モノホンってヤツを教えてやる

「わざわざ出向いてくるたあ、思わなかったな」

 セイマは、素直にそう言った。

 賭博試合の舞台に立ったら、あとは拳で語るだけ。

 普段のセイマならそうだった。

 この舞台で言葉を交わすことは無意味に等しい。

 語りたいことがあるのなら、拳で語れば白黒がつく。ここはそういう場所だった。

 しかし、今日は思わず言葉が出た。


「喧嘩はいつだってできる──アンタはそう言ったっすけど、案外そうとは限らないンすよ」


 男は、火薬の匂いが漂うような危険な眼差しをサングラス越しから覗かせた。

 大きな男だった。

 セイマよりも、背丈は頭ひとつ分くらい上か。

 分厚い胸がシャツをピンと伸ばす。少しでも力を入れれば、たちまちボタンが飛ぶだろう。

 ポケットから抜いた拳は、骨が出張った皮膚が捲り上がって、岩肌のような姿を見せる。

 拳を見て、セイマの額がゾワりとした。

 見てくれはこの賭博試合では珍しくない。

 しかし、中身の造りは並の拳と全くもって異なることを、痛みとともにセイマの脳髄に刻まれていた。

 龍造寺隆生──ふいにした喧嘩の種が、こうして転がってくるだなんて、思ってもいなかった。

「初めてだったんすよ」

 龍造寺の声音は、感慨深さが滲んでいた。

「俺の拳喰らって平然と立っていたやつは、セイマさん──アンタが初めてだったんす」

「ほう」

 自身の演技派っぷりに、セイマは苦笑する。

 平然な訳あるものか──あの日の帰り道は、酔ったような千鳥足になって仕方がなかったというのに。

「それから、寝ても覚めてもアンタのことばかり考えちまう。だから、ここまで来た」

「よく辿り着けたな」

 龍造寺に、賭博試合のことを語った覚えはない。

 だから、こうして現れるだなんて、頭の片隅にも置いていなかった。

 正直、龍造寺と今度喧嘩するとしても、どこかの路上だろうとセイマは考えている節もあった。

「アンタがヒントをくれたんすよ。”上だとこういうこともある”、ってね」

 上があれば下がある。

 裏社会で下と言えば、地下。そっから賭博試合まで辿ることは、ヤクザの龍造寺にとって容易だった。

 ヤクザの中でも、賭博試合は有名だ。

 格闘興行のシノギの邪魔者、というさほど嬉しくない知られ方ではあるが。

 それは、それ。

 たった一つの言葉から、この場所まで辿り着いた──セイマの前に立ったその意味を、測ることはもはや不要だった。

「というわけっすから」

 ゆるりとサングラスを取ると、龍造寺はライトに向かって放り捨てた。

 目尻が垂れた緩い目をしているが、瞳に灯った光は、新しいおもちゃを見つけた子供が浮かべるそれと変わりなかった。

「やりましょうよ、セイマさん」

 緩く笑みをたたえていた口から、歯が剥き出す。

 熱と氷とがないまぜになったものが、セイマの背骨を突き走った。

 鼓動がどどっと胸を叩き、血流が加速する。

「嬉しいねえ」

 気づけば、セイマの唇も捲り上がっていた。

 吐いた息は、獲物を目の前にした獣が吐くそれと、よく似ていた。

 あの日、雨でも失せなかった熱が蘇ったかのように、セイマの内側から迸る。

 舞台に、緊張感が満ちる。

 賭博試合に、開幕の合図は無い。

 二人が舞台に上がったら、どんなタイミングで始めてかまわない。


「じゃあ、やろうかい──ヤクザの兄ちゃん」


 照明の熱が肌を焼く。

 視線がぶつかって、火花を立てた。

 次の瞬間、二人の間合いが縮む。

 動いたのは龍造寺だ。

 剥き出しの笑みが、拳を振り上げた。

 瞬間、跳ね上がった足が龍造寺の顎を撃つ。

 セイマの蹴りだ。放つには十分すぎる隙がそこにあった。

 いい音が鳴った。

 肉がチリになって弾けるような、いい音だ。

 龍造寺の体が、蹴りの勢いに止まる。

 すかさず拳を奔らせる。

 一発だけじゃない。

 続け様に何発も、そのどれもを強く握りしめて叩きこむ。

 肉が次々と破裂音を響かせた。

 セイマの拳の速さに、龍造寺はついていけない。

 殴られっぱなし。

 しかし、痛みが次々と襲ってきているはずだろうに、龍造寺は顔を全く歪めやしなかった。

 嘲笑うように、ふ、と息さえ吐いている。

 

 ──そんな顔しなくたって、わあってるよッ……!


 拳が痛い。

 殴る方だって痛いんだ、とか小説にありがちな馬鹿げた比喩じゃあない。

 岩でも殴っているような痛みがあった。

 散々人を殴ってきたセイマだったが、痛みがこんなにも返ってくる経験はした事が無かった。

 それだけ奴が硬いのだ。

 造りが違うのは、どうやら拳だけじゃあないらしい。

 セイマの拳が、今度は頬に突き刺さる。

 龍造寺の口から、わずかに血がしぶいた。

 だが、セイマを捉え続けた眼光が、わずかに強さを増した。

 心臓が跳ねた。

 咄嗟に距離を離そうとしたが、遅かった。

 直接砲撃を浴びたような衝撃が、セイマの体を吹っ飛ばす。

 受け身も取れず、砂地の上に体が転がった。

 すぐにでも立ち上がりたいのに、内臓が悲鳴をあげて足を動かす邪魔をする。

 悶絶しているうちに、殺気がすぐ上にきているのがわかった。

 セイマの体を、大きな体の影が埋め尽くしていた。


「──へ」


 意趣返しと言わんばかりに、龍造寺の足が跳ね上がる。

「ぎ──ッ!」

 セイマが、無理やり体に力を入れた。

 根性で体を転がして、龍造寺の蹴りから逃れる。

 勢いを利用して、上半身を起き上がらせた。

 膝はついたままだった。

 呼吸を整えてからじゃないと、ろくなことにならないと思ったからだ。

 セイマの額には脂汗が浮かぶ。

 龍造寺は下手に追わない。

 舐めるようにセイマの状態を見定めていた。

「流石に腹は効くんすねえ」

 口角を上げながら、拳を鳴らした。

 あの拳だ。

 たかが一発──だなんて言えるわけがないモノが、あの拳にはあった。

 

 いや、拳だけじゃあねえか


 セイマの拳を見ると、鈍い赤みが浮かんでいた。

 見慣れた商売道具の姿だ。だが、こんなにも早く拝むことは滅多になかった。

 龍造寺の体は、それだけ硬かったのだ。

 どんな絡繰が────

 と、脳裏をよぎった思考を、すぐにセイマは投げ捨てた。

 絡繰なんて、あの男が用意するわけがないからだ。

 何か仕込むような男だったら、たった一夜出会した男を一途に追ってきやしないだろう。

 だとすれば、セイマが考えられることは、もう一つしかないことになるが。


 ──ま、そう考えた方が単純でいいや


 ふ、と笑った。

 大きく空気を肺に溜めて、一気に立ち上がった。

 鈍い痛みがまだ残っているが、問題ない。

 全然戦れる。

 龍造寺は、血に濡れた歯を見せて笑っていた。

「そうこなくっちゃ。やっとまともな喧嘩ができそうっすわ」

「へえ。したことねえのか、まともな喧嘩」

「ま──そっすねッ!」

 相変わらず、先に出るのは龍造寺だ。

 足が突き出る。

 前蹴り。

 なんの隠し球もありゃしない真っ直ぐさが、セイマに襲いかかる。

 セイマは避けざまに、前に出た。

 懐に侵入すると、今度は拳で龍造寺の顎を跳ね上げた。

 宙に血がしぶいた。

 手応えは、あまり感じられなかった。

 セイマは驚かない。

 無防備な頭部を、挟むように両手で掴む。

 地を跳んだ。

 一拍遅れて、岩と岩とが激しくぶつかったような音。

 龍造寺の顎に、もっと強烈な膝をぶち込んでいた。

 常人なら顎骨が砕ける一撃は、しかし──


「──へッ」


 龍造寺から笑みを奪うことすらできなかった。

 流石に舌を巻いた。

 同時に、怖気。

 見ろよ、龍造寺の腕が牙を剥いているぞ。

 セイマが手を離して、龍造寺から距離を取った。

 地面に足をついた途端、膝が笑ってがくりと下がった。

 鉄柱にでもぶつけなければ感じられない痺れがあった。

 わずかな隙を、龍造寺も見逃さない。

 間合いを詰めるや、振るった腕が大きな弧を描いていた。

 回避が間に合わない。

 腕を畳んで、体を防御まもる。

 吹き荒んだ颶風は、セイマの体を腕ごとまた吹っ飛ばした。

 立って、いられなかった。

 足で必死に掴んでいた地面からも離され、またしても身体は宙。

 そして、重力に顔から思い切り叩きつけられた。

 かろうじて、意識はまだ手放さなかった。

 指先の感触が残っているあたり、腕も折れてはいないだろう。

 だが刻まれた熱は、常に焼きごてを当てられている気分にさせられた。

 顔の中心には、生ぬるくてぬめっとした感触が広がっていくのがわかる。

 鳥肌が立つ。

 あの路上だったら、終わっていたかもしれない。

 砂地だからこの程度で済んでいるが、固いあの路上の上に叩きつけられていたら──


「────怖えな」


 小さく呟いた言葉は、すぐに砂に吸い込まれた。

 言葉と裏腹に、顔の表に這い上がってきたのは笑みだった。

 これで確信はできた。

 確信さえあればやりようはある。

 少し、チップを払いすぎたかもしれないが、相応の代償だろう。

「まさか終わりじゃあないっすよね、セイマさん」

 向こうから、龍造寺の声が聞こえる。

 甘いやつだ。

 追い打ってもいい場面なのに。

 それだけ正々堂々としたい男なのか。

 いや、違うだろう。

 あれは余裕だ。

 何せ、セイマと龍造寺には埋めようとしても決して埋められない差があるのだ。

 いつもなら、そいつに激しい怒りが湧いていたに違いない。

 だのに、セイマの中に満ちる熱は、どろどろとしたものじゃなかった。

 怒りと形容するには程遠かった。

 ──見せてやりたかった。

「待ってろって」

 セイマは、低く言った。

 未だ龍造寺は攻めかかろうとしない。だったら、多少は休んでもいい場面だ。

 知ったことじゃなかった。


 終わりじゃあないっすよね──だ? 当たり前だろが

 

 そんな台詞を吐かれたら、男は立ち上がらないわけがなかった。

 身体中から、残っている力を絞り出す。

 背中が盛り上がる。

 首が起こる。

 最後に、真っ直ぐな眼光で龍造寺を捉えた。 

 龍造寺の目は、食べても食べきれない極上ステーキを前にした、飢えた犬のようだった。

「そんなに嬉しいかい」

「そっすね」

 短い言葉だが、期待が隠し切れちゃいない。

「だって、アンタのような男……初めてっすもん」

「いなかったのか」

「まあ──なかなか難しいもんで」

「だろうな」

「……バレてる、っすよねぇ」

 龍造寺は、悪戯が露見した子どものように頭を掻く。

「あんだけ拳をぶち込まれたんだ、バレてもしゃあないっすか」

 拳どころか、膝までぶち込まれた顎を指先で撫でる。

 きっと、その骨にはヒビ一つ入っていやしないだろう。


 そうだ、骨だ。


 奴の異常な硬さの秘密は、その骨にあった。

 骨密度。

 龍造寺は、それが常人の数倍以上の代物なのだ。

 セイマの拳も数々の修羅場を潜り、常人には無い硬さがある。

 だが、骨の密度まで高めることは、流石にできなかった。

 当然拳をぶつけても、ダメージを負うのはセイマの方ばかりだ。

「膝なら多少は──と思ったが、硬すぎンだろ」

「正直、俺もここまで硬いとは思ってなかったッすけどね」

「だから、こんな喧嘩は初めてかい」

 造りに差があれば、対等な喧嘩など難しいだろう。

 あっちがいくら拳を入れても、大した痛みもない。

 逆に、龍造寺の拳が一発でも入れれば、最悪即死だ。

 喧嘩にならない。

 やってることは、ただの一方的な暴力でしかなくなる。

 そういえば、あの日の夜もそうだったらしい。

 セイマと龍造寺が初めて出会した、あの夜だ。

 あの夜、龍造寺はある敵対ヤクザにカチコミに行っていたらしい。

 目撃者曰く、あれはただの蹂躙だった、と。

 ドスを入れても途中で止まるし、弾丸は腕で防がれる。

 セイマを吹っ飛ばした拳は、何人ものヤクザの骨を砕いて回ったとか。

「──正直、アンタはよく立ち上がってくれるっすよね、それも何度も。嬉しいっすけど」

「ま、打たれ強さだけは自信があるンでな」

「でもジリ貧っすよ、そのままじゃあ」

 言葉の温度が、一気に冷たくなる。

 眼差しには、ドスが煌めいたような殺気を帯びていた。

「アンタの拳、まだそれほどっすよ。こっからどうひっくり返──」

「だらっだら、うるせえなあ」

 低い声音がぴしゃりと絶った。

 その台詞には、龍造寺に返事を許さない圧があった。

 脂汗に塗れていたセイマの顔に、水面から這い上がるように笑みが浮かんだ。

 凄みがあった。

 龍造寺の喉が鳴る。

 口笛の一つでも吹きたかったが、手負のはずの男を前に、なぜか寒気が背中を這いずった。

 

「来いよ。こっから先を知りてえンだろ。だったら、直接自慢の骨で聞きゃアいい」


 セイマは誘うように顎で指す。

 肌にさすチリチリとしたものが、一気に増えた。

 笑みを絶やさないながらも、龍造寺はドスの切先を向けるようにセイマを注視する。

 圧倒的優勢──そのはずなのに、意識しなければ足が下がりそうになっていた。

 今まで感じたことのない感覚だった。


 ──なんだこれ

 熱と寒気とが体の中でぐちゃぐちゃになりそうな、これはなんだ──


 周囲の音が遠くなるような気がした。

 代わりにこだまするのは、胸の中を波打つ何か。

 知らない。

 こんなものは、知らない。

「────ァッ!」

 わけがわからないものを振り切るように、龍造寺は飛び出す。

 真正面、反撃を喰らうことはちょっとも考えていない。

 奴の骨にはどんな拳も屁にすら劣る。

 咆哮を乗せて、拳の形をした鉄槌を振った。

 嵐が立つ勢いはしかし、当たらなければ意味が無い。

 一直線の脅威を、セイマは躱わす。

 大きい振りに生まれた隙に付け込んで、再び懐に入った。

 左拳が牙を剥いていた。

 龍造寺は笑んだままだ。

 腹か。

 頭か。

 顎か。

 どこを狙われたって、龍造寺は構わない。

 そう言わんばかりに、次の拳を準備する。

 セイマと龍造寺の視線がぶつかった瞬間、それは弾けた。


「ぐ────ぅ?!」


 龍造寺の口から、涎に塗れた呻きが溢れた。

 それは、初めての衝撃だった。

 右脇腹に突き刺さる、セイマの拳。

 内臓を直接握られ、潰される。

 そうとしか喩えようのない痛みが、龍造寺を襲っていた。

 衝撃は稲妻のように全神経を駆け抜ける。

 落ちそうになる体。

 こんな時、どうすればいいのか、龍造寺には分からない。


 ────だって、こんなこと初めてだった。


「おい──」

 降ってくる言葉に、わずかに視線を上げる。

 瞬間、今度は突き上げるような蹴りが、龍造寺の鳩尾ど真ん中を穿ち撃った。

 ど──とチャカで撃たれたような音が体で鳴った。

 肺の空気が、全部持っていかれるように吐き出される。

 大きな体がくの字に曲がった。

 口から、どろどろとした雫が絶え間なく垂れていく。

 膝が笑いながら、地面に付いた。

 立てない。

 痛みに体が強張って、思うような力が入らない。

 さっきまであったはずの熱は、たった二発の拳に奪われてしまったのだろうか。

 極寒の銀世界に放り出されたような寒さに、龍造寺の体が震えていた。

「きっちいだろ」

 振ってきた言葉を見上げる。

 男が一人、見下ろしていた。

 さっきまで、自分が見下ろしていた男だ。

 さして時間もたっていないのに、一回りも二回りも大きくなっている気がした。

「俺も初めて食らった時はそうだったぜ。キツすぎてゲロまで吐いちまった」

 レバーブロー。

 最初にセイマがやったのはそれだ。

 肝臓は人体急所の一つ。どれだけ鍛えていようが、そこにもらっちまうと人はたちまち悶絶する。

 いくら骨が硬かろうが、お構いなしだ。

 以前のセイマになら無い手札──幾多の修羅場と、馬鹿に世話焼きな中年との鍛錬で身についた技だった。

 龍造寺は、ふしゅると涎混じりに呼吸をするだけで精一杯に見えた。

 ──強ぇな

 セイマは素直にそう思う。

 既に幾らかの試合で試し撃ちをした事はあったが、立ち上がれる奴はいなかった。

 だのに、この男は倒れちゃすらいない。

 十分以上に強いじゃあないか。


「ホント、桁外れにも程がある──でもな、それだけじゃあ確かに”喧嘩にゃあならねえ”な」


 セイマは、低く言った。

「俺のようなことしなくたって、アンタを完封できる顔が頭に何人も浮かんでくるぜ。だってアンタ、喧嘩できてねえからな」

 瞠目。

 セイマの言葉の意味を、龍造寺は理解できなかった。


 ──完封?

 喧嘩ができていない──?


 言葉を返したくても、口を開こうとするだけで、電撃を浴びせられるような痛みが奔る。

 体が余計に沈む。

 顔が、中身が張り裂けて出てきそうなほどに歪んでいた。

「悔しいよな──でも現実だぜ。テメェ自身が本気で向き合おうとしちゃいねえもンな。本気になっても無駄だって、どっかで思っちまってやがる。そんなんじゃあ、ここにいる奴ら一人にも勝てやしねェよ」

 会場は、煩わしいほどの歓声がある。

 そのはずなのに龍造寺の鼓膜には、セイマの声だけがこだまする。


「自慢は骨の硬さですだ? 骨が硬すぎてまともに戦えるヤツが見つかりませんだ?──井戸ン中に引きこもってるのも大概にしやがれッてんだ」


 龍造寺の唇が裂け、赤黒い雫が溢れた。

 だのに、口角は頬に裂け目でも入りそうなほど吊り上がっていた。

 滅茶苦茶な貌だった。

 煮凝りになった感情が、そのまま浮き上がっているようだった。

「──は」

 口から、溢れた。

「──はは、ははは」

 笑声。

 男は体を大きく震わせて、笑う。

 裂けた唇から血が湧き出るのも構わず笑った。

 そういえば──そう龍造寺は思う。


 ──こんな生意気を聞いたのは、後にも先にも無かったなァ


 龍造寺の後ろに人はいても、横に立つ奴はいなかった。

 立ち塞がった奴は少なくなかったが、数分も経てば龍造寺に傷一つつけられないまま、地面に転がっていた。

 見上げられた瞳は、いつも追い詰められた小動物のように震えていた。

 気づいたら、周りの皆が同じ様な目をしていた。

 舎弟も。

 兄貴たちも。

 終いには、実の親でもある組長ですら、龍造寺を見る眼差しに恐れが見え隠れしていた。

 自然と、龍造寺は一人でいる様になった。

 舎弟たちは形ばかりについて来るが、誰も龍造寺には追いつけやしない。

 喧嘩の時も、傍に立って龍造寺が暴れる様を見守るだけ。

 わずかに心地いいのは、顔を腫らして泣きついてきた時ぐらいなものだ。

 

 それが今はどうだ。


 見上げているのは龍造寺の方じゃないか。

 龍造寺は、立ち塞がった男の眼差しをよく見た。

 様々な視線を浴びてきた男だ、目を見るだけで大抵のことは分かる。

 微かに恐れが見えた。

 生意気を言っているくせに、僅かに瞼が震えている。

 しかし、舎弟や兄貴達と違って、イモを引いたような色をしちゃいなかった。

 気概があった。

 恐怖という一線を越えようとする気概が、その男にはあった。

 言っている言葉も、あながち間違いではないかもしれない。

 何せ喧嘩と言ってもこっちが暴れるだけで、いつも全て終わってしまっていた。

 こんな風に殴り返されて膝をついたことなんて、いくら記憶を掘りくりかえしても出てきやしない。

 本気になる瞬間なんて、どこにもありはしなかった。

 これが喧嘩なのか。

 喧嘩とは、こういうものなのか。

 龍造寺には、それがわからない。

 わからないからこそ──


「セイ、マ──ァアアァアッ!」


 咆哮。

 男が、立つ。

 脂汗に塗れた顔が、俄かに紅潮している。

 瞳が、ギラリと血が渇いていないドスじみた凶悪さで瞬いていた。

 噴き上がった圧力が、セイマを襲った。

 熱風で体が焼けるようだった。

 背筋が震え上がる。

 だのに、セイマの貌は喜悦を孕んでいた。

「龍造寺──だったな」

 セイマは初めて、男の名を呼ぶ。

「テメェの本気、ぶつけてこいよ」

 セイマの指が、コツコツと自分の脳天を叩いた。

「その硬ェ骨をがっしり握って、ここにぶつけてみな」

「──何を、言ってンすか」

 さしもの龍造寺も、僅かに怒気を帯びていた。

 龍造寺もヤクザだ。面子は人一倍ある。

 わざわざ先手を譲られるなんぞ、顔に泥を塗りたくられるのと同じ様なものだった。

「もう既に勝った気でいるンすか? 確かに俺は、喧嘩は出来てないかもしんない。だからって、そんな情けをかけら──」

「違ぇよ」

 龍造寺の言葉を切るように、セイマはビッと指をさす。

「むしろ、このままじゃあテメェに勝ったなんざ、俺ァ口が裂けても言えねえ」

「は──」

「だってよ、結局俺はテメェの骨をびくともさせていねぇどころか、テメェの骨に何度も転がされちまっている。しかも本気を出し切ってねえテメェにな。ンなのに、そのまんま! 勝っただなんてッ! 言えるかってンだッッ!!」

 唖然とした。

 するしかなかった。

 馬鹿なのか、この男は。

 龍造寺自身、己の拳がどんな凶器か理解していた。

 この拳は、頭蓋骨をも粉砕できる。

 実際、あった。脳髄がぐしゃぐしゃになった仏さんが何人もいた。

 その凶器をがっしりと握ってぶつけてこい、だと?


「──いいンすか」


 龍造寺が、セイマへとにじり寄った。

 頬が驚くぐらい緩んでいた。

 井戸の中に引きこもっているつもりはなかった。

 しかし、セイマの言うとおり、外のことを知らずに生きていたのは本当だったらしい。

 じゃなければ、こんな馬鹿がこの世にいるとは思わないじゃないか。

「おっ死ンでも、文句は聞かないっすよ」

 握りしめられた拳がみしみしと低く唸る。

 ついで、体を捻る。

 腰から背中、いや体の全体が絞られた雑巾のように大きく捻られる。

 異様に不自然で、異様な構えだ。

 なのに、纏う空気が歪んでいる。

 中身から聞こえる、弩弓の弦が張るようなギチギチとした響きは、馬鹿にはできない凄みがあった。

 セイマに、ガードする様子は見えない。

 笑みは不敵、龍造寺をただひたすら真っ直ぐに見据えている。

 一方で、胸の早鐘だけは流石に抑えることができない。

 構わなかった。

 だって、それが喧嘩というやつなのだから。


「言わねェよ、死人に口なんて聞けるか」

「確かにそう、っすねェ────ッッ!」


 引き切った弦が、放される。

 ご──と、火が爆ぜ上がった音がした。

 刹那、セイマの脳天が赤く華開いた。

 天骨に墜ちた拳は、止まることなく振り切られた。

 セイマの体が、見事につんのめる。

 赤く濡れた顔に、白目を剥いたのが見えた。

 体がゆらと前のめる。

 手応え、有り。

 拳から伝った感触は、龍造寺に勝ちを確信させるには十分だった。

 ──はずなのに、だ。

「……マジっすか」

 龍造寺が顔を覗いた先──そこで、セイマの瞳と目が合った。

 白目を剥いていたはずの瞳は、はっきりとした瞳孔で龍造寺を見た。

 ぞ、と足を冷たいものに掴まれ引きずられるような寒気に、鳥肌。

 横目には、セイマの左拳。

 咄嗟に脇腹を固めた。

 だが、空気を切り裂いたのは、脚だった。

 真っ直ぐだった。

 真っ直ぐに喰らいついた先は、龍造寺の喉笛だった。

「か、ぁ──っ?!」

 深く、捻り込む。

 気道が潰されて息が吸えない。

 舌がびんと伸びた。

 瞳が一回転しそうだった。

 龍造寺は、むしろ力強く地面を踏み締める。

 倒れない。

 膝もつかない。

 これが、喧嘩というものなのだろう。

 やっと、初めて本物の喧嘩がやれたのだ。

 終わりたくなかった。

 終わらせたくなかった。

 声が全く出ない喉で、血を吐き散らかすように、男は名を叫ぶ。


 セイマぁアあぁアアァッ──!

「龍造寺ィいイィいイィッ──!」


 龍造寺が拳を振り上げる──前に、腹にセイマの拳がめり込んでいた。

 左脇腹、その先に肝臓がある。

 いくら骨が硬かろうが関係ない、人体の急所。

 あの痛みが、龍造寺を襲う。

 膝が落ちる。

 けれど、体は落ちない。

 龍造寺はまだ落ちない。

 墜とすのは、拳だ。

 握った拳に、さらに握れるだけの意地を握る。

 それを、セイマの赤く染まった脳天に、もう一度。

 血に塗れた叫びを乗せた渾身が、地鳴りを立てた。

 汗混じりに噴き荒れたのは紅蓮の飛沫。

 体が仰け反る。

 セイマから、全ての力が完全に抜けた。

 確かにそう見えた。

 しかし次の瞬間、歯が唇を捲り上げて力強く噛み締められる。

 奥歯に亀裂が入りそうなほどに噛み締めたのもまた、意地なのだろう。

 男は倒れない。

 足がしっかりと地面を掴む。

 前のめりになりながらも、膝はもう笑ってもいなかった。

 もう、倒れようなどとはしていなかった。

 セイマは、其処に立っていた。


 ────負けた


 その脇を掠めて、龍造寺が倒れ込む。

 限界はとうに超えていた。

 全体重を乗せた拳に引っ張られた体を支える力など、龍造寺にはもう残されていなかった。

 しんと静まった舞台に、地響きが立つ。

 龍造寺は、幸せそうな心地で笑っていた。


───────

 

 白い天井、というには黄ばみや黒ずみが酷かった。

 龍造寺の瞼がゆっくりと持ち上がる。

 気分はまだ夢の中に半分、といったところだろうか。

 いい夢を見た、と思う。

 欲張りを言えば、もう少し夢を見ていたかったところだが、夢はいつか覚めるものだ。

「起きたかよ」

 隣から、声がする。

 目線だけ向けると、夢の中で龍造寺を倒した男の横顔があった。

 セイマだ。

 頭に包帯を巻いていた。

 血が滲んでいたが、とっくに乾いたのかだいぶ赤黒くなっていた。

「──ぁ」

 声を出そうとして、喉がずきと少し痛んだ。

 蹴りを入れられた場所だ。


 ──夢じゃなかったのか


「な、なんだその気持ち悪い顔は」

 セイマの顔が、若干引き攣っている。

 どうやら、気づかないうちに龍造寺の頬が緩んでいたらしい。

「し、つれい……っすね」

「ま……まあ、そうかもだけどよ」

「いい、っすけど」

 心外だったが、今の龍造寺には文句を言うだけの口は無かった。

 思った様な声が出ないのもそうだが、『恩人』に悪態をつける人間でもなかった。

「つか、あんまし喋るんじゃあねえよ。喉、痛むだろ」

「それあんたが、言うんす、か」

「言っちゃあ悪いか。まあ、アンタとの喧嘩はまだケリが着いてねえからな。死なれでもしたら困る」   

 一瞬、意味がわからなかった。

 いや、言葉をしっかりと咀嚼しても、意味を理解することができなんだ。

「決着……着いたじゃ、な、いっすか」

「着いてねえよ。だって、テメエはやっとこさ土俵に立ったばかりなんだ」

「──土俵……」

「そうさ」

 初めて膝をついた。

 痛みがこんなにも体を不自由にさせることを初めて知った。

 それでも初めて、本気で勝ちたいと、全身の力を全て振り絞った。

「そうっすね……俺は確かに、喧嘩について何も知らなかった。土俵にも立っちゃいなかった」

「でも、今はもう違う。今度はわからねえ。俺が勝ったのはまだテメぇの骨だけだ。テメぇがその骨を余すことなく使って喧嘩を仕掛けてきたら、今度こそ俺は負けるかもしれねえ」

 それまで遠くを見るように天井を見上げていたセイマの顔が、龍造寺に向けられる。

 強い眼をしていた。


「だけどな、その今度ともやらなきゃあ、俺はアンタとモノホンの喧嘩をしただなんて言えねえよ──龍造寺」


 つくづく、馬鹿な男だと思った。

 ヤクザの世界じゃ、そんな馬鹿は早死にする。

 背中を弾かれて、あっという間に御陀仏になる姿が脳裏をよぎった。

 でも、嫌いになれなかった。

 胸に昂りさえ感じる。


「俺ァ、幸せモンっすわ」


 その顔は、やはり子供のようだった。

 しかし、初めて試合の舞台に上がったような子供らしさとは、また違う。

 褒められて頭を撫でられたような、そんな子供の顔をしていた。

「だったら今は大人しく寝とけ。とっとと治して、出直してこいや」

「じゃ……お言葉に甘え、る……っすか、ね」

 そう言うと、おもむろに龍造寺が眼を瞑る。

 数分もしないうちに寝息が聞こえてきた。

 試合から、実のところまだ一時間かそこらしか経っていない。

 だというのにこんなに早く目覚めて、ある程度に意識もはっきりしていた。


「タフな野郎だ」


 以前だったら、こうはいかなかったとも思う。 

 ただ、打たれ強さだけを武器に真正面からぶち当たっていたら、今度なんて言葉を出すこともできなかっただろう。

 セイマの脳裏に、レバーブローを叩き込んだ喧嘩代行の顔が浮かぶ。

 もっと今を愉しむために。

 一段上の奴らとも、愉しめるようになるために。

 いつかの言葉が、今更ながら実感を伴って蘇ってくる。

 隣に自身を打ちのめした男がいるにも構わず、豪快な寝息を立てる男の顔を、もう一度見やった。

 今度はわからない。

 わからないから、もっとやりたい。

 絞り切れるだけの全てをぶつけて、どっちが勝つか愉しみ切るまでやってみたい。

「お前もそうだろ、龍造寺」

 一度殴り合ったところで、胸の熱はまだ引きやしない。

 当然だ。

 あの雨でも冷めなかった熱だ、一度の喧嘩じゃ満たすにはまだ早いだろうさ。

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逆境の拳 一齣 其日 @kizitufood

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