第7話

「パーカーを盗んだのは、松野さん、あなたです。いや、盗んだというのは聞こえが悪いですが、それでも結果的にはそうなります。

 あのとき、大柳先生が廊下にいたことで、あなた方三人の他には通行人はいなかったことになります。さすがに先生の証言を疑うことはできませんから、犯人である可能性があるのは、まず楠木さん。それから、あなた方地学研究部の三人です。

 大柳先生は、あれでも教師です。生徒のものを盗む理由がありませんし、ばれたら職を失います。生徒指導に熱心なタイプでもないので、桐谷くんのパーカーをとがめて没収したというのも違うでしょう。大柳先生とは親しくさせていただいているのでわかりますが、本当に彼が犯人である、あるいは証言を偽るという可能性が万に一つもないだろうと言い切れます。

 次に楠木さんですが、彼女はほとんどずっとピアノを弾いていた。録音したピアノの音を流せる機材もなければ、教室にはパーカーを隠せるようなところもなかった。何より、パーカーは松の木の枝にかかっているのが発見された。松の木は中庭のど真ん中に生えているから、パーカーを窓から放って松の木にかけるというのは現実的ではありません。そして、彼女は大柳先生の前を通過していない。そこを通らなければ犯行は不可能です。ありえないんですよ。

 大柳先生の前を通過したのは、彼自身の証言によれば三人。つまりあなた方、地学研究部だけです。では、なぜあなた方の誰かが犯人でないと考えてはいけないのでしょうか?

 職員室での桐谷くんのアリバイは柴田先生、桜井さんのアリバイは私が証明できます。アリバイがないのは、松野さん、あなただけです」


 間違っていたら言ってください、そうであれば、あなたにこの場で謝罪しなければなりません。そう言って、先生は電気ケトルに近づいてお茶を淹れ始める。わたしは、かろうじて声を振り絞ろうとして、でもどうしても声がかすれてしまった。


「大柳先生の前を通るとき、パーカーを持って歩けば目につくはずです。先生は、わたしがパーカーを持っていたとは言わなかったでしょう……?」


「そうですね」


 先生は湯呑みをわたしの前に置き、座って自分のお茶をゆっくりすすってから言った。


「では、部室の鍵を閉め忘れたというのならば、あなたはなぜかばんなどの自分の荷物を持って部室を出たのですか?」


 わたしはまた言い訳を考えようとして、でも何も思いつかない。

 あのとき。桐谷くんが置いていったパーカーをかばんに入れて、わたしは教室を出た。桐谷くんと桜井ちゃんの貴重品が、わたしがいない隙に本当に盗まれないかだけが心残りだったけど、大柳先生が廊下を見ているから少しくらいは席を外しても平気だと踏んだ。

 桐谷くんのパーカーをかばんに入れて、わたしは堂々と大柳先生の前を通過した。大柳先生に話しかけられたのはそのときだ。床に白衣を置くのはいかがなものかと、そのときわたしは指摘した。「白衣、どうだ。畳んでみたんだが」という大柳先生の台詞は、一度話していなければ出てこない。あれはわたし個人に向けた問いだったのだ。


「それで、先ほどの『こころ』からの引用ですが」


 と、先生が言葉を継ぐ。


「もちろん、『恋は罪悪』だと文字通りに捉えられては困ります。ですが、ことこの事件においては、この台詞がぴったりだと思います。それに、あなたが好きな台詞なのですから」


「確かに、わたしの好きな台詞です。でも、ぴったりというのはどういうことでしょうか……?」


 わたしの声はほとんど震えていた。


「動機です」


 先生は簡潔に言った。


「誰がやったか、ということだけがこの事件において重要なのではありません。それだけに囚われていては、大事なことを見逃してしまいます。なぜ、あなたによってその犯行がなされたのか? あなたと桐谷くんの関係性を鑑みるに、悪意による犯行であるはずがない。引っ越しのことを伝えてくれなかった腹いせでしょうか? いえ、あなたはそんなことで腹いせをする人ではない。したとしても、より効果的な方策をとるでしょう。

 いえ、もしかすると、犯行という言葉も適切ではないかもしれない。つまり、盗んだという事実ではなく、という事実に目を向けると、どうなるでしょう」


 ああ。

 沢渡先生は、すべてわかっているのだ。

 全身から力が抜けた。


「松の木から松野さんを連想しなかったと言えば嘘になります。状況証拠から見ても、犯行に及ぶことができたのはあなたしかいません。あなたとしても、松の木にかけるというのは署名のような心持ちもしたことでしょう、そう私は推察します。

 しかし、それは本当に署名としての意味だけを秘めているのだろうか? そうして思い出したのが、先日の職員室でのあなたとのやりとりです。

 もしかするとこれは、古典の素養がある人なら誰でも知っている、高尚な駄洒落だじゃれなのではないだろうか。そんな考えが私の頭に浮かんだとしても、責められることではないはずです。ましてやあなたは古典が好きで得意科目です。古典の素養は十分にある。

 そう、この事件には、あなたの好きな『掛詞かけことば』が隠されているに違いない。そう私は推理したんです」


「……おっしゃる通りです」


「そうですか。違うところがあればすぐに言ってくださいね。

 さて、『まつ』と『松野まつのしのぶ』は掛詞の一つであるには違いありません。しかしそれだけではないでしょう、もちろん。何せ、この『まつ』という語は古典においても掛詞の典型です。それを知らないあなたではない。当然、『つ』という意味も込めたことでしょう。例えば、小倉百人一首でおそらくもっとも有名なのは、中納言ちゅうなごん行平ゆきひらの歌ですね。

『立ちわかれいなばの山の峰に生ふるまつとし聞かば今帰り来む』

 確かこうですね。『まつ』だけでなく、『いなば』が『なば』と『因幡いなば』ともなっているわけですが」


 あなたと別れて因幡の国に行っても、あの稲葉山いなばやまの峰に生えている松のようにあなたがわたしを待つと聞いたなら、すぐに帰ってきましょう。

 なんて美しい歌だろう。


「最初、あなたの『掛詞』は、この歌を念頭に置いたものと考えられました。転校する桐谷くんに向けて、『わたしは、この松の木のようにあなたを待ち続けましょう』とでも読み取れましょうか」


「あの、恥ずかしいくらいにその通りです……」


 なんて、なんてこっ恥ずかしい時間だろう!

 推理小説の犯人というものは、こんな地獄の責め苦みたいな時間を過ごさなければならないのか。わたしは彼らにほんのちょっぴり同情した。

 世の中の名探偵さん、どうかお手柔らかに……!

 先生の目がきらめいたように見えた。


「そうですか。でも本当に、?」


 背筋が凍る。もう、これ以上はやめて。そう叫びたかった。

 でも、今さら言えるはずがなかった。


「私もいちおう国語教師の端くれです。『まつ』の他の用例くらいは知っていますよ。まして百人一首の中でなら、なおさらです。

 そうして、もう一首思い出したんです。この歌を思い出したとたん、あなたの本命の意味はこちらだろうと思ったんです。それは状況からも、あなたと桐谷くんの間柄を外側から眺めている私の考えからも、のちほど挙げる根拠からも明らかであるように思われました。

 権中納言ごんちゅうなごん定家さだいえ、またの名を藤原定家ふじわらのていか。小倉百人一首の編者自身の歌ですね。他の修辞法も使われていまして、少々技巧に走りすぎている嫌いもありますが、今は些末事です。確かこうでした。

『こぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くやもしほの身もこがれつつ』」


 意味は……。


「なぜ、この歌か」


 先生は言葉を継いだ。


「もう一つ、思いつくきっかけがあったんです。それは、同僚の先生との些細なお喋りでした。彼が教えてくれた知識が、まさかこのようにつながるとは、私自身思ってもみなかったのです。それは、私よりもあなたの方がより実感があるに違いありません。何せ、教科は違えど教科書に載っていて、授業でも説明されたのですから。

 あなたに和歌の修辞法の本をあげる直前、英語科の柴田先生が話しかけてきました。和歌の修辞法を簡単に説明すると、柴田先生は驚いたようでした。そして、英語にもそうしたまったく違う意味を含む語がある、そしてそれを二年六組の英語の授業で説明したばかりだと言うのです。

 私はびっくりしました。まさか、古典の中でも有名な語が、英語においてもそうした意味を秘めていたとは夢にも思わなかったからです。

 あなたはその授業を受けていた。そして、授業への取り組みが先生に褒められるほど良いあなたは、この意味をその場できちんと押さえたことでしょう。根拠と言うには薄弱でしょうか。しかし、掛詞が好きだと言うあなたです、これには私と同様にびっくりしたに違いないと思いました。そして、先述の行平や定家の歌と結びつけもするかもしれない、とも。そして実際に、あなたは『まつ』の掛詞の三つ目の意味として、それを織り込んだのではないでしょうか。

 柴田先生がその場で英和辞典を繰るのを、私も一緒に覗き込みました。『pine』という語、日本語では『松』ですね。松の木です。しかし、pineにforがついて動詞として使われるとき、そこにはまったく違う意味が立ち現れる」


 先生は手元に広げていたノートを繰ると、そのページをわたしに見せてくれた。流れるような筆跡で、そこにはこう記してあった。


   pine for~:~を恋しく思う


「そして、定家の歌です」


 先生が静かに言う。


「意味はこうですね。『っても来ない恋人を待つわたしは、松帆まつほの浦の夕なぎ時に焼く藻塩もしおが火に焦がれるように、この身も焦がれているよ』」


 ここまで話すと、先生は黙り込んで、じっとわたしの目を見つめてきた。

 わたしは一瞬目をそらして、それから先生に向き直って目を合わせると、どうにか笑顔を作って言った。


「概ね、その通りです」


 もしかしたら、その時のわたしの笑顔は、ちゃんと笑顔になっていなかったかもしれない。

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