第8話

「わたし、中学校では息を潜めて生きていたんです。出身中学がすごく荒れていて、周りの子たちに目をつけられたら大変なことになる、そんな状況だったから。あの頃は何にも楽しくなかった。ただ学校に行って、意識してみんなに調子を合わせて、ひたすら自分を殺して、息を潜める毎日。あの頃のわたしは、死んでいるも同然でした。

 高校に入ってからも、同じようになるたけ目立たなく生きようと思っていたんです。別に何かをがんばらなくてもいい、勉強も部活もそれなりに緩くやればいいかなって。そんな時に、桐谷くんに出会ったんです。

 衝撃でした。自分のやりたいことには全力で取り組む。違うと思ったことには全力で抵抗する。そんな生き方、今までのわたしには考えられないことだったから。思い返せば、中学校だけじゃない。小学校でも、幼稚園でも、家でもずっと、ずっとずっと、わたしは『いい子』だったんです。がんばっていい子でいようとしてた。自分の気持ちに嘘をついていたんだって、桐谷くんと接することで初めて気づくことができたんです」


 今まで胸の内に溜め込んでいた想いが一挙に押し寄せてきたかのように、言葉がとめどなく溢れてきて、自分ではどうしようもなかった。


「成り行きで桐谷くんと一緒の部活に入って、最初は大変でした。先輩たちは変人奇人しかいないし、桐谷くんはやりたい放題。ストレスで胃に穴が空くかと思いました。でも、次第に自分が楽しんでいることに気づいたんです。ううん、楽しんでいるだけじゃない、地学研究部にいると、桐谷くんと一緒にいると、自分が自分でいられるように感じられて、楽だったんです。地学研究部での時間が素敵なものになって、桐谷くんが隣にいるのが当たり前のようになって、そして、次第に桐谷くんが、かけがえのない大切な人になっていきました」


 わたしは大きく息を吸い、それからゆっくり、ゆっくりと吐いた。そうすることで楽になるかと思ったのに、どういうわけか呼吸は少しも楽にならなかった。


「……転校の話が出たとき、目の前が真っ暗になった気がしたんです。少なくともあと一年くらいは、桐谷くんと、みんなと一緒に地学研究部で過ごせるって思ってた。なのに、別れはすぐそこまで迫っていたんです」


――もう二度と会えないかもしれないのだもの。


 そんなはずはない。どこに住んでいようと、双方がその気になればいくらでも会いに行ける。そんなことにも気が回らずに、この一言がずっと耳元で鳴っていたのはいくら何でも愚かに過ぎる。


 なのに。どうして楠木さんのあの言葉に踊らされてあんなことをしたのか、自分でも、今ではよくわからなくなっていた。


「桐谷くんに私の想いに気づいてほしかったし、気づいてほしくなかった。気づかれても気づかれなくても、ただ苦しむだけだということはわかっていたのに。それでも、想いを伝えたかった。たとえ叫ぶことができなくても、想いを懸けずには、いられなかったんです」


 わたしはほとんど自嘲するように笑った。先生は沈痛な面持ちでわたしの話にじっと耳を傾けている。


「だから、パーカーを置いて桐谷くんも桜井ちゃんもいなくなったことが、チャンスだと思ったんです。いえ、自分から桜井ちゃんに相談に行きなよと勧めさえしました。そうして、気づいたら教室に残っていたパーカーをかばんに入れて、教室を出ていました。

 杉崎くんが桐谷くんの転校のことでショックを受けて、桜井ちゃんもこの一件でふさいでた。桐谷くん本人だって気が気でなかったはずなのに、なのにわたし、自分本位でこんな事件を引き起こして、みんなに悲しい思いをさせて……」


「松野さん、一人で背負い込み過ぎてはだめです。あなたは責任感があり過ぎる、それは美徳であると同時に悪徳でもあります。そして、それは恋においても同じことなのです」


 先生が優しい声で言った。


「先生、恋は罪悪なんですか? 人を好きになっては、いけないんですか……?」


 思わず鼻の奥がつんとした。またしても世界がぼやけ、かすんで、その意味を失っていく。


「もちろん、人を好きになることは素敵なこと、素晴らしいこと、かけがえのないことですよ」


 先生はにっこり笑う。


「恋は、あなたのその感情は、それ自体はとても尊いものです。しかし、自らの内に向いた想いに苦しむこと、それこそが罪悪だと私は思うのです。

 ではお聞きしますが、松野さん、今回のパーカー消失事件、桐谷くんは果たしてどこまで真相に気づいていると思いますか?」


 桐谷くん。


「知りたくない、と桜井ちゃんに言っているのを聞いてしまいました。興味がないんだと思います」


「そうですか」


 先生は嘆息した。

「私の考えでは、彼は犯人があなただということに気づいていますよ」


 なんとまあ。思わず先生の顔を凝視した。先生は穏やかに言う。


「知りたくない、ですか。彼なりの優しさだと思いますよ。状況証拠から見てあなた以外には考えられないのですから、察しの良い彼ならすぐにわかるはずです。さすがに桜井さんに真相を伝えると、こじれることが目に見えていますから、彼もそう言ったのでしょう。

 では、もう一つお聞きしたいのですが、彼はあなたが松の木に懸けた『掛詞』の想いに、気づいたと思いますか?」


 それは、たぶん――

 はっとした。


「気づ、かないと思います……」


「そうですね、私もそう思います。何せ彼は、国語も英語も苦手で、しかも興味がありませんからね。あなたの謎かけは、彼には難易度が高かったはずです」


 先生は真面目な表情を作っているが、よく見ると笑いを堪えているように見える。それを見ていると、だんだんおかしくなってきた。わたしと先生はほとんど同時に噴き出した。

 第二会議室は、しばらくの間笑いに満たされた。


「恋は罪悪というのは、一つにはこういうことです」


 先生はまだ笑っている。

「言い換えれば、恋はまさしく盲目ということですね」


「あーあ」


 かく言うわたしもまだ笑っている。


「結局、あんなやり方で想いを伝えようとしたのは無駄だったってことですね」


「いや、もちろん無駄なことではありませんよ? あなたの一世一代の大勝負、個人的には無駄だったどころか、素晴らしいほど美しく決まっていたと思います。惜しむらくは、相手が悪かった、というより相手のことを考慮に入れていなかったことですね」


 先生はそう言ってくれたけど、わたしはおかしさと同時にむなしさも感じていた。

 気づかれない想いに、意味なんてあるのかな。


「松野さん」


 先生が表情を真面目モードに切り替えた。


「恋の悪徳は、他にもたくさんあるんです。少し例を挙げましょうか。『こころ』の『先生』は、どんないけないことをしたと思いますか?」


 いけないこと?


「それは、Kにお嬢さんから手を引くように暗に迫ったこと……?」


「もちろんそれもあるでしょうが」


 先生は息を吐いた。


「これは一つの読み方ですが、一つには、そもそも『先生』はKをお嬢さんの家に下宿させるべきではなかったのです。

 当時、Kみたく精進めいた生活を送ることが流行っていたそうで、ああいった人は一定数いたということです。そんな人に、若い女性がいる家にわざわざ同居させるありがた迷惑が、果たして他にあるでしょうか」


 そういうもの、なのだろうか。わたしにはよく掴めない。


「まだあります。むしろこちらが重要です。『先生』はお嬢さんと二人で帯を買いに行ったりしています。今だとごく普通のデートということになるでしょうけど、当時はもうここまで来るとお付き合いしているも同然、という状態なんだそうです。こうまで進展していながら、『先生』がKに猜疑心さいぎしんを抱き、嫉妬の炎を燃やすというのは、少しばかり筋が違うと思いませんか?」


「そう言われると……」


 そんな気がしてきた。


「教科書に採録されている部分ですが、あれは『先生』の遺書という形式をとっています。だから、構造的にそのことが読み取りにくいのです。なぜなら、『先生』自身が気づいていないことを書けるはずがないのですから。

 それはさておくとして、恋の罪悪というのは、すなわちこの点においてです。嫉妬心と猜疑心、恐怖心、そして何より羞恥心、というのは個人的見解ですが。あなたはこういう人だ、と、このように人を決めつけるのは大嫌いなんですが、今はあえてそれをしましょう。松野さんには、このいずれもが見受けられるように思います」


 脳裏に、桐谷くんが浮かんだ。少し遅れて、楠木さんが。


「先ほど、想いを伝えようとしたのは無駄だったのではないか、とお訊きになりましたね? もちろん、そんなはずはありません。いけないのは、。その内に向いた想いが内側から身を焦がし、あなた自身を苦しめる。これこそが、恋における最大の罪悪だと思います。

 そして、あなたの懸想けそうは、何より恐怖心と羞恥心によってその発露を邪魔されている。だからあんなに回りくどい方法をとったのではないですか?」


 確かに、恥ずかしくないと言えば嘘になる。

 それに。


「今の関係性が壊れるのが、恐いんです……」


 わたしは思わず呟いた。


「気持ちはよくわかります。いったんできてしまった心地よい関係性を壊したくないというのは、人間誰しも願うことです」


 先生は頷いた。


「ですが、あなたの場合、状況的にうかうかしていられないのでは? 転校もそうですし、桐谷くんならば」


 先生はここで言葉を切り、にやりと笑った。


「強力なライバルがいることでしょうし」


 その瞬間、わたしは確信した。

 コイツ、あの女子を念頭に置いているな。わたしの嫉妬心と猜疑心の出所を、知っているな。


「ふふ、それも今はおいておきましょうか」


 と、先生は笑って手を合わせた。


「さて、これで私の話はおしまいです。ここまで手前勝手なことばかり言ってしまって、本当に申し訳ありませんでした。あとはあなた次第です。

 それにしてもすっかりお時間を取らせてしまいましたね、重ね重ね、本当にすみません」


 先生がぺこりと頭を下げる。わたしも慌てて頭を下げた。


「いえ、こちらこそありがとうございました。気持ちがすっきりしました」


 それは本当だった。いつのまにか気分が軽くなっていた。先生と話せて、心から良かったと思った。


「それは良かったです」


 先生はにっこり笑って、


「さて、地学研究部は、これからどうしますか?」


「はい。まず、パーカーの件をきちんと謝ろうと思うんです。桐谷くんはともかく、桜井ちゃんにすごく悪いことをしたから。

 許してもらえたら、そのまま三人で杉崎くんを迎えに行きます。頑固だから絶対に返事してくれないと思うんですけど、意地でも引っ張り出します。それから、桐谷くんにちゃんと転校のことをみんなに伝えてもらって、あとは」


「あとは?」


「最後まで、楽しみます。文化祭の準備も、その他のことも」


 わたしは笑って言った。

 先生は優しげな微笑を浮かべながら黙ってわたしの話を聞いていたが、おもむろに口火を切った。


「松野さん、あなたが元気になって良かった。松野さんと桐谷くん、あなたたちは互いに良い影響を与え合っているように私には感じられます。お似合いですよ。がんばってくださいね」


 わたしは自分でも感じられるくらい赤面した。


「せ、先生、それはとっても嬉しいんですけど、面と向かって言われるととっても恥ずかしいといいますか何といいますか……」


「一つだけアドバイスしてもいいですか?」


 先生はそんなわたしに取り合わず、にこにこしながら言った。


「ぜひ、デートに誘ってみるといい。それも、ただ遊びに行こうと言うのでは、あなたたちの間柄だと本当に普通に遊びに行くことになりかねないかもしれません。はっきり、デートしようと言うんです。桐谷くんのようなタイプほど、かえって意識してしまうのではないかと思いますよ」


「なるほど……!」


 確かに、効果的かもしれない。

 でも、そんなことを言おうものなら、恥ずかしさで死んでしまうに違いない!


「松野さん、想っているだけでは伝わらないんです、言葉にしなければなりません」


 先生は穏やかに言った。

 はっとした。確か、楠木さんも同じようなことを言っていた。


 ――ちゃんと言葉にしないと真意が伝わらないときもあるのよ――


 ふいに胸の内が温かくなるのを感じた。理由はわからない。けれど。

 地学研究部のみんなに会いたい。

 桐谷くんに、早く会いたい。


「さあ、もう部活動の時間ですよ」


 先生が立ち上がって笑う。


「早く行ってあげた方がいい」


 わたしも立ち上がると、笑って、


「沢渡先生、ありがとうございました。失礼します!」


 荷物を引っ掴んで教室を飛び出した。

 走る。走る。廊下を、階段を、職員室の前を疾走する。職員室から出てきた大柳先生と危うくぶつかりそうになった。


「うおっ危なッ! なんだ松野か、廊下を走るのは違憲なんだぞ、お前知ってんのか?」


「すみませーん! 知りませんでしたー!」


 わたしは笑いながら叫んで廊下を走り抜けた。いつのまにか笑っていた。愉快だった。

 背後で大柳先生が、やっぱりお前らバカばっかだよ、バーカ、とぼやいているのが聞こえた。

 化学準備室はもうすぐそこだった。扉の前に立つ。把手に手をかける。と、わたしは、中から聞こえてくる話し声がいつも通りの地学研究部のものであるのに気づいた。

 笑って冗談ばかり言っている、いつも通りの桐谷くん。元気はつらつで騒いでいるのはもちろん桜井ちゃん。そして、声に笑いを滲ませながらも、いつも通り斜に構えて二人に突っ込んでいるのは――

 わたしは微笑んだ。

 それから、扉を一気に開けた。

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まつ 東雲祐月 @shinonomeyudzuki42

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