一 はじまりの話⑤




「無理だってば! 早く私を家に帰してよ!!」

 半泣きのいろはは、きっちりした洋装の女の人たちに取り囲まれていた。

 がくがくと足が震えている。こんなところ――自分がいる場所ではない。

 いろはよりも格段に綺麗で、清潔で、上等の洋装を纏った女の人たちが、この紫乃宮伯爵邸のメイド――使用人なのだという。その人たちが、いろはに丁寧に頭を下げて「なんなりとお申しつけください、いろは様」と言うのだ。


「わけわかんない、私帰る!」

 入ってきたばかりの大きな玄関扉から出ていこうとしても、メイドの女性たちの腕に止められる。

「いろは様、落ち着いてください」

「無理だってば! 帰るから放して!」

「きゃっ……痛っ……か、噛みつかれましたぁ……!」

 帰りたいし、わけがわからないし、こんなちゃんとした格好をした綺麗な女の人たちに、薄汚れた小娘である自分を見られるのも恥ずかしかった。

 無理だ。駄目だ。怖い。帰りたい!



 紫乃宮圭人はいろはの様子を見て、盛大にため息をついた。

 明るい邸内で改めて田原いろはを見たが、ひどいものだった。

 年の頃は、十三か十四だろうか。つぎはぎだらけでぼろぼろの丈の短すぎる和服に、手入れされた様子のない伸びっぱなしのぼさぼさで跳ね放題の髪、肌は薄汚れてかさかさと乾き、体はどこもかしこもむやみやたらに細くて痩せっぽちで、ただ目ばかりがぎょろりと野生の獣のように大きい。

 ……これの、どこを、どうしたら、女王陛下に謁見できるようなレディにできるのだろうか。

 とりあえず、胡蝶らにこれからのことについて指示する。


「まずはこいつの部屋を整えろ。客間を……いや、俺の部屋の近くのほうが都合が良さそうだな、適当な部屋に客間の家具類を運ぶように」

「かしこまりました、すぐに」

「それと」

 圭人はもう一度、メイド相手に大暴れしているいろはを見た。お世辞にも身綺麗とは言いがたい。レディ以前に、若い娘がこれではあんまりだろう。

「あいつを風呂にぶち込め、今すぐにだ」

「かしこまりました、すぐに。……お前たち、いろは様を浴室にお連れしなさい。お体のすみずみまで洗ってさしあげるように」

「は……はい、胡蝶様! ではいろは様、浴室に参りましょうか」

すると、帰る帰ると叫んで暴れていたいろはが、今度は焦ったような声をあげた。

「ちょ……待って、お風呂って……! お風呂……?」

「ご心配なく、ぴかぴかに磨き上げてみせます、えぇ、わたくしどもにお任せください」

「待って! お願い、ちょっと待って! やだ! 子供でもないのに人にお風呂に入れてもらうなんてできるわけないじゃないの!!」

メイドは数人がかりでいろはを無理やり押さえ込む。いろはも噛みついたり引っ掻いたりして抵抗しているが、多勢に無勢。


「やめてよ! やめてってばーーーー!」


 そうして、半ば引きずられるように、いろはは悲鳴だけを残し、浴室に連れていかれた。

 後に残っているのは、圭人と征十郎と、それに胡蝶。


「……先が思いやられるな」

「しつけがいがありますね」

 ため息まじりの圭人の呟きに、胡蝶が応じる。その様子は、まるで戦いを楽しむ歴戦の将だ。その闘争心は一体どこからやってくるのか。

 征十郎は遠慮がちに、圭人に伺いを立てた。

「圭人坊っちゃま、いろは様のお召し物はいかがいたしましょう。元のお召し物では……」

「皆まで言わなくともいい、さすがにあのボロ着物のままというわけにもいくまい。とはいえ……この邸に子供服があるか?」

「もう夜中ですので、今から出入りの商人を呼びつけるわけにもいきませぬからのう」

「邸には小柄なメイドもおります。その者から借りましょう」

「服も用意しなければならんし、他にも年頃の娘には必要なものもいろいろあるだろうし……頭が痛いことだ……」

 圭人はやれやれ、と呟いて頭を押さえる。

 人間一人預かることの大変さもそうだが、あの娘は宮廷魔術師主席の立場にかけて、立派なレディとして育成しなければならないのだ。

「朝一番で出入りの者を呼びつけろ。洋品店に、呉服屋に、宝石商と小間物屋、あとは」

「化粧品なども必要になりますかと」

「なるほど。胡蝶、他に必要なものがないか、書面でまとめてくれ」

「かしこまりました」



 そのあと、食堂に場所を移して、圭人は濃いめの紅茶を飲みながら、いろはがこれから暮らしていく上で必要なものの一覧を確認する。

 年頃の娘に必要な品物が、紙一面にびっしりと羅列されていた。

「袴は必要……か?」

「やはり学ぶときのお召し物といえば、袴かと……」

 ……もしかすると、胡蝶が面白がってどんどん一覧を長くしたのではないかという気がしてきた頃、風呂場のほうから大きな悲鳴がいくつも聞こえた。


「いろは様! そのような姿で!」

「誰か、早く捕まえて服を着せて!」

「いくらなんでも、バスタオルだけはまずいです!!」

どうやら、いろはが邸内を逃げ回っているらしい。……バスタオル一枚で。

「胡蝶……」

「かしこまりました、行ってまいります……腕がなりますね」

忠実にして優秀なる紫乃宮伯爵家のメイド長・四戸胡蝶は、全身からゆらりと闘気を放ちながら部屋を出ていった。



「……」

「ほう、身綺麗にしただけで変わるものだな」

「…………」

 圭人の言葉に、いろはは黙ったままだった。

 なんだか、頭がくらくらする。今までいろはは、あんなに熱い湯がたくさんあるお風呂になど入ったことがなかった。

 新しい清潔な浴衣を着せられたが、そのさらさらした感触がどうにもくすぐったくて落ち着かない。着ていたものは、メイドの一人によって「こちらは処分しますので」と持って行かれてしまった。

 風呂上がりに、メイドの私物だという化粧水と乳液、クリームなるものを塗られたので、かさかさとしていた肌はもちもちしている。

 髪にも椿油を塗られて丁寧に梳かされ、温かい風が出る魔法の道具で乾かされた。

 だが、その髪があちこち跳ねてぼさぼさしているのが、圭人はどうにも気に入らない様子だ。そして――


「あぁ、見苦しいなら、切ってしまえばいいのか」

 圭人は、いろはの髪を切るようにメイド長の胡蝶に命じたのだ。

 髪を切る……髪を切る、いろはの髪が切られてしまう!

 ハサミを手に近づくメイドに、いろははとっさに大声をあげた。

「いや! 男の子みたいに髪を切るなんて! やだやだやだやだ!!」

「あの……圭人様……」

「かまわん、やれ。断髪したほうがまだ見られるだろう」

「……はい」

「やだやだやだやだ! 髪は女の命って言うのに、圭人の馬鹿ーーー!!」

 いろはの住んでいた街では、髪の短い女の人なんて一人も見たことがなかった。いるとすればそれは尼ばあさまのような、俗世と縁を切った人ぐらいだ。

「……馬鹿はお前だ! 髪は女の命などと、一体何年前の考えだ。先進国とされる西洋諸国では、女性の断髪は珍しくもなんともないのだぞ!」

「やだやだやだやだやだやだやだーー!! 髪を切るのはやだーーー!!」

「……らちがあかん、やれ胡蝶」

「かしこまりました。……いろは様、お恨みなさいますな。お前たち、いろは様を押さえていなさい」

「やだやだややだやだやだやだだやだ!! 駄目だってば、来ないで、やめてーーーー!!」


 ――ザクッ。

 ハサミの音が何度も響く。髪が切られていく。

 そのたびに、いろはは絶望を感じて大人しくなっていった。

 ――ザクッ。

 いやだ。

 ――ザクッ。

 もういやだ。こんなところにいたくない。

 ――ザクッ。

 はやくおうちにかえりたい。

 ――ザクッ。

 でも――この男の前で、もう二度と泣いたりなんてしてやるもんか!!


「……いかがですか、圭人様、いろは様」

 ハサミを置いた胡蝶は、いろはに鏡を掲げて見せる。

 いろはは、それを見ようとはせずにぷいと横を向いていた。

「見てみろ」

「……」

 圭人の言うことを聞くのは癪だが、このまま見ないというのもなんだか大人気なく思えて、いろはは荒れ狂う心を抑えながら鏡を見た。


「え……!?」


 それに映るのは、顎より少し上のあたりでふわりとした毛先を遊ばせたお嬢さんだ。

 いろはが思っていたのとかなり違う。

「これが……私?」

 くるりとした髪が頬にかかっていて、なんだかちょっと愛らしく見えなくもない。

「うむ、いいと思うぞ。淑女への第一歩だな」

 圭人はいろはを見て、満足そうに頷いている。

 いろはは、鏡をじっと覗き込んで、圭人の顔とかわるがわる見返したあと、少しだけもじもじして、こう言った。

「圭人、その……ありがとう。あと、ごめん……」

「何がだ」

「その、えっと、こんなに綺麗にしてくれて、かな……あと、馬鹿って言って、ごめん」

 その言葉に、圭人は吹き出した。

「そんなことか。これからもっともっとお前には綺麗になってもらわなければ困るぞ。なにせ、女王陛下に謁見できるようなレディになってもらうのだからな。ああ、あと……馬鹿と言われたことだけは一生忘れんから、よく覚えておくように」

 いろはは、思わず目を丸くした。

 こんな小娘である自分なんかに馬鹿と言われたことを気にしているなんて、この鋭い瞳の貴族男性は意外と――小さいのかもしれない。




       

 寝床が広い。とにかく広い。その上なんだかすべすべしてくすぐったくて、掛け布団も敷布団もふかふかして頼りなく、落ち着かない。

 疲れているはずなのに、いろははなかなか眠れずにいた。

 今日からいろはの部屋になるという場所は、よくわからないが豪華ですごくお金がかかっている、ということだけはわかった。

 卵色の壁には、可愛らしい薄紅色の花のつぼみ模様が描かれていた。腕を広げたよりも大きな硝子窓に下がったカーテンという名の覆い布も、どこか花を連想させる落ち着いた薄紅色だ。天井の中央には何かの模様が描かれていて、そこからすずらんの花のようなぷっくりとした形をした照明が下がっている。家具は当然のように、繊細な彫刻が施された木目の美しい品々ばかり。


 いろはは、落ち着かないすべすべの寝床から抜け出して、窓際の洋風机の前に立つ。机の上には、母の形見の小刀。手に取ると、それは今までになくずっしりと重く感じられた。

 長屋の仲間たちは今頃どうしているだろう。今日お墓に顔を出さなかったから、尼ばあさまもさぞかし心配していることだろう……。

 ぽつりと――小刀にひとつぶ涙が落ちた。

 それを乱暴に袖で拭うと小刀を机の上に戻し、いろはは寝床に潜り込む。

 落ち着かない寝床だったが、それでもうずくまって目をつぶっているうち、あまりにもいろいろなことがあったせいかいつの間にか眠りに落ちていた。



 圭人は自分の寝室で、一番気に入っているソファに腰掛けながら、深いため息をついた。今日だけでため息は何度目になるだろうか。

「やるべきことは、山積み……だな」

 ふと、洋酒がずらりと並んだ棚が目に入る。あの酒の値段は、庶民の生活費でいうと何日分になるだろうか。

 その庶民よりも、さらに貧しい暮らしであっただろういろは。

 彼女は親の墓前に供える花すら買えず、あろうことか桜を切った。

 そんな己の行動に疑問を持たないほどの暮らしをしていたのだ、あの娘は。

 圭人は酒棚から目をそらした。さっさと着替えてベッドに入る。

 心身ともに、とても疲れていた。きっと夢も見ずに眠れることだろう――


 圭人によるいろはの淑女教育の日々は、こうして始まりを迎えたのだった。


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