最初に降りる1人

 大久保が1番ホームにたどり着いたのは、矢神が悲鳴を上げたタイミングだった。線路に向かって手を伸ばしている厳島を見て、彼は全てを察した。連れて行かれてしまったらしい。元の場所に帰ったとでも言うのか。いや、もともと、行くべきどころに行くことが出来ずにさまよっていたのかもしれない。矢神がベンチで泣きわめいていて、溝口に抱きしめられている。新藤は呆然として厳島と線路を見ていた。

「行ってしまいましたか」

「はい……」

 厳島は肩を落としてため息を吐いている。「なんか……釈然としないけど……これで良かったんですよね? 根岸くんは乗りたい電車に乗って、行きたいところ行けたんですよね?」

「今の電車、どちら側に行きました?」

「あっち」

 そう言って薬剤師が指したのは下り方面。そこで、彼ははたと何かに気付いたようだった。「あれ?」

「君が突風に飛ばされた時、根岸くんは今の方向を見て真っ青になっていました。おかしいですよね?こちらは下り方面ですが、あちら側は上り方面です。この駅で、両方のホームを同じ方向に走っていくなんて」

「じゃあ…」

「ちゃんと行きたいところに行けたんでしょうね」

「……良かった」

「ど、どういうことですか…?根岸くんはどうしちゃったんですか?行きたいところって……まさか……」

「ええ、憶測の域を出ませんが……そう考えるしかないでしょうね」

「信じてなかったけど。信じられないけど」

 厳島は首を振る。「うん、でもそう思わないと。そう思おう」

「は、はあ……」

 新藤は話題について行けないように頷いている。そして、泣きわめく矢神を見て、そちらに歩いて行った。

「大丈夫、大丈夫よ理沙ちゃん。あなたは大丈夫」

「だって! だって、怖いよ! 無理だよこんなの! 帰りたい! あたし帰る!」

「泣かないで、あなたは大丈夫だから……」

 彼女を抱きしめてなだめている溝口も、また泣き出していた。矢神は声を上げて泣いていたが、溝口はのそれはすすり泣きに近い。

「溝口さんまで泣かないでよぉ……」

 そう言って溝口を抱きしめ返していた矢神は、しゃくり上げながら溝口の泣き声を聞いている。新藤も泣きたい気分だろう。その背中を見送っていた大久保は、その向こうで矢神の顔に困惑の色が浮かぶのを見た。彼女は溝口から身体を離すと、その顔をまじまじと見る。

「どうしたの、理沙ちゃん」

「矢神さん?」

「……溝口さん、あたしがトイレに入ってるときどうしてた?」

「ここにいたわよ?」

「ここにいて、どうしてた?」

「線路を見てたけど……」

「それだけ?寝てたりしなかった?」

「ぼーっとはしていたけど……どうしたの理沙ちゃん」

「そっくりなんだよ……溝口さん、あたしが見た女の人の泣き方とそっくりなんだよ」

「や、矢神さん」

 新藤が立ち止まる。大久保はそれを見て、すぐに駅員室に向かった。監視カメラのモニターを見て、目当ての場所を探す。それはすぐに見つかった。見間違えようがない。

 1人でベンチに座って何かをしゃべっている矢神理沙が映っていた。

「根岸くん1人ではありませんでしたか……おや」

 そして彼は見た。立てかけてあったこの駅の時刻表を。そこに、どう見ても数字ではない文字が数字に混ざっているのを。元々の何分だったかはわからない。それでも午後6時台の早い時間と、午後10時台の中程にそれぞれ「根岸湊」「溝口すみれ」と、他の数字と同じ大きさの、四角いスペースに詰め込まれるように書かれているのは、彼が老眼であったとしても、目をこらせば読み取れた。

「ああ、やっぱり…帰り道にお邪魔してしまったようですねぇ」

 首を横に振る。彼は時刻表を持って駅員室を出た。

「溝口さん、死んでるの?」

「し、死んでないわよ? なんでそんなことを言うの?」

「じゃあなんでトイレの女の人とおんなじ泣き方してるの?」

「そんな泣き方の人いくらでもいるわよぉ、理沙ちゃんこそどうしちゃったのよぉ」

「溝口さん」

 大久保は時刻表をかざして声を掛ける。「あなた、いつかの帰り道に亡くなったんじゃありませんか?今日はどちらからお帰りですか?」

「そ、それは………」

 溝口は口ごもる。「お、覚えていません……」

「正直で結構。どちらにお帰りです?」

「それはもちろん家にです。帰り方もわかっています」

「そうですか……」

 大久保は時刻表を差し出した。「ここ、見てください」

「私の名前」

「そうです。根岸くんの名前はここに」

「そんな……」

「溝口さん死んじゃうの? 一緒に帰れば生き返るかもしれないよ?」

 矢神が溝口と大久保、時刻表を順番に見て、小さな声で言った。「駄目?」

「駄目です」

 大久保がやけにきっぱりと言う。

「何も覚えていないの。どうやってここまで来たのか。でも家に帰りたいことと、帰り方だけはわかってる。主人が心配する……」

「そうでしょうとも……心配していましたよ」

「はぁ?」

 厳島が素っ頓狂な声を上げた。「大久保先生、知り合い…?」

「同姓同名他人の空似かと思いましたけどね、ええ、妹の旦那のお姉さんですね。すみれさん、ぼくがわかりますか? 思い出せますか。大久保の弘です。あなたの弟の妻の兄です。結婚式や法事で何度かお会いしていると思いますが。あなたはぼくの娘も随分可愛がってくれましたよ」

「そんな……私、本当に死んでるんですか?」

「ぼくと妻は葬儀に出ました。ええ、そうです。同窓会の帰り道で事故に遭って。思い出せませんか」

 溝口は絶句していた。新藤はそれでぴんと来た。それで、大久保は溝口が名乗ったときに反応したのだ。まさか死人がこんなところで電車を待っているわけがない。そう思おうとしたのだろう。

「もしかしたら、ぼくは呼ばれたのかも知れませんね、あなたを見送るために」

「わ、私まったく覚えていないんだけど……」

「妹にも大変良くしてくださいましたから、もしかしたら僕が呼んでしまったのかも知れません。どちらでも結構。あなたを見送る光栄に浴せると言うものです。さあ、すみれさん」

 大久保は手を差し出す。「根岸くんを見る限り、迎えの電車が来るのは確かです。それに乗れれば、帰れるでしょう。帰るべき場所に」

「それは主人のところではないのねぇ」

「ええ、おそらく無理でしょうね。でも、あなたのご主人はあなたの冥福を祈っています。それを裏切れますか?」

「……いいえ。悲しいけれど」

「溝口さん……」

 矢神が呆然として溝口を見上げる。「せっかくお話できたのに」

「私も残念。理沙ちゃん良い子だから、もっとお話したかった……でも、しょうがないわね。地縛霊になっても困っちゃう」

 その言葉に、矢神は再び泣き出した。

「みぞぐちさん……ありがと……傍にいてくれて……すごい心強かった……幽霊だけど…」

「幽霊だからかもしれないよ。魂だからね」

 厳島が言った。溝口は彼を振り返って、にっこりと笑って見せる。

「ありがとう、厳島くん。じゃあ、私次の電車で帰るわね……矢神さん、新藤さん、それと……弘くん?」

「そう呼んでくれていましたね。はい。お気を付けて。ぼくもそんなに時間は経たないでそちらに行くと思いますよ」

「駄目よぉ、そんなの。ちゃんと天寿を全うしてください。事故に遭っちゃ駄目よ」

「それはもちろん」

 大久保は頷いた。その瞬間だった。電車の到着を告げるチャイムが鳴った。

『1番ホームに、各駅停車……行きが参ります。黄色い線の内側にお入りください』

 やはり行き先は聞こえない。生者には聞こえないのかもしれない。溝口は特に不安そうな様子は見せなかった。矢神がその手を握っている。やがて、上り方面から電車の音が近づいて来た。全員が無言でそちらを見ていると、今度はライトの付いていない電車がこちらに向かってくるのが見える。

「え、あの電車」

 矢神が目を丸くした。「見えてる?」

「見えてる」

 新藤も頷く。でも、普通の電車でないのは明らかだった。車内には誰も乗っていないし、電気も付いていない。溝口の正面にある車両に、突然明かりが点いた。空気を吹き出すような音を立てて、ドアが開く。溝口はそっと矢神の手を離すと、立ち上がった。

「それじゃあ、皆さんまたいつか。今日はありがとうございました。怖かったけど、楽しかったわ」

「あたしも……またね、溝口さん」

 矢神も立ち上がる。溝口はその頭を撫でると、電車に乗り込んだ。きょろきょろと車両を見渡して、適当な席に腰掛ける。こちらを見て手を振った。4人も手を振り返したドアが閉まる。電車はゆっくりと出発する。窓から見える溝口は、ずっと4人に手を振っている。新藤たちも、電車が見えなくなるまで手を振り続けた。

 やがて、電車の音も聞こえなくなって、大久保が大きく息を吐く。彼はそのままベンチに座り込んだ。

「ああ、何というか、死んだはずの人間に会うって言うのは、存外に疲れるものですね」

「先生、大丈夫ですか」

「大丈夫です。精気は吸い取られていません」

「精気って」

 なんと返したら良いのかわからなくて、厳島は曖昧な笑みを浮かべた。「それにしても、もういませんよね、この中にもう死んでる人。俺達どうやって帰ったら良いんでしょう?」

「ぼくはここに泊まります。疲れました」

「身体痛くなりますよ。っていうか風邪引いて肺炎になったりしたら洒落にならないじゃないですか?」

「あー、うんそうですねぇ……すみれさんに顔向けができません……」

 ぐったりした大久保を心配しながらも、厳島は電光掲示板を見上げる。相変わらずだった。行き先と、時間、そして終電。

「電車来るかな?」

 厳島は新藤に囁いた。彼女は反射的に時計を見る。そして目を丸くした。

「厳島さん! 時間!」

「え? うわ!」

 時計は23時55分を指している。「え、嘘だぁ、さっき1時過ぎてたよね!?」

「え? マジで? 電車は?」

「待って、もしかして、今まで異空間にいた? それが戻って来れたってこと? マジで? じゃあ駅員さんは?」

 言うなり、厳島は立ち上がって駅員室に駆けていく。「すみませーん!」

「はーい」

 駅員室の奥から声が聞こえて、新藤と矢神は顔を見合わせた。大久保も、ベンチの上で目を閉じたまま口元で笑顔を見せる。

「あー、終電ねぇ、ちょっと遅れてますねぇ。今確認して時間出しますんで」

 それから少しして、電光掲示板に「10分遅れ」の文字が追加された。


 実際に遅れたのは7分程度だった。なんとなく、新藤と厳島、大久保と矢神で別れて向かい合った席に座る。明日午前休取って良いかな。新藤は、先ほど母親にメールを送ったスマートフォンをもう一度取り出した。この時間に上司に連絡しても良いだろうか。

「そういえばさ、内緒にして欲しいんだけど」

 厳島がそっと新藤に囁いた。「思い出した。根岸くん、俺会ったことある」

「えっ? どこでですか」

「えーっと、平たく言うと患者だった。思い出した。俺、整形外科の担当なんだけど、足の骨折で入院してた。え、あの子いつ死んじゃったの? 去年だったと思うけど。色んな人がお見舞いに来てて……」

「忘れてたんですか?」

「すっかり忘れてた……けど根岸くん覚えてたのかな?覚えてたから最初調べに行くとき俺と一緒に来てくれたのかな?」

「そんなに慕われてたって、優しい薬剤師さんなんですね、厳島さん」

「うーん、10年はやってるから……慣れもあるよ……優しく見えるようにっていうのが正解かもしれない」

「それって優しいってことじゃないですか?」

「そうかな? 新藤さんは優しいね……」

「ありがとうございます」

「もうちょっと優しさを出していこうかな」

「そのままで十分だと思います」

「そうかなあ」

 厳島が首を捻っていると、次の駅の到着アナウンスが流れた。新藤の降りる駅だ。

「じゃあ、私次で降りるので。厳島さん明日……今日の夜勤頑張ってください。皆気をつけて帰ってね」

「新藤さんも」

「新藤さんまたね」

「あなたもお気を付けて。事故に遭わないように」

「はい、もちろん。皆さんも」

 駅に着いた。新藤は立ち上がると、電車とホームの隙間に注意を払いながら降りる。振り返ると、3人がこちらを見ていた。

「じゃあ、おやすみなさい」

 手を振る。出発した電車を見送って、新藤は階段を上がった。シャッターは閉まっておらず、彼女は外に出た。

「卯月!」

 ロータリーから声がする。母親が、車の窓から手を振っていた。「大変だったわね、お疲れ様。乗って乗って」

「ひとりで帰れたのに」

「だめよ、心配だもん」

「もう」

 ぼやきながらも、純粋に嬉しくて、新藤は助手席のドアを開ける。「ただいま、ありがとう」

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帰り道の迷子たち 目箒 @mebouki0907

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