悪いことをしているみたいだ

玉山 遼

だけど彼は恋人ではない。男友達だ。

 しばしば一緒に出掛ける。互いの誕生日は祝い合う。二人だけの秘密もあるし、何ならそれは頻繁に行われるセックスである。

 だけど彼は恋人ではない。男友達だ。

 好きではある。しかしその「好き」は友人としての「好き」で、付き合いたいとか、そういう次元を超えてしまった。最初から、眼中になかったと言った方が正しいだろうか。

 出会ったときから何となく、「この人とは付き合わないだろうな」という予感があった。付き合ったらろくなことがない、等のマイナスな評価ではない。むしろ付き合ったら楽だろう、とは思った。でも、別段付き合いたいとは思わなかった。そして、予感は今のところ外れていない。そういう直感は、割合外れない。

 今は、私にも彼にも恋人はいない。少し前に、彼は恋人がいた。そのときはセックスどころか、出掛けすらしなかった。余計な連絡も取らなかった。疑いを掛けられたくなかったからである。

 破局してからは、その埋め合わせをするかのように身体を重ねた。寂しくはなかったが、彼を欠いた日常より、ほんの少し満たされていた。そう考えると、目の前にいる男性には、こう答えるのみだろうか。

「アキちゃんってさ、ヒロとはどういう関係なの?」

「友達!」

 私の必殺技である笑顔。嘘はついていないが、本当のことも言っていない。男性は、そっかぁ、と破顔した。

 夕ご飯を食べ、解散したのが九時前。健全な時間だ。家に帰って、本でも読んで、寝てしまおうか。

 なんとなく、熱を持て余す。

 夕ご飯を食べた男性は、ササキさんという先輩だ。親しい間柄だから、と敬語は使っていない。ササキさんは彼とは真逆で、出会ったときから「この人とは付き合うかもしれない」と感じていた。それは今日のご飯で、確信に変わりつつある。

 レストランから駅の間だけ、手を繋いでいた。その手の温もりが、残り香が、皮膚の上を優しくなぞって、身体の中心にまでやって来ようとする。

 身体中をさわさわと撫ぜられているような、髪の先までササキさんで染めてほしいような。気持ちを埋めてほしいと私が願うササキさんは、反対側の電車に乗って帰ってしまった。

 ならば、彼を呼ぼう。幸いここは繁華街で、ホテルもたくさんある。

「もしもし? これから時間ある?」

 スマートフォンの向こうの彼は、少し間を開けてから、ちょっと待って、と返事をした。

 普段も、無論セックスの間も、私は彼の名前を呼ばない。呼んでしまったら、そこからずるずるとなし崩しにひきこまれてしまいそうで、恐ろしいのだ。

 十数分の後、彼は来た。お疲れさま、と挨拶めいたものをして、妖しげな雰囲気を醸す街へ溶け込んでゆく。その街の一部になる。悪いことをしているみたいだ。

 不意に、以前読んだ小説に出てきた娼婦が、客として致す相手ではオルガスムス――つまり絶頂のことだ――を、堪えるだったか迎えないようにするだったか、定かではないがとにかく絶頂に至らないようにする、と決めていたことを思い出した。

 私は堪えてもいないし、迎えないようにもしていないのに、絶頂に至らない。それはおそらく慣れも関係しているのだろうけど、どこか物足りなさを感じてしまう。彼が果てた後、所在なさをいっとう強く感じる。

 果たして、今日も絶頂に至らなかった。

 腰を柔くなぞられても、緩急つけて突かれても、一向にその気配はなかった。それに彼は謝るでもなく、なぜだと問うこともなく、避妊具を外した。

「ねえ」

 彼を呼ぶ。セックスをした後の、甘ったるさが残る声は、彼の前では出ない。

「んー、なに」

 彼もそうだ。男性はセックスをした後が淡白な人が多いと言うが、彼は元来淡白な気質なので、普段とも大差ない。

 彼が何かに執心するところは、想像できない。彼女という存在には多少執心しただろうが、それも一般的なものよりは薄いものだったのではないだろうか。だから私に執心することはないだろう。

「ササキさんと、付き合うかも」

 着替え終わり、テーブルにホテル代の半額を置いてそう言ったが、未だベッドの上でぼんやりと座っている彼の、その靄を取り払うほどの意外性は、私の話にはなかったようだ。

 彼はあくびを一つして、猫っ毛で癖の付きやすい髪を手櫛で梳かす。

「へえ、よかったじゃん」

 瞬きを数回。あー、とため息のような声を出してベッドに倒れ込み、やや間を置いて、彼はこちらをちらとも見ず、天井を見上げたままこう言った。

「おめでとう」


 しばらくして、私はササキさんと付き合い始めた。

 ササキさんは私を丁重に扱った。優しくしてくれる、とか、親切だ、とは少し違う。丁重に扱う、が一番しっくりくる言い方だ。

 腫れ物に触るかのように、ではないが、どことなくおそるおそるこちらに手を伸ばしているかのようだった。

 大切に想うがあまり、手を出しづらいのだろうか。いっぺんそう考えたが、それもどうも違う。この違和感はなんだろう、と思いながら、二ヵ月、三ヵ月と日は過ぎていった。

 慣れれば態度は変わる。良い方向に変わる人もいれば、悪い方向に変わる人もいる。ササキさんは、後者だった。

 約束を破るようになる。出掛けることを億劫がるようになる。退屈そうな態度を隠さないようになる。

 誠実でこまめな人だ。第一印象はそうだったはずなのに、徐々に鍍金が剥がれていく。まあ、見抜けなかった私が悪いのだろう。

 それでも暴力を振るったり、暴言を浴びせたり、そういったことはしなかったし、まだ私のことを好いていると感じられたので、もうしばらく様子を見てみよう、と決める。

 しかしササキさんの態度の悪化に従って、私も釣られるかのようにササキさんへの接し方が粗雑になっていった。

 出掛けたら楽しいが、出掛けるまでが面倒になる。化粧や洋服選びが乱雑になる。うわの空で、彼のことを考えるようになる。

 彼の細づくりだが大ぶりな手。眠たそうな瞳、猫っ毛で癖の付きやすい髪。つかず離れずな態度。いかに楽で、何も考えずに一緒にいてもお互い不服としなかったことか。

 毎回そうだ。彼氏ができても、関係が怪しくなり始めると彼を求めたくなる。

 そこで求めたことはないし、メッセージすら送らない。ただただ、嵐が過ぎ去るのをじっと待つ。過ぎ去ったなら、彼のもとへと出かける。今回もそうなるのだろう。

 それがあと何か月後なのか、何日後なのか、はたまた何年後なのかは知ったことではない。

 ササキさんとのセックスは、あまり気持ち良くない。独り善がりというか、自分が気持ち良くなれればそれでいい、という姿勢が滲み出ているのだ。

 私に何かをしろと言うのに、私が何かをしてほしいと頼むと、渋々わかった、と言う。おれのセックスが不服か、と言いたげな顔で。おまけにわかったと言っても実行に移されることは少ない。

 半年が過ぎてようやく気が付いた。ササキさんは、私のことが好きだったわけではない。ただ「彼女」が欲しかっただけなのだろう。もっとひどく言えば、性の掃き溜めが欲しかった。

 おそるおそるこちらに手を伸ばしていたのは、私が逃げないかどうか確かめるためだった。丁重に扱っていたのは、モノは壊してはいけないと教わっていたから。

 途端に空しくなって、彼と連絡を取りたくなる。しかし、恋人がいる間は連絡を取らない、という暗黙の了解を破ってはいけない。

 ササキさんといても、彼のことを思う時間が徐々に増えていった。


 別れたいと切り出されたのは、十二月の頭だ。少し騒がしい喫茶店に呼び出され、「好きな人ができた」と告げられた。

 それが大きな理由で、そこから言い訳をするみたいに、細々と小さな鬱憤を話していった。

「アキ、最近俺のことを見ていないだろ」

 どっちが先だ、と詰め寄りたいような気もしたが、そんな気力はもう無かった。

「出掛けた時もそんなに楽しそうじゃないし」

 それも、どっちが先にそんな態度を見せ始めたんだ。

「それから、アキもいるんだろ。好きな人」

「は?」

 思わず、間抜けな声が出た。心当たりはない。

「ヒロ。アキはヒロに抱かれたこと、あるだろ」

 途端に顔色を失う感覚がした。

「付き合ってた時はなかったと思うけど。アキはヒロに抱かれたんだろうなって、そう思ってた。以前から」

 私はササキさんを見くびり過ぎていた。

「言いふらしたりはしないよ。でも、気をつけたほうがいい。そういうことを嗅ぎつけるやつって、案外いる」

 それじゃあ、元気でね。そう言い残し、ササキさんは伝票をカウンターへと持って行った。

 私は。私は彼を好いているのか?

 そんなはずはないと思いながらも、確かめてみたかった。その場で彼に「ササキさんと別れた」とメッセージを打った。するとすぐに「会う?」と返信が来た。

 昼下がりからホテルへ向かうカップルは意外といるもので、安い部屋は大体埋まっていた。

「もう少し安いところ、探そうか」

「いいよ。今日は俺が持つ」

 同情か。同情されるほどの傷ではない。だが断るのも変な気がして、従った。

 部屋に入ると、今までより少し豪華な部屋に通された。ごてごてした装飾があるわけでもなしに、どうやって豪華さを醸し出しているのだろう。関係ないことを、巡らせる。

 服を脱ぎシャワーを浴びて、バスローブを素肌に纏いベッドの上へ寝転んだ。

 硬めのマットレス。清潔に保たれていてこれから始まる行為は他人事だと言わんばかりの、ぱりっとしたシーツ。少し冷房の効いた部屋。

 ややあって、彼が隣に寝転び、バスローブの隙間から手を差し込み、乳房に触れる。その手が、とてもあたたかだった。

「本当はさ」

 乳房を揉まれながら、耳を舐められる。その刺激に応えるように、彼の身体に腕と足を絡みつけていた。

 舌を離し、耳朶をそっと齧ってから彼は話し始めた。

「ちょっとだけ、寂しかったんだ」

 その言葉が、心の穴にぽこっと嵌まる。まるで待ち侘びていたかのようだ。違う。違う。そんなはずはない。そう胸の内で叫んだが、私は一体何に抗っているのだろうとわからなくなった。しかし意地は張ったまま、今は別れて寂しいだけだ、と言い聞かせた。

 彼の身体は、ササキさんの身体よりもしっくりと私に沿う。胸と胸とをぴったりくっつけているだけで、一つになったように感じる。

 全身に隈なく唇を落とされて、こんなことをササキさんは最初のうちしかしなかった、と思い出してしまう。同情されるほどの傷ではないと勝手に決めつけていたが、自分で想像していたより、傷が深かった。

 彼の首元に縋るように抱き付く。挿れてほしいときの合図だったが、今回はそうではなかった。ただただ、ぬくもりが欲しかった。

「どうしたの」

 その違いに気づいた彼は、私の背中を擦った。あたたかい手のひらから、熱が伝わってくる。こんなぬくもりを、私は欲していたのだ。

「何でもない。挿れてほしい」

 少し嘘をついてしまったが、受け入れる準備は出来ていた。

 今までよりもゆっくりと、彼は私の中で動く。気持ちのいいところを抉られるように触れられて、下半身が脈打つように感じた。

 ゆっくりゆっくり動くものだから、強い刺激はない。それがじれったくて、もっと動いてほしいと懇願しようか、口に出しかけてやめる。この方が、彼の熱を感じられる。

 彼は不思議そうに私を見つめ、口を開く。

「どうして泣いてるの」

「え、」

 顔に手をやると、確かに頬が濡れている。どうして泣いているのだろう。

「わからない」

 そのままの気持ちを、声にした。

「傷ついたの」

 傷ついてはいる。しかし、涙が出ているのはそういう理由ではない気がした。

「わからない」

 必ずしも、答えを出すだけが総てではない。灰色の領域があったって、構わない。今はそれでいい。そのうち答えを出せれば、それでいい。

 心のどこかが、疼いた。痛みではない。何による疼きなのだろうか。

 わからない。繰り返し、呟いた。喘ぎ声に埋もれてしまいそうになったら、胸の内で呟いた。

「ヒロ」

 喘ぎ声の合間に、怖々と名前を呼んだ。するとヒロは、ふっと表情を緩め、この上なく嬉しそうな表情を見せた。

 腰の奥がきゅうっとなる。視界がちらちらと震えだす。

 あ、ああ、ひきこまれてしまう。ずるずると。

 その動きを感じ取った彼は、腰の動きを速めて私を天辺まで連れて行こうとする。

「いくらでも一緒に傷つくからさ」

 腰をひときわ強く打ち付けて、彼は私の耳元で囁く。

 彼の表情は見えない。だけど、声が湿り気を帯びている。泣いているのかもしれない。

 なぜ?

 もしかしたら、おめでとうは嘘だったのかもしれない。

 身体のどこかを強く掴まれる。どこを掴まれているのか、私にはもうわからない。

「今はどこにも行かないでよ」

 天辺へ誘われる直前、最後に聞こえたのは、そんな言葉だった。

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悪いことをしているみたいだ 玉山 遼 @ryo_tamayama

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