まつ

東雲祐月

第1話

「よし、じゃあこの文の和訳を、桐谷きりや


 沈黙。


「……桐谷!」


「はい!」


 飛び起きた。


「よし、んじゃこの文の和訳、言ってみろ」


「わかりません!」


 ぼさぼさの頭をかきながら桐谷くんが照れたように言う。柴田しばた先生も呆れたように、


「だと思ったよ。寝るか、予習してこないか、頼むからどっちかにしてくれないか?」


「はーい、すみません」


 どっと笑いが起こる。教室の中ほどに座っているわたしからは、左斜め前に座っている桐谷くんがすまなそうにしゅんと縮こまるのがよく見えた。


「よし、じゃあ授業に戻るけど、ここはpineが動詞として使われてるんだよな。この場合、pineにforがついて、意味は――」


 先生が説明を再開する。高校、火曜日の六限目、英語リーディングの時間。この授業が終わればあとは放課後だ。今日は部活動の正式な活動日ではなかったと思うけど、たぶん部室に部員が集まるだろうから、顔だけ出してから帰ろうかな。なんてことを、ノートをとりながらぼおっと考える。

 やがて予鈴が鳴り、授業時間の終わりを告げる。


「よし、じゃあ今日はここまで。桐谷、予習をしてこないうちは居眠りさせないから覚悟しとけよ~。そいじゃ」


 教室に再び笑いの渦が巻き起こる。先生はちろっと舌を出すと足早に教室を出て行った。


しのぶちゃん」


 わたしが荷物をかばんに入れていると、誰かが声をかけてきた。

 顔を上げると目に飛び込んでくる灰色のパーカー。明らかに校則違反。先生たちがどんなに躍起になって叱っても、なぜかそれを着ることを諦めない。やがて先生たちも注意することに疲れ果て、灰色のパーカーはいつの間にか彼と、彼の自由な性質を象徴する服装になっていた。

 桐谷くんだった。


「忍ちゃん、今日部活行く?」


 桐谷界人かいとくんとわたしこと松野まつの忍は、ともに地学研究部に所属しているのだ。 


「うん。あっ、いつも通りわたしが鍵借りに行くね」


「ありがとう、いつもごめんね」


 桐谷くんが笑った。


「ううん、別にいいの。それより英語、大丈夫なの? もう十回以上は注意されてるよね」


 わたしが冗談めかして言うと、桐谷くんは笑って、


「あはは、全然大丈夫じゃないよ。リーディングだけじゃなくてグラマーの方もヤバいし、数学の梅崎うめさきにも目をつけられてるし」


 と言った。


「ええっ、桐谷くん、数学は得意科目なのに目をつけられてるの? どうして?」


「ほら、梅崎は生徒指導主任だから」


 なるほど。


「呆れた。それじゃ職員室に入れないじゃないの」


 わたしは頬を膨らませてみせる。


「そうなんだよね。まったく、困った困った。じゃあ頼んだよ」


 にかっと笑うと、桐谷くんは自分の席に駆け戻る。すぐにクラスの男子に話しかけられて、楽しそうに会話が弾む。わたしはほうっと息をついた。

自由。現実には存在しないと思っていた。彼に会うまでは。

はじめて彼と知り合ったときは、ただ単に多趣味で気の多い人なのだと思っていた。すぐに、ただの好事家ディレッタントではないと認識を新たにしたものだ。

 何事にもとらわれず、自分のやりたいことを自分の流儀に沿って達成する。桐谷くんは、まさしく『自由』の象徴なのだ。少なくとも、中学校まで息を殺して生きてきたわたしにとっては。


「は~い、じゃあ帰りのホームルームを始めますね」


 担任の沢渡さわたり先生が教室に駆け込んできた。




 放課後、わたしは職員室に行くために廊下を歩いていた。部室の鍵を借りるためだ。

 部室といっても、化学準備室を間借りしているだけのことで、しかもいちおう「準備室は教師の同伴でないと使用することができない」という規則があるためにややこしくってしょうがない。もっともこのルールが有名無実化していることも事実で、ほとんどの先生は生徒たちだけで準備室を使うことを黙認している。まあ、化学準備室に関しては、地学研究部の顧問である化学の大柳おおやぎ先生がよくコーヒーを飲みに来るからまた別かもしれない。

 ちなみに、二年の教室も化学準備室も職員室も二階にある。実は結構便利な立地なのだ。


「失礼しまーす」


 一声かけて職員室に入る。鍵のかかったボードの一番近くに座っていた沢渡先生に声をかける。


「先生、化学準備室の鍵借りますね」


「ん? ああ松野さん。ちょっと待ってくださいますか?」


 そう言って、先生は自分の机の上を漁り始めた。わたしは、とりあえずボードから化学準備室の鍵を取っておく。


「ああ、ありました」


 そう言ってにこにこしながら先生が差し出したのは、一冊の本だった。


「和歌の修辞法に関する本で、特に小倉百人一首に詳しいものです。前に授業の感想ペーパーで掛詞かけことばが好きって書いていたなと思い出しまして」


「わあ、ありがとうございます!」


 本を貸してくれるそのことよりも、何でもないわたしの感想を覚えていてくれたことの方が素直に嬉しかった。


「いえいえ、松野さんの気に入るといいんですが。先ほども、英語の柴田先生と掛詞の話で盛り上がっちゃいまして。掛詞というのは、和歌などでよく使われる修辞法で、例えば和歌の中で「ふる」という語を使って、「る」と「る」の両方の意味をかけたり、他には「ながめ」に「長雨ながめ」と「ながめ」をかけたりする、要は駄洒落だということを教えてあげたんですよ。それがきっかけでこの本を思い出したんです。

 柴田先生からも興味深い話が聞けましてね。英語にも掛詞のようにいくつかの意味が読み取れる単語がある、先ほど六組の英語リーディングの授業で説明してきたところだよっていうのを教えてもらいました。古典との関連を考えるとですね、言語は違えど、これは大変興味深いと思いました。授業の中で紹介しようと思っていますから、ここではまだ話しませんが。でも松野さんはもう授業で知っていますよね。あなたの授業態度はすこぶる良いと柴田先生も褒めておられましたので」


 六組とは、わたしたちのクラスである二年六組のことだろう。話し始めるとなかなか止まらない先生が、楽しそうに続ける。


「でも、去年と違って今年の私の担当は現代文だけですからねえ。今年の古典は確か、うちのクラスは青木先生でしたっけ。松野さんの授業態度と成績を褒めていらっしゃいましたよ。あなたは現代文はもちろん、古典の分野でもテストの点数が良かったですものね。

 それに、青木先生の授業は深くていいですからねえ、私が教えられないのは残念ですけど。まあ、私としても現代文の授業で手一杯ということもあるんですけどね。今日の授業ではあまり『こころ』を読み進められなかったので、次回こそはどんどん読み進めていきたいですね」


 今日だけでなく毎回ちっとも進まない授業を展開することで名高い沢渡先生がのんびりした声で言った。

 沢渡楓一郎ふういちろう先生。二年六組の担任で、まだ若い。確か三十歳を過ぎてなかったと思う。爽やかで柔和な顔立ちに黒縁眼鏡という風貌と、それを裏切らない穏やかで優しい性格なので生徒からの人気は高く、でもそれが必ずしも授業の人気とは比例しないタイプの先生だ。どういうことかというと、深い授業内容と豊富な雑談が程よく調和して、とにかく眠くなるのだ。『山月記』の授業など、ふと周りを見渡すと起きている生徒が四人しかいなくて仰天したことがある。

 でも、わたしは好きなんだけどな、沢渡先生の授業。中学では特に面白いと思わなかった国語を面白いと思えるようになったのは、間違いなくこの先生のお陰なんだ。この先生にかかると、評論だって面白く読めちゃうから不思議だ。実際、先生がお薦めしていた面白そうな新書を何冊か買ってしまったほどだ。


「『こころ』、面白いなって思います。わたし、特に『先生』が『わたし』に言う忠告めいた台詞が、なんかこう、心にぐっと迫る感じがして好きなんです」


 わたしが言うと、沢渡先生はすぐにどの場面のどの台詞かわかったみたいだった。


「ああ、教科書に採られていない前半の、あの場面ですね?」


 そうしてわたしたちはくすくすと笑った。それは、同じ本を読んだ人だけがわかち合える、素敵なひととき。


「いやあ、松野さんが国語に熱心に取り組んでくれて私も嬉しいですよ」


 あなたの授業のお陰です、とはさすがに言えまい。

 だって恥ずかしいじゃない?


「えへへ、それにしても、同じ部活でも桐谷くんには松野さんを見習ってほしいものですね。まったく彼ときたら、自分の興味が持てないことにはとことん気を持たないですから。柴田先生も、彼が英語に興味を示してくれないって嘆いていたなあ。そうそう、明日の放課後あたりに桐谷くんを直接呼び出してやらにゃとかなんとか。どうも追加の課題を出さなきゃ進級させてやれないとか言っていましたね……。

 おっと、長話が過ぎました。それじゃ、会議があるのでここらで。近いうちにまた話せるといいですね」


 先生が笑って言った。わたしもにっこりして、


「こちらこそ、本をありがとうございます。また本を返すときにぜひ!」


 と言うと、職員室を退散した。

 確かに長話が過ぎたかな。地学研究部の面々を待たせてしまっているかもしれない。

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