巻き込まれた3人
溝口はホームのベンチに座って線路を見張っていた。終電だし、これを逃したら皆帰れなくなってしまう。責任重大だわ。少し冗談めかした心地で背筋を伸ばして線路を見つめた。それでもやっぱり電車が来る気配はない。電車の予定が表示される電光掲示板を見上げるが、変化はなかった。
今、新藤と大久保は1番ホーム側の駅員室を調べ、根岸と厳島が2番ホームの駅員室を調べている。先ほど、連絡通路を使って向こうのホームに上がってきた2人を見た。矢神はこちら側のトイレに行っている。彼女はすぐに帰ってくるだろう。
いつになったら帰れるのだろうか。早く帰らないと、家族が心配する。とりあえずは生きていることを伝えたくても、携帯電話も駅の中の電話も繋がらないのではしょうがない。捜索願いが出てしまうだろうか。50代主婦が……。
「……あら?」
50代主婦が、どこの帰りに? 思い出せない。自分はどこに行った帰りだっただろうか。こんな遅い時間に。思い出せない。少し眠かった溝口はそれで完全に目が覚めた。
ぞっとした。思い出せないのは年齢的なものとは違うと感じる。確かに物忘れは増えたが、今まで出かけていたところの記憶がないのは、そのせいではない。だって帰るべき場所は覚えている。このホームから電車に乗って、2駅先で降りる。それから5番バス停のバスに乗って……この時間ではもうないからタクシーを拾うか夫に電話するか。それなのに、どうして今日行っていたところが思い出せないのだろうか?
相変わらず、線路の中は静まり返っている。地下鉄特有の、あのごうごうとした、地響きのような音も聞こえない。静まり返っている。まるで、自分の記憶をじわじわと浸食するかのようだ。どうしよう。溝口は不安と焦燥に駆られてきょろきょろと周りを見る。誰かに、今日出かけた先の記憶があるか尋ねないといても立ってもいられなくなった。一番近いのはトイレの矢神か。しかし、自分がここを離れるわけにもいかない。その時だった。強い足音が、横から聞こえてくる。矢神がトイレから飛び出して来たのだ。
「どうしたの!?」
矢神の顔はここから見ても真っ青なのがわかった。一体トイレに何があったのだろうか。まさか、誰かが死んでいたのか?自分の想像に背筋が冷たくなる。
「どうしたの、理沙ちゃん」
「ひと、ひとが」
彼女の表情は固く、怯えているのは明らかだった。「ひとがトイレで、泣いてたんです。でもすぐ消えちゃった! どうして!? どうしてこの駅人が消えちゃうの!? あたしたちも消えちゃうんですか!?」
「理沙ちゃん、大丈夫、大丈夫よ」
自分の記憶も消えているけれど、それでも溝口は怯える矢神を励ました。何もされなかったんでしょう? そう言おうとしたその時だった。線路の彼方から轟音を聞く。
「電車来た!」
反対ホームにいる根岸の声がやけにはっきりと聞こえた。
「電車?」
矢神の背中をさすりながら、ホームを見る。ものすごい勢いで、何かが通り過ぎて行ったのを、彼女は「見た」。その風圧に吹き飛ばされる厳島の姿も。愕然としている根岸も。
「何!?」
矢神が悲鳴のような声を上げる。「やだよ!もう変なのは来ないで!」
電車が通り過ぎた後のように、突風が尾を引いて消えていく。
「どうしましたか?」
駅員室から大久保と新藤が走って来た。「何か見つかりましたか?」
「わ、わからないの……でも、今向こうの線路を何かが通ったみたいで……」
「電車、通り過ぎたんですか?」
新藤が目を丸くする。
「わ、わからない。でも厳島くんと根岸くんが」
溝口の言葉に、2人は反対ホームを見た。膝を突いている根岸と、仰向けの姿勢から起き上がろうとしている厳島が見える。
「厳島さーん!大丈夫ですかー!?」
新藤が叫んだ。厳島はその声に振り向くと、「背中痛いけど大丈夫そうー!」と大きな声で返事をした。ひとまずは大丈夫そうだ。溝口は安堵した。根岸の方が心配だ。彼は呆然として線路を見ている。
「とりあえず、おふたりとも戻ってきてくださーい! まずは集まりましょう!」
大久保が、両手を口に当てて声を張り上げると、厳島は両手でマルを作って了解の意を示した。根岸の肩を叩く。少年はゆっくりと厳島を振り仰いだ。その姿はどこか力がない。ゆっくりと、厳島の手を借りて立ち上がった彼は、ふらふらとその後ろについて連絡通路に消えた。
「厳島くん大丈夫ですか」
「めちゃくちゃ背中と肩痛いけど大丈夫です。頭は打ってないですね。多分」
「でしたら結構。病院にも行けませんからねぇ」
「そうなんですよね。いやー、びっくりしました」
大久保と厳島は、そんなやりとりをしながら、ベンチに座ってうなだれる根岸を見下ろした。その隣には溝口が座っており、更に隣の矢神の肩を抱きつつも根岸の様子を見守っている。
「何が、あったんですか?」
新藤が厳島を見上げた。「電車が来たんですか?」
「いや、電車っていうか風? だったよ。何かすごい強い風だったけど…」
「電車だった」
根岸がうなだれたままはっきりと答える。「電車が来てた…俺、置いて行かれちゃったよ…帰れない…」
「まあまあ、さすがにずっとこのままと言うことはないでしょうし、もうちょっと待ってみましょう。しかし、一緒にいたおふたりで見たものが違うとは」
「溝口さんどうでした?」
厳島が溝口を見る。「何か見えました?」
「う、うーん、私もよくわからないの……何かが通ったようにも見えたし、でもそれが通ってる間に厳島さんが壁に飛んで行くのも、根岸くんが座り込んじゃったのも見えたし……見えたような、見えなかったような、と言う感じなのよ……理沙ちゃんは?」
「……わかんないです…でも何か風がすごかったのはわかった…」
「どちらにしろ、『何か』が通り過ぎたのは事実のようですねぇ」
大久保が顎に手を当てて思案する。「それが見える人と見えない人がいるようですね。厳島くんには見えないが根岸くんには見えたと。溝口さんはぼんやりと見える、と言う感じでしょうか?おふたり、霊感のようなものは?」
「わかんない」
「うーん、あまりそう言うものとは縁のない人生でしたけど……」
「厳島くんは?」
「10年以上病院勤めてるけど、特に何も見たことないから多分ゼロですね」
「なるほどね…」
「ところでさ」
厳島はまだ震えている矢神を見る。「矢神さんはどうしちゃったの? トイレに何かあった?」
「そう言えば」
はつらつとしていた彼女が俯いているのを見て、新藤もずっと不思議だった。何か出たのだろうか。それにしては切羽詰まっていない。
「……女の人がいたんです」
「女の人?」
「洗面台の前でうずくまって泣いてた……影しか見えなかったけど、よく見ようとしたら、消えちゃって……それまで色々探してたり、トイレも使ったりしたんだけど何もなくって、でも急にそんなことあったから、あたし怖くなっちゃって……」
「そりゃあ……怖いよな……」
厳島は天井を見上げて、想像したのか幾度も頷いて穏やかな声で返した。「大丈夫か?」
「大丈夫です……厳島さんは大丈夫ですか」
「頭は打ってないから大丈夫だよ。大久保さんたちの方はどうでした? 何かありました?」
「特に何もなかったですねぇ。泣いてる駅員なども特には」
「やめてください」
矢神がはっきりとした声で抗議する。大久保は驚いた様に彼女を見たが、やがてばつの悪そうな顔を作って頬を掻く。
「失礼しました……まあ、何もなかったですよ。ねえ、新藤さん」
「はい。さっき厳島さんと調べた時のままでした。そういえば、厳島さんたちは駅員室調べられましたか?」
「あ、そうそう。ちゃんと調べたよ。あっちの駅員室も特に何もなかったなぁ。マグカップ置いてあったけど」
「ああ、それと」
大久保が思い出した様に言う。「鉄道会社のネットワークに繋がらないか、パソコンを少しいじらせてもらいましたが、つながりませんでしたね。携帯電話も無理でした」
「ああ、それなら俺も試しましたよ。繋がらなかったですね。接続障害が内部ネットとインターネットで同時に起こるなんてこと、あるかなぁ?」
「今日の冷え込みは尋常ではないですからねぇ。外部だろうと内部だろうと、ネットワークの仕組みそのものは同じでしょうし、同じ原因で駄目になることもあるでしょう」
「タイミング悪ぃなぁ」
厳島は呆れたような顔になる。そして彼は腕時計を見た。「うわ、もう1時になっちゃったよ。俺段々眠くなってきたなぁ……」
「寝ますか?駅員室、多分眠れますよ」
大久保はにこやかに言う。厳島は手を振って苦笑した。
「駅員室は怖いんで良いです。ベンチで寝ます。でも多分寝れないだろうな…」
「そっか、もうそんな時間か…」
新藤も腕時計を見た。そして電光掲示板を振り返る。表示はずっと変わらない。もう過ぎてしまった時間を予告して光り続けている。
「さて、どうしましょうかねぇ?」
大久保はこの状況を楽しんでいるかのように、余裕に満ちた表情で一同に問う。
どうして大久保先生はそんなに楽しそうなんですか? 新藤は喉まで出かかった疑問を飲み込んだ。消耗している矢神と根岸の前で、それを問うのはためらわれたからだ。大久保を見つめているのは新藤だけではなかった。厳島もまた、大久保の顔を見つめている。
「…俺、もう一度向こうの駅員室、それとトイレも調べたい。大久保先生、一緒に来てくれませんか?」
「ぼくですか?ええ、良いですよ」
「じゃあ、行きましょうか。新藤さん、溝口さん、根岸くんと矢神さんをお願いします」
「は、はい…」
「良いけど…気をつけてね」
「そりゃ勿論。じゃあ、先生、行きましょうか」
「ええ、行きましょう」
不安げな新藤と溝口、呆然としている根岸と矢神に背中を向けて、厳島は大久保と連絡通路に向かった。
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