おやすみなさい、良い夢を

深上鴻一:DISCORD文芸部

おやすみなさい、良い夢を

 ベラ・ジョーンズは町外れのドライブインの小さなトイレ、その洗面台の割れた鏡の中に、ひどく疲れた自分の顔を発見した。頬はこけて青白く、茶色の髪はつやがないように見えた。

 スーパーのレジ打ちの仕事は、一週間前に失っていた。今週中に新しい働き口を見つけないと、アパート代を支払えない可能性がある。この田舎町ではそれがないと生活できない車だって、いつまで維持できるかわからない。彼女はとても情けない気持ちになって、流れる細い水道水で手を冷やしながら、ぎゅっと目をつぶった。

 せめて不安のない生活を送りたかった。買い物をするたびに今月は赤字にならないだろうかと、電卓を叩いて怯えるような生活を送るはずではなかった。

 子供の頃の夢は、素敵なお嫁さんになること。プール付きの豪華な広い家に住み、優しい夫を愛し、愛され、可愛い子供たちの面倒を見て、無邪気な犬と戯れる。

 だが現実はあまりにも違いすぎた。安いぼろぼろのアパートに住み、夫には逃げられ、やっと授かった子供も病気で亡くした。犬を飼うどころか、野良猫にあげる分の食べ物だってない。

 今、彼女が一番欲しいものはお金だった。現実的には、そのための仕事が欲しかった。

 蛇口を閉め、いつ貰ったのかも忘れたハンカチで手を拭き、彼女はトイレを出た。そしてトイレを出た正面にある掲示板、この町のチャリティーバザーや売ります買います情報が貼ってある掲示板の中に、ハガキの半分ほどの白い紙を発見した。そこにはプリンターから打ち出された文字で、急募と書いてあった。

 ピン留めされたその正方形の紙は、個人が出した募集広告だった。週にできれば5日以上で8時間、家に訪れて掃除、洗濯、料理をして欲しいという内容だった。時給は、この町のアルバイトの平均より高かった。一番下には連絡先と名前が書いてある。エドワード・ノートン。彼女はその紙を剥がした。

 席に戻る途中、カウンター内で雑誌を読んでいた店主のマイクに、その紙を見せる。

「この貼ってあったノートンさんって、どんな人?」

 彼は読んでいた雑誌をカウンターの上にぽんと投げた。

「1年前にこの町に越してきた変人だよ。白人で白髪で、トカゲみたいな顔をした老人だ。60歳ぐらいかな。ベラだって、見たことあるんじゃないか?」

「影ではこっそり、博士と呼ばれてる人?」

「そうそう。その仕事だけど、やめておいた方がいい。俺も頼まれて仕方なく貼ってやったけど、あの博士、どうにもうさんくさい」

「例えば?」

「半年ぐらい前かな。小さな女の子とドラッグストアの前を歩いてたんだ。ひどく痩せていたけど、金髪のとっても可愛い女の子だったんで覚えてる」

「それだけ?」

「いやいや」

 マイクは少しだけ声を潜めて言った。

「それ以来、俺は一度もその子を見ていない。この田舎町でだぞ。学校にも行ってないし、他の奴から見かけたという噂も聞かない」

 マイクはカウンターの上の雑誌を指で叩いた。安いゴシップ誌にはクリーブランド監禁事件の真相という見出し。今から約6年前、2013年に明らかになった少女を監禁した事件についての記事だった。

「俺は博士は、ペドフィルだと思うね」

 その口調には嫌悪感がある。

 マイクは、そんな言葉も知らないのか、という顔で彼女を見て言った。

「小児を性的に愛する変態のことさ。きっと博士は、あの少女を監禁してるんだ」



 その家はこの田舎町、マサチューセッツ州アーカムの郊外では良く見られるような、普通の木造平屋だった。壁板の白いペンキはところどころ剥がれているものの、腐ってはいないようだ。緑の屋根もしっかりしているように見える。

 ベラはポーチを上がり、ドア横の呼び鈴を押した。応答がないので、二度、三度。

「誰だ」

 そのインターホン越しの老人の声には、聞いたことのない訛りがあった。

「お電話した、ベラ・ジョーンズです。面接に伺いました」

「待ってくれ」

 やや長く待たされた後で、ドアが開いた。現れたのは、微かな記憶通りの老人。マイクが言った通り、白髪の白人で痩せていて、どこかトカゲを思わせる顔をした老人だった。白衣を着ていた。

「入りたまえ」

 廊下を通り部屋に入る。部屋の中は物に溢れていた。ゴミが詰まったビニール袋が転がっていた。デリバリーサービスの箱が積み重なっていた。本が乱雑に並んでいた。衣服の山があった。その中には女児のための洋服も混じっていた。

 彼女は促されてソファに座った。

「エドワード・ノートンだ。医者をしている。エドワードと呼んでくれ」

「わかりました、エドワードさん。私はベラ・ジョーンズです」

 彼女は簡単な履歴書を彼に渡した。それをちらりと一瞥しただけでテーブルに載せ、彼は両手を広げて見せた。

「部屋はご覧の通りの有様だ。この家には、掃除する者がいない」

「そのようですね」

 彼女は急いで付け加えた。

「私なら数日で片付けて、それを維持することができます」

「食事も偏っている。研究のため、私には買い物に行く時間もない」

「自前の車があります。それに料理は得意です」

 彼女はまた付け加えた。

「ナチュラルフードのレストランで働いたこともあります。美味しく栄養があり、健康的で経済的な料理を作れます」

 その自己アピールの後半を、エドワードはもう聞いていないようだった。

「労働条件は、あれでいいのかね」

「問題ありません」

「わかった、雇おう」

 彼女は心の中で小躍りした。

「ただし、幾つか条件がある。それを絶対に守れるならだ」

「わかりました。必ず守ると約束します」

「まずひとつ。私の研究室は地下にある。絶対に入ってはいけない」

「わかりました」

「もうひとつは。おいで」

 エドワードがそう言うと、戸口の向こうから小さな女の子が、そっと顔を出した。両手を戸口に添えて、そこに隠れるようにして顔と身体の半分だけを出している。恥ずかしそうな表情を浮かべていた。その顔は青白く、身体も細い。長い金の髪はきれいに梳かしてあったが、そのピンクのワンピースはくしゃくしゃだった。

「エリスだ。私の養女だ。身体が悪くて自宅療養している」

 エドワードは、驚くような強い口調で言った。

「これがもうひとつの条件だ。エリスを絶対に、昼寝させてはいけない」



 その次の日から、ベラは働き始めた。まずは洋服を洗濯機で洗いながら、リビングを片付けた。ゴミを選別して捨て、本を一度、廊下に積み重ねた。掃除機をかけてから、本の表紙を一冊ずつ拭いて、再び運んで向きを揃えて本棚に並べた。

 その間中、エリスは付かず離れずの距離にいた。優しい声をかけても、はにかんで頷いたり首を振ったりするだけで、喋らない。それでも少女が素直な性格をしていることがわかったし、たんに恥ずかしがっているだけなのもわかった。

「おいで。ブラシをかけてあげる」

 そう声をかけると、おずおずと近寄って来て、ベラに背中を向けてちょこんと座った。

「昨日は、自分で梳かしたの?」

 うん、と頷く。

「とっても綺麗にしてたわね。長い時間がかかったでしょう?」

 また、うん、と頷く。

「毎日、自分でしてるの?」

 ううん、と首を振った。

「あら、じゃあ、昨日はどうして?」

 少女は小さな声で答えた。

「来るから」

「来る? 私のこと?」

 うん、と少女は頷いた。

「ベラが来るから、綺麗にしたかったの」

 それで彼女は、この少女のことが大好きになった。自分の娘も生きていれば、少女と同じ8歳ぐらいだった。



 一週間が経った。エリスはベラの料理を、驚くほどよく食べた。その白過ぎた顔はすぐに血色を取り戻すだろう、と彼女は思った。その細い身体も、子供らしい健康的なふくよかさになるだろう。

 一方、エドワードはつまらなそうに食べた。料理について感想は言わなかったから、味についてどう思ってくれているのかはわからなかった。エリスと食事の間ぐらいは一緒にいようという心遣いはあるらしい。食べ終わってもコーヒーを飲んでじっとしていた。だが一刻も早く地下にある研究室に戻りたいと思っているのは明白だった。

 二人の日常は奇妙だった。エドワードは研究室、エリスは一人で本を読んだりトランプをしたりして一日を過ごす。夕方頃、眠気の限界が訪れると、少女は地下室に下りて行く。寝室は研究室にあるのだった。

 ある日、エドワードは言った。

「エリスは睡眠に障害があってね。私はその原因の研究をしながら、治療をしているんだ」

 そうなんですか、早く良くなるといいですね、と彼女は答えた。しかし、一体どんな治療なのだろう、と彼女は不信を強めた。エリスが地下室に行きたがっていないのは明らかだった。

 ベラは一日に何度も、少女を起こす。本はもう飽きているようで、ソファに座って読んではいるが、やがてこっくりこっくりとし始める。トランプは床に腹ばいになって遊んでいることが多いが、その遊びもつまらないらしく、気がつくとうつぶせになって動かなくなっている。

 そしてやがて、ベラにもわかった。料理、掃除、洗濯。そんなものは彼女に期待されていなかった。エリスに昼寝をさせないこと。ただそれだけのために、彼女は雇われたのだった。



 ある日の夕方、床にぺたりと座って退屈そうにひとりでトランプ遊びをしているエリスに、ベラは声をかけた。

「それ、面白いの? ただ一枚づつめくってるようにしか見えないけど」

「つまらない。でも宿題だから」

「それが?」

「うん。何が出るか当てるの」

 そんな宿題があるものだろうか。

「当てればいいの? だったら、もっと楽しい当てっこをしようか」

 エリスの青い瞳が、年頃の子供らしく輝いた。

 彼女はトランプを受け取ると、それを伏せて床にばらばらに並べた。

「神経衰弱って知ってるわよね」

「知らない」

 その答えが、彼女をとても悲しくさせる。

「カードを2枚めくって、同じ数字のカードを当てるの」

 彼女は1枚をめくった。ハートの3。

「次も3なら、このカードは私のもの」

 もう1枚をめくった。スペードのジャック。

「残念、はずれ」

 彼女は2枚のめくったカードを再び伏せた。

「次はエリスの番よ」

 エリスは1枚めくった。スペードの2。もう1枚めくって、クラブの7。

「はずれ。次は私ね」

 エリスはカードに覆い被さるように前のめりになってゲームに熱中した。エリスは記憶力が良かった。いや、とても良かった。一度めくったカードは忘れないようだった。残り少なくなったところでまたシャッフルすると、ずるいよっ、と大声をあげて笑った。ゲームはぎりぎりでベラが勝った。

「楽しかった?」

 何度も頷くエリス。

「次は私が勝つわ。絶対に、私が勝つ」

「私だって負けないわよ」

「いいえ。絶対に私」

 初めて知ったが、少女は負けん気がとても強いようだった。その爛々としている目が、彼女をぞくりとさせるほどだった。

 そこへエドワードがやって来て、彼女たちを見た。少女の顔が硬くなり、さっと青ざめた。

「宿題じゃないのか?」

 ベラが助け船を出す。

「神経衰弱です。私が誘ったんです」

「そうか。まあ、たまにはいいだろう。今日は早く寝よう。おいで」

 しぶしぶと少女が立ちあがるのがわかった。エドワードの後ろをついて行く。少女は振り返った。その瞳が、助けを求めているように思えた。



 ある日、エリスは吐いた。身体を折り曲げ、食べたばかりの昼食を吐いた。その吐瀉物を見るエドワードの嫌悪もあらわな表情に、ベラは怒りを覚えた。

「ストレスだと思います」

 彼女の頭の中で警告音が鳴ったが、もう止められなかった。

「たまには外に出るべきです」

「ベラが洗濯物を干す時、一緒に外に出ているだろう?」

「室内で飼う犬じゃないんです。あんなのはこの年頃の子供にとって、外とはとても言えません」

「研究のためだ。外に出し、余計な情報を脳に入れる訳にはいかない」

 ますます怒りを覚えたが、彼女は冷静に言った。

「一般的には、母親はこう教えられます。子供は外で太陽の光を浴び、精神をリラックスさせ、身体をよく動かせば、ぐっすりと夜は眠れるものだと」

 エドワードは乱暴な足取りで、何も言わず地下室に戻って行った。わかりやすく怒っていた。

 しかし再び出てくると、折り目ひとつない紙幣を数枚、彼女に渡した。



 ベラの車で、二人は町に出た。カーラジオをつけただけで、エリスは興奮した。少女が質問するので、彼女は自分の身の上話を簡単にした。だから逆に少女にも質問した。わかったのは、少女は両親に捨てられて、保護施設で育ったということだった。それをエドワードが養子に引き取ったのだ。

「エドワードは優しい?」

「施設のスタッフよりは優しい」

 今まで、どんな暮らしをしてきたのだろうと考えると、悲しくなった。

「治療はつらい?」

「うん。本当は」

 エリスは目を伏せて言う。

「地下室なんて行きたくない」 

 恐ろしいことだ、と彼女は思った。

「どんな治療をしているの?」

「それは秘密。言っちゃだめ、って言われてる」

 彼女はハンドルを握ったまま、少女の顔をのぞき込んだ。

 唇を固く結び、首をゆっくりと振る。少女はもう、何も言わなかった。

 それから二人は無言だったが、車を止めて子供服も扱っている洋品店に入ると、少女はまた笑顔になってはしゃぎ始めた。何度も試着し、遠慮はしているのがわかったが、ベラはエドワードが出したお金から数着を買い、自分の小遣いからも赤いバレッタをプレゼントした。

 それから少女がカートを押して食料品店で買い物をし、エドワードに内緒でお菓子も買い、ソフトクリームを買って入り口のベンチで並んで食べた。

 夕方になり、それを食べ終わり帰ろうとした時、少女はベラの手をそっと握ってきた。

「ありがとう。こんなに楽しい一日は初めて」

「これからも、いっぱいあるわよ。もっと楽しい一日だって」

「ソフトクリーム、美味しかった。夢で見たのと、同じ味がした」

 そんなことを夢見ていたなんて、何て可哀想な子なんだろうと、彼女は思った。

「ベラは、私の友達になってくれる?」

 そう少女は恥ずかしそうに言った。

「もちろんよ。私たちは今日から友達」

「じゃあね、私が知ってる、とっておきの秘密を教えてあげる」

 少女は、ベラの右耳を両手で包むようにして手を当てた。そこに口を付けて、小声で言う。

「エドワードの本当の名前は、アドルフ・ブルマイヤーって言うの」



 それからまた数日が経ったある日。洗濯物を畳んでいるベラに、エリスはトランプを持って近づいて来た。

「神経衰弱やろうよ」

「いいわよ」

 二人は床にトランプを並べた。エリスが先でどうぞ、と彼女が言う前に少女はもうトランプをめくっていた。

 ダイヤの2。クラブの2。スペードのクイーン。ハートのクイーン。クラブの3。スペードの3。クラブの9。ダイヤの9。ハートのキング。ダイヤのキング。

「……エリス?」

 少女は、黙々とトランプをめくり続ける。その顔には狂気とさえ言える笑みが浮かんでいた。

 ダイヤの8。スペードの8。クラブの5。ハートの5。スペードのジャック。ハートのジャック。ハートの2。スペードの2。ダイヤの4。クラブの4。

 そしてすべてのトランプがめくられた。

「どう? 私の勝ち!」

 まさしく勝ち誇る少女に、彼女は言った。

「何をしたの? これはなに? いんちきなの?」

「違う! いんちきじゃない!」

 珍しく少女は感情を爆発させた。

「夢で見ただけ! 夢で勝ったから勝ったの!」

 彼女は、その意味を考えた。

「それは予知夢というもの?」

「違う」

 少女は首を振る。

「ぜんぜん違う」

「お願い、教えて。私たち、友達でしょ?」

 少女はそれでも首を振った。

「だめ。人に教えると、ぶたれる」

「ぶつ? エドワードが?」

 しまった、という表情を少女はする。

 トランプ当ての秘密など、どうでもよくなってしまった。

「エドワードは、あなたに暴力を振るうの? 質問に答えて。これはとても重要なことなのよ」

 少女はもう、何も言わなかった。

 彼女は確信した。少なくとも、この家には暴力がある。性的ではなさそうだけど、大人の権力を笠に着た恐ろしい暴力が。

「教えて、エリス。エドワードには絶対に言わないから。彼はあなたに乱暴するの?」

 少女は、うん、と小さく頷いた。

「ときどき、ぶつの。私が実験を真剣にやってない、って怒るの。本当に言わないでくれる?」

「大丈夫よ、安心して」

 彼女はエリスを強く抱きしめた。

「私たち、友達じゃないの。約束するわ」

「うん」

 ぎゅっと抱きしめていると、彼女の腕の中で、少女はぽつりと呟いた。

「ハグって初めてかも」

 彼女はもう、それだけで泣きそうになった。

「いつまでも、ぎゅーってしてあげる」

「うん。ベラはあったかくて柔らかいね。気持ち良くて、眠ってしまいそう」

「いいわよ。お昼寝しましょうか」

 少女は身体をびくりとさせた。それからぱっと身体を離した。

「だめ。怖い」

「大丈夫。エドワードが来る前に、絶対に私が起こしてあげるから。だから安心して眠りなさい」

「でも、でも」

「さあ、早く。ここに寝るの」

「……うん」

 少女はゆっくりと、ソファに横になった。

「怖いの。手を握っていてくれる?」

「もちろん」

 彼女は少女の手を握った。

「ありがとう、ベラ」

 少女は言った。

「私、ベラが大好き。来てくれたのが、ベラで良かった」

「私もエリスのことが大好きよ。さあ。おやすみなさい、良い夢を」

 すぐに少女は眠りに落ちた。彼女は、少女の目にかかりそうな長い前髪を指で払ってやった。

 そして彼女は、少女の両こめかみに小さなやけどがあることを発見した。



 ベラはアパートに帰ると、すぐにCPSつまり児童保護サービス(Child Protective Services)に電話した。携帯電話はとっくに壊してしまい解約していた。まずは自分の名前を告げ、エリスの名前を伝えて、自分が何を見たのか説明した。これまでの経緯も話す。

「その父親の名前を教えてください」

「エドワード・ノートンです」

 そう言ってから彼女は思い出した。

「本名はアドルフ・ブルマイヤーだと、エリスは言っていました」

 過去に犯罪歴がないかコンピューターで検索しますので時間をいただきます、終わり次第に折り返します、と一方的に言われた。彼女は電話を切った。すぐに電話が鳴った。

「ベラ、来て」

 エリスだった。

「どうしたの? どうしてこの番号を?」

「履歴書を見た。早く。助けて。殺される」

 それで電話は切れた。

 ベラは引き出しから護身用の拳銃を取り出して、茶色い革のハンドバッグにしまった。すぐに車に乗り込んで、エドワードとエリスが暮らす家に向かう。

 玄関の鍵は開いていた。中に入った。廊下の奥に進み、曲がった先にある地下室へと続く階段を見た。彼女は拳銃を抜いて天井に向け、それからゆっくりと石の階段を下りた。鉄製のドアに片手をかけて、思い切って一気に開ける。

 パソコンのモニターが何台も載ったスチールデスクの前に、白衣のエドワードが座っていた。

「は、入るなと言ったはずだぞ!」

 カビ臭いコンクリートの部屋の中に、病院と同じようなベッドが置いてあった。その上には水色のパジャマ姿のエリスが寝ていた。その横には小さな丸いテーブルが置かれていて、透明なコップと赤いバレッタが載っていた。

 エリスの頭には白いベルトが巻かれていた。そこから色の付いたケーブルが何本も伸びて、大きなコンピューターに繋がっていた。それは複数台あり、そこからまたケーブルが伸びてパソコンのモニターに繋がっていた。

 そして恐ろしいことに、少女はベッドに拘束されていた。両手両足と腰を、黒く太いベルトでベッドに縛り付けられていた。

「何をしてるんです! これは何の研究なんですか!」

「重大な研究だ! そうに決まっているだろう!」

「これは明らかに虐待です!」

「人類を救うためだ! やり遂げなければいけないのだ!」

 彼女は気がついた。

「エリスはなぜ起きないんです? こんな大声で話してるのに? まさか薬なんですか?」

「深く眠らせるためには必要なんだ!」

 少女がいつも眠たげだった理由が、それでわかった。

 エドワード、本名アドルフは引き出しを開けた。手に何かを持った。その黒い物は拳銃に違いないと彼女は思った。だから引き金を引いた。銃弾は彼の胸の真ん中に当たり、ばたりと彼は倒れた。床にうつ伏せになったまま、もう動かなかった。

 彼女はベッドに駆け寄った。ベッドの横の小さなテーブルの上に拳銃を置いた。そしてエリスの頭のベルトを外した。身体中のベルトを外した。名前を何度も呼び、身体を揺すると、やっと少女は目を覚ました。

「ああ……ベラ」

「もう大丈夫よ」

「来てくれて、ありがとう」

 少女は身体を起こし、しばらくじっとしていた。それからゆっくりとベッドを降りて、テーブルに置かれた赤いバレッタを手にとった。時間をかけてそれを後ろ髪に付けた。

「早く行きましょう。すぐに警察を呼ぶわ」

 少女はテーブルの上から拳銃も取った。

「手を放して! 子供はそんなもの持っちゃだめ!」

 少女は拳銃をコンピューターに向けて、二度撃った。

「実験データを、政府に渡す訳にはいかないから」

 それからベッドをまわってアドルフの死体に近づき、黒い物を拾った。分厚い財布だった。

 少女は拳銃と財布を握ったまま、ベラを真っ直ぐに見つめた。

「お話があるの」

「まずは拳銃を置いてちょうだい。そしてお話は、家に帰ってからにしましょう」

「今じゃないと、だめなの。ベラは神経衰弱の時、予知夢を見たのか、って尋ねたでしょ。私は違うって答えた。だって予知夢って起きることが先にわかる夢のことだから。私の夢はまったく逆。私が夢で見たことが、実現化するの。もちろん、すべてではないけれど」

「何? 何の話?」

「私がクラムチャウダーを食べたいと思う。するとクラムチャウダーを食べる夢を見る。だから食事にクラムチャウダーが出る。バービー人形が欲しいと思ったら、それを手に入れる夢を見て、事実、私はそれを手に入れる」

「やめて。人間にそんな力がある訳ないでしょう。すべてあなたの思い込みよ」

「両親は怖くなって私を捨てた。保護施設でも悪魔の子と呼ばれた。そんな私を、アドルフは合法的に救い出してくれた。私がそういう夢を見ることに決めたから」

「もうやめましょう。さあ、家に帰ってゆっくりと眠るの」

「アメリカ政府がやって来て、私を収容する。私は実験のために、気が狂って死んでしまう。私は夢見る力で、その運命を変えた。アドルフは私を救い出してくれた。しかし彼は政府に隠れて、人工夢装置で私の夢を操作する研究を始めてしまう。すべては、第三次世界大戦を食い止めるため」

「第三次――世界大戦?」

「そんなに遠くはない未来、第三次世界大戦が起きる。アメリカ政府は唯一の戦勝国になりたい。そのために私が欲しい。だから私はアドルフを生み出して、私を救出させた。そうなの。そもそも、アドルフを作り出したのは私。彼が奨学金を得て、ミスカトニック大学の医学部を卒業できたのも、私がすべてそう決めたから」

 これが、わずか8歳の子供の口から出る妄想なのだろうか? そんなことがありえるものだろうか?

「あなたを作ったのも私。ベラ・ジョーンズという名前も、私がつけた。家を貧しくして、大学進学を諦めさせたのも私。定職につけなくしたのも私。スーパーをくびにしたのも私なの」

 ベラは恐怖を感じていた。饒舌に喋る、わずか8歳の子供が怖かった。身体が震えていた。

「これが、頑張ったけど、ぎりぎり変えられた運命。私は外へ出る。ヒッチハイクで都会を目指す。トラックの運転手に犯される。運転している最中の彼にフェラチオも強要される。急に怖くなった彼は、私を殺そうと決意する。警察に偶然、助けられる。私は新しい保護施設でひっそりと暮らす。勉強する。大学に入り初めての恋に落ちる。可愛い女の子を産む。子供を連れて放浪の日々が始まる」

 エリスの言葉は止まらない。

「やがて私たちは、ウロボロス機構に救出される。もう隠れて生活しなくてもいい。第三次世界大戦が起きる。ゆっくりとだけど地球の人類は滅亡する。月に暮らしていた人間は、ゲート技術を手に入れて、全銀河系中に植民する。その統治機関であるウロボロス機構の頂点には、私の娘が座る。全銀河系は夢見る姫、すなわち私の娘のものとなる」

 銃声。悲鳴。エリスはベラの右太ももを撃っていた。床に倒れ込むベラ。彼女は驚きで言葉も出ない。

「な……に?」

「ベラとはもう一緒にいられない。ここで死んでもらう。さようなら。愛してくれてありがとう」

 エリスは床に、ことりと拳銃を置いた。

「ごめんなさい。私はあなたに愛されるため、あなたの娘も殺した」

 少女はベラに背を向けた。その長い金髪の後ろを、赤いバレッタが留めていた。

 少女は階段を上がって行き、消えた。



 ベラを助けたのはブレンダンだった。彼女も顔を知っている、この町の保安官だった。CPSは彼女に電話を折り返したものの出ないことを不審に思い、保安官事務所に念のため連絡を入れたのだった。ベッドの上の彼女は医者から、あと20分発見が遅れていたら確実に死んでいたと告げられた。

 治療と同時に事情聴取が行われた。彼女は覚えている限りのすべてを話した。ブレンダンも、駆けつけてきたCPS男性職員も、虐待によるあまりにも悲しすぎる妄想であると結論づけた。

 アドルフ・ブルマイヤーは事実、ミスカトニック大学の医学部を卒業していた。睡眠、特に夢の研究をしていたが、子供を被検体にした残酷な実験で訴えられて職を失い、名前を変えてアーカムに越して来たことがわかった。

 エリスはマサチューセッツ州セイラムの生まれだった。少女が言っていたように両親に捨てられ、保護施設では嘘ばかりついていると虐められ友達もいなかった。得意だったトランプマジックも、それが超能力によるものだと当時から吹聴していたらしい。きっと注目を集めたかったのだろう。施設スタッフからも大事にはされなかった。なぜそんな少女をアドルフは養女に選んだのかはわからなかった。

 ベラは虐待児童保護プラグラムの書類にサインを求められた。CPS男性職員アレン・ウィルキンソンは、一文一文丁寧に説明してくれた。これはすべてエリスを守るためであり、同意しない者は虐待に加担するのも同じであることを、彼は愛情豊かに熱弁した。そこでベラは、躊躇もせずにサインした。エリスのことは一生涯、もう口にしないと公的に約束したのだった。

 アレンは優しかった。自分の医療費をどうやって払ったらいいのか相談すると、彼はすぐに医療保険を公衆衛生局に申請するための書類を取り寄せてくれた。それから自分が貧しい生まれであること、学歴がないこと、仕事もないことまでを相談した。彼は親身になって聞いてくれた。そして二人は恋仲になった。

 彼女はアーカムを離れ、アレンの暮らす大都会ボストンに引っ越しすることにした。やがて二人は結婚した。再婚同士だった。親からの遺産であるという、郊外の大きな家に住むことになった。元気な子供が産まれた。夢だった犬も飼い始めた。

 心安らぐ日々をようやく手に入れた彼女は、ときどき思う。エリスは本当に、私を殺すつもりだったのだろうか、と。

 今、あの少女はどこにいるのだろう?

 どんな夢を見ようとしているのだろう?

 彼女は今、祈る。ベッドに入り目を閉じて眠りにつく前、そっと祈る。いつしか少女のために、毎晩祈るのが日課になっていた。

「おやすみなさい、エリス。良い夢を見るのよ」

 彼女は本当は、何が真実なのかを知っている。

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