第4話
「少し整理しておこう。まず、部室に誰もいなかったのはどれくらいの時間だったのかな」
「わたしが教室を出たのが五時二十分ちょっと過ぎだったよ」
「そか。それで、蒼空ちゃんが戻ってきたのが五時半くらい、か……。つまり、犯人は十分足らずの時間でパーカーを盗んだってことだね」
桐谷くんがルーズリーフを取りだして情報を書き出す。わたしと桜井ちゃんはそれを覗き込んだ。
「パーカーは持ってると目立ちますから、誰かがそれを目撃したんじゃないでしょうか?」
「いや、かばんとか荷物に入れられたら外からじゃわからないよ」
桜井ちゃんの発言を桐谷くんはあっさり切り捨てる。
「それに、今日は校舎内に残っている人が意外に少ない。少なくとも三年生の教室がある一階の廊下にはほとんど人気がなかったし、二階もちらほらいるくらいだ。
それはいいとして、ひとまず聞き込みに行こう。まず、今日はワックスがけのせいで化学準備室には一方向からしか入れなかった。そこの廊下近くに座っていた大柳先生が何か見ているかもしれない。あとは化学準備室の近くだけど、今日はどの部活が活動しているのかな」
「科学部です。わたしが教室を出たときにはもう教室を閉めて帰ってたと思いますけど。あとは、第二音楽室で誰かがピアノを弾いてます」
桜井ちゃんがすぐに答える。
「科学部か、彼らはものを盗むような人たちじゃないんだけどなぁ。あとは、第二音楽室でピアノ、ということはあの人か……」
桐谷くんは難しい顔をしたが、すぐに言った。
「まあいいや、とにかく聞きに行くのが一番早い」
三人で廊下に出る。今回はきちんと鍵を閉めて。
大柳先生はまだ廊下に出ていた。先ほどは専門書っぽい本を読んでいたが、今はノートパソコンを膝に乗せてキーボードを叩いている。飲みかけのコーヒーが入ったビーカーときちんと畳まれた白衣が、なぜか椅子の傍らの床に置かれていた。
「大柳先生」
桐谷くんが声をかけると、先生はパソコンのディスプレイから目をあげた。齢は三十後半くらいだと言うが、はっきり言って年齢不詳の感が凄まじい人だ。
「んお、今回は三人一緒か。白衣、どうだ。畳んでみたんだが。やっぱ気持ちが整理されるな」
「先生、床に置く時点でアウトだって言ったじゃないですか」
わたしが言うと、先生は、そうか、やっぱお前賢いな、と言って白衣をかばんに放り込み、
「だが、何だ、いつもより人数が足りねえ気がするな。ああ、アイツか。今日はどうした?」
「お休みです」
桜井さんが沈んだ声で答える。
「ん、そいつは良くねえ。三人だけだと、いつもみたくバカできねえもんなあ。まあ杉崎がいなくても桜井も桐谷もバカには変わりねえな。お前ら全員バカばっかだ。桐谷、お前柴田に説教されたんだろ。あんな野郎に説教されるなんてな、ざまあみやがれ。松野、お前は賢いと思うけどさ、相変わらず幸薄そうな顔してんよな。まったく、バカ共につきあってる時点でお前も同類だぞ。少しは身の振り方を考えた方がいい」
こんなんでも、いちおう地学研究部の顧問を引き受けて下さっているのだ。
「先生、ここの廊下ですけど、先生が座り込みを始めてから誰か通りましたか?」
先生には取り合わず、桐谷くんが核心を突く。
「ああ、結構前に科学部連中ががやがや帰ってったな。アイツらもバカばっかだよ、いまどきカルメ焼き作って大騒ぎする奴らがいるか?」
「美味しそうですね。それは五時二十分より前ですか?」
「ん、たぶんな。つーかアイツらたぶん帰ってねえな。一階の家庭科室に移ったんだわ、今日は料理研がいねえからやりたい放題じゃ~とか言って、確かそれが五時十分前のことだったな」
階下からうほっほ~いという歓声が聞こえてくる気がした。
「なるほど。ところで話は変わりますけど、ピアノの音はずっとしてましたか?」
「ああ、たまに
「わかります。確かに、先生はいつも眠そうですもんね。では本題に戻りますが、科学部のみんなの後に、具体的には五時二十分以降にここを通った人は何人いますか?」
「ああ、三人だ」
「三人も! 誰ですか!」
桜井ちゃんが叫ぶ。大柳先生は、黙ってわたしたちを指差した。
「三人、だろ?」
「なるほどです……」
つまり、わたしたちの他に通った人は誰もいないということだ。
「ところで先生、どうして座り込みなんかしてるんです?」
桐谷くんの問いに、先生の視線が心なしか遠くなった。
「職員室には居たくない。俺の心のオアシスである化学準備室はお前ら地学部が占拠している。隣の化学教室は科学部だ。いくらお前ら両方の部の顧問とはいえだ、わかるか? 青春の一ページに一瞬でも居合わせてみろ、たちまち蒸発しちゃうだろうが。こっちの廊下はな、幸いにも職員室とは反対側だ。教師連中は誰も来ねえからな、居心地がいいんだよ。奴らの中で話が通じるのは理科の連中が何人かと、あとは国語の連中くらいだ。国語の教師は概して優しいよ、特に沢渡さんとかな。もう涙しちゃうよ、おじさんは。だが、他の連中ときたら……。とにかく、あの空間には一瞬たりとも居たくねえ」
かわいそうに。
「なるほど、それは大変ですね。お仕事中にどうもありがとうございました。失礼します」
そう会話を結んでそそくさと退散しようとする桐谷くんに、先生が一言、
「探偵ごっこか」
「まあ、そんな感じですかね」
桐谷くんが警戒しつつ応える。
「ほどほどにしとけ、足元すくわれるぞ」
「……心得ました」
先生の口調は、先ほどまでの軽口とは打って変わったような、奇妙に間を持たせた言い方だった。対する桐谷くんの応答も、先ほどよりもどこか緊張感の感じられるものだったように思う。
先生はそれだけ言うと、これ以上言うことはないというかのように手をひらひら振った。
「結局、あんまり収穫はありませんでしたね」
第二音楽室に向かいながら桜井ちゃんが言った。
「いや、収穫はあったよ」
桐谷くんが断言する。
「大柳っちはちゃらんぽらんだけど、証言は信用できる。あすこの廊下を通った人は誰もいない。可能性はぐっと絞られたことになるんだ。絞られたからって、どうということもないんだけどね。僕は誰にも嫌疑をかけたくない。そして目下、残念ながら、今から僕は友だちに嫌疑をかけに行くことになっているんだよね」
そう言いながら、桐谷くんはピアノの音が流れてくる第二音楽室の前で立ち止まり、扉をノックした。
「はぁい」
ふわふわした返事のあとに扉が開いた。
「こんにちは、練習の邪魔してごめんね」
桐谷くんがすまなさそうに言った。
「あら、桐谷くん。それに松野さんに、かわいらしい後輩さんまで。全然いいのよ」
そう言って、楠木さんはふうわりと笑った。
「ごめん、ちょっとだけ時間くれないかな。大した用じゃないんだ、五分もかからないよ」
手を合わせる桐谷くんに、楠木さんは、
「別に大丈夫よ、桐谷くんとお話するのに時間なんか気にしないわ。もちろん松野さんと後輩さんとも、ね」
もっとも、もうすぐ最終下校時刻みたいだけど。そう言い添えて、楠木さんは軽やかに廊下に出てきた。
「そうね、みんなちょっと気分が優れないみたいだけど、どうしたの? 何かあったの?」
「きりちゃん先輩のパーカーを返してください」
桜井ちゃんが言った。いや、言ってしまった。
「きりちゃん先輩……? かわいいあだ名……!」
楠木さんが目を輝かせる。わたしは頭を抱えたくなった。一言多い後輩のお口をふさぐ暇もなかった。これは仕方ない、不慮の事故だから仕方ないね。こうした認知的不協和めいた心の動きを一瞬で体感しながら、わたしは今さらながらも桜井ちゃんのお口をしっかりふさいだ。
「いや、違うんだごめんね、別に楠木さんを疑ってるわけではないんだ、ここら辺にいる人たちに話を聞いて回っているだけで……」
桐谷くんが慌てふためく。
「そっか、いつも着ていたパーカー、なくなっちゃったのね。残念ね。わたしは桐谷くんには似合わないかなぁと思ってたから後輩さんみたいには悲しめないけど」
お悔やみ用の顔を作ってみせる楠木さん。本当に喰えないお人だ。
でも、相手が楠木さんで本当に良かった。他の人だったら、いきなり疑われて怒らないはずがない。
「蒼空ちゃんの気持ちは嬉しいんだけどね……。ちなみに楠木さんは、ずっとピアノを弾いていて第二音楽室からは出ていないんだよね?」
それとなく桐谷くんが訊く。だけど、それに気づかない楠木さんではなかった。
「そうね、疑われるのは悲しいけれど、仕方のないことだものね。ええ、少し休憩したほかは、ずっとピアノを弾いていたわ」
「でも、もしかしたら録音したピアノを流していたのかもわかりません!」
物凄い力でわたしの腕を振りほどいた桜井ちゃんが叫んだ。おうい、うるさいぞぉ、というぼけた声が聞こえてきた。大柳先生に違いない。
「桜井さん」
桐谷くんが桜井ちゃんを睨みつけ、今まで聞いたこともないような声で凄んだ。桜井ちゃんはしゅんとして泣きそうな顔になり、
「だって、だって……」
「後輩さん、あなたの気持ちはちゃんと伝わってきたわ。でもね、この教室を調べてもらったらわかると思うけど、今この教室に録音したものを流す機材は何もないわ。この教室、ピアノくらいしかないの。あのね、後輩さん」
楠木さんは真面目な顔を作って桜井ちゃんに近寄ると、右手の人差し指を彼女の鼻の頭にぴとっとくっつけた。
「正当な証拠もなく人を疑うとき、その責はすべてあなたに降りかかってくるの。これだけはわかって」
そう言うと、あろうことかわたしに向かってウインクしてきたのだ。わたしは目をそらした。
「うう、すびばぜんでじだぁ……」
桜井ちゃんがえくっ、えくっとえずき始めている。そろそろ彼女も限界だろう。その肩に手を回すと、彼女はわたしの胸に顔を押しつけてきた。わたしの胸がじんわりと濡れていく。
「今回は本当にごめん、この埋め合わせは必ずするよ」
桐谷くんが再三の非礼を詫びるように言った。楠木さんはにっこり笑って、
「そしたら、昨日話したように、わたしのお気に入りの喫茶店に一緒に行ってくれたら許してあげる。それでいい?」
「もちろんだよ」
「第二音楽室、見て行かなくてもいいの? あなたのパーカーが隠してあるかも」
「からかうのはやめてよ。いいんだ」
桐谷くんは手を振って打ち消した。
「十分すぎるほど手を煩わせちゃったよ。この教室にはパーカーを隠せるようなところが本当にないもんね。ピアノだってアップライト型だ、グランドピアノみたいに蓋は開いてない。それに、楠木さんに疑いをかけたくないし、信じてるから」
「そう」
楠木さんは微笑んだ。
「前から思ってたけど、そこがあなたのいいところね」
それじゃあ、早く帰らなくちゃね。そう言うと、楠木さんはにっこり笑って、第二音楽室の扉を閉めた。
「忍ちゃん、もう十分すぎると思うんだ。僕たちも帰ろうよ」
桐谷くんがいつになく疲れた様子で言った。わたしも頷く。わたしの制服のカーディガンはもう、桜井ちゃんの涙と鼻水をしこたま吸い取ってすっかりひたひたになっていた。
「忍ちゃん、今日はこんなごたごたに巻き込んじゃってごめんね。文化祭も近いっていうのに」
桐谷くんが、今日何回目になるか知れない謝罪をしてくる。
「ううん、いいの。元はといえば、わたしがちゃんと鍵をかけなかったから」
あれから、化学準備室に帰ると、もう最終下校時刻が迫っていた。しばらくすすり泣いていた桜井ちゃんだったが、少し落ち着いてくると恥ずかしくなったのか、顔を隠しながら一足先に荷物をまとめて帰ってしまった。もっとも、わたしたちもそれから一分足らずで部室を閉めたわけだけど。
職員室への最短ルートがワックスがけされているので、行きと同じく二年生の教室前の廊下に迂回する。大柳先生はもういなかった。わたしも桐谷くんも、言葉少なに廊下を歩く。いつもは心地良い沈黙も、今は針のむしろのように感じられる。ただただ黙って廊下を歩いた。
辛い時間というものは長く感じられるというのが常套だけど、この時間に限ってはそうでもなく、すぐに職員室にたどり着く。
「じゃあ、わたしは鍵返してくるから。先帰ってていいよ」
「忍ちゃん」
桐谷くんがわたしの言葉を遮るようにして言った。真剣な顔をしている。
「変に気負わなくていいからね」
それだけ言うと、くるりと背を向けて階段を降りていく。私も、何も言葉を返さずに職員室の扉をノックして中に入った。
「おう、松野」
扉のあたりに座っていた柴田先生が声をかけてきた。
「失礼します。部室の鍵を返しに来ました」
「ああ。顔色が悪いが、大丈夫か?」
「大丈夫です」
ぺこりとして、そのまま職員室を出る。
職員室前の階段を降りて昇降口に向かうと、下の階からぱたぱたと足音が聞こえてきた。
「しのちゃん先輩!」
わたしをこう呼ぶ人は一人しかいない。
「桜井ちゃん? 先帰ったんじゃなかったの?」
「あったんです! パーカーが見つかったんです!」
桜井ちゃんの後ろから、疲れた顔をした桐谷くんがやって来る。その手にあるものを見ても、わたしはなぜかそこまで驚かなかった。
桐谷くんの手には、おなじみの灰色のパーカーがあった。
「帰りがけに、わたしが見つけたんです。昇降口からちらっと見えて」
桜井ちゃんが言う。
「パーカーが、中庭に生えている松の木の枝にかかっていたんです」
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