プラットホームの4人

 ずんずんと先に進む根岸を追い掛けて、厳島はやれやれと首を振った。不気味な少年だよ。病院に勤めていれば、当然怪奇現象じみた話も聞く。けれど、厳島は薬剤師の仕事についてから13年。未だかつてそんな目に遭ったことはない。この状況よりも、先を進む風変わりな中学生の方が心配だった。なんだってこんな夜中に外を出歩いているのか。道中何度も声を掛けようとしたが、その背中は一切の質問を拒んでいるようにも見える。先ほど、こちら側の出入り口にもシャッターが閉まっているのを確認すると、彼は厳島の言葉もろくに聞かないままホームに向かってしまったのだ。

 やがて、根岸が2番ホームに出た。左右を見る。

「とりあえず、駅員室に行こうか」

 厳島が声を掛けると、根岸は肩越しにこちらを見て頷いて、彼を待った。厳島はほっとして追いつくと、

「あんまり先に行かないでくれよ」

「怖いの?」

「怖いよ」

 何が怖いかは言わなかった。状況は不可解ではあるが、厳島にとっては根岸の体調の方が懸念事項だ。どうやって真夜中の駅に来たのかも覚えていない、中学生。動いていないと頭がぼんやりしてしまうなんて。単に眠いだけかと思っていたが……何か病気を持っているのだろうか。だとしたら、発作か何かが起きる前に出る方法を見つけなくてはならない。医療従事者としての使命感に燃えた訳ではない。単に医療従事者であるから素人よりも心配事が見えてしまうだけだ。

「兄さん、病院で働いてるんだろ。出るんじゃないの?」

「俺は見たことないんだなぁ。看護師さんとかはよく見たって言うけどね」

 厳島は肩を竦めて見せる。「根岸くん、幽霊とか見たことあるの?」

「ないけど……」

「まあ俺幽霊とか信じてねーから」

「じゃあ兄さん何が怖いの?」

「明日の仕事に間に合わないのが怖いんだよね」

 さすがに、夜勤に間に合わないと言うことはないだろう。いくらなんでも始発の時間になれば乗客が来る。シャッターが開いていない駅を見れば、鉄道会社か警察に連絡する筈だ。

「何時から仕事なの」

「夕方5時」

「そんな遅い時間から仕事あるの?」

「そう。泊まりで仕事だから」

「ああ。夜勤ってやつ」

「そう」

「看護師さんだけだと思ってた」

 根岸がそこまで言った時、駅員室にたどり着く。1番線と同じようにやはり中の明かりは付いている。これで誰もいなければ、少なくとも2名の駅員が消えてしまったことになるのではないか。厳島は窓口に向かって叫んだ。

「ごめんくださーい!誰かいませんかー!」

 やはり返事はない。予期していたとは言え、不気味だ。厳島はドアノブに手を掛けた。こちらも鍵は掛かっていない。

「失礼しまーす」

 いないだろうと言う諦念と、いてほしいと言う願望。つきっぱなしの電子マネーの端末、そしてパソコン。運行情報を閲覧するブラウザが立ち上がっていた。

「これ、見て良いと思う?」

 根岸を振り返る。

「さあ……」

「見ちゃえ」

 厳島はそう言って、マウスを操作する。この駅の終電の情報も表示されていた。鉄道会社のネットワークに繋がっているようだ。しかし、この画面はいつからこうだったのだろうか。F5キーを押そうとして、厳島は手を止めた。少し考えてから、スクリーンショットを取ってペイントソフトに貼り付ける。

「何してんの?」

「スクショ取ってる」

「何で?」

「同じ画面に戻って来れなかったらまずいだろ」

 一通り画面をコピーすると、厳島はF5キーを押した。画面が読み込み中で白くなる。振り返ると、根岸はドアの枠にもたれてとろんとした目をしている。

「根岸くん大丈夫?」

「大丈夫」

「歩いてくる?」

「別に……大丈夫」

「なあ、別に洗いざらい話せとは言わないけど、本当にここに来た時のこと覚えてないのか?」

「……俺が嘘吐いてるって言うのかよ」

「言いたくないのかなって……この時間だし。でも、ここに出入りする方法があるなら知りたいから」

「……本当に覚えてないんだ」

「わかったよ」

「嘘じゃない」

「わかってる。信じるよ」

 ネットワークに接続できません。穏やかな字体で画面にそう表示されるのを見て、厳島は直感的に根岸を信じた。おそらく出入りする方法があったとしても、誰も覚えていないに違いない。自分の携帯電話も圏外だ。

「根岸くん」

「何だよ」

「ケータイ持ってる?」

「……持ってる」

 そう言って、根岸はスマートフォンを差し出した。「ほんとは駄目なんだけど」

「最近の中学でもそうなんだな。ちょっと、ネット使えるか試してくれない?」

「ネット?無理だよ。だって」

 根岸はボタンを押して画面を付けた。「圏外だもん」

「やっぱりか」

「兄さんも?」

「俺も圏外だし、このパソコンも駄目だ。多分鉄道会社の社内ネットに繋がってる筈だけど、そこにもアクセスできない」

 電子カルテにアクセスできないようなものだ。社内メールも使えないだろうから、外部との連絡は完全に遮断されていることになる。そこで、固定電話に目をとめた。電話線なら、あるいは。厳島は受話器を取った。耳に当てる。信号音を期待したが、何も聞こえなかった。フックを何度か指で押すが、反応は変わらない。何も聞こえない。

「これも駄目か……なんだか、この駅が丸ごと切り取られたみたいだな……」

「何それ」

 根岸は笑った。「どうやって切り取るんだよ。巨大ショベルカー?」

「だとしたら、シャッターが閉まってるのも当然だよな。落っこちないようにだ」

 彼の軽口に答えながら、厳島は周りを見る。1番線の駅員室には確かペットボトルが置いてあったような気がするが、こちらにはマグカップが置いてある。中身はほとんど残っていないがどうやらコーヒーが入っていたらしい。

「メアリー・セレスト号みたいだな」

「何それ」

「ついさっきまで誰かがいたみたいだったのに、誰もいない遭難船だよ。確か」

 この手の状況の代名詞と言っても良い。代名詞として使っているから厳島も詳しいことは知らない。「ペットボトルもマグカップも、まあ忘れていってもおかしいことはないけどな……」

「うちの学校じゃしょっちゅうだよ」

「うちの病院でも」

 置き忘れたペットボトルが、同僚の計らいで冷蔵庫に入れられ、数日後本人が見つけて思い出すなんてことはざらである。概ね、忘れた本人は中身を廃棄するが。

「メモとかも特にないよね?」

「見た感じではないけど」

「ほんと、どこ行っちゃったんだろうなぁ。2人はいる筈だろ? それが同時にいなくなるって……」

「やばいよな」

「やばいね。とりあえず、トイレも覗いて、一回戻ろうか。それから考えよう」

 厳島が言うと、根岸は駅員室を見渡して、頷いた。彼も気になるものはなかったらしい。2人は駅員室を出ると、反対側のホームの足音を聞いてそちらを見た。女子トイレから矢神が飛び出して来る。

「どうしたの?」

 驚いた溝口がそう尋ねるのが、ホームを渡ってこちらまで聞こえてきた。しかし、矢神の返答は聞こえない。

「何だ?女子トイレに誰かいたのか?」

 そう言って厳島がホームから身を乗り出した途端、根岸が叫んだ。

「電車! 電車が来た!」

「え?」

 厳島は左右を見る。しかし、電車のライトらしきものは見えない。来ないよ。振り返って根岸にそう言おうとした瞬間、電車ではなく突風が下り方面に向かって線路を駆け抜ける。対岸の会話を聞き取ろうと、ホームの縁ぎりぎりに立っていた厳島は、その風に突き飛ばされるように飛ばされた。ベンチの上の壁に叩きつけられる。そのままベンチに落ちて、更に床に転がった。驚きのあまり息が止まる。黒ずんだ蛍光灯が見えた。

 今のは一体? 厳島はしばらく仰向けになったまま呆然として眼を瞬かせた。電車どころか、そよ風すら吹いていなかったと言うのに。

「電車が!」

 上から声が聞こえた。根岸の、焦燥にまみれた声が。

「電車が行っちゃったよ……」

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