見てしまった2人
「それで、どうしました?」
連絡通路をしばらく歩いて、丁度線路の下あたりにさしかかって、大久保が厳島に問いかけた。「ぼくを連れ出したのは、他の皆さんに聞かれたくないことがあったからでは?」
「あー、バレましたか?っていうか、相談できそうなのが大久保先生くらいかなって」
「聞きましょう」
「根岸くんなんですけど、どう思います?」
「不思議な子ですねぇ」
「やっぱりそう思いますか」
「どうやってここに来たのか覚えていないのはおかしいでしょうね」
「あと、電車なんすけど」
「君が吹き飛ばされた?」
「絶対来てないです」
「断言しますね」
「断言できます」
「根岸くんも断言していましたよ」
「だって」
厳島はそこで声量を上げる。「来るなら、ライトが見える筈なのに見えなかったし、あれだけのスピードで走ってきたなら音もするはずです。そんなもの一切なかった。午前1時で眠いは眠いけど、絶対に寝ぼけたりしてない」
「夜勤もある薬剤師さんですものね。それはそうだと思います。ただ、根岸くんの取り乱し方は尋常ではないですね」
「……何か、こう幻覚とか見えてるんですかね、彼」
「つまり?」
「精神的に、こう……変な薬打たれたり、とか」
「あるのですか?」
「というか、睡眠薬で
「なるほどね」
「普通に元気な人が幻覚を見ている、と言う印象です。俺、精神科はさっぱりだし医者じゃないからわからないけど……」
「ぼくも同意見ですよ。まるで、彼だけ見えているものが違うかのようですね。それこそ……霊感があるかのような」
「先生、幽霊とか信じてますか?」
「信じてますよ。お目に掛かったことはありませんけど、信じるってそういうことではありませんか? 形のないものをあると確信するのが信じると言うことです」
「ああ…」
墓参りに行き損ねたときの、言いようのない居心地の悪さと罪悪感のような。自分は無宗教のつもりでも、案外何かしらを信じてはいるようだ。
「まあ、それはさておき、根岸くんにこの世のものではない電車が見えるとすると、ちょっとまずいかもしれませんね」
「連れて行かれちゃうかもしれないってことですか?」
「さっきの電車は素通りして行きましたが、彼がそう言うものを見てしまうなら、向こうに行ってしまう素質はあるかもしれません。想像ですが」
「そ、そもそも、幽霊って保証もないわけですよ」
「そうでしょうか?」
大久保は厳島をじっと見る。「そうでしょうか?突然消えてしまった駅員、繋がらないネットワーク、突然現れた少年、トイレに出たと言う女性、尋常じゃない突風。果たして普通の現象でしょうかね?」
「駅員は普通にどっか行っちゃっただけ、ネットは寒いせい、根岸くんは嘘を吐いている、トイレの女性は矢神さんの見間違え、突風は偶然です」
「なるほど。証拠もありませんし、水掛け論ですね。まずは調べましょう」
「はい……すみません……」
「いいえ、ぼくの方こそ」
叱られた子供のように目をそらす厳島に微笑み掛けて、大久保は先に進んだ。さっきも通った筈なのに、さっきよりも連絡通路は、暗く、静まり返っているように感じる。2番ホームに出ると、2人は駅員室に入った。さっき厳島と根岸が調べた時と、特に変わりはない。
「確かに、向こうのホームと変わった様子はありませんね。これがマグカップですか。空になってからそんなに経っていないようですね。お茶が乾ききっていません」
「ああ」
なるほど、言われてみれば、底にわずかに残った緑茶は完全に干上がってはいない。「普段ペットボトルなんで……」
「ぼくも今はそうですよ。常勤の時、自分の研究室があった時はカップにお茶を淹れて飲んでいましたから」
「英文の先生ってやっぱり紅茶飲むんですか?」
「もちろんです、と言いたいですが、わりと何でも飲んでました」
「へぇ……」
「では、トイレの方を調べてみましょうか」
あちらの駅員室と特に変わりはないと判断したのか、大久保は厳島を促して駅員室を出る。
「女子トイレも念のため調べましょう。矢神さんが見た女性がこちらにも移動しているかも知れません」
「そうですね」
「抵抗はありませんか?」
「ありますけど今は話が別ですから」
「頼もしい限りです。とりあえず男子トイレから行きましょうか」
「そうですね……」
もう一度駅員室を見渡して、厳島の視線は監視カメラに釘付けになった。「大久保先生」
「何ですか?」
「反対ホーム、新藤さん誰としゃべってますか?」
「新藤さん?」
大久保は首を傾げながらも、厳島の質問に答えるために駅員室から顔を出した。1番ホームでは、うろうろしている根岸を追い掛けるように新藤が付き添っている。根岸は落ち着きなく歩き回っていた。新藤はその肩に手を置いてベンチを指している。座って待とう、とでも言っているのだろうか。
「根岸くんが歩き回っているのを追いかけているようですね」
「根岸くんと離れてますか?」
「いいえ。肩に手を置いて……」
そこで大久保は厳島の視線を追い掛けて、見た。何もない空間に話しかけている新藤の姿を。何もない空間に、手を添えている新藤を。
「あの子が見た電車って」
厳島はそこで絶句した。「戻ろう」
「ですね」
2人は駅員室を飛び出して、階段を駆け降りた。大久保は途中で足がもつれる。慌てて手すりにつかまって転倒は免れた。
「先に行ってください! 老体に堪えるので!」
厳島は手を上げてそれに応じた。誰も向こうから来ないのを良いことに、全速力で連絡通路を走って行く。新藤が心配なのか、根岸が心配なのはわからなかった。けれど、この空間で一緒に閉じ込められた根岸を、この世のものではないからと言って排斥するつもりにはなれない。何かを彼にしてやりたくて、厳島は焦った。俺に何が出来るって言うんだ。彼と同じものを見ることもできない俺が。
「根岸くん!」
連絡通路から1番ホームに飛び出す。それと同時に、それは厳島の耳に入った。電車が近づいている音だ。久しく機能していなかったスピーカーが、作動する。
『1番ホームに、各駅停車……行きが参ります。黄色い線の内側にお入りください』
厳島が1番ホームに駆け込んでくる少し前のこと、矢神は空腹を覚え始めた。何か食べたい。いつ出られるかわからないし。そう思って鞄を漁ったが、菓子類は全て食べきってしまっていた。彼女の視線は売店に向く。
「お腹空いた……」
小さく呟くと、溝口が大きく頷いた。彼女は時計を見て、少し大袈裟に目を開いてみせる。
「もうこんな時間だものねぇ」
「売店から何かもらっちゃ駄目ですかね……後でお金払うとして……」
「何か……不気味じゃない?こういうところの食べ物…私はやめた方が良いと思うの」
溝口が困ったように笑いながら言う。
「不気味って……?」
「ほら、何か、変なところの食べ物を食べると、帰れなくなるって…ごめんなさい、変なこと言っちゃって……でも、何か、変でしょう?この駅、さっきから……」
「そ、そうかも……ありがとう溝口さん……やめとくね……」
「根岸くん!」
それとほぼ同時だった。連絡通路から、厳島が飛び込んでくる。全員が一斉に彼を見た、その瞬間だった。
『1番ホームに、各駅停車……行きが参ります。黄色い線の内側にお入りください』
行き先の聞こえないアナウンスが鳴り響く。根岸がホームの縁ぎりぎりまで駆け寄った。
「根岸くん! 君は」
厳島がその背中に向かって呼びかける。根岸は振り返らない。
「今度こそ乗るんだ!」
「根岸くん!」
矢神は電光掲示板を見た。掲示板は最後に見たときと変わっていない。それなのに電車が来る? アナウンスだけ流れるの? やがて、遠くから電車が近づいてくる時の轟音が響く。ライトも何も見えない。厳島は迷っていたようだったが、やがて意を決したように根岸に向かってゆっくりと歩み寄る。
「根岸くんどうしたんですか」
「彼は……多分……」
厳島がそこまで言った時だった。ホームから身を乗り出していた根岸の身体が、横に傾いて、消えた。厳島は手を伸ばそうとした姿勢で立ち止まる。
「根岸くん」
「うそ」
矢神も思わず呟いた。「湊くん、なんで」
誰も答えない。スピーカーはもう何も言わなかった。
「嘘でしょう!?」
彼女の悲鳴が、線路の中に反響する。厳島はそろそろと線路に近づいて、のぞき込んだ。首を横に振る。
根岸湊は消えてしまった。
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