の否定を返される。誰かを、あるいはなにかを待つのにこんな場所に突っ立っている必要はない。
思いつく選択肢は、あと二つ。最寄りの交番まで送るか、もしくは──
「……よかったら、ウチ、来る? シャワーくらいなら、貸せるけど」
最初に声をかけた時点で、こうなるのはわかっていた。最寄りの交番なんて、知る限りではここから徒歩で向かうのは遠慮したい距離にしかない。それでも他の選択肢を試したのは、ほんの少しでも、声をかけたことを後悔していたのだろうか。
逡巡するような間のあと、少女は初めてうなづきを見せた。
家に着くまでの十数分、二人はどちらからも口を開かなかった。同性とはいえ見ず知らずの他人に唯々諾々とついてくる少女に、これ以上なにを話せば良いのかわからなかったのだ。今更無意味だと知りつつも一人用の傘の下に入れて、狭い思いをしながら自宅に着く頃には左肩がすっかり雨に濡れていた。
家賃の安さに釣られて選んだ、ワンルームの独身者向けアパート。どうやら最寄りの公共交通機関が例の無人駅という微妙な交通の便の悪さがその理由だったらしく、部屋自体は小奇麗でバストイレ別、防音性もそこそこと独り身にとってはありがたい物件だった。
その部屋に、まさか見ず知らずの少女を連れ込むことになるとは、夢にも思っていなかったが。
浴室の、当然のように一人用である湯舟に熱めの湯を張る。会った時点で濡れねずみだった彼女は歩くだけで床を水浸しにしてしまうから、板張りの廊下はともかく部屋にそのまま上げるわけにはいかなかった。本人もそれを理解しているようで、狭い玄関から動こうとしない少女に廊下は後で拭けばいいからと上がらせて、浴室へと通す。
「シャンプーはこれ。ボディソープはこっち。あと、シャツとか下着とか、脱いだらそこのカゴに入れておいて。あとで洗濯するから。ブレザーとスカートは──」
とりあえず、乾かしておくしかないだろう。どの道もう一度着る前に、クリーニングに出すべきだ。そう伝えると、少女はやはりこくんとうなづいただけだった。自分の家に帰ってきた安心感からか、ついあれこれと口出ししてしまっても、そのことごとくにただうなづくだけだ。あるいはその態度自体が、感謝の表れなのかもしれなかったが。
水分をたっぷりと吸い込んだブレザーを受け取ると、彼女はスカートのホックを外した。これもずいぶんと重みを増しているようで、浴室の床にべたりと重たげな音を立ててへばりついたスカートを拾おうと、半裸に近い恰好で少女はしゃがむ。
腿の半ばまで隠していたシャツの裾がめくれて、すらりと伸びた、細く、形の良い脚が露わになる。一体どれほどの時間雨に打たれていたのか、シャツの裾から見える下着すらぐっしょりと濡れて肌に張りつき、守るべき素肌を半ば透けさせていた。
他人の家で、あまりに無防備な彼女を守るのは、濡れたシャツと下着だけ──そんな考えが脳裏をよぎる。
「……?」
スカートを拾い上げ、見上げてきた少女の瞳と視線が絡んで、すんでのところで我に返った。
「それじゃごゆっくり。ちゃんと温まってね」
早口でそう告げて、ブレザーとスカートを抱えて逃げるように浴室を出る。どもらなかった自分を褒めてやりたいくらい、心臓がどくどくと脈打っているのが聞こえた。
女の子相手に、それもあんな若い娘に、一体なにを考えているのか。長い一人暮らしで──両親の抱擁くらいしか知らないとはいえ──人肌を恋しく思っていた自覚はあったが、まさか行きずりの、しかも恐らくはひと回り近く年下の同性相手に欲情しかけるなんて。
いや、きっとあれはなにかの間違いだ。今まで自分以外に誰も入ったことのない家に見ず知らずの他人を、しかも自分から招くという今までになかった状況に少しばかり混乱していただけだ。そう、確か吊り橋効果とかいうやつ。そうに違いない──自分で自分に言い訳をして、無理矢理納得しながら暖房のスイッチを入れた。
流れてくる温風に当たるよう、ハンガーに掛けたブレザーとスカートをカーテンレールに引っ掛ける。一晩で乾くかどうかは怪しかったが、なにもしないよりは良いはずだ。
あとは玄関から浴室までの濡れた廊下を拭いて──そう、洗濯も今夜のうちに済ませておこう。一晩泊めて明日帰らせるにしても、濡れて汚れたままの衣類を持たせるわけにはいかない。靴はひとまず水分を拭きとって、確か新聞紙を詰めてドライヤーを当てるんだったか。あとで調べてみよう──あれこれと頭を働かせていると、ようやく気分が落ち着いてきた。
あの娘には失礼かもしれないが、猫でも拾ったと考えよう。お風呂に入れて、餌をやって──そんな世話をしているだけだ、と。
猫なんて、飼ったこともないけれど。
シャワーの水音が止んで半時ほど、暖房でようやく温まってきたワンルームのドアの向こうで、がちゃりと音がした。濡らした衣類は既に洗濯機の中に放り込んで回してあるし──カゴの中身を見ないようにするのに、少しだけ苦労した──ドライヤーも出してある。温まって人心地ついたらさっさと寝かせて、明日になったら親と連絡を取らせるなりして帰らせよう。事情を聞く気も、ましてや説教する気もなかった。ただ一晩、雨宿りの場所を提供するだけ。大人として、最善ではないかもしれないけれど、最低限の選択ではあるはずだ。
やがて、部屋と廊下を繋ぐ唯一のドアが開いた。おずおずと入ってきた少女にとりあえず髪を乾かすよう勧めようとして──その姿に、開きかけた口が固まった。
広げたバスタオルを垂らし、前を辛うじて隠しただけの恰好で、開きっぱなしのドアの傍で所在なげに佇んでいる。つまり──ほとんど、裸の恰好で。
拭き損ねていたのか、タオルから覗く腿の内側を、水滴が伝い落ちた。
「え……あ」
どうしてそんな恰好で、と口にする寸前に思い当たった。
着替えだ──
「ごめん! ちょっと待ってて」
慌てて彼女に背を向けて、収納棚から服を引っ張り出す。
彼女が唯一着ていた衣服は、もう洗ってしまった後だ。そもそもあれだけびしょ濡れになったものをもう一度着せるわけにはいかなかった。なにか適当な服を貸すしかない。そんなこと、いつもなら考えるまでもなく気づいていたはずなのに──
あれでもない、これでもないと大して多くもない普段着を引っ張り出しながら、ほんの数秒間──しかし瞼に焼き付けてしまった彼女の姿が、脳裏を過ぎる。
湯で温まり、ほんのりと赤らんだきめ細やかな肌。板張りの床が冷たいのか、あるいは足跡でもつくことを気にしていたのか、踵を少しだけ浮かせていた素足。手で抑えたタオルの下から、しっかりと存在を主張していた胸。隠しきれず、晒された小さな肩と女性らしい丸みを帯びた腰は、成熟しつつあるその肢体の艶めかしさを際立たせていた。
浴室の時の比ではないほど、胸の鼓動が高鳴る。熱くなった顔はこめかみにじっとりと汗を浮かばせた。
どうして、女の子の裸を見たくらいでここまで動揺しなければならないのか。そもそも他人の裸を見る機会なんて、もう何年もなかったけれど──言い訳を求めて、思考が空回りを続ける。
とにかく、早く服を着せることだ。これと決めたものを引っ掴み、意を決して振り向いた。変わらず部屋の入口に佇んでいた少女に手招きして、理性を総動員してできる限りの平静を装う。
「ごめんね、さすがに下着を貸すのもなんだから……。悪いけど、今晩のところはこれで我慢してもらえるかしら」
薄手の肌着と、一番サイズの融通が利きそうで、なにより暖かいセーター。暖房はつけているし、幸い小柄な彼女なら下半身まで覆ってくれるはずだ──さすがに下着もつけずにズボンの類を穿かせるのはためらわれた。
「ありがとう……ございます」
ぽつり、と少女が礼を述べた。今頃になって初めて聞いたその声は、思っていたよりごく普通の、可愛らしい女の子の声だった。
大幅に余った袖から伸びた指先が、ぱちん、と一仕事終えたばかりのドライヤーのスイッチを切る。濡れっぱなしだった髪をすっかり乾かせて、ようやく人心地ついたように少女はほう、と小さくため息を吐いた。大人しめの色合いに染められた茶色の髪が、人工の光に照らされながらさらりと揺れる。非行少女、というわけでもなさそうだ。程度の差はあれ、今時全く髪を染めていない学生の方が珍しいし、スカートも長すぎず、かといって教師の目に留まりそうなほど短いわけでもなかった。
きっと、普段はあんな寂れた駅の傍を通っても気にしないような、どこにでもいる普通の娘なのだろう──ようやく声を、しかも素直なお礼の言葉を聞いて、ずぶ濡れで虚脱したような状態からこうして年相応の様子が見られるようになって、そんな感想を抱いた。
恰好は──少々危険ではあるけれど。
辛うじて腿の付け根まで隠したセーターの裾から伸びる脚に目をやりそうになって、さり気なく逸らす。コードを几帳面に畳んだドライヤーを床に置いた彼女は、そんな視線に気づいた様子もない。
「ありがとう、ございました。……あの」
もう一度感謝の言葉を口にして、少女は何事か言いかけて、口を閉ざした。視線をさまよわせ、なにを言うべきか迷っているようだ。
湯上りでいまだ赤らんだ頬のせいか、そんな彼女の様子は年相応に可愛らしく見えた。
「どういたしまして。……私、サチって言うの。幸福の幸。古臭い名前でしょ? 幸せになりますように……なんて、ね」
緊張を解そうと飛ばした冗談のつもりだったが、彼女のぽかんとした表情に失敗だったと気づくのにそう時間はかからなかった。今日会ったばかりの人間に自分の名前で自虐されても困惑するか、あるいはせいぜい苦笑を浮かべるくらいしかないだろう。
こんなことだから、友人一人まともに作れないんだ──焦っても失言を重ねるだけだとわかっているのに、この醜態をなんとか取り消そうと口を開きかけた時。
「わたし、ジュンです。男の子、みたいでしょ?」
困惑からすぐに立ち直り、くすりと笑って、彼女──ジュンはそう名乗った。でも気に入ってるんです、と付け加えた彼女に慌てて同意する。
気を遣われてしまった──これはこれで恥ずかしかったが、助かった。自分では逆立ちしたってこんな気の利いた返しはできそうにない。安堵のため息を、お互いまだ少しだけぎこちない笑いに紛らわせて吐き出した。
「迷惑かけて、ごめんなさい。……サチさん、いい人、ですね」
ひとしきり笑って場の空気が落ち着くと、申し訳なさそうな表情で、ジュンはそう切り出した。不意に呼ばれた名前に、どきりとする。年に数回の里帰りで会う両親以外に下の名前で呼ばれるなんて、何年ぶりだろうか。
それにしても──いい人、なんて。見ず知らずの相手から恩を受けることに対しての負い目もあったのだろうが、思わず苦笑を浮かべる。確かに、最初に会ってから今までの対応だけ見ていればそう見えるのかもしれない。
「お人好し、の間違いじゃない? どっちもあんまり言われたことないけど。……ジュンちゃん。事情があるんだろうしお説教するつもりはないけど、体は大事にしなきゃ駄目よ」
大人として、あるいは関わった人間として、これくらいは言うべきだろう。寒空の下であのまま放っておけば、風邪をひく程度では済まなかったかもしれない。
笑みを収めてそう言うと、ジュンは表情を固くした。
「……はい。ごめん、なさい」
やはり慣れないことはするべきではなかったのか、せっかくさっきまで笑っていた少女は神妙な顔をしてうつむいてしまった。
また失敗した。叱りたかったわけじゃないのに──
「あのね、怒ってるわけじゃないの。ただ、ほら、夜になるとまだまだ寒いし雨も降ってたし、ね? 心配になっただけで……」
また空回りして失言を重ねそうだったが、黙っているわけにもいかなかった。普段なら他人にどう思われようとそれほど気にしないのに、目の前の、見ず知らずの少女を悲しませたくないと思ってしまうのは、あまりにも距離が近いからだろうか。どうせ気の利いたことなんて言えないし──なんて、いつもなら抱くはずの諦めも、今はなかった。
恐る恐るといった風に、ジュンが顔を上げて上目遣いでこちらを見る。本当に怒っていないらしいことを確認したのか、少しだけ表情が和らいだ。
ほっとしたのはこちらも同じだ。多少引きつっているかもしれないが構うものかと微笑んで見せると、余った袖で口許を隠して、ジュンはくすりと笑った。
「あはは……ええと。あ、疲れてるでしょ? 私ので悪いけど、そこの布団使っていいから。今日はもう休んで──」
「サチさん」
言いかけた言葉をいつになく強く遮られて、畳んで部屋の隅に押しやられている布団を示そうと持ち上げた腕が、中途半端なところで止まる。
空中をさまよった挙げ句戻した視線を真っ向から受け止め、じっと見つめてくる彼女の瞳は、まるでなにかを決意したようにも見えた。
「お願いが、あるんです」
「な……なに?」
両手を床について、ジュンが身を乗り出す。雨に濡れていた時とも、おずおずと礼を言った時とも違う、真剣な表情。ひと回り近く年下の少女に気圧されるように仰け反りながら答えると、その口許に微かな笑みが浮かんだ。
「わたし……寒いんです」
手をつき、膝をつき、四つん這いのような恰好で、彼女は一歩ずつ近づいてくる。
「え……あ、だ、暖房──」
考えなくてもその言葉が違う意味を示していることはわかっていた。それでも理解することを拒否するように、あるいは逃げ道を探すようにリモコンへ伸ばした手を、そっと押さえられる。
彼女の──ジュンの手は、自分のそれよりも少しだけ小さくて、柔らかくて、駅前で微かに触れた時の冷たさが嘘のように、熱を帯びていた。
そして手を触れられるということは、いつの間にかそれだけ近づいていたということで。
「サチさん」
ささやきに近いほどの小さな声で呼ばれた名前すら、聞き取ってしまう。鼓動がひと際高く飛び跳ねたのは名を呼ばれたせいなのか、ほど近くに迫った彼女のせいなのか、わからなかった。
「温めて、ほしいんです。サチさんに」
もう一方の手も掴まれる。両手がその身体を挟むように、セーターの裾へと近づいていく。
それはとてもゆっくりで、掴まれた手を振り払うことなんて簡単に思えた。それなのに、ただ荒い呼吸を繰り返す以外に、身体は動こうとしない。絡め取られた視線を逸らすことさえ、ひどく難しいことのように思えた。
見つめてくる彼女の頬はいまだ赤く、しかしそれが先ほどまでとは違う理由から来ていることを理解して、その瞳に映り込む自分もきっと同じように見えているのだろう。
手が、セーターの裾の更に下──腿の外側に触れる。寒いなんて、きっと嘘だと思った。
「見て、ましたよね」
ひっ、と息が詰まる。絶対の優位を確信した、恍惚ささえ感じさせるような声。
「お風呂の時、見てましたよね。お風呂から上がって、この部屋に入った時も。私の身体、見てましたよね……?」
「あ、れは……っ」
辛うじて動いた口からかすれた声を出して、しかし言い訳は見つからず、気のせいじゃない、なんて誤魔化すことすらできなかった。隠せたと思っていた後ろめたさを晒されて、身体が強張っていくのが自分でもわかる。頭の片隅で、子供の頃隠そうとした悪戯がバレて余計に怒られたことを思い出した。
肌に触れていた指先はいつしか手の平全体へと変わり、導かれるままになめらかなその感触を味わいながら、自らが貸し与えた服の下に潜り込んでいく。
「いいんです。見ても、いいんですよ……?」
怯える子供をあやすような、優しい声音。うっとりと笑みすら浮かべたその表情は、しかし嗜虐的な快感に打ち震えているようにも見えた。
手首に引っかかったセーターの裾はめくり上げられ、脚を、下腹部を、その肌を、晒していく。
「あぁ……っ」
やがて胸元までたくし上げられたセーターの内側で、導かれた手がいまだ直接見たことすらないその膨らみに触れると、ジュンは肩を震わせて悲鳴とも嬌声ともつかない吐息を漏らした。
膝立ちになって見下ろしていた身体を曲げて、耳元に顔が寄せられる。乾かしたばかりの髪から、ふわりとシャンプーの匂いがした。
「触って、ください……。お願い……」
切なげな、懇願の声。弱々しいその声に、不意に初めて見た彼女の姿を思い出した。雨に打たれ、今にも消えてしまいそうなほど頼りなく、儚げで。
そうだ。
あれは決して、気まぐれなんかじゃなく。
放っておけないと、思ったんだ──
カーテンの隙間から漏れてくる陽の光が、目に痛い。滲む視界をこすりながら見た時計は、昼近くを指し示していた。
記憶が曖昧だった。昨日、あの後、なにをしたのか──なにをされたのか。思い出すのは断片的な記憶ばかりだった。成人してすぐの頃、加減がわからず泥酔してしまった時ですら、記憶が不確かになるようなことはなかったのに──つい重たげなため息を吐いてしまったのは、少なくともあれが夢や幻でないことは確かだからだ。
「おはよう、サチ」
なにをどうしてこうなったのかは全く覚えていないが、畳んだまま敷いた覚えのない布団にくるまっていて、隣に寝転びながらそう挨拶してきたのは、紛れもなく昨夜出会ったばかりの少女──ジュンだった。
「おはよう。……猫かぶりはもうおしまいってわけ?」
親し気に名を呼ばれ、昨夜の気遣いを忘れてしまったように苦虫を噛み潰したような顔でそう言ってやると、ジュンはころころと笑った。あの夜とは違う、明るさを隠そうともしない笑み。
こっちの方が魅力的だ、なんて思ってしまったのが忌々しかった。
「そんなのじゃないです。ただ……だって、あんなに可愛い声出されたら、もうサチさん、なんて言えないもん」
「うぐ……」
はっきりと覚えていないだけに、否定も出来なかった。確かあの後すぐ、服を脱がされて──
身体中を、彼女の手と──舌が、這いまわっていたような。それで私は、自分でも耳を疑うようなひどい声を上げたような。そしてそれは、明け方まで続いたような。そんな気がする。普段なら口にしないようなことも、たくさん言ってしまったかも。
はっきりと覚えているのは、終始彼女にリードされていたという不本意な事実だけだった。
ごほん、とわざとらしく咳ばらいを一つくれて、さり気なく隣の彼女と距離を取る。お互い昨夜のまま──つまり、なに一つ服を着ていなかった。
「それで……どうするの?」
そう、このまま休日を一緒に寝て過ごすわけにはいかない。自分達は知り合いですらない、赤の他人──だった、のだ。彼女がどうしてあんな場所にいたのかすら、いまだにわからないままだった。
顔だけは真面目に取り繕ってそう問うと、予想通り、ジュンは表情を曇らせた。うつむいて、ついには泣きそうな顔になって、上目遣いで見上げてくる。
「帰りたくない……」
それが一緒にいたいということなのか、それとも言葉通りただ帰りたくないだけで、もしかしたら昨夜のあれもただその口実にするためだったのか。言葉の駆け引きなんてしたことがなくて、その判断すらしかねる自分に呆れたようにため息を吐く。
「言っておくけど、私は誘拐犯になるのは御免よ」
見上げてくる少女の顔が絶望と諦めに歪む。捨てられた子犬のようだ、と思って、苦笑した。
猫と同じだ。犬だって、飼ったこともなければ捨てたこともなかった。
「だから、保護者の方にちゃんと連絡すること。私からも事情を話すから。それでもし、了解が得られたら──」
惚けたような表情のジュンに、にやりと笑って見せる。ようやく年上の、相応の態度が取り戻せた気がした。
「ご飯にしましょ。昨日からなにも食べてないし、ね」
今にも泣きそうな表情は変わらない。ただやはり、その理由が変わったことだけはわかった。ぐす、とすすり上げて目許を拭うと、瞳を潤ませたまま、ジュンは笑った。
「うん。……やっぱり、いい人、だよ」
訪ねてくる友人もいないし、恋人なんてできた試しがない。猫も犬も、飼ったことなんてない。もちろん、見ず知らずの女の子を拾って、家に泊めたことだって。
それなのに、妙な拾い物をして。
「だから……お人好しの、間違いよ」
JKとOL 諸葉 @moroha818
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます