第2話
「しのちゃん先輩、遅いです!」
案の定だった。
化学準備室の前で腰に手を当てて仁王立ちしているおちびさんは、一年生の
「お前、鍵を取りに行ってくれた先輩にその言いぐさはないだろ。だったら忍さんに行かせずにお前が行けよ」
そう突っ込むのは、同じく一年生の
「ごめんごめん、担任の先生と話してたら遅れちゃった。あれ、桐谷くんは?」
鍵を鍵穴に差し込みながらわたしが訊くと、
「さあ、どうせまたどっかふらふらしてんじゃないすか? てか今日来るんすか?」
と、辛辣な杉崎くん。まあ、言い得て妙ではある。彼、いっつもふらふらしているのだ。
「うん、来るとは言ってたから。じゃあ今日は全員いるんだね」
そう、地学研究部はこれで全員なのである。よく廃部にならないものだと思う。
「そうっすね、にしても界人さん、ほんとにマルチな人だからなあ」
教室に入りながら杉崎くんがひとりごちる。これも正しい人物評だ。軽音楽でギターを弾き鳴らしているかと思えば、絵画コンクールで入選したり、かと思うとついこのあいだ部から引退したひとつ上の先輩と廃墟探検に出かけたり、放課後の音楽室でジャズピアノを弾こうとして失敗したり、学童の小学生たちと公園で遊んでいたり……。
でも、そんな彼が一番大切にしていることのひとつが地学研究部の活動であることは間違いない。それは、最初は片手の指では数え切れないくらい兼部していた彼が、最終的に残った部活がここだからということからも伺える。
そんなことを思いつつ、四方山話に興じながら化学準備室に入る。なんてことのない小教室で、化学薬品や実験器具など様々な備品が置いてある。中央には長机をふたつ合わせた卓にパイプ椅子が四つ鎮座ましましている。我が地学研究部においても、かつて桜井ちゃんが薬品の棚をひっくり返しかけたり、桐谷くんが勝手に備品を弄って自己流の化学実験をしようとしたりしたことを大柳先生に見とがめられたこともあるが、すべてにおいて適当で無気力、おまけに事なかれ主義の大柳先生がすべてをうやむやにしてしまったことで事なきを得た。それでいいのか学校。
「でも、そろそろ文化祭の出し物を決めちゃいたいですよねぇ」
パイプ椅子に腰かけながら桜井ちゃんが言う。
「先輩たち、去年は何やったんでしたっけ?」
「プラネタリウムを作って上映したんだ。修理すればまた上映できるはずだから、サブ企画としてはいいと思うんだよね」
「でもですね、そりゃもちろんプラネタリウムもとってもいいし中学生の時にわたしも見に来てとっても感動しましたしそれでこの部に入ろうかなって思ったりもしたけど入学してから色々あって思い悩んで結局きりちゃん先輩としのちゃん先輩に助けていただいてこの部に入れて本当に良かったと思ってますけど!」
まくし立てる桜井ちゃん、ここまで息継ぎなし。
「やっぱり、何かしら新規性がないとダメだと思うんです!」
桜井ちゃんが力強く言い切る。杉崎くんがせせら笑った。
「新規性か、何かいい案でもあるのか? ああそうだ、桜井が書き下ろした脚本でヒーローショーでもやればいい。もちろんヒーロー役はお前にやるよ。きっとウケるぞ」
ちなみに桜井ちゃんの趣味はニチアサ視聴で、休日はヒーローショーを観に遊園地へ出かける。
「うるさいスギちゃん、ヒーローをバカにするな!」
「スギちゃんじゃねえ!」
いかん、双方プンスコモードに入ってしまった。
「まあまあ、二人とも落ち着いて……」
「はーい、遅れてごめんね~」
五分後、そう言って入ってきた桐谷くんの顔面に、桜井ちゃんが杉崎くんに向けて放った輪ゴム指鉄砲の魔弾が的中した。
悲鳴が廊下に響き渡った。
「反省してる?」
「はい、してます」(正座、二人で口を揃えて)
「蒼空ちゃん、ほんとに?」
「はい、申し訳ありましぇんでしたぁ」(涙声)
「慎一も?」
「はい、ごめんなさい」(そっぽを向いて)
「はい」
桐谷くんは着ていたパーカーを脱いでいつも通りパイプ椅子にかけると、にっこり笑った。
「素直でよろしい」
そこからの議事進行は迅速そのものだった。あっという間に文化祭の内容が、プラネタリウムを修理しての上映とそれに関する展示、地域の地層を図にまとめて紹介、フィールドワークで採取した石なんかの展示、それから部誌の発行に決定した。
ちなみに議事進行において、桐谷くんと桜井ちゃんはまったく貢献していない。むしろさんざん引っかき回してくれたものである。曰く、中庭のど真ん中に生えている松の木を飾り立ててどこかの遊園地の入り口にあるような地球儀にしたい(そりゃ無茶だ)。曰く、一昨年あたりにスマッシュヒットした映画に出てきたみたいなでっかい彗星をプラネタリウムで再現したい(再現不可能であることは言うまでもない)。曰く、宇宙戦争みのあるシューティングゲームと見せかけていきなりゾンビが出てくる体験型ホラーアドベンチャーでがっぽり儲けたい(クレームが来て営業停止になること請け合いである)。曰く……。
まあ、いつものことだから特に気にすることでもないけれど。
こうしてだいたい話し合いが済んだ頃には、時刻は五時半を過ぎようとしていた。
「もう五時半か、最終下校時刻って何時だっけ?」
桐谷くんが訊くと、杉崎くんが時計を見て、
「確か秋からは六時ですね」
「へえ、じゃああと三十分しかないんですね」
桜井ちゃんが言った。
「ところできりちゃん先輩、部として天文検定は受けないんですか?」
「ああ、あれね。どうしようかな……」
桐谷くんが答えを返そうとしていると、扉をノックする音が聞こえてきた。
「どうぞー」
返事をすると、ひとりの女子生徒が入ってきた。
「こんにちは、桐谷くんいますか?」
「ああ、
桐谷くんが明るい声を出す。わたしも彼女に見覚えがあった。
楠木
「あら、松野さんもいたのね。こんにちは」
楠木さんは私にも柔らかな笑みを向けてきた。警戒しつつ、こちらも会釈を返しておく。
「あはは、そりゃ同じ部活だからね。でもどうしたの? 楠木さんが部室に訪ねてくるなんて珍しい」
桐谷くんが訊くと、楠木さんはぱっと手を合わせてこう言った。
「そう、そうなの。わたし、桐谷くんが近いうちに転校するって聞いたものだから、ぜひ挨拶しておこうかと思って」
桐谷くんの笑顔が凍り付いた。ううん、こう表現するのは間違ってはいないけれど、もしかしたら真実の一面しか伝えられていないのかもしれない。
なぜなら桐谷くんだけでなく、部屋の空気そのものが凍り付いたようになったからだ。
「……いや、まだ確定じゃないんだ。だけどもしかしたら、そうなる可能性は高いんだ。ぼくは転校したくないんだけど、親の転勤で、どうしても引っ越すことだけは決まってしまっているから。それに県内だからそんなに遠くというわけでもないんだよ」
金縛り状態から逃れた桐谷くんが、普段とは打って変わってしどろもどろに言う。
「あら、そうなのね。わたしてっきり、確定しているものとばかり」
楠木さんがおっとり言った。そして、再び手を合わせると、
「そう、これで最後というのも、なんだか残念じゃない? もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないのだもの。ねえ、もし良ければ、今度の休日にどこか遊びに行かない? わたし、美味しい紅茶を出す喫茶店を知っているの」
「ああ、いいね。ぜひ考えておくよ」
相変わらずのしどろもどろさで桐谷くんが言った。
「そう、じゃあ考えておいてね。それじゃあ、また。松野さんも、皆さんも、ごきげんよう」
穏やかに言うと、楠木さんは軽やかな足取りで教室を後にする。
控えめに扉を閉める音が聞こえた。
その間、一年生二人は固まったままだった。ずっと、何も口を挟まずに黙っていた。
「あの、えっと、みんな」
桐谷くんが動揺を押し隠そうとして隠しきれずに言った。
「あの、近いうちに言おうと思ってたんだ。でもほら、まだ未定だったし、さ、それに――」
「送別会をしなきゃですね!」
不意に桜井ちゃんが大声を出した。桐谷くんもわたしもびくっとする。
「お世話になった桐谷先輩のこと、みんなで盛大に送り出してあげないと先輩がかわいそうです! ね、慎一くん?」
「帰る」
出し抜けに杉崎くんが言った。荷物を引っ掴むと、こちらには目も振らずに教室を出て行く。
「待って、慎一くん!」
桜井ちゃんが慌てて彼を追いかける。その目許にきらりと光るものが見えたような気がした。
「……忍ちゃん」
桐谷くんが心底困ったような表情で言った。ここまで弱り切った桐谷くんは、わたしもいまだかつて見たことがない。
わたしも、内心の動揺を努めて押し隠しつつ言った。
「とりあえず、二人が落ち着くまで待った方がいいかもしれないね。その後で、改めて桐谷くんからこのことを伝えてあげるといいんじゃないかな」
「えっ? えっと、うん、そうだね」
桐谷くんは、わたしの言葉にどこか戸惑ったように、それでいて少しほっとしたように答えた。
帰宅、玄関。靴を脱ぐ。洗面台で手を洗ってそのまま自室へ。
「あらお帰りなさい。ちゃんと制服脱ぎなさいね」
という母親の声を適当にあしらって自室のドアを閉める。
そのままベッドに倒れ込む。あいにくこのベッドにはいつも先客がいる。いつだったか、桐谷くんと二人で家具量販店に買い出しに行ったときに売っていた、でっかいシロクマの抱き枕。その魅力にすっかりやられてしまったわたしに、なぜだか苦笑しながらなけなしのお小遣いをはたいて買ってくれた桐谷くん。そのお礼を、果たして自分はできただろうか。
自分の体の下からそいつを引っ張り出して、ぎゅっと抱きしめてみる。
思い返すと、桐谷くんとはもう一年半も二人で部活動をしてきた。中学校まで息を殺して生きてきたわたし。高校に入学して、偶然の成り行きで出会った桐谷くん。日陰の世界からわたしを引っ張り出してくれた桐谷くん。
訳のわからないまま二人で入った地学研究部。強烈なカリスマ性を放っていた三年生の部長。個性派揃いの二年生の先輩二人。二人しかいない同期。合わせて五人しかいなかった地学研究部。文化祭に向けてみんなで製作したプラネタリウム。教室内に即席で作ったドームに投影された満天の星空。
二年生になってからも色々なことがあった。二人で、いじめられていた桜井ちゃんと一緒に闘ってあげた。不良だった杉崎くんと渡り合って、なんとか更正させてあげた。今にして思うと完全なるお節介だったけれど、二人ともわたしたちに心を開いて、地学研究部に入ってくれた。二学期になって、先輩二人が引退した。寂しいけれど、文化祭を目前に残ったみんなでがんばろうと思っていた矢先のことだ。
「別れって、突然だねえ」
わたしは腕の中のシロクマくんにしみじみ言った。言われた当人は素知らぬフリである。
――もしかしたら、もう二度と会えないかもしれないのだもの。
それはやっぱり、あまりに唐突というものではなかろうか。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます