二 一年目の春風に夏のアイスクリーム①
どんなときでも、無慈悲に朝は訪れる。
陽の光を浴びると目を覚ましてしまう自分の健康的な体質を、このときばかりは恨めしく思いながら、圭人は朝の支度をする。
今日は休日なので和装にすることにした。
圭人は外出や仕事のときは洋装なのだが、やはり和桜国人なら和装のほうがどこか落ち着くものがあると思っている。
今日は銀鼠色の縞模様の着物を着用した。普段から着るものは胡蝶に任せているのだが、彼女のセンスはいつも抜群だ。
「いろはは、もう起きているのか」
「はい。朝食をご一緒になさいますか?」
その質問に、圭人は一瞬だけどうしようかと考えた。
「あぁ、二人で食べる。食堂に用意してくれ」
「かしこまりました、ではそのように」
「紅茶は、今日はダージリンがいい。ストレートで」
「はい」
ダージリンは紅茶のシャンパンとも言われる。引き取ったいろはと二人での初めての食事だ、せめて気分だけでも祝杯といきたい。
「おはよう、圭人!」
「……おはよう、いろは」
食堂では、すでにいろはが待っていた。彼女は朝に強いのか、睡眠時間が短くても元気そうだった。
「あんなふかふかでふわふわでつるつるですべすべの寝床は初めてだった!」
「よくわからん、要領を得ないぞ。和桜国の言葉で話すように」
「……話してるよ?」
「もういいからさっさと席につけ……食事だ」
「はぁい」
二人での初めての朝食は驚きに満ちていた。
当たり前だが、いろはは洋食のマナーなど知らない。
とりあえず圭人は自分の真似をして食べてみろと言ったのだが、それでまともに食べられたら和桜国人は文明開花のときに誰一人苦労しなかっただろう。
パンは鷲掴みにしてまるかじりする、スープ皿を持ち上げて直接すすろうとする、などまだ可愛いもの。皿を割りそうになる、フォークやナイフを投げ飛ばしそうになるのは、さすがにまずい。もともと食べ方も下手なのか、口の周りに常に食べかすがついていて、ナプキンもぐちゃぐちゃだ。
食事の礼儀作法は早めに叩き込まなければならない。せっかくの食事中に叱られてばかりなのは、いろはとしても辛いことだろう。
朝から精神的に疲れ切った状態で、食後のダージリン紅茶を飲んでいると、征十郎が足早にやってきて、来客を告げた。
「こんな朝早くから誰が?」
「神衣様でございます。神衣伯爵 家の真希子様」
「あぁ、あいつか……。なんの用かはわからんが、まぁ通せ。すぐに向かう」
圭人は紅茶を飲み干して、いろはに部屋に戻って適当にくつろいでいるように言うと、すぐに客を待たせている応接間へと向かった。
「おーーーっほほほほほほほほほほほほほほほほほほ! 圭人様、おはようございます。そしてごきげんよう! 今日も暖かでよき春の朝ですわね!!」
「……あぁ……おはよう……真希子……お前は本当に、休日でも元気だな」
「当たり前ですわ!! この神衣真希子、いつも全力全霊なのでしてよ!!」
「あー……うん、そうか、そうだな、そうだったな。で、一体なんの用だ。こんな朝早くから人の家に」
「えぇ、朝早くでは非礼かとも思いましたが、急いだほうがよいかと思いまして」
「だからなんだ」
「私のおさがり服をあの子にどうかと。洋装がほとんどなのですけど、なるべく時代遅れでないものを選ばせましたわ。当家のばあやには『お嬢様の思い出の品が!』と泣かれてしまいましたけど」
「あー……そっちのばあやにはすまない、と伝えてくれ……だが、感謝する。ありがとう、助かった」
圭人の目から見た真希子は、とてもまともで常識的で、そして善性の持ち主であり、とても有能だ。だからこそ、第一印象から誤解を受けやすいことがもったいないと思っている。
「……感謝されることではございませんわ。当然のことですもの。……そ、それより、女の子には必要なものも多いのですから――」
「あぁ、とりあえず必要なものは昨晩一覧にした。あとは真希子に任せていいか?」
餅は餅屋。男である圭人があれこれ考えるより、女子のことは女性に任せたほうがいいだろう。
「えぇ、えぇ、よろしくってよ!! どんどんこの私、神衣真希子を頼るとよろしいのですわ!!」
「それは助かる」
まるで、一人娘の父親にでもなったような気分の圭人だった。
◆
「では、行ってくる。ちゃんと邸でいい子にして待つようにな」
「うん。行ってらっしゃい」
次の朝、いろはは圭人が仕事で邸を出るのを見送った。
圭人は「宮廷魔 術 師主席が小娘にかまけて出仕しないわけにもいかない」などとぼやいていたが。
昨日は、いろいろな店の商人が次から次へとやってきた。
そして、さまざまなものを買い与えられた。
圭人の職場の部下である神衣真希子という女性が選んでくれたのは、年頃の娘が使うための化 粧品や髪の手入れのためのあれこれ、日傘や扇子といった小物類、お茶を淹れる練習のための茶器にその他もろもろ。それに、新しい洋服や和服のための採寸もした。
レディというものになるには、あんなにたくさんの高そうな品物が必要らしい。
準備は着々と進んだようだが、今日から圭人が仕事で忙しく、レディ教育のための予定はまだ立てられていないという。つまり、いろはは今日一日、何もしなくていいとのことだった。
手を振り圭人を見送って、とりあえず胡蝶とともに与えられた部屋に戻ってみる。
いい子にして待つように言われたが……いい子とは何をすればいいのだろうか。
メイド長の胡蝶によると、部屋の掃除もしてはいけないそうだ。それに、井戸で水汲みなんてことも必要ないようだった。この邸には水道が来ておりますから、と困惑された。台所仕事もしなくていいようで、お茶やお菓子をご所望でしたら持ってまいりますと言われてしまう。
うろうろと広い部屋の中をとりあえず歩き回ってみて、天気が良かったのでなんとなく大きな窓から外を眺めてみる。
「わぁ……!」
邸の庭は、いかにも春らしい新緑に彩られ、その中にぽつぽつと花の鮮やかな色が浮かんでいた。
いろはは、部屋の隅でひっそりと控えている――というよりは、いろはが妙なことをしでかさないか見張っていたのであろう――胡蝶に尋ねる。
「ねぇ、庭に出てもいい?」
「もちろんです。ただいまお帽子をお持ちしますので、少々お待ちください」
いろはは、つばの広い帽子を胡蝶にかぶせてもらい、いそいそと庭に下りた。
硝子窓越しではない新緑は、とても生き生きとした香りがする。さまざまな緑の交じった匂いというものは、故郷の野原や山も、貴族様のお邸の庭も、さほど変わらないように思えた。
だが、見た目は全然違うものだ。
「すごい……知らない植物がいっぱい……ねぇ胡蝶さん、この花びらのおっきな花はなんて名前なの?」
花壇のひとつをいろはは指さした。そこには、赤や黄色や白の存在感の強い花たちが咲いている。
「それはチューリップという名の、西洋の花です」
「まっすぐしゃんと伸びていて、綺麗だね」
「お気に召したのなら、少し切ってお部屋に飾りますか?」
「ううん、いらない。ここで咲かせてあげて」
「……そうですか」
いろはは植物が好きだ。
故郷では――まだ両親が生きていた頃は、尼ばあさまの寺がある山をあちこち駆けて、一日中植物を見て過ごした。山歩きをすると、珍しい草なんかも手に入った。そういうものはたまに貧民地区にやって来る、学者と名乗る変な人に渡すといくらかのお金に替えてくれるのだ。
いろははその日の午前中、紫乃宮伯爵邸の庭にあるいろんな植物の名前を、胡蝶や庭師たちに尋ねて回った。
「いろは様、そろそろ日差しが強くなってまいりました、お昼も近いことですし、お部屋に入りましょう」
そう胡蝶に促されたので、仕方なく部屋に戻ったものの、またしてもやることがない。
「……うーん」
「いろは様、どうされました?」
「あの……胡蝶さん、私は何をすればいいんだろう」
「本がたくさんございますし、それらを読まれてはいかがでしょうか」
そう言って、胡蝶は棚から『本』を一冊取り出す。
「神衣真希子様が、最近流行りの少女雑誌も用意してくださったので、いろは様も楽しめると思いますよ」
差し出されたのは、色鮮やかな『本』だった。表には、瞳が大きくてまつげが長く、とてもきらきらした女の子が描かれている。
「ありがとう、見てみる」
いろはは、素直に『本』と呼ばれる紙の束を手にとって開いた。確かに絵もそれなりにあるが、ほとんどがよくわからない細かな『模様』が並んでいるだけ。ぱらぱらと紙の束をめくって、絵のあるところを探して眺める。
「……?」
そんないろはの様子を見て、わずかに首を傾げた胡蝶が、急にはっとした表情になる。
「いろは様、まさか……」
絶句した様子の胡蝶に、その日、もう『本』を勧められることはなかった。
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