天の光はすべて文字

籠り虚院蝉

 

 ──研究記録第一二五回、録画開始……二〇〇五年八月九日、火曜日、11:23。曇り、さっきは遠くに青空見えてたのに。ロライマ山頂初日。やっぱり聞いてた通りころころ天気変わるなここ。見てよほら靄……てか霧? 十メートル先も見えない。湿気だけずっと変わらず絶好調、脱ぐと寒い着てると汗だく、これじゃ服洗っても乾かないよ──ごめんごめん、わかってるって。でも見えないじゃん……──何回か前、研究記録で言っといたよね、ここに来たのは〈極光文字オーロラ・コード〉観測のため、これ一番大事。ここは電磁乱流帯EMBZからは遠い、ってことなんだから、久しぶりにまともな映像ほしいなあ。ひとまず本格的な観測は──明日からが大変だね、おやすみ。


 ──研究記録第一二六回、録画開始……二〇〇五年八月十日、水曜日、21:02。曇り時々雨時々晴れ間。ロライマ山頂二日目。昨日よりだいぶ天気落ち着いた。霧も晴れてる。でもまだ雲が邪魔。ほんっと山って気分屋だなあ、どこもそうなんだろうけどここロライマは特にひどい。昨日の夜なんて雨降って止んでの繰り返しでうるっさいのなんの……。しかも彼の寝息がね──何も言ってないってば──……カムも研究機材だから私的利用すんなって言われてるけど……こう天気悪いんじゃ真面目に喋る事無いし。──ねえ今雨期だったっけ?──今日は映像整理番号設定して終わりかな……、……、んー……おやすみ。


 ──研究記録第一二七回、録画開始っ! 二〇〇五年八月十一日、木曜、04:57、晴れ、山頂三日目──晴れたー! やっと晴れたー! 見て見てこれ、最っ高の晴れ、ほーらぐるーり……雲一つ無い快晴っ! 彼もすっごい喜んでる──三、四十分は持ってくれそう……、こっから映すのは空だけね、記録優先。音大丈夫かな、……もうちょい角度──こんな感じ?──うーん……やっぱ明るいと見づらいな。でも夜は絶対雨降るし。読み取れるだけで。……これでよし、っと。振る舞いは……目立ってすごい特徴無し、望遠鏡覗いて……なんか元気、っていうの? ずっと前の真夜中快晴チャカルタヤじゃ、録画映像ばっちりだし宇宙線研究所の皆さんにも有難うだったけど、今回どうだろな。

 見た感じロライマ型の〈極光文字〉も熱帯都市型と違う。先週カイエンヌのが話題になってたけど、あんな小っちゃくても都市では薄ボンヤリで織物テクスチャっぽい。

 電磁乱流帯から離れた熱帯高地じゃ、毛虫の集団?……形関係なく読み取る事はできるけど、なんだろう。ロライマのは……やっぱ元気? うきうき、っていうのかな、子供が嬉しそうに今日の学校の事親に話すみたいな、そういう感じ……うん、だめだね、もっとちゃんと読み取んなきゃ──はいはいわかってますよ先生の仰る通りに。

 あ、っと、わかってるって、大丈夫──読み取るとかなんとか言ってんのは、実際は私の感覚的なもので、そう……な……つまりなんて言うのか……まあその辺はまた彼一流の言い訳に期待──ここカットとかで上手く編集してね。で、なになに……。

 ……“空、流れ、地、落ちる、屈む、生き物、咳、臥す”、どういう意味だろ。大気汚染? いかにも予言っぽいな、わくわくするね……“夜這い、屎、尾、鰭、萎む、羽、翼、縮む、口、綴じる”。自分で言っててわけわかんないんだけど、大丈夫かなこれ……。

 都市のは簡単、易しい、短い少ないって感じだけど、田舎は複雑だね。形はもちろん、振る舞いが全然違う。日本語って文字が四種類もあるじゃない、私にはさっぱりな世界──いろんな文字にはそれぞれ音や意味があって、それが繋がったり離れたりして言葉になる──だけど〈極光文字〉は違うんだよなあ。部分でも形でもない全体の振る舞いが言葉だ、ってなんべん言っても偉い先生たちわかってくれないんだよね、〈らん?〉〈ぱろ?〉がどうしたとか〈せーせー文法〉に〈えくりなんたら〉言われても、そんなの私がわかるわけないでしょ。

 ……“記憶、水たまり、拡がる、葡萄、定規、あいだ、伸びる、輝き”。これって幾何学? 相対論とか……ね? 田舎の〈極光文字〉ってこんなんばっか、だから学会までオカルトすれすれの変人が出て来んのかな、まあさすがに〈極光文字〉は〈大魔王〉のメッセージだったのだー! とか言う人居ないけどさ……うん、ここもカットよろしく。今んとこ、こんなもんだね。なんかまた霧? 雲も少し出て来たみたいだし、お陽さまも出て来ちゃったし。ひとまず今晩の晴れ間用に早回しタイマーセットして……、今朝は、おやすみっ!


 ──研究記録第一二九回録画再開、十二日金曜夕方雲四日目、やる気無し、馬鹿みたい、おやす「ブツッ」──


 ──研究記録第一三一回、PCに直接録音開始……二〇〇五年八月十三日、土曜、10:55。今は霧雨時々止み間。山頂五日目。同じ天気が三十分続かない、今朝の録画も役に立たない、これじゃ全然観測になんない。しょうがないから読み取りできてない分、……一昨日夜のがずれてて失敗したのは改めて、昨日の録画できてるやつPCで見ながら。……“切れ端ー、糸ー、指揮ー、痙攣ー、疑いー、盲目、とどろき、旋回、中心、構造”。……“開く、掲げる、覗く、整える、なぞる”。……“呼吸、使う、時代、ささやいて、打つ、千切る、伸ばす、立って”。……アイがI said……あ、アイAiってmeじゃなくて友達ね……彼女が本読むと気が晴れるって言ってたけど、それと同じなのかな。私でもなんだかんだで〈極光文字〉だけは読んでられるし。

 ……気晴らし、か……。

 ──昨日の彼。ほんと、マジ最低。無神経過ぎ。私がどんだけ苦しいかも知らないくせに。いや、ちゃんと伝えてない私が悪いかもだけど……。だいたい私が〈極光文字〉好きなの気に入らないらしいし、なんで? 関係無いじゃん、私だってさ、貴女の人生で本三冊書けそうねって、マジな口ぶりで言われたことあんだから……ていうか本一冊ってどれくらいよ……あーもうっ。

 ……“波、よじれる”、その通りだね。この場合彼が波で私が波間かな。浚われたのは楽しい気分。彼がどう思ってたって関係無い。だいたい彼だって私のこと、ぜんぜん気づかい無いじゃん。

 まあ、それでも観測がすごく大事ってのはちゃんとわかってるつもり。ここのは他の田舎とも微妙に違うし、やっぱなんか、どっか元気なの、……偉そぶった頭でっかちの研究バカとこれ以上仲悪くなったって知ったこっちゃない! 私だけでも楽しくやろ、頑張んなきゃ、今朝はここまでにするけど──おやすみなさい。




 ロライマ遠征観測に関する第一回報告電報、衛星中継電信回線不調による報告遅滞後ボア・ヴィスタ近郊よりムルマンスク、極北大学大学院理学工学合同特別研究部へ、Sat.15:36.20.8.2005


 今回のロライマ山における観測は〈極光文字〉解明に際してのみならず、生態系環境科学研究に際しても非常に有意義なものだった。生物に顕れた形態変化および行動異変と〈極光文字〉等に現れる磁気圏内諸異常現象との密接かつ複雑な関連が、最早疑いないことを継続証明するに十分であると確信し、また畢生天職としての自負と責任を更に新たにするものである。今後に渡る研究予算の大幅な増額は決して無意味ではない。

 二十一世紀初頭現在において、科学でも政治でも求められるのは即時的研究、しかも爆発的に激増した地磁気やそれに伴うEMBZ、さもなければその元凶とされる銀河宇宙線や太陽風に関した応用物理学ばかりとなり、我々生態系環境科学者も多大な悪影響を被っている。それでも、ヒトのみが地球上の生物ではない以上、日和見主義な好事家の学術関与など論外であり、総合科学の見地からこそ人類存続のための研究が不可欠と考える。故に断固として研究環境を死守し堅持せねばならない。

 また生態系環境については帰国途上より、観測野帳等に記録されたデータを纏め随時公表、さらに後日論文により学会発表する方針であり、〈極光文字〉については観測結果報告のため新たな講演会を開催する予定である。

 文責 C.H.T., 共同研究 R.N.


 Fri.12.8.2005

//菌類・植物採取(僅かな緑地、野営地より北東へ徒歩十五分)/以下、緑地の位置図示/この緑地でも蘚苔地衣類のみ、維管束植物皆無(写真参照)/高度のみが起因か、別要因有か//野鳥の死骸、緑地近傍の岩陰に(映像および写真参照)/既に腐敗開始、が湿度を考慮すれば比較的新しい(同上)/まさか田鳧?/黒い頭頂部から反り返って伸びる特徴的な冠羽(写真参照)/首周辺の模様から雄(同上)/ユーラシアン、冬鳥だが?/北米への越境記録はあるが南米は無い//(迷鳥、あまりにも長い道程、非現実的、奇跡的。奇跡の痕跡は?/奇跡、奇跡、諦めきれない)//(不安定な足場で手持ちの小さな野帳に急ぎ覚書したものとはいえ我ながら酷い、キリルかラテンかも一見しただけでは不明瞭。真昼間の〈極光文字〉も悪筆?)//遺伝子解析用サンプルd―3/採取を続ける気も失せた腐敗が進むなら進め/腐れ切ったバカ女 くたばれ//


 Sat.13.8.2005

 まだむかっ腹が立つ。あの小娘。顔を見るのは勿論声を聞きたくもない。日昇より早く起床し、登山具および食糧持参で野営地を出発。ほど良く離れ、かつ下った叢へ。滝の音、さほど遠くないので向かう。滝壺は比較的浅い。飛沫、心地良いものでもない。そもそも酷い湿気、降雨の中でさえ辺りに霧が立ち込める。陸棲生物の調査後、脱衣潜水し水棲生物の有無も調査。残念ながら特筆すべき標本サンプルは藪蟇からさえ採取無し。詳細は観測野帳および映像と写真を参照の事。沐浴紛いも却って寒いばかり、気分一新にはむしろ逆効果。止み間を縫いながら日没までに再登頂を敢行。登岩の危険回避。多少でも明るい中から昨日の田鳧をやれるように/小娘に夜付き合わされるのは御免だ。


 Sun.14.8.2005

 田鳧解剖。一昨日金曜日夕方の時点で既に、血液腐敗、毛細管壊死、サンプル採取は断念せざるを得ず。体細胞の中、解析が僅かでも望めるものは悉く採取したが、遺伝子解析以外失敗、とはならないでほしい。/(全くこのクソ女の不器用には目も当てられん)/(否、彼女は本来助手ではない)/(助手として働ければ多少の手当も増えるだろうに)

 脳や肝臓は当然見る影も無かったが、消化管の保存状態が予想に反して良い。全身衰弱により消化能力が著しく低下していた様子、未消化の細長い肉塊と脊髄等を管内より摘出。/(彼女はこの手の物を気味悪がらない)/(少なくともこれについては助手合格)/(臭いや手触りの不平が止むことはないが)/ミミズと違えた誤食であろうか、ミミズトカゲ属の幼生と断定。頭骨から判断してフロリダではない。西インド諸島もしくは南米の種と推察される。しかしながら、極限状態で一体如何にしてここまで飛行できたのか。

(またぞろ始まった)/(読めもしないくせに僕のPCを覗き込んでくる)/(何様のつもりだ)//(一昨日の復讐も兼ねてか)/宇宙線による遺伝子損傷の可能性は種不問で今なお低くなく、動物の行動異変への影響も十分予見し得るため、引き続き各所において追跡調査が求められる。生態系を離れて考察した際、継続する異変は果たして地磁気や電磁場だけであろうか。世代交代が昆虫ほど迅速でないにせよ、種全体に亘る適応進化の蓋然性についてもまた追跡調査に基づき考察を進めねばならない。


 Tue.9.8.2005

 遂にロライマ山頂着。予定より丸一日と少々遅れる。霧と雨の悪天候に見舞われ〈極光文字〉観測は断念。止み間を縫ってテント設営、後各々テントの中で体調と遠征道具のメンテナンス。日没後非常に強い雨がテントを打ち付け、その音は連れの存在感を消してくれる。好都合だ。が、日記執筆に没頭するのは今晩限りであって欲しい。

 昼過ぎには数M先も見えなくなっており、頂上でも足元の滑りやすい状況。登岩開始以降、彼女ときたら一体何度足を滑らせたことか。今回の遠征でもまただ、素人用の登岩経路だというのに。その度に僕が手を差し伸べていなければ、あんなド素人とっくの昔にミンチに成り下がっていただろう。何もかも馬鹿げた女。クソ女。頭痛。あんな胸糞悪い奴といつまで一緒にいるつもりだ、僕が一番馬鹿げてる。

 “〈極光文字〉を解読できると自称する可笑しな若い女が東京から出て来た、見に行ってみろ”などという戯言に乗ったのは万が一にもこの僕だ。興味本位の子贡め。が、その可笑しな女の態度ときたら、粗雑で間抜けで無神経で、他人の気苦労を考えることなんてこれっぽちもできやしない。あわよくば家族探索への一助にも、とこんな女にすがる思いが脳裏を掠めてしまった時点で僕は道化だな。彼らはここにいてくれるか。まさかとは思うも、やはり希望を捨てきれない。何処か秘境の地にでも不時着していてくれ。せめて命だけは取り止めていてくれ。六年。連絡は無い。まだ。そんな瞬間など訪れるのだろうか。

 憎い。憎い、〈極光オーロラ〉が!

 〈極光文字オーロラ・コード〉?

 ふざけるな!

 世界中でEMBZが多くの人々の命を奪ってから、六年経ってしまったんだ。全く以てふざけている。政治はどうした? 僕ら科学者は警鐘を鳴らした。恒星の異常、太陽の異常、地球の異常、大気の異常、そして何より電磁場の異常に! 何故何もできなかった? 何もしなかった? 助かった命……何故僕の、愛しい、……何故ばかりがいつでも僕の頭の中を駆け巡る。

 不愉快だ! 虫唾が走る!

 何もかも、一瞬で、様々な事が、馬鹿げたものに成り下がった。馬鹿げた女。馬鹿げた時代。彼女曰く文字の振る舞いがどうのこうの、と。初めて出会ったとき彼女は言った、色鮮やかに、明らかに、確かに、振る舞う、と。何故そう思うのか、僕は訊く。すると、〈極光文字〉だけが読めるから、と。訳がわからん。全く理解不能だ。何が振る舞いだ、言葉は記号だ、意味なんて後付けだ、なんとでも解釈できる。言葉が自身に宿された意味以上の何かを振る舞うなんて、そんな調子で雨粒一つ一つにも神が宿っているとさえ言い出し兼ねんな。

 ムルマンスクに赴任したばかりの頃は〈極光文字〉を見上げてその動きに気の休まったこともある。それが彼女の感想と似たものだとでも言うのか? 馬鹿か。オーロラは極地に起こるものだ。モスクワではない、ましてや熱帯などでもない! 皮肉を言ってやる、言葉は逆立ちさせることだってできるんだ、こういう風にな。


 “!ぞだんるきでにり去き置てっだへ処何かんな前お”


「おい。」

「ずいぶんぶっきらぼうじゃん、戻ってたんだ。何か用?」

 空には薄雲。遠くからは雷雲。大股で歩み寄って来る彼は不満を隠さない。

「バッテリ、減りが早過ぎる。どういうことだ。」

「夜通し観測するんだもん、電源落とせない。」

「悪天候の日は通しで撮影するな。何度言ったらわかる。しかも相変わらず独り言だらけだ。」

「見返した時わかりやすいでしょ、いろいろ説明してんの。何その言い草。」

「昨晩の録画も失敗してる。まだ中日なのに無駄使いするな。さあ、君のカムを寄越せ。」

 これが本題か。拒む彼女。

「お互い自分用のがあるし、あなたはカメラも持ってる──てかいつ見たの、私の録画。」

「これは共同研究だぞ。」

「にしたって礼儀とかマナーってあるでしょ? 勝手に私のテント入って来ないでよ。」

「だったらこれ以上ここに居させるな。」

「そんなこと言うんだったら。」

 彼女は指を彼に差し向けて言い捨てた。

「一日中帰って来ないで。戻ってきたら自分の研究に没頭して。ほんとに〈極光文字〉解明する気あんの?」

「抜かしたな。お前に言えた科白か? 下らん独り言ばかり録画して……ここには遠足に来たわけでも、お前の日記を撮るために来たわけでもない──研究調査だ、研究なんだよ! いい加減お前の我侭に付き合うのもうんざりだ! いいかよく聞け──“お前なんか何処へだって置き去りにできるんだ”!」

 いつもの一言を彼が口走った途端、彼女の口が反射的に動いた。

「それ自分の家族にも言える?」

「……な、……」

「ほーらねやっぱり。私が赤の他人だからいやらしく言ってくるんだ。」

「研究には家族も他人も無い。」

「ほんとに? 私あなたが〈極光文字〉嫌いなのすごくよく知ってるんだけど。あなたも他の研究バカといっしょ。私なんてただのモルモット、ううん、研究費引っぱって来てくれる優秀なモルモットだよね。」

「――よくわかってるじゃないか。僕はあの蛆虫みたいな空が大嫌いだ! 一家を消されたんだからな!」

 彼女は怯まず返す。むしろ真正面から。

「家族が行方不明なのはあなただけじゃない、悲劇の主人公ぶらないで。私の家族だって行方不明なの忘れてない?」

「だから? どうせ疎遠だったんだろ? 居なくなろうが死んでようが悲しそうな素振り一つ見せやしない、お前にとっては家族なんてどうでもいいに違いない」

「そんなことない! 私だって!」

「“私だって”? なんだ? 実は悲しかったんですご理解下さい、とでも言いたげだな──笑わせるな! 文字がどうの振る舞いがどうの、他人様ひとさまには理解を求めるくせに自分はちっとも理解しない! 失読症がどうした、お前が読めないのは文字だけじゃないだろ──!」

 家族を話題にされた彼は、もはや英語を維持できない。彼女は虚を突かれ、一瞬目を見張り押し黙ったが、次第に眉尻を吊り上げ、遂に激昂した。

「──アナタだって何もわかろうとしないじゃん! 一日中好き勝手していっつも興味無さ気、なのにこういう時だけ、さも“興味アルンデスヨー”って、何? 監視? 覗き? 挙げ句に罵倒まで始めてさ! 私がロシア語全っ然わかんないとでも思ってる? ムルマンスク帰ったら訊いてみなよ! バッカじゃないの? ほんっと卑怯! 変態! だいたい。」

 彼女はなおも英語で言い放った。「アナタの家族がかわいそう、こんなろくでなしといっしょに居なきゃいけないなんて、あ、離れられてむしろしあわせ──……。」

「この……っ!」

「何その手、暴力でも振るう気?」

「――Vanellus!」

「はあ?」

「田鳧だ!」

 ようやく英語に戻る。研究バカの汚名返上か、はたまた面目躍如か。

「何? 田鳧? わけわかんない。」

「カムが要るんだ!」

「自分のがあるでしょ?」

「寄越せ!」

「絶対いや!」

「このわからず屋が!」

「何言ってんの? どっちがわからず屋?」

「電池もメモリも足らんと言ってるだろ! 貴様のと違う、旧式なんだ、知ってるだろ!」

「自分のに充電でもメモリ交換でもすれば? だいたい足んなくなったのって自分の無駄遣いじゃん!」

「っ……もういい。お前に何言っても無駄だな。文字はおろか人の心も読めんお前なんかに。」

「さっさと向こう行ったら?」

 憤懣絶頂のまま、彼はまず彼女の大テント奥の蓄電器へ向かった。足どりは震えている。戻ってから研究は満足に進められるのだろうか。

「私の荷物漁らないでよね」

 いちいち余計な一言が、彼の神経を逆撫でする。「だいたいあと三日はバッテリ大丈夫だし。下山までは持つ。村に着けば充電もできる。メモリだって、ちゃんと残り意識してやってるから──わかったら用済ませて──……。」

 まさか彼女、この口上まで録画撮影してはいまい。充電充填機材の調整はそこそこに調査現場へ踵を返す彼の、姿も気配も消えた後なお、彼女の不平だけは静かに響いていた。




 ──ん、ちゃんと撮れてるかな、これ。

 家族って、うーん……そうだよね、貴方の家族って、きっと素敵な人たちだったんだろうな。私の家族も、多分あの瞬間〈大魔王〉に飛行機ごと消されちゃったんだと思う。実はあんまり顔覚えてないんだ。私、施設と養護学校育ちってかなり前に言ったでしょ、文字全然読み書きできなくて、親が困り果てて。

 ねえ聞いて? 十何年ぶりに会えたと思ったら、行方不明者リストだよ? でも、自分の名前だって精いっぱい、親の名前になるとだいぶ怪しい。私、……文字読めないって大変なんだ、〈大予言〉ってニュースで言われるようになって後もずっと気付かなくて、言われて初めて気付いて──“死んでるかも”ってだけで、こんな気持ちになるなんて思ってもなかった。笑っていいよ、お前を捨てた酷い家族は死んだ後またお前を捨てた、って──私の家族は私を捨てたのかも知れない、でも私は家族を見捨てない、見捨てたくない。顔ほとんど覚えてない、“赤の他人”みたいだけど……貴方の言うとおり、たぶん私にとって人の心って、〈極光文字〉よりずっと読み取りづらいものかも──。

 ……口が忘れらんないんだ。親の。聞くのに集中してたら口ばっか見てたのかも。おかげで音に敏感になって唇読めるようになって、そのうち顔の表情も、読むようになって。だから私、施設で英語覚えられたんだ。ねえ、同じ言葉を話してても人それぞれ振る舞いが違うんだよ──それで、〈極光オーロラ〉を初めて見た時それとおんなじ感じがした。口でもない顔でもない、〈極光〉が、いろいろあれこれ振る舞う、それをいつからかみんなで〈極光文字オーロラ・コード〉って呼び始めた。私にとって、生まれて初めて思う存分読み続けられる文字だよ。ねえ……わかる?

 〈極光文字〉を空から消し去りたい、なんて言っちゃう貴方に協力したのは、私自身あの言葉を読み取るのは大事だって思ってたから。私が、もっともっと読みたい、って思ったから。それに、私の家族もどこかで生きてるなら頑張りたかった。だから私たち出会ったんだよね、あの講演会で。先生たちと会う前、“空の文字が読める”ならそれを活用しよう、ってなって、胡散臭かったけど私だけが読み取れることを遺族の心の慰めに、って。ほんとは講演で話した通りには〈極光文字〉は振る舞ってないんだ。でもなんとか慰めになればって話してると、聞いてる人たちみんな唇を噛み締めててさ、辛そうに。なのにその中で貴方だけ、マジつまんなそうなしかめっ面。そんな貴方が終わった後私に話しかけてきた。あんなにつまんなそうにしてた貴方が。私、すごいびっくりしちゃった。今思うと出会い方がちょっとズレたのかな。どっちも家族行方不明なのに、こんなちぐはぐになっちゃって。

 そんなこと言えなかった、あの時の貴方には言っちゃいけなかった。世界が〈極光文字〉だらけになった、そのすぐ後から、貴方だって家族が……。〈極光文字〉読み取るじゃない、それとおんなじ、私には貴方のちょっとした振る舞いから貴方の思いコードが見えたの。……うん、それってただの感覚なんだけど、たぶん学問なんかとはぜんぜん違うんだろうけど、貴方だけが振る舞う言葉コードなんだって、私は感じた。

 ねえ、貴方の振る舞う言葉は悲しいよ。いつも怒ってる。それに私となんか居たくないって気持ちがいつも溢れてる。〈極光文字〉だけ読めるなんて気味悪い、とかさ──はっきり言うけど最っ低! そんな八つ当たりするなんて、ほんっと最っ低。露骨、下品、低俗、悪党、インチキ野郎、クソ雑魚ナメクジ、バカアホマヌケオタンコナス!

 ──はあ……まあ言いたいこと言っちゃってるけど、あちこちの〈極光文字〉読んでくためには貴方の力が絶対必要だし、ここでさよならってわけにはいかない。それはたぶん、貴方も同じ、だよね?

 はあ、もう……嫌だな……なんで上手くいかないんだろ……ストレスでマジ胃に穴空きそう。ムカつくムカつくムカつくムカつく……――。


 ──やばっ──……、っ!──。


「……起こした?」

「いや、目が覚めた。」

 昨晩は飲み、今晩もだ。予備の消毒液としても貴重なはずのウォッカは、あとどれくらい残っているのだろう。

「お酒臭いよ。」

「溜まってるからな。」

「あそ、行ってらっしゃい。」

「……撮影待機か。」

「うん。雲も流れてくし。好い感じで読めそう。」

「ふん。」

 彼の読み通り、また無駄遣いをしていたばかりなのに、よくもまあ抜け抜けと嘘をつく。しかし、実際に雲は流れ、切れ間から雄大な光の帯が窺える。

「用足さないの?」

「……。昨日は済まなかった。」

「……。」

「君の失読症を見下していた。一種の障害であることは、理解しているつもりだったが、配慮を欠いた。申し訳なかった……。」

「……ん、……。」

 彼女の家族のことには、ふれない。それぞれの家族への思いを、お互いに気遣うあまり、ふれない。そのせいで埋まらない溝、かえって拡がることさえある、不安。

「用足し。」

「……コーヒー淹れとく。」

 彼は行く。彼女は立ち上がる。跋の悪さをかき消しにコーヒーを淹れる。さっきの飲みかけ、冷めたのは捨てた。無駄遣いばかり……とんでもない。水と湿気は売るほど有る。

「――お帰り。ちゃんと手洗ってきた?」

「水場近くの野営地設営を決めたのは誰だ?」

「はい。冷めないうちに。」

「ありがとう。」

 一口、二口、無言の時間が過ぎ、彼女が呟いた。

「……ねえ、ここに、家族、いた?」

 三口目の寸前、彼は答える。

「いる訳あるまい……。以前航行資料を見せてもらったが、操縦不能になった後ここまで辿り着くことはどんな計算上もあり得ない。飛行機に渡り鳥の奇跡は起こせない。」

「保冷器のあの子、どうすんの?」

「まずは残ったサンプル採取、普段通り解剖。遺骸は元状に還す。」

「そう……。ねえ、田鳧って昔、見たことあるんだ。冬、稲の刈られた田んぼに来るの。可愛い声で鳴くんだよね。陽の光に当たると羽が鈍色に光って綺麗で、見上げてみると雲の切れ間から差した光でさ……。」

「何が言いたい。」

「あの時の空ってさ、いつもまっさらだったんだなあ、って思って。」

「下らん……それも〈極光文字〉語録か……僕はもう寝る。……カップ、洗っといてくれ。」

「ん。私は……、あ、雲抜けてく──」

 早速、そして今度こそ本当に、撮影の準備だ。おやすみを言う間も無く、彼は自分のテントに入って行った。




 ……二〇〇五年八月十四日、日曜日、01:41、雲残ってるけど晴れ、観測はできる。ロライマ山頂六日目。

 さて、読み取り始め。……“柱、埋まる、透いて、融ける、ゆっくりと、破られる”。……、……、……“結晶、変革、ゆさぶる、花びら、欠片、散る、歩く、速さで”。んー、これは歴史とか時代とか、時の流れのこと言ってんのかな。……、……今晩はだいぶはかどるな、雲出てきたけど、頑張る、……、……、……“伝わる、煙、舞う、揺蕩い、なびいて、すこやかに、自由に”……、“自由に”……、……ここは“気ままに”とも読み取れるかも。振る舞いが似てる。もしかしてだけど、そういう読み取り方も必要だったりして……。

 ……、……、……、うーん、だとすると……。


 ──“世界は、まだまだ、悩ましい”──のかな……。


 ……おやすみなさい。

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天の光はすべて文字 籠り虚院蝉 @Cicada_Keats

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