第5話

 翌日、木曜日。今日も職員室に部室の鍵を借りに向かう。


「鍵? 化学準備室の鍵ならすでに他の部員が借りに来たぞ」


 柴田先生の言葉にわたしはびっくりしてしまった。ここ最近は、わたし以外の部員が鍵を開けることはなかったはずだ。

 狐につままれたような心地のまま部室に向かう。今日はもう部室への最短ルートのワックスがけは終わっていて、今ごろはもう、二階の別の箇所にとりかかっているはずだ。

 化学準備室の前まで来た。扉に手をかけようとして、開けるのをためらった。一昨日も昨日も色々あって、今日も何かがあるのではないかと思ってしまった。

 だから、結果的に盗み聞きのようになってしまったのは、致し方のないことだったのだ。


「パーカー、見つかって本当に良かったですね」


 桜井ちゃんの声だった。続いて聞こえてきたのは、


「そうだね。昨日はああ言ったけど、見つかって本当に良かった」


 桐谷くんの声。わたしの心臓がでんぐり返しをしたみたいになった。思わず胸を押さえる。


「でも、どうして学校にパーカーなんて着てくるんですか? 先生ににらまれるだけなのに」


 桜井ちゃんのごもっともな疑問に、桐谷くんは照れたように答える。


「うん、最初に着てきたときは、単に学校の体制に反抗したかっただけというか。そりゃもちろんおしゃれの意味もあったけど。それだけならそのときだけ着て、あとはたまに着るだけになってたはずだよね。でもさ、蒼空ちゃんも知ってる、とある人がすごく褒めてくれたんだ。『すごく似合ってるよ』って。それが、すごく嬉しかったんだ。たったそれだけの理由だよ」


「もしかして、それって……!」


 扉越しでも、桜井ちゃんが目を輝かせているのが手に取るようにわかる。わたしは顔から火を噴き出さんばかりだった。

 そんなこと、今の今まで忘れていたのだ。


「うん、そのもしかしてでたぶん間違いないよ」


 桐谷くんが苦笑する。


「まあ、そんなこんなだよ。この話はこれでおしまい。

 だから、見つかったときは嬉しかった。うん、それはそうだね」


「でも、本当に誰があんなことを……」


「知りたくないね」


 桐谷くんがぶっきらぼうに言った。


「事情は知らない。戻ってきただけで十分だよ」


「そうですか……」


 桜井ちゃんの不満げな声。それから声のトーンが一変して、心配そうに一言、


「慎一くん……」


「慎一には、本当に悪いことをしたな。もちろん蒼空ちゃんにも、忍ちゃんにも」


 桐谷くんの悲しそうな声。


「本当は、引っ越しのこと、転校のことを、いの一番にみんなに伝えるべきだったんだ。でも確定していないし、何より恐くて言い出せなかった。甘えだよね。それで結局、真っ先に伝えなきゃいけない人たちを傷つけて……」


「きりちゃん先輩のせいじゃないですよ……」


 それ以上は聞いていられなかった。

 それに、もともと盗み聞きは趣味じゃない。

 わたしは扉の前をそっと離れた。





 柄にもない行動を取ると、やはり普段は避けて通るものが自ずからこちらに寄ってくるものなのかもしれない。

 そのまま昇降口に向かう。第二音楽室の前を通り過ぎようとすると、ちょうど誰かが第二音楽室から出てくるところだった。


「あら、松野さん。今日はおひとり?」


 楠木さんはいつも通りにっこり微笑んだ。


「楠木さん」


「そんな、露骨に嫌そうな顔をしないでも」


「いやしてないけど」


「今日は地学研究部の活動はなさらないの?」


 わたしの突っ込みは意に介さず、にこにこと楠木さんが訊く。この野郎。


「ええっと、ちょっと体調が優れないから、今日は帰ろうと思って」


「あら、大変ね。お大事にしてね。それにしてもワトスンさんがいないとなると、今日のホームズさんはかわいそうね。あなたと桐谷くん、いつも一緒にいろんなことに顔を出していたのに」


「あはは。ホームズにワトスンと比べるのはおこがましいけど、確かに桐谷くんにはさんざん振り回されたなあ」


 わたしは力なく笑った。


「でも、楽しかったのでしょう?」


「うん」


 彼女の問いに、わたしは素直に頷いた。楠木さんに本音をさらすことは今まで控えていたのに。今日はやっぱりどこかおかしいみたいだ。

 楠木さんはそんなわたしをじいっと見つめると、ふいに真面目な表情になった。


「そうね、あなたやっぱり、今日は帰るべきね」


「え?」


「酷い顔してるわよ。気づいてる?」


 そこまで顔に出るものなのだろうか。思わず頬に手を当ててしまう。


「松野さん、確かにあなたはわたしにとって一番の好敵手よ。でもね、わたしはある一点においてだけ、一つだけあなたに勝っているところがあるの」


 そして、楠木さんは右手の人差し指をびしっとわたしの顔面に突きつける。


「伝えること、ね。いいこと、ちゃんと言葉にしないと真意が伝わらないときもあるのよ?」


 そうして、にっこりと笑った。わたしは彼女の指の白さにすっかりどぎまぎしてしまった。


「もっとも、これは桐谷くんにも当てはまるのかもしれないけれど。それじゃあ、お大事にね。また話しましょ?」


 軽やかに言うと、彼女はさっさと廊下の反対側に歩いて行く。わたしは思わず呼び止めた。


「あの、楠木さん」


「何か?」


 楠木さんがふわりと振り向く。わたしはおずおずと口火を切った。


「わたしなんかより、楠木さんの方が色々と勝ってると思うし、楠木さんの方がかわいい」


 楠木さんは突然わたしに褒められてびっくりしたようだった。色白の顔に一瞬赤みが差したが、すぐにもとの悪戯っぽい表情になって、


「ありがとう。わたし、だからあなたのことが好きなのよ」


 わたしは耳を疑った。そんな風に思われているなど、今まで思ってもみなかったのだ。楠木さんはさらに続けて言った。


「でも、わたしはあなたの方がかわいいと思うけどな。ほんとだよ?」


 二段構えの衝撃情報に、今度はこちらがびっくりさせられる番だった。楠木さんはそんなわたしを見てにっこり笑うと、今度こそ廊下を歩いて行ってしまった。

 わたしは楠木さんをぼおっと見送りながら、もしかしたら、彼女とも仲良くできるかもしれないのかな、などと考えてしまった。

 人間、やっぱり慣れないことはするもんじゃない。





 昇降口を出る。校門に向かう道中、正門の前に人影が見えた。わたしには誰だかすぐにわかって、一瞬凍り付いてしまった。

 杉崎くんが、こちらに向かって立っていた。

 もっとも、いつも通り制服を着崩している彼は、昇降口から出てきたわたしにまったく気づかないようだった。暗い表情で、目線を上向けて虚空を睨んでいるように見える。

 でも、わたしは知っている。ううん、わかっている。

彼の視線の先に、化学準備室があることを。

 彼が飛び出した地学研究部の部室があることを。

 杉崎くんは最後まで目の前にたたずむわたしに気づかないまま、くるりと背を向けて歩き去った。

 わたしは、またしても何もすることができない。





 いつもより早い帰宅。ドアの鍵は開いてない。解錠、玄関。誰も居ない家。自室。ベッド。倒れ込もうとして――。

 シロクマくんのお出迎え。

 床にかばんを放り出すと、シロクマのぬいぐるみを引っ掴む。その顔面をグーで何発か殴りつけ、その勢いのままベッドに叩きつける。

 叩きつけられたシロクマくんは、恨めしそうな目つきでわたしを見上げている(どうして僕を殴るんだい?)。わたしはその上からベッドに倒れ込む(おいおい、重いじゃないか。勘弁してくれよ)。

 わたしは呟いた。


「知りたくない、か」


 でも、気づいているの?


――パーカーが、中庭に生えている松の木の枝にかかっていたんです――


ちゃんと、伝わったの?


――ちゃんと言葉にしないと真意が伝わらないときもあるのよ――


どうして、今でも覚えていたの?


――それが、すごく嬉しかったんだ――


 視界がぼやけ、色彩が滲み、世界が次第に輪郭をなくしていく。

 もう、何も考えたくない。

 何も。

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