二 一年目の春風に夏のアイスクリーム②
夕食後、圭人がただならぬ様子で部屋を訪ねてきた。
「いろは、お前まさか文字の読み書きができないのか」
圭人は……とても怖い顔をしていた。初めて会ったときよりも、ずっと怖い。
読み書きができないことが、そんなにもいけないことだったのだろうか。
「……文字って、あの紙の束に細かくたくさん書いてあるやつだよね」
「あぁ、それだ」
「あのたくさん書いてある模様が、文字だってことはわかるけど、私あれを読んだり書いたりは、できない。……でも、それがなんだっていうの! 胡蝶さんも圭人も、なんなの、文字が読めないことがそんなにおかしいの!?」
圭人は自分の顔を手で覆って、深いため息をついた。
「学校は、どうした」
「……がっこうって、何?」
「……」
「……」
長い長い沈黙が、部屋を包み込む。
もしかしてこれは怒られるんだろうか。レディというのは読み書きができて当たり前だったんだろうか。そんなことをぐるぐる考える。
かなり長い間、圭人は黙って何か考え込んでいたが――唐突に部屋を出ていってしまった。
廊下で執事の征十郎を呼びつける大声が、いろはの部屋まで届く。
「……」
これなら――これなら、直接怒鳴られたほうがマシだった。
いくらいろはでも、自分がなぜか圭人に衝撃を与えてしまったことぐらいはわかる。
いろははへたり込むように、椅子にもたれかかった。
少しして、数回ノックの音がしたあとにするりと胡蝶が入室してきた。彼女は手に、何か入った大きな紙の包みを持っている。
「いろは様、明日より読み書きのお勉強がございます。ですので、今日はお早めに休まれたほうがよろしいでしょう」
「読み書きの……勉強?」
「えぇ」
胡蝶は、テーブルの上で紙包みを広げて見せてくれた。中にはピンクと白で模様がある着物と、赤茶っぽい――胡蝶が海老茶色だと教えてくれた――袴。
「さぁ、こちらはいろは様の袴でございますよ。レディになる女の子が学ぶときの装いは、やはりこれでなくてはなりません」
次の日。圭人が仕事から帰ってきて夕食が終わる頃には、いろはの勉強の『お支度』もすっかり整っているようだった。
さすがは征十郎、手早い仕事だと思いつつ、圭人はいろはの部屋に向かう。
まさか、この和桜国で大晶の五年にもなるというのに、庶民であるとはいえ、母国語の読み書きができない者がいたとは。しかも、その読み書きができない無学な娘をレディとして教育しなければいけない、というおまけ……というより本題つき。
紫乃宮侯爵 家の男児として生まれ、ありとあらゆる学問に触れることのできる環境で育ち、魔術師の家系出身の祖母から魔術を学んで国費留学まで果たした圭人には、このことが信じられなかった。
たとえ千年前の大昔に遡っても、母国語が読み書きできないレディ――すなわち貴婦人は、我が和桜国にまずいなかっただろう。むしろ、その時代の和桜国の貴婦人たちが残した歌や書が今でも引き継がれているぐらいだ。
「……」
圭人は痛む頭を抱えたくなる。
これは、レディ教育どころではないのではないだろうか。
まずは、女学校にでも行かせたほうがいいだろうかとも考えた。
いろはの教育資金も国から出ることになっているし――いや、それは駄目だ。まずい。かなりまずい。
何がまずいか。身分も金も親もない、さらに本も読めないときている無学の小娘と、貴族や王族の『お嬢様』たちが机を並べて学校生活というのは、いろんな意味でまずい。どの方向に転んだとしても、悪い結果にしかならないだろう。
では、高等教育の場である女学校ではなく、初等教育の学校なら、とも考えたが れも駄目だ。ある日いきなり、いろはのような身分も年齢も常識も違う存在が学校にやって来るのは、すべての方向に悪い結果しかもたらさないだろう。
……というわけで、学校行きの案は没だった。
そうなると、残された道は――紫乃宮邸で読み書きを教えるしか、ない。
「険しすぎるぞ、この道は……」
圭人は、今度こそきりきりと痛む頭を抱えた。
昨日まではレディ教育というのは、食べ物や着る物やその他必要なものを与え、状況に応じて本や家庭教師で知識をつけさせればいいだろうと思っていたのだ。
その考えがとんでもない大間違いで、こんな初手でつまずくことになろうとは――
「あ、圭人!」
部屋の前で頭を抱えていた圭人だったが、扉からひょこっといろはが姿を見せた。それも、まるで女学生のような袴姿で。
「いろは、その格好」
「あぁ、これは胡蝶さんが『女の子がお勉強をするときは、この服装です』って言うものだから……似合う、かな?」
そういって、くるりとその場で一回転してみせる。
着物は可愛らしいピンクと白の矢羽根模様。袴はいわゆる海老茶色。足元はブーツ。格好だけならいかにもそのあたりを自転車で駆け回っていそうなおてんば女学生――海老茶式部というやつだ。
「あぁ、似合っているぞ」
そう言って圭人は、ピンクのリボンをカチューシャのようにくるりと巻いてあるいろはの頭を撫でる。
「本当? ……やったぁ!」
無邪気に喜ぶ様は、レディというよりは……ただの子どものようだった。実際まだまだそのとおりなのだが。
圭人は、部屋の中央にあるテーブルに手習い道具一式と椅子を二脚用意させる。椅子のひとつは当然『生徒』であるいろはのもの。もうひとつの椅子には圭人が座る。
「あれ、圭人?」
「俺が教師だ。異論は認めない」
「いろんって何?」
「そこからか……文句は認めないということだ。当分の間は俺が教える。ビシビシいくからそのつもりで」
「……なんで、文字の読み書きなんて必要なの?」
いろははふくれっ面で不満を表す。
「私はちゃんと圭人とも会話できてるし、誰も困らないじゃない。なのになんで、あのへんてこな模様書けるようにならないといけないの」
圭人は盛大にため息をついた。まさか、文字を学ぶ意味から教えなければならないとは。
「お前……そんなことすらわからないのか。例えば……そうだな。いいか、いろは。お前は物心ついたときから今までに見たり聞いたりしたものを、一切合切、何もかも、すべて、覚えているのか?」
「そんなの……無理に決まってるじゃない」
「大抵はそうだろうな。記憶したことは忘れる。これが当たり前だ。だが、忘れること、つまり失われることを少しでも留めておく方法がある。それが記録だ。そして記録に必要なもの、そのひとつが文字なんだ」
「つまり、文字で記録しておけば、忘れてもそれを見ればいいってこと?」
「そういうことだな、もっとも記録があるからといってほいほいと忘れていい理由にはならんが。記録は文字を使ってできることの一例にすぎない。学ぶ意味は他にもまだある。さ、始めるぞ。……とりあえず、最初の教材はこれがいいか」
圭人は幼い子ども向けの手習いの教材から、一枚の紙を取り出し、机の上に広げた。
「……これは……なぁに?」
「和桜国の文字の一種だ。ひらがな、というやつだな。最初はこれからだ」
「うん……。あ、でも昨日本を見たときには、もっと直線的なのとか、もっと複雑な模様……じゃなくて文字もあったけど」
「それはおそらく、カタカナと漢字だろうな。もしかしたら異国の文字も部分的に混じっているかもしれんが」
「カタカナ、と……漢字……」
「和桜国には大きく分けて三つの文字がある。ひらがなとカタカナと、漢字だ。だが、まぁ、大昔の貴族でもないのだから、ひらがなから覚えるのがいいだろう」
そして、圭人は紙の上に指を滑らせる。
「とりあえず、一度読み上げるぞ。後から復唱してみろ」
「うん!」
――圭人は『それ』を読み上げる直前に、あることに気づいた。だが、今更やめるとも言えない。
「いろはにほへと ちりぬるを わかよたれそ つねならむ――」
「……!!」
「うゐのおくやま けふこえて あさきゆめみし ゑいもせす――」
「……」
「……いろは、復唱は?」
「……」
「いろは」
呼んでも、いろはは目をまんまるくして驚いた顔をしたままだった。返事すらない。圭人が繰り返し名前を呼んで、ようやくいろはは反応した。
「……すごい!! この文章、私の名前から始まってるんだ!!」
「あぁ、まぁそういうことだ。これは『いろは歌』というもので――」
「ねぇねぇ、これは、いつ誰が作ったものなの?」
……いろははまだ復唱してもいないのに、質問をぶつけてくる。
だが、圭人としてもせっかくの好奇心の芽を潰すような無粋な真似はしたくはなかった。
「これは、ずっと昔に作られた歌だな。詠み人は諸説あって不明だ。一説によれば、とある徳の高い僧が作ったとも言われるが――現在ではこの説はありえないだろうとされている。それというのも、まず……」
いろはは目をきらきらさせて、圭人の説明を一言一句聞き逃すまいと熱心に聞いている。
思ったよりもちゃんとした生徒ぶりだと、心の中でいろはに二重丸をつけてやりながら、圭人はいろは歌に関する知識を披露した。
知識の次は実践――というわけでもないが、いろはに三回ほど復唱させたあとはテーブルの上に用意してあった習字道具の出番だ。
「まずは最初の行『いろはにほへと』から書いてみろ。この紙を手本にな」
「う、うん……」
筆の持ち方や墨の付け具合などを見てやって、書き始めるように合図する。
「い……。ろ……。は……」
三文字書いたところで、いろはは一度手を止めて、圭人を見上げた。
「見て見て、圭人! 私の名前だ! 初めて書いた!」
「わかったわかった。いいから早く続きも書け」
こんなに喜ぶなら、今度は苗字である『田原』の字も教えてやろうと思いつつも、ついつっけんどんに続きを書くように促す。
「うん! あのね圭人、あのね!」
「なんだ」
「勉強って……楽しいね!」
「!!」
自分は、無学の少女に学ぶ喜びを与えられたのだ。そう思うと、圭人は今日の疲れが吹っ飛ぶ思いだった。もしかしたら――これならこの先、道がどんなに険しくともやっていけるかもしれないと思うぐらいに、それは爽快な気分だった。
「そうだ、忘れるところだった。これをやろう」
いろは歌を何度か書き終えたあと、圭人が差し出したのは綺麗な紙で包まれた箱。いろははそれを受け取ってすぐに破り開ける。それを見て、圭人が「落ち着いた開け方も教えなければならんな……」と呟いていた。
中に入っていたのは、不思議な品だった。少なくとも、これまでいろはが見たことのないもの。それは、本に似ていた。硬い茶色の表紙に、金色で綺麗な模様が描かれている。ここまではいい、だが、なぜか小さな錠前がついている。これではすぐに開けない。
「……これ、なぁに?」
「日記帳だ。年頃の娘にはこういうのも必要だと聞いてな。仕事終わりに買ってきたんだ」
「日記帳……」
いろはは日記帳をまじまじと眺める。
「これに、その日あった出来事なんかを書いていけばいい。文字の練習にもなる。ページがなくなったらすぐ言え。また買ってきてやるから」
「うん……わかった。いっぱい、いっぱい書くね。書いて、圭人に読んで聞かせる」
「……は?」
「え?」
「あのな……いろは、この日記帳に書いたことは、お前だけの内緒にしていいんだぞ。俺に報告することはない。それが日記というものだ」
「えっと、日記って……書いて、本にするものじゃないの? これ、こんなに立派なのに、本当に、ただ書くための、帳面……ノート?」
「あぁ……うん、そうだ。日々あったことを書く――お前だけのノートだぞ」
「すごい!」
いろはは、思わず日記帳を抱きしめた。
「毎日のことを書くためのノートがあるなんて。それがこんなに綺麗で立派だなんて! すごいね、この日記帳って! 私、いっぱい、いっぱい、いっぱい書く!」
「あぁ、いっぱい書いていけ」
◆
その夜、いろははベッドに潜り込む前に机に向かっていた。手にはペン。そして広げられているのはまっさらな日記帳。
初めての日記帳、何を書こう。
いろははいろいろと書きたい内容を考えてみる。けれど――
「……まだ、これだけしか書けないや」
日記帳の一ページ目、そこには大きく『たはらいろは』と書かれていた。
「うん!」
間違えずにきちんと書けたはずだ。
……もっといっぱい、書けるようになりたい。圭人のことも書いてみたい。今度は圭人の名前はどうやって書くのかも教わろう。
インクが乾いたのを何度も確認してから、いろはは丁寧に日記帳を閉じて、小さな鍵をかけたのだった。
【書籍版】和桜国のレディ ~淑女は一日にしてならず~ 冬村蜜柑/ビーズログ文庫 @bslog
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