生まれたてのアプリ
太刀川るい
生まれたてのアプリ
おぎゃあ、とスマホが泣いた。
ベッドから上体を起こして目を開けると、暗い部屋の中で小さな画面が目に痛いほどの光量で輝いている。
そのなかで、3Dモデルで描画された赤ん坊がこの世の終わりみたいな泣き声を上げていた。
この遺伝子の奥底からわたしの頭に響く音声は、一体どうやって作ったのだろう。どこかに泣き声素材を提供した赤ん坊がいたのだろうか。
どんな風に録音したのか。この泣き声の主は今いくつぐらいなのか。今自分の声が日本全国の女子高生の安眠を妨害していることを知ったら、どう思うのだろう。
胸に手を当てて息を吸う。ただうなされているだけの夜泣きかもしれない。癇に障る泣き声にただひたすら耐えながら充電スタンドの上のスマホをじっと見つめる。この時間がわたしは嫌いだ。何も出来ないまま、ただ時間だけが過ぎ去っていく。
結局状況は改善しなかった。
しかたがない。眠い目をこすりながら、スマホを抱きかかえる。原因はなんだろうか。おむつだろうか。画面に並んだアイコンをタップして確かめてみるけれど、どのアイコンも「これではないようです」という通知しか返してくれない。結局原因は分からない。赤ん坊にはよくあることだということを、わたしはもう知っていた。
わたしはスマホを抱きかかえる。ゆっくりとリズムよく揺らしていると、スマホはだいぶ落ちついてきた。
ほっとすると同時に虚脱感が襲ってきた。
大丈夫、安心して。実習はそのうち終わる。自分に言い聞かせながら、ああわたし、ばかみたいだと思った。
〈生まれたてのアプリ〉
「結局の所ね。妊娠できる年齢なんですよ。彼女たちは。なのに、それに関しての教育は遅れているわけです。昔は、子守りの手伝いなんかを通して赤ん坊の扱いを学んだわけですけれど、少子化でしょ。赤ん坊に接する機会が無いんですよ今の子は。だから妊娠と出産がどれだけの負担になるかが解っていない。命の尊さ、重さも解っていないから簡単に子供を作って中絶したり、育児放棄するわけ」
訳知り顔のコメンテータがそう語る映像をわたしは覚えている。
「この部分に関しては欧米の方が先進的ですよね。あちらだと、育児の大変さを実感させるために、実際に人形を使って実習するそうじゃないですか。私達もそうするべきですよ」
ゲストの芸能人がボブルヘッド人形みたいに一斉に頷いて、番組は次の話題になった。
保険体育の授業に、実習が入るという話が出たのは、わたしがまだ小学生だった時のことで。わたしが高校に入る頃にはすっかり必修のカリキュラムに組み込まれていた。
実習が始まるとわたし達のスマホにはある種のアプリがインストールされる。それはいわゆる育成ゲームと呼ばれるようなもので、画面の中にはあまり可愛くないモデリングの赤ん坊と、それから授乳やおむつなどのアイコンが表示されている。
21世紀初頭の女子高生は白黒の小さなドット液晶を持つ卵型の玩具で遊んでいたそうだけれど、今のわたしたちにとってそれは遊びではなく立派な授業の一つなのだ。
アプリの情報は全て記録され、端末内部に蓄積される。それは何かしらのスコアとして処理されているそうだけれど、それについてわたしはよくは知らない。実習中にその数値を見ることもできない。ただ、赤ん坊をちゃんと世話することができれば、そのスコアは貯まってき、最終的には成績という形になって帰ってくる。
どれだけ良い母親であったかということは、簡単な数字に変換され、そしてわたし達の内申点の一部分になる。
「めんどくさいよね。結局、ゲームでしょこんなの」
クラスメイトの女子が、スマホの画面を肉球柄のマイクロファイバークロスで拭きながら話をしているのを、わたしは横で聞いていた。
「噂なんだけれど、赤ん坊の性格ってランダムで予め決まってるんだって。よく泣く赤ん坊とか、逆に全然手間がかからないのとかは最初から全部決まっていて、初回起動時にセットされるんだっって」
「じゃあ、手間のかからないのを引いたらラッキーじゃん。ずるくね?」
「ううん、それが、フェアなんだってさ。ってのも実際の赤ん坊もかなり個人差があって、性格は千差万別でしょ? 現実がそうなっている以上、実習もそうするのがフェアって考え方らしくてさ。もちろんわたし達はそれを選べないわけだけれど」
「はぁ〜〜リセマラしたくね?」
「現実の赤ん坊はリセットできないよ。大体手を加えたら試験の不正行為と同じとみなされちゃう。不正行為ってカンニングと同じ扱いになるし、すっごい厳しいよ」
「そんなことはわかっているって。でもあたしの絶対ハードモードだと思うんだよなぁ。昨日なんて2回も夜泣きしたし」
わたしは5回だった。
クラスメイトの会話を聞きながら、わたしは自分のアプリをチェックする。わたしが引いたのは難しい方なのだろうか。
そんなことを考えながら画面をスリープにすると、隣の席の
「気になる?」
「何が?」
「みっかたちの話。難易度に違いなんてあるんだねぇ」
天田さんは机にだらしなく体を伸ばしながらそう言う。その様子はまるで巨大な猫みたいだ。さらさらした髪が肩からこぼれて机の上に広がって、そういえば猫は液体だっていうジョークがあったなとふと思った。
「あくまでも噂だし。でもそういうコンセプトについては聞いたことがある。明言はされていないらしいけど」
「どうしてだろ?」
「さあ、公平のためでしょ。自分だけが大変だとか思うと、最終的な結果に影響出そうだし」
「しのぶちゃんは難易度が高いタイプ?」
「分からない。人と比べたこと無いから。天田さんは?」
「わたしは簡単なほうかなぁ……こんな簡単でいいのかって思っちゃうぐらい。赤ちゃんもかわいいし、用事がなくてもちょくちょく見ちゃう」
天田さんはふわふわした手つきで、スマホのロックを外して微笑んだ。
ざわり、と胸のあたりが騒がしくなるのが分かった。心の中で不公平だという憤りが膨らんでいく。その気持ちを抑え込んで、笑顔を取り繕い、わたしは「良かったじゃない」という言葉を返した。
視線を落とすと、暗転したスマホの画面にわたしの顔が映っている。目の下に見えるのはくまだろうか。あとで鏡で確認してみよう。
わたしはスマホをぱたりと裏返しにすると、鞄から教科書を出して次の時間の予習を始めた。
家に帰ってから勉強の合間に検索してみると、うすうす感じてはいたが、わたしの引いたものは難易度の高いものであるらしい。
ネットには怪しい記事も多い。ロゴの角度や色合いからアプリの難易度を判定する裏技みたいな記事も出てきたが、どうせ金のエンゼルを必ず当てる方法みたいなフェイクだろう。実際の所、プログラム内部の情報などわかるわけがないのだ。
ただ、SNSの投稿などや、アフィリエイトがベタベタと貼り付けられた記事の内容と比較する限り、わたしのアプリはかなり夜泣きが多い方であることは確かなようだ。
攻略法、と銘打った記事も出てきたけれど、わたしはその手のものを信用しない。夜泣きは放置すればそのまま止まることがある。というのを試してみたこともあるが、実際はほとんど効果はなかった。
他人の子育てはあてにならない。子供は一人ひとり違うのだから。ということは実習以外でも聞く話ではある。となると、このアプリは人によって異なった挙動をするようにパラメータをセットしているのかもしれない。
そんなことをぼんやりと考えていると、またスマホがけたたましい泣き声を上げた。
慌てて、反射的にスマホを抱きかかえる。
文科省の人はこんなことで、命の大切さが解ると思っているのだろうか。面倒臭さはうんざりするほど解ったけれど。
それにしても、なにも受験勉強で忙しい時期にぶつけなくたって良いとは思う。何も考えずにただカリキュラムを組んだらこうなったのか、それとも、あえて理不尽さを強調させるためか。何しろ、世の中は理不尽なことで満ちているのだから。
しかしこの世が理不尽なものであるのならば、それを乗り越える実力を、わたしは身につけなければならない。人生はゲームみたいなものだ。より多くのスコアを稼げばそれに見合うリターンがある。わたしはゲームは得意だ。この状況にも打ち勝ってみせる。
わたしはスマホを寝かしつけると、ベッドに横になって目を閉じた。
「ねぇ、知っている? このアプリってさ、殺せるらしいよ」
「殺せるって何が?」
「赤ちゃん」
帰り際の教室。みっかたちの会話が耳に入ってきて、思わず鞄に教科書を入れる手が止まった。
「わたしも聞いただけなんだけれどね。こう、スマホを画面が割れるぐらいの強さで放り投げたら、そのまま赤ちゃんが死ぬんだって。ぐちゃって」
「うっそー。なんで?」
「命の大切さを学ぶためじゃない?」そういってみっかは皮肉な笑みを浮かべた。
わたしは自分のスマホの画面をじっと見つめた。暗転した画面には、わたしの疲れた顔が映っている。昨日も殆ど寝ていない。夜泣きの回数はそうでもなかったが、一度起こされると目が冴えてしまい、体は疲れているのに中々寝付けない。
みっか達の話は本当なのだろうか。やろうと思えばできることではある。スマホには加速度センサが入っているわけだし、あとはその数値を取って、衝撃が与えられればゲームオーバーになるように作ることも出来るはずだ。
ありえない話ではなかった。実際スマホを手から落とすと、かなりの減点になるということは最初の説明で受けている。その延長で、そういった機能が組み込まれている可能性は十分にある。その場合、実習はどうなるのだろうか。多分、その時点で終わりになるのだと思う。内申点も。
そこまで考えた時点で、とてつもない気味悪さが急にやってきた。一体どんな気持ちでそんな機能を実装しようと思ったのだろう。そう考えると悪意の冷たい指先で、直接頬を撫でられたような気持ちになった。落ち着こう。みっかたちの話はあくまでも噂だ。だれかが試したわけでもないし、試す気にもならない。もしそんな機能が実装されていたとしても、わたしには関係がない。
それでもわたしは、手のひらのそれを渾身の力で壁に叩きつける自分の姿を、頭の中から消すことが出来なかった。
スカートの裾から冷たい風が流れ込み、思わず身を固くした。もう冬だ。日が落ちるのが早くなって、こんな時間なのにもう空は濃い紫色の闇に覆われている。
歩道橋の上に、大きなマフラーをまいた天田さんがいた。違うクラスの子と何か話していたようだが、もう話は終わったようで、手を振りながらそれぞれ反対方向へ歩きはじめていた。天田さんはわたしに気がつくと手を振って立ち止まり「赤ちゃん、順調?」と聞いた。
わたしは首を振って答えた。「順調とは言いがたい感じ。ちょっと難易度の高い子が来ちゃったみたいで」
天田さんは、そう。と答えると歩道橋の手すりに寄りかかって、教室では見せたことのないさびしい顔をした。
マフラーをしているので、髪の毛がマッシュルームの傘みたいにふんわりと膨らんでいて、とてもやわらかであたたかそうに見えた。
「なんで、こんな実習があるんだろうね」
「さあ、文科省の人が決めたんじゃない? 少子化対策とかで」
「少子化対策に、なるのかなぁ」
「どうだか」わたしはポツリと呟いた。「でも練習にはなっていると思う」
「練習に?」
「そ。例えば将来仕事をしながら子育てするってなったら、こんな感じだと思うし、今から慣れなくちゃ。ゲームみたいなものね」
「しのぶちゃんは将来のこと、考えてるんだねぇ」天田さんは感心したような口ぶりで、ポケットからスマホを取り出した。アプリを確認するつもりらしい。その様子を見ていたら、わたしはふと教室で聞いた話を思い出した。
「そういえば、さっきみっか達が話してたんだけれど、そのアプリって赤ん坊を殺せるって本当なのかな」
「しのぶちゃんもその話聞いたの?」
「うん、天田さんも知ってたんだ。悪趣味な話だよね。ちょっと信じられない」
天田さんは急に真剣な表情を作ると、わたしの目をじっと見つめた。
「ねぇ、しのぶちゃん。だめだよ。そんなこと考えたら」
「やらないよ。そんなの。いくらただのデータだからと言ったって、考えただけで気持ち悪いし。大体内申に響くだろうし」
「しのぶちゃんらしいね」
「それ、もしかして悪口言ってる?」わたしがそう言って笑うと、天田さんは違うよ。と表情を緩ませるとまた真剣な目に戻って、
「しのぶちゃん。もし辛かったら言っていいんだよ。それは別にずるいことでもなんでもないと思うし、それに……」
「それに?」
「一人でスコアを稼ぐだけが人生じゃないから」と言い残して、去っていった。
天田さんが寄りかかっていた手すりはまだ暖かかった。そのかすかなぬくもりを人差し指で感じながら、わたしは天田さんについて考えた。
不思議な子だと思う。わたしとそれほど接点があるわけではない。ただ単に出席番号が近いから、隣同士になったというだけの関係で、天田さんの家族とか友達関係とかそういうことは殆ど知らない。なんとなく言葉を交わすだけの関係だ。なのに、昔からの友達みたいに、言いにくいことも話せてしまうのは不思議だった。
天田さんとわたしは何が違うのだろう。一つ思い当たることがある。
天田さんは勝とうとしない子だ。競争とか比較とか、そういうことには興味がなく、ただ自分の好きなものに対してマイペースで生きている人間だ。だからこそ、天田さんと話すと安心するのかもしれない。
でも、その時はまだ不思議だなと思うだけのことで、天田さんについてわたしがもっと知りたいと強く願うようになったのは、それからしばらくしてのこと、
実習が終わった日のことだった。
「皆さん。お疲れ様でした」提出されたレポートの束を机にトントンと打ち付けて角をそろえながら先生がそう言うと、教室のあちらこちらから安堵の声が一斉にもれだした。
わたしは疲れた頭でぼんやりとその様子を眺めていた。開放感を感じるのには疲れすぎていた。アプリに振り回され、自分の時間はほとんどない。完璧に上手くやれたとは全く思わないけれど、最後まで赤ん坊はそれなりに世話できたと自負している。
先生は、スコアの集計を行い、上位10名を発表していく。点数は教えてくれないが、順位を教えることは良いらしい。
クラスメイトの名前が呼ばれるたびに、パラパラとまばらな拍手が起こる。わたしの名前が2位で呼ばれたときはそれなりに嬉しかった。必死になった努力が報われた気がした。
1位は天田さんだった。
天田さんは「わたしは楽な赤ちゃんが当たっただけだから」と謙遜してみせ、先生はそれをほめた。
先生は天田さんが提出したレポートを束から取り出して、そこに書かれていることをわたしたちに説明しようとして……ふと険しい顔になった。
「天田さん……あの、ここに書かれていること。本当なの?」
「どこでしょうか?」
「隣のクラスの子についての部分なんだけれど……」
「その部分なら、はい。本当です」
天田さんは一瞬の躊躇もなくはっきりと答えた。先生は信じられないという顔をした。
「あなた、他の人を手伝ったの?」
先生の問いに、天田さんはゆっくりと頷く。
先生はぎゅっと目を閉じると、額に手をやった。そのまま少し間をおくと、言葉を慎重に選んでいるようなテンポで言った。
「天田さん。非常に言いにくいのだけれど、他人を手伝っちゃいけないことは最初に説明した通りよね。それは解ってた?」
「はい」
「これ、不正行為になるかもしれないってことは?」
「解っています。だから正直に書きました。わたしは他人のスマホを一日預かって、育てました」
「どうしてそんなことをしたんですか」
「しなければいけないと思ったからです」
「答えになってないです。天田さん。不正行為ということになれば、学校は処罰しなきゃいけない。それがルールなの。あなたがどう考えてようが、不正は不正なの」
「理由はアンケートに書いた通りです。あの子は……」天田さんはちらりと下を見ると、すぐ顔を上げて続きを口にした。
「……赤ん坊を殺そうとしていました」教室が静まり返った。
「歩道橋からスマホを投げ捨てようとしていました。だから、わたしが止めました。もう限界だと思ったから、わたしは彼女のスマホを一日預かりました。すこし落ち着かせる必要があると思ったからです」
「それも含めて実習なんです。毎年何人かは断念する子が出てきます。そういうものなんです。天田さんが手伝う必要なんてないんです」
クラスのみんなはぽかんとした表情で天田さんと先生のやり取りを見ている。わたしはあの日、歩道橋の上で天田さんが話していた隣のクラスの子の顔を思い出した。きっとあの子だという予感があった。
「どうしてですか。先生。おかしいと思うんです。なにもかも」決して声を荒げることがないが、強い意志を感じさせる態度だった。
「教育ってなんなんですか。できない人を排除することなんですか。
傷つき、疲れて、諦めてしまうクラスメイトを無視することが教育なんですか。どうしてそれが命の価値を知ることなんですか。有利な人が不利な人を助けて、そうやって回っていけばいいじゃないですか。子育ての大変さはみんなもうわかりました。わたしたちは現実を知りました。じゃあ、それを変えていくべきじゃあないんですか?」
天田さんの声は緊張しているのか、軽く震えるような感じがあった。今にも泣き出しそうな必死さがあった。それでも、天田さんはしっかりと前を見て、はっきりと口に出した。
「どうして助け合わないんですか。わたし達にはそれができるのに」
触れただけで折れそうな小さな体をぴんと伸ばして、天田さんはわたしの隣に立っていた。
その凛と引き締まった横顔が、わたしの心の奥底にしっかりと焼き付いた。
灰色の空から、小さな雪の粒が静かに舞い落ちる。
白い息を吐きながら、校門の脇に天田さんが立っていた。
「待った?」わたしの問いに天田さんは首を振ると、「ううん、全然」と言って微笑んだ。
「しのぶちゃん、ありがとうね」一緒に歩きながら、天田さんがポツリといった。「わたしの味方になってくれて」
「気にしないで。天田さんと同じだよ。わたしも、今ここで動かなければならないと思った。それだけ」
あの時、気がついたらわたしは椅子から立ち上がっていた。
「先生、わたしは天田さんは間違っていないと思います」
言って何かが解決することでもない。でも、ただそうしなければならない気がした。
先生は困惑した表情を浮かべると、黙って首を振った。
「天田さん、日向さん、あとで職員室に来なさい。他に来たい人は?」
わたしたち二人以外のクラスメイトはだれも立ち上がらなかった。そんなものだろうと、思った。
「天田さん、これからどうなるの?」
「再履修になるかもしれないって。しのぶちゃんは?」
「わたしも再履修になるかもね。天田さんが罰せられるなら、わたしもそうだって食い下がってきたから」
「……ごめんね」
「いいの。わたしがやりたかったことだから」
これっぽっちも嘘はなかった。後悔はなかったし、爽やかな気持ちでいっぱいだった。電話を受けた親は怒るだろうけれど、何一つ怖くはなかった。
「ところで、天田さん。なんで正直に書いたの? 黙っていればわからなかったのに」
「確かにそう。でも、黙っていると、みんなはそんなことが起こっていることが分からない。それはみんなや、それからわたしたちの次に来る人を苦しませることになる。だからわたしは、ああしたの」
「問題提起したってこと?」
「そう。おおごとになれば、みんな何が起こっているかどうか知るだろうから」
天田さんは少し恥ずかしそうにうつむいた。
その顔を見ていると、わたしはとても嬉しくなった。
やっとわかった。わたしと天田さんでは見ている世界が全然違うのだ。わたしは世界のほんの一部しか見ていなくて、天田さんはもっと大きなところを見ていた。それがわかってわたしは嬉しかった。
そして、わたしも天田さんの見ている世界を見たい。そう強く願った。
わたしたちは並んであるきながら、いろんな話をした。
空気は冷たかったけれど、風はなかった。
小さな雪の粒がアスファルトの地面に落ちてはすっと消えていった。何度も何度も、落ちる度に虚しく消えていく。
それでもその小さな結晶は溶ける度に少しずつ路面の温度を奪い、やがては一つ、また一つと綺麗な氷の花が降り積もっていくのだろう。
そしていつか、街を白銀に覆い尽くすはずだ。
「ねぇ、」
歩道橋の上で、わたしは天田さんに振り向いた。ふわふわの髪に粉砂糖みたいに雪が降り積もっている。
「育てちゃおうか。二人で」
天田さんのはじめての表情が、わたしの心を貫いた。
「また再履修する?」
「しちゃう。学校が変わるまで。みんなが変わるまで」
「時間かかるよ」
「のぞむところ」わたしは笑顔で答えた。
わたしたちは手を握りあった。
雪の結晶が二人の手に落ちて、小さく消えていった。
生まれたてのアプリ 太刀川るい @R_tachigawa
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