透明標本
朝霧
透明標本
今日は家に誰もいないからおいで、と美しい顔の恋人に手を引かれ、なすすべもなく奴の部屋の中に引きずり込まれた。
見た目は華奢なくせに昔から驚くほど力が強い。
君が非力なだけだよといつも笑われるけど、そんなことはない……はずだ。
多分一般的だ、一般よりも……ちょっとだけ力がないだけだ。
引きずり込まれた部屋は、自分の部屋の二倍以上の広さがある。
しかし、家具も物も自分の部屋よりも随分少ない。
あるのは、ベッドと、勉強机と、よくわからない大判の専門書ばかりが並ぶ高い本棚と、それからガラスケース。
自分の美しい恋人はガラスケースのそばにあるコンセントを引っ張りだして、スイッチをパチリと切り替えた。
すると、ガラスケースの背後に設置されているパネルライトに無機質な白色の光が灯った。
白色の光は、ガラスケースの中に陳列されたそれらを無機質に照らす。
それは
つい最近までは確かに無かった
ガラスケースの中身は、全て透明標本だ。
透明標本がどういうものなのかは詳しくは知らない、特殊な薬品で生き物の肉を透明にして、骨や内臓を鮮やかな色で染め上げることで作られるらしい。
「それ、新しい子だよ。君って確かカエル好きだったでしょう?」
恋人は甘ったるい声でそう言って、やんわりと微笑んだ。
悪趣味な奴だと吐き捨てていた、というかそもそも自分が好きなのはデフォルメされたキャラクターとしての蛙であって、本物の蛙は別に好きでもなんでもない。
「でも、きれいでしょう?」
そう言われて押し黙る、確かに綺麗ではあるのだ。
とても綺麗ではあるのだ。
薬品によって色付けられた透明な生き物の死骸達は、確かに宝石のように美しい。
そして、だからこそ恐ろしい。
だってこれは生き物の死骸だ、元々は生きていた何かだった。
それを、それをこんな風に、人間にとって美しく見えるように加工して、飾って。
恐ろしいと思う、残酷だし、悪趣味だ。
だけど、綺麗なのだ、美しいのだ。
なかなか目が離せないほど、恐ろしいと思いつつ目を背けることができないほど。
だからこそ怖い、恐ろしくてたまらない。
だけど、やっぱり自分にとって一番恐ろしいのは透明標本ではなく自分の恋人だった。
この美しい人は、単純に綺麗だからと透明標本を蒐集しているわけではない。
元々は命があったものの肉を、骨を、臓物を、ただ綺麗なだけの飾り物として貶める。
その人間の残酷さとエゴが詰まった存在であるからこそ、この美しく悪趣味な人はこれらを愛してやまないのだ。
だから、こわい。
昔から、ずっとずっとこわかった。
早く縁を切ってしまおうと幼い頃から何度も思った。
だけど、できなかった。
どうしてだろうか、どうして自分はこんな悪趣味な人間の隣にいつまでもいるのだろうか?
顔が美しいからだろうか?
いや、その程度の理由で隣にいようとするのであれば、ロクな目に合わないだろうということは昔から、それこそ初めてこの人を見たときから本能的に理解していたのに。
「おいで」
自分の右耳のすぐ近くで、ねっとりと溶けた砂糖のような声で囁かれる。
透明な死骸達から目を離せなかった自分の腕を、美しい人はゆっくりと引く。
思わず突き飛ばしそうになった、思わず後ずさりそうになった。
だけど、身体がうまく動かない。
甘いアルコールを吹き付けられた羽虫のように、身体が重くて、身動きが取れない。
いやだ、こわい。
自分ではうまく動かせない身体が、恋人の手によってあっさりとその人の腕の中に収まった。
華奢な身体は柔らかくなくて、暖かくもない。
ぬるくて薄い肉の感覚に、肌が粟立つ。喉から掠れた妙な音が漏れる。
顔はきっとひどい表情で強張っているのだろう。ああ、身体が震えてきた。
惨めな自分を美しい人はくすくすと笑いながら、どろりと蕩けた飴玉のような目で眺めていた。
逃げなければ。
本能も理性もそう叫ぶ、これ以上はもう駄目だ。
早く逃げなければ、簡単だ、用事があるとでも言って帰ってしまえばいい。
そうだ帰ろう、お家に帰ろう、そうだ昨日の夕飯の残りのエビシューマイと、スーパで3割引きだった賞味期限ギリギリのプッチンするプリンを食べないと。
だけどやはり身体が動かない、声を上げることすらままならない。
不意に視界がぶれる、次に焦点があった時には自分の目の数センチ先にあの人の目玉があった。
あまり光を受け入れないその黒目で、至近距離からじーっと見つめられる。
悲鳴をあげそうになった。
だが、まるでその瞬間を待っていたかのように、引きつった悲鳴が上がる直前に、口を柔らかいもので塞がれる。
続いてぬるりと柔らかいものが、自分の口の中に入ってくる。
やめろ、いやだ、いやだ、こわい。
柔らかいものは自分の上顎をゆっくりと撫でた後、舌に絡みついてきた。
黒い瞳が、自分の目をまだ見つめている。
その目は、幸福そうで、楽しそうで、愉しそうで。
心の中にある何かの柱が一本、容赦なくへし折られたような気がした。
ああ、もう逃げられない。
そう悟った自分の両目から、涙が溢れ出す。
こわい、こわい、いやだ、たすけて。
どうして、なんで、やめて、こわい、こわい、こわい、こわい、こわい。
考えがうまくまとまらない、思考が白濁に濁っていき、物事がうまく考えられない。
不意に、頭から背中まで、ゆっくりと優しい手つきで撫でられた。
その感覚に身体が小さく跳ねる。
そこから先は何もかも曖昧で、ドロドロに溶け切り真っ白になった頭では、ほとんど何も記憶できなかった。
ただ一つだけ確かに覚えているのは、強く抱きしめられあの言葉を囁かれたその時に、この先何がどうなっても一生この美しい人からは逃げられないのだと悟ったことだけだった。
透明標本 朝霧 @asagiri
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