第6話

 翌日。金曜日の六限。


「はい、じゃあ今日も予定より全然進みませんでしたけど、これで終わります。来週も『こころ』の続きを読みます。まだ全編通して読んでないよという方は、ぜひ一通り触れてみてくださいね」


 それにしても、ほんとにどうしてこうも授業が進まないんでしょうねえ。そう沢渡先生がぼやくのが聞こえた。でも『山月記』の悲劇を目撃した者としては、最近の先生はなかなか悪くないと思うのだ。

 なにせ、授業中に寝る生徒が少なくなってきた。それは『こころ』の教科書に採用されている場面の凄惨なラストの影響かもしれないけれど。

 などとぼんやりしていると、


「松野さん」


 と呼ぶ声がした。見れば、当の沢渡先生がわたしを手招きしている。いぶかしみながら教卓に近寄る。


「今日の放課後、部活前に少しお時間をいただいてよろしいですか? 文化祭前でお忙しい中、本当に申し訳ないのですが」


 先生がすまなさそうに手を合わせる。少しびっくりした。


「別に構いませんけど。何か話があるんですか?」


「ええ、これはとても、とても大事な話です」


 先生は微笑んで言った。


「謎解きですよ」





 放課後、職員室に向かう。ただし、いつもと違って鍵を借りるためではない。

 昨日部活に寄らなかったこと、そして今日の部活にも遅れることを、教室で先生に手招きされた後に桐谷くんに謝りに行った。桐谷くんは、


「大丈夫だよ、調子悪そうだなって思ったし。今日も無理しなくていいからね」


 と言ってくれた。気遣いに感謝しつつ、わたしはそれ以上言葉を重ねることなく、そっと彼のそばを離れた。

 先生の呼び出しに、むしろ感謝していた。地学研究部の活動に顔を出さない口実ができて、少しだけほっとしていた。今行くと、どんなぼろを出すかわかったもんじゃない。


「失礼します」


 職員室の扉をノックして中に入る。自分の机の前に座っていた沢渡先生が振り向いた。


「ああ、松野さん。お待ちしていました。立ち話もなんですし、どうせなら第二会議室に行きましょうか」


 先生は、そう言って笑った。

 第二会議室という部屋がこの学校にあるとは、今の今まで知らなかった。道すがら、そのことを先生に伝えると、彼は笑って言った。


「そうでしたか。そうするとなんだか、秘密の部屋って趣がありますねぇ」


「いや別にそこまでは」


「あはは。はい、着きましたよ」


 第二会議室は三階の辺境に位置する部屋だった。三つあるパソコン教室のそば、特別教室棟の端っこにある。前の渡り廊下を渡ると一年生の教室が並ぶ廊下に出る。


「先生、謎解きっていったい……」


「そう、さっきの話ですね。実は、私も昔はミステリ小説を読むことが大好きだったんですよ。今はまったくそんな時間がとれなくなってしまったのですが」


 鍵を開けながら先生が言った。

 二人して中に入る。そこまで大きな教室ではなく、長机が四つ、四角形になるように置いてある。一方の席に先生が座った。わたしももう一方の席に腰かける。


「それに、今は仕事としてより大きな謎に取り組めているので、そちらの方が断然やりがいがあるんですよ」


「どういうことですか?」


「君たちです」


 先生はにこにこしながら言った。


「君たち生徒さんは、大きくて魅力的な謎ですよ。少なくとも私にとっては」


 普段なら突っ込みの一つでも入れるところだが、わたしは黙っていた。


「さて、こんな遠い部屋まで連れてきてしまって申し訳ありません。職員室だと、あなた方のプライバシーを守るのが難しいと判断しまして」


「プライバシー、ですか」


「ええ。話というのは他でもない、地学研究部の一件についてです」


 先生は真面目な顔になって言った。

 うん。やっぱりか。

 わたしはパイプ椅子にもたれかかり、目を閉じた。先生は構わず続ける。


「そう、これだけは最初に言っておかなければならないでしょう。ここから先は、かなりプライベートな問題に話が及びます。これは一教育者としての権限を軽々しく踏み越える由々しき行為であり、到底許されるものではありません。もしかしたら、あなたの気持ちを傷つけ、踏みにじるような結果に終わるかもしれません。

それでも私は、この話をあなたにせずにはいられない。昔から、お前は一言多いんだと言われてきました。今回もお節介に違いありません。しかし、どうか、どうか話だけでもさせていただけないでしょうか?」


「それは……」


 もちろん、それは先生の言う通りお節介というものだろう。

それでもわたしは、ここまで一所懸命になってくれている先生の気持ちを無下にすることなど、絶対にできないと思った。

 わたしは頷いた。先生は深々と頭を下げ、それから顔を上げて話を続ける。


「まず、どうして私がこの話に首を突っ込むかということに関しては、あなたも首をかしげるところだと思います。確かに一教員としては、別に地学研究部の顧問であるわけではないですし、余計なお世話かもしれません。しかし、私はあなたと桐谷くんのクラス担任です。責任がありますし、ぜひとも責任を持ちたい。あなた方の力になってあげたい。これもお節介でしかないし、重い先生だと捉えられることでしょうね。しかし、この際そんなことはどうでもよろしい。

 どうして私があなたと話がしたいと思ったかと言いますと、とある相談を受けたことがきっかけなんです」


「相談?」


「一年四組の桜井さんですよ。前に一回、彼女のクラスの国語総合の先生がお休みされたときに代理で授業をしたことがあるんですが、そのときに親しくなりまして。たまにお話にきてくれるようになったんです。いい子ですね、太陽みたいに明るくて、自然とこちらの気持ちも明るくなります。もっとも彼女は職員室が苦手だそうですから、おもに廊下での立ち話ですが」


 確かに、優しい沢渡先生なら桜井ちゃんに懐かれてもおかしくない。そっか、桜井ちゃんがどうしても相談しに行きたかった先生は、沢渡先生のことだったのか。


「まず、私が彼女から聞いたことを簡単に整理しますね。桜井さんは一昨日の水曜日と昨日の木曜日にわざわざ職員室に来て、私に色々と話してくれたんです。今からする話は、その二つの話を総合して私が整理したものです」


 先生が持っていたノートを開いた。


「まず、火曜日ですね。二年三組の楠木さんが地学研究部の部室を訪れて、桐谷くんの引っ越しと転校の話を持ち出し、知らされていなかった他の三人がショックを受けた。中でももっともショックを受けたのが、桐谷くんを一番慕っていただろう杉崎くんで、彼は前のように学校に来なくなってしまった。桜井さんがとても心配していました。

 次に水曜日。部室に誰もいなくなったタイミングで、桐谷くんのパーカーが忽然と部室から消失した。大柳先生の証言によると、当時一つだけしかなかった部室への通路を通ったのは三人だけ。となると、容疑者は限られてくる。犯人は誰か。これは後ほど検討するとしましょう。

 結果的にパーカーは見つかりましたね。どこにあったかというと、中庭に生えている松の木、その枝にかかっていた。桜井さんが発見しています。紛失から発見までの所要時間は、およそ三十分強でした。時間としてはとても短い。これに何の意味があるのか。これも後ほど検討しましょう。

 さて、木曜日は特に何事もありませんでしたが、あなたは地学研究部の活動に行かなかった。これも桜井さんが教えてくれました」


 ここまで説明して、先生は一息ついた。会議室の隅に置いてある電気ケトルをとると、部屋の中の洗面台で水を入れ、お湯を沸かす。

 そして言った。


「さて、ここまでの話で何か質問はありますか?」


 なんだか授業みたいだ。


「あの、先生は桐谷くんの引っ越しと転校の話をご存じだったんですか?」


「ええ、そういう話があるということも、まだ確定はしていないということも知っていました。担任ですから。しかし、それを私からあなたたちに伝えることはもちろんできません。本人から伝えるのが筋というものです」


 先生はどこか悲しげに見えた。


「しかし、彼は、あなた方に伝えるのが何より恐かったのですね……。気持ちは責められませんが、他人の口から知らされてしまうという、およそ考え得る限り最悪の手順を踏んでしまった。これ以上こじれてしまう前に、彼の口から説明をして、特に杉崎くんの気持ちを汲んでいくのがいいのかもしれませんね。これは桐谷くんが自分で何とかする問題だと思いますし、彼ならきっと大丈夫だと私は思います。だから桜井さんにも、杉崎くんのことはそれほど心配しなくてもいいと伝えたのですが、ちゃんと彼女に伝わったでしょうか……」


 なにせ私は力不足ですから、と先生は寂しそうに笑った。わたしは首を振る。


「先生のお陰で、きっと桜井ちゃんも心が軽くなったと思います。本当にありがとうございました」


 ぺこりと頭を下げる。先生は慌てて、


「いえ、桜井さんに関しては、話を聞いてあげただけですから。本当に大したことはしてあげられていないんです。それにいいんですよ、あなたがお礼を言わないでも」


 それでも桜井ちゃんは、沢渡先生が話を聞いてくれたお陰でどれほど気持ちが楽になったことだろう。桜井ちゃんは、周りの人が話を聞いてくれないことでずっと苦しんできたのだ。

 世の中に、人の話にちゃんと耳を傾けようとしない人間がどれだけ多くいることか。


「引っ越しの件に関しては、何とか桜井さんをなだめることができました。桐谷くんが話をつけて、杉崎くんもきっと戻ってくる、としか言ってあげられませんでしたが。でも、大丈夫だと思うんです。彼らなら、きっと。

 しかし、私はもう一つの事件のことをより心配しているんです。パーカー消失事件です」


 先生の顔に影が差した。


「心配って、どういうことですか? 何を心配しているんですか?」


 むなしい抵抗とはわかりながらも、わたしは尋ねずにはいられなかった。


「しかし……」


 先生は言葉を止め、それからわたしの目をしっかり見据えて、言った。


「『 ¹』」


 全身が硬直した。何も言いたくなくなった。



¹夏目漱石「こころ」より

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