第3話
何か嫌なことがあったときは、とりあえず時間をおけと人は言う。それでなんとかなるときもある。うん、それは認めてあげるよ。
けど、実際そう簡単に済むことばかりではないのだ。
翌日、いつものように部室の鍵を借りてから化学準備室に行く。掃除やら何やらの用事でだいぶ遅くなってしまった。時計を見ると、もう五時を過ぎていた。
今日は二階の廊下を部分的にワックスがけをするようで、いつもの廊下が通れなかった。化学準備室は廊下の真ん中にあって、二方向からしかいけない。仕方なく迂回すると、化学の大柳先生がコーヒーの入ったビーカーを片手に、階段の踊り場に化学教室の椅子を持ち出して座っていた。椅子の下にかばんと白衣が一緒くたに押し込まれている。会釈しながら通ると、先生はぼおっとした表情で片手を挙げた。
角を曲がった化学教室からは何やらじうじうという音とともに、時折うほっほーいという歓声が聞こえてくる。たぶん、科学部の連中が料理研究会の真似事をして(つまり、バカをして)いるのだろう。その前の第二音楽室からは、澄んだピアノの音色が聞こえてくる。
それらを通りすぎて化学準備室に向かう。その前で待っていたのは、どこかほうけた顔の桜井ちゃんだけだった。
「ごめん、だいぶ遅れちゃった。すごく待ったよね。ありり、杉崎くんは?」
わたしが訊くと、桜井ちゃんは、
「なんか、今日は学校にも来ていないらしいんです……」
と、もの悲しい表情になった。いつになく落ち込んでいるのがもろわかりだ。
「そっか、最近は文化祭も近いから欠席のときは連絡くれてたんだけどな」
いちおう部活動ではあるけれど、地学研究部は一種の倶楽部的な趣があるから、毎日決まった活動があるわけではない。いちおう参加しなければならないようになっているのは毎週金曜日の放課後にある例会だけで、今日は水曜日。その他の日には、部室に適当に集まったメンバーでだべるのが常になっている。もっとも最近は文化祭も近いから、みんなの集まりも良かった。
「しかし、まさか不登校癖の再発なんてことは――」
「しのちゃん先輩」
桜井ちゃんが真剣な顔で詰め寄る。
「わたし、慎一くんを信じてます。もう理由もなく学校に……来ないなんて……」
「ごめんごめん、そうだね。わたしもそう信じてるよ」
次第に涙声になってきた桜井ちゃんを慌ててなだめつつ、わたしは思う。
杉崎くんが学校を休んだ理由。それはすなわち。
「みんな、遅れてごめんね。用事を終わらせて急いでたら、いつも通る方の廊下がワックスがけされてて通れなくてさ。仕方なく遠まわりしたらそっち側の廊下に椅子出してコーヒー飲んでた大柳っちに捕まって、そのまま世間話してたんだ。あれ、慎一は?」
桐谷くん。まず間違いなく、君が原因ではないだろうか。
鍵を開けて、化学準備室に入る。窓を開ける。荷物を置く。パイプ椅子を引き寄せて座る。その間、無言。沈黙。いつも台風のように騒がしい桜井ちゃんも、楽しいおしゃべりの実現にほとんど命をかけていると言っても過言ではない桐谷くんも、今日は借りてきた猫のようにおとなしい。かく言うわたしも、今日ばかりは強いて沈黙を破ろうとは思えない。
桐谷くんは、いつものように灰色のパーカーを脱いで座っている椅子にかけると、暗い顔をしている桜井ちゃんをちらっと見て、それから普段杉崎くんの座る空っぽの椅子に目を走らせた。それから、ほとんど聞こえないくらい小さな声でため息をつくと、おずおずと口火を切った。
「うん、じゃあ今日は慎一がいないけど、とりあえず文化祭の準備の打ち合わせを――」
桐谷くんの言葉を遮ったのは、ピンポンパンポンという校内放送のチャイムだった。続けて、
「二年六組、桐谷界人。今すぐ職員室の柴田のところまで来なさい。繰り返す。二年六組、桐谷界人。今すぐ職員室の柴田のところまで来なさい」
と、どこか緊張感の欠ける柴田先生の声が響く。再び、ピンポンパンポンという間抜けなチャイムで放送は終わった。
「うーん、参ったな。どうも柴やん、僕に英語の追加課題でも出す気だな」
桐谷くんは頭を掻き掻き言うと、
「ごめんね、先に話し合い始めておいてもらってもいいかな? すぐ戻るから」
そのままばたばたと教室を出て行った。取り残されたわたしと桜井ちゃんは顔を見合わせる。
「二人で話し合いったって、ねえ」
そう言って苦笑すると、桜井ちゃんはもじもじして、
「あの、しのちゃん先輩。その、わたしも職員室に行ってきても大丈夫ですか……?」
などとのたまうのである。これにはわたしもびっくりした。
「どうしてまた? 職員室、確か嫌いじゃなかった?」
訊くと、桜井ちゃんは落ち込んだ顔で、
「いえ、その……。ごめんなさい、文化祭前で忙しいことはわかっているんですけど、慎一くんのことがどうしても心配で……、先生に相談に行きたくて……」
わたしは、ふいにこの小さな後輩のことが愛おしくなった。
「桜井ちゃん、優しいね。わかった、行っておいで」
桜井ちゃんの目が少しだけ見開かれた。
「大丈夫、わたしも用事があるのを思い出したの。二人がいない間に済ませてくるから」
わたしが笑って言うと、桜井ちゃんのかわいらしいお顔に少しだけ笑顔が咲いた。
「しのちゃん先輩、優しい……。ありがとうございます、すぐに戻りますね」
そう言うと、桜井ちゃんはぱたぱたと教室を出て行った。
さて。わたしも早く用事を済ませなければならない。
用事を済ませて化学準備室に戻ると、桜井ちゃんが泣きべそをかいているのを桐谷くんがなんとかなだめているところだった。
「どうしたの?」
かばんを机に置きながらわたしが尋ねると、桐谷くんがますます弱った様子で答える。
「いや、たいしたことじゃないんだよ。ただ、僕のパーカーがなくなってただけで」
見ると、確かに先ほどまでパイプ椅子にかかっていた灰色のパーカーが消えていた。
「あんまりです」
桜井ちゃんが声をあげる。
「きりちゃん先輩は転校しちゃうかもしれないし、慎一くんは学校来なくなっちゃうし、そんな状態の地学研究部にまた酷いことするなんて、もし神さまがいたとしたら許せません。グーで殴ります。神さまじゃなくて人間が盗んだんだったら、もちろん絶対そうですけど、そいつもグーで殴ります」
「蒼空ちゃん、落ち着いて。暴力はいけないよ。それにいいんだ。安物だったし、他に盗まれたものはなかったんだから」
「でも、でもあんなに大切に着ていたのに!」
わたしは自分がしでかした過ちにようやく気づいた。
「ごめん、わたしが最後に出るときに鍵をかけなかったからだ……」
「いいんだ」
桐谷くんが鋭くわたしを制す。
「貴重品は、僕のも蒼空ちゃんのも盗られていない。他にも、学校の備品も部の備品も個人の荷物も、何もなくなったものはない。パーカーだけなんだ。忍ちゃんはかばんを持っていったみたいだから大丈夫だったよね。とにかく僕の自己責任だ、忍ちゃんは責任を感じなくていいよ」
「わたしが悪いんです、しのちゃん先輩を放っておいて職員室に相談に行っていたから……」
責任の引き取り合いは、さすがに不毛に過ぎる。
「とりあえず、どうしようか」
「もちろん、犯人を捜しに行きます。捜して、パーカーを返してもらいます。謝ってもらいます。土下座して大地にキスしてもらいます、『罪と罰』みたいに。それまで許しませんから!」
わたしの問いかけに応答して桜井ちゃんが叫んだ。その気迫に、思わず顔がこわばる。
「やめよう、蒼空ちゃん。ただでさえ僕は先生方に目をつけられているんだ。騒いで大事にして地学研究部に迷惑をかけたくない。戸締まり不備でペナルティが出るかもしれないんだよ? それに、他の人たちに嫌疑をかけたくない」
桐谷くんがいつになく強い口調で言う。その目にはいつもより強い光が宿っているように見えた。
「でも、でも!」
桜井ちゃんが抗議する。いくら桐谷くんがもういいと言っても、桜井ちゃんの気持ちの問題だけはどうしようもない。彼女自身が納得しないといけないからだ。
「桐谷くん……」
わたしが呼びかけると、桐谷くんは腕を組んで少し黙り、目を閉じる。それから口を開いた。
「……ありがとう、蒼空ちゃん。じゃあ、この教室付近にいる人たちに少しだけ訊いてみよう。それでもう十分だ」
わたしは小さくため息をついた。
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