毒虫一匹

小川草閉

 

 自室で、ある女の肖像画を見ていた。額縁などないからキャンパスそのままだ。べっとりとついた絵の具が匂い立つような荒々しい絵だった。普段の人柄からは想像出来ないなあと思う。これを描いたのは美術教師の細川という男だった。よく言えば優男、有り体に言ってしまえばなよなよとした、けれど面白い先生だ。

 先生だった。


 いろいろなことを話すにはまず、詩子のことについて言わなければならない。詩子は数少ない私の友達だった。可愛くて頭が良くてとても明るく、そして絵の才能を持っていた。異性に声をかけられたこともなく成績はいつも中の下で卑屈な私とは正反対だ。なんで私と友達になってくれたのか分からない。もしかしたら哀れみからくるものだったのかもしれないが、それでもいいと思えるほどに詩子といるのは楽しかった。私の言葉で笑って、ふんわりと頷いてくれた。いつも黒くて艶のある髪がまぶしかった。詩子が私と一緒にいて楽しかったかは……わからないけれど。



 細川とはじめて喋った日のことも話そう。

 詩子と私は用事がなければ一緒に帰っていた。が、その日は私に用事があり、詩子にその旨を伝えた。


 「じゃあ私は部活してるから、終わったら部室来てみて。一緒に帰れるかも」

 「部室……って、どこだっけ」

 「北校舎2階だよ。ほら、あの変な絵が飾ってあるところ」

 「あーね、わかった」


 たしかそんな風な会話を交わしたはずだ。そのあと用事を終えた私は、言われた通りにそこへ向かった。

 遅い時間だったから、あたりは静まり返って暗い。その中に煌々と明かりのともる部屋があって、「美術室」の札がかけてあった。ああ、そういえばこんな教室もあったか。美術とってないから意識してなかったな、などとぼんやりと考えながらノックをした。


 「どうぞ」

 「失礼します……うわっ」


 私がすっとんきょうな声を上げたのは、真っ先にある絵が目に入ったからだ。

 レプリカなのだろうが、その絵は立派な額縁に入っていた。場面は散乱した部屋。よくよく見れば豪華な調度が目に入るが、隅は闇に塗りつぶされていてよく分からない。

 真ん中に、老人が座っている。へたりこんでいると言った方が正しいだろうか? もしかしたら老人では無いのかもしれないが、なにか恐ろしいものを見るような目や、まばらな白髪、そして魂の抜けた表情からは確実に老いが感じられた。腕には若そうな男を抱えている。その男は、頭からおびただしい量の血を流していた。明らかに事切れている。


 怖かった。どうみても明るい絵ではなかったから。けれど、少しだけ惹かれてもいた。

 その教室には男の教師しかいなかった。絵に見とれてしまったことを少しだけ恥じつつ、私は目線をそらす。……それにしても詩子はどこだ。そう聞こうと思ったら、額縁の角を触りつつ、あっちが先に口を開いた。


 「この絵が気になりますか。イリヤ・レーピンの『イヴァン雷帝と皇子イワン』という作品です。生徒に見せるべき作品かはともかく、私が好きなのでこうして飾っています」


 ご挨拶だなと思った。初対面の生徒に言うことだろうか。でも、口が勝手に質問していた。


 「先生はこの絵のどこが好きなんですか」

 「そうですね」


 教師はふとだまりこんで、それから慎重に言った。


 「人間の、もっとも素の部分が出ていると思います。どんなに偉大なことをした人でも簡単に愚かになり、そうして自分のやったことにおののいてしまう」


 私は思わずその教師の顔を見た。

 なんとなく今までの教師とは違う気がした。その言葉は、私の感じたなにかにぴったりハマったからだ。恐れ、感嘆、あるいは、羨望? それから私は、自身の深いところから浮かんできた感情を忌憚なく言葉にする大人を初めて見た。


 「あ、千代。来てたんだ。細川先生も」


 いつのまにか着ていた詩子がひょっこりと顔を出して私と教師の顔を交互に見た。つられて私もその男の顔をまじまじと見つめる。


 「はじめまして、細川です」


 それが細川との出会いだった。



 それからというもの、私と詩子と細川で話すことが増えた。詩子はなんでも細川に聞きたがったし、私もその妙だけれどなんとなく核心をついているような気がする見解を面白がった。話していて疲れない大人だった。詩子と細川の会話を聞くだけで楽しくて、時たまこちらに向かってくるパスにどぎまぎしながら返した。私の言ったことで詩子と細川が笑ってくれるのがほんとうに嬉しかった。高校3年間の楽しい思い出を聞かれれば、いまでもあの3人で話した時間をあげるだろう。


 「あんな面白い先生がいたなんてなぁ。早く言ってよ、詩子」

 「ごめんてば。でも千代って先生と必要以上に喋りたがらないから、全体的に教師が嫌いなんじゃないかって」


 そう言われて、少し言葉に詰まってしまった。

 嫌いと言うよりかは苦手なのだ。怖いと言ってもいい。教師と話していると常に生徒として品定めされているような気がして、劣等生の自覚がある私としては居心地が悪かった。全部被害妄想だと分かっているのだけれど。


 それから10ヶ月程は楽しく過ごした。

 ほころび始めたのは高校2年生の冬だった。


 その頃から詩子は輪をかけて美しくなり始めた。花開く前の蕾だったのが満開になったかのようだった。なにも知らない子供のような顔をしておきながら、ときどき憂いをおびた大人の女の表情をする。よく詩子を見ている私しか気づかない変化かもしれない。けれどそれは決定打だ。この表情をするようになれば、もう子供には戻れない。


 なにが詩子をそうさせたのか分からなかった。わかりたいと思った。不吉な予感がしたのだ。注意深く観察していた私は、あることに気づいた。


 詩子は、細川を目の前にするとよくあの顔をする。


 そして細川も詩子を見る時に妙な顔をした。教師の仮面の下にどろどろした何かを抑え込んでいるような。時折詩子と視線を合わせる時にそのどろどろは増す。


 もしかしたら詩子と細川は付き合っているのではないか。


 そんな疑念が頭をもたげていた。そんなはずはないと思いたかった。なぜだかとても嫌だった。でもありえないことじゃない。詩子はかわいい。絵の才能もある。細川の教師としての詩子への感情が、そのまま女に向ける愛に変わったっておかしくないだろう。


 そうでありませんようにと必死で祈っていた。私の下世話な推測が笑い話になりますようにと。そうでないと私の中のなにかが壊れそうだった。あの3人での楽しい時間が取り戻せなくなるのだと思った。


 だから、校舎裏でひっそりと指を絡ませる2人をみた時、私の頭の中でぶちっと音がした。




 我ながら完全犯罪だったと思う。

 いや、犯罪ではないのだ。私がやったことはただの摘発だ。密告だ。

 詩子の裏アカは知っていたから、同じ趣味だと装って接近した。そのアカウントが非公開だという安心感からか、詩子はなんでも書き込んでいた。どこどこに行った、という報告のあとに添付される写真には、高確率で男物の靴や鞄が映り込んでいた。さすがに近所では遊べないらしい。詩子と細川は遠出して遊んでいた。けれど、土地勘のある私にそれがどこか割り出すのは簡単だった。

 詩子の裏アカと、そして偶然見つけた細川のSNSから割り出して、私は2人のデート先に先回りした。その時私は少しだけ期待していた。私のやっていることが徒労に終わらないかと。


 終わったあとに私の手元に残ったのは写真だった。腕を組んで歩く細川と詩子の写真。幸せそうに微笑む2人。暮れなずむホテル街へと消えていく、甘い雰囲気のカップル。


 あとは簡単だった。写真と2人のSNSのスクリーンショット、その他諸々を同封したものを関係各所にばらまくだけ。裏サイトで噂も流した。すべて私の足がつかないように。


 細川は消えた。ある日突然いなくなった。担任は言葉を濁したが、その頃には皆が知っていた。あの男は生徒に手を出して飛ばされたのだと。

 詩子は学校に来なくなった。私にだけは連絡をくれたけれど、それももう途絶えた。


 ──どうして。

 どうしてこんなことをできたのだろうとぼんやり考える。詩子も細川も大好きだった。友人と恩師を1度に奈落へ突き落とした。それに、2人は愛し合っていた。法に触れるものではあったけれど。


 だからだ。私の奥底から声がする。

 私は詩子にずっとかわいい女の子でいて欲しかった。女になんてならずにいてほしかった。詩子といる時だけは楽しくて、劣等感を忘れられた。

 私は細川に男でいて欲しくなかった。つねに男女というフィルターから外れた視点で話して欲しかった。細川と話している時だけは私が醜い女であるということを考えずに済んだ。


 ──おいていかないでほしかった。




 けれど、あの2人は付き合っていたから。

 私をおいてけぼりにしたから。

 私の充足はぜんぶ粉々に砕け散ったのだ。だから壊してやった。すべて。


 眼前の絵を見る。

 女の肖像画。私が2人の仲に気付く前に──なにもかもばらばらになったあの日のずっと前に、細川から貰ったものだ。聞かなくともわかる。これは詩子だ。……愛し合っていたのだ。2人は、本当に。でなければこんな絵は描けない。こんな表情はできない。


 2人は言うなれば美しい花々だった。綺麗なもの善なるものだ。それに比べて私は毒虫だ。蝶にもなれず地を這って、美しい花に触れて憧れたばかりに、しまいには根から枯らしてしまった。


 なんで私はああなれないんだろう。

 どうして祝えなかったんだろう。


 ぼたぼたと涙が流れ落ちた。

 西日の射す部屋、肖像画の女の目の前で、毒虫はそのまま身をよじって泣いた。

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