一 はじまりの話④
◆
春の夜中は、まだまだ冷え込む。
田原いろはは、ぺたんと座り込んで、小さな握りこぶしを固く冷たい床に何度もぶつけていた。いろんなことがいっぺんに起きて疲れていたが、眠ることはできない。
悔しくて、悲しくて。
いろはは、罪を犯したのだと言われた。
女王陛下の前で、桜の樹を傷つけてはいけない――。
だけどいろははそんなこと知らなかったし、女王陛下という偉い人が来ていたことも知らなかった。いや、今日まで女王陛下という存在すら知らなかった。
自分のような者が、花を欲しがることはいけないことだったのだろうか。
自分のような者は、花を手に入れることすら許されないのだろうか。
握りこぶしをぶつけ続ける床には、塵ひとつ落ちていない。この鉄格子の入った部屋は、いろはの住んでいた長屋の一室よりもずっと、きちんとしたつくりで清潔なのが余計に皮肉だった。
うなだれて床を見ていると、こつこつと靴音が聞こえた。音はいろはのいる部屋の前で止まる。
重たそうな扉がなめらかに開くと、体の大きな若い男の人が立っていた。いろはを取り押さえた『コノエ』と呼ばれていた人たちと同じような服を着ているが、目の前の男の人のものは彼らよりもずっと胸元の飾りが多い。
「田原いろは、出るんだ。これからお前の身元引受人のところへ向かう」
横柄に命じられて、いろはは思わず男の人を睨んだ。素直に従いたくなんてない。
「なぁんだ、思ったより元気そうで何より。うんうん」
男の人は、いろはが精一杯睨みつけているにもかかわらず、朗らかに笑った。
「ついてこい。まぁ、ここよりはずっとマシなところに行けるから安心しとけ」
男の人は、そう言っていろはに無防備に背を向ける。ふわりと、長い茶色の髪が犬の尻尾のように揺れるのが、場違いに面白く思えた。
「疲れてるなら、手を貸そうか? お嬢さん」
茶化されたのが悔しくて、いろはは疲弊した体でどうにか立ち上がり、重たい足を引きずるようにして部屋を出る。
そして、男の人の後ろを懸命について歩く。
『オウキュウ』という名前らしいこの場所は、とても広いようだった。見たところほとんど飾り気のない簡素な壁や床をしていたが、いかにもお金がかかっていそうな壁紙や調度類で飾られた広い通路なんかも少しだけ通った。すれ違うのはほとんどが、いろはの前を歩く男の人と似た服を着た人々。
二人はかなり歩いて、建物の外に出る。
それから、いろはの生まれた街にもそれなりに走っていた人力車や、今は馬がつながれていない馬車が数え切れないほどに並ぶ場所まで来ると、尻尾髪の男の人は誰かを見つけたようで挨拶をした。
「よう、宮廷魔術師主席どの。未来のレディ小娘ちゃんの引き渡しだぜ」
真っ赤な乗り物の傍にいた、眼鏡の男の人が渋い顔をしたのが暗い中でもわかる。
「……優太、頼む。これが現実ではなく、悪夢なら悪夢だと言ってくれないか」
「大丈夫。掛け値なしの現実だ。ほれ、ここに身柄受け渡し完了のサインしろ、万年筆は持ってるよな?」
「あぁ……悲しいことに、持ってるぞ。……ほら、サインしたぞ、これでいいな」
「いいじゃねぇか、お前なら一人暮らしで、邸の空き部屋ならいくらでも余ってるわけだし。陛下もお前のこと信頼してるし、適任だと思ったから任せたんだろうよ。ま、頑張れ。あれは――なかなかのじゃじゃ馬だぞ」
その会話を、いろははほとんど意味を理解できず聞いていた。
「うん、問題なし、と。さ……小娘ちゃん、あれがお前の身元引受人だ。目つきは多少悪いかもしれんが、心根はまぁ悪いヤツじゃあないし、家屋敷は立派なものだし、口うるさい身内も同居してないし、いじめられたりはしない、多分」
尻尾髪の男の人にかなり強く背中を押されて、いろはは転ぶように前に出た。
見上げると――ぱりっとしたスーツと長いマントを纏い、宝石がはめ込まれた紳士用の杖を持った、どこからどう見ても雲の上の存在だとわかる男の人が、銀縁眼鏡の奥の瞳に困惑と迷惑の色を浮かべている。
なぜ、こんな顔で見られなければならないのか。
いろはは思わず、動物が毛を逆立てるときのように姿勢をやや低くしていた。
「んじゃ、俺は行くわ。こっちはまだ仕事残ってるしな」
尻尾髪の男の人が、手をひらひらさせてその場を離れようとする。
「あぁ、優太もおつかれ」
「あ、やべ。これ渡すの忘れてた、受け取れ!」
しゅっ、と……少し離れたところから、男の人が何か細長いものを投げてくる。
月の光に、よく手入れされた黒い鞘が光る。
あれは、昼に桜の枝を切り落とすために使った、いろはの小刀だ。
……お母さんの形見!
それを理解した瞬間、いろはの体は動いていた。
走って、跳んで――――小刀を掴む。
「な……おい!」
「来ないでよ、来ないでったら!」
いろはは鞘から小刀を抜き、刃を自分に向けた。
「どこかに連れて行かれて殺されるぐらいなら、いっそのことここで死んでやる!」
そう叫ぶと、眼鏡の男の人は軽くため息をついてから、手にした紳士用の杖をこちらに向けて、何か小さく呟いた。
「…………っ!?」
体が、動かない。
小刀を胸に刺そうと思っても、いろはの腕も足も、縫い留められたかのように動かない。
そうしている間に、男の人が近づいてくる。そして、わけがわからぬうちに小刀は鞘ごと奪われてしまった。
「俺に刃向かっても無駄だ。それと、できもしないくせに死ぬとか言うものじゃない」
「う……うぅ」
小刀が……あれは、いろはの母が、とても大事にしていたものだ。
「……それ、私の。私のお母さんの形見……返して」
取り返さなくては。せめて、あれだけは。
「悪いことをしたらなんていうか知っているか?」
「…………ごめんなさい」
悔しかった。けれど、いろははおとなしく頭を下げた。
「ほぅ。ちゃんと言えるじゃないか。……もう危ないことには使うなよ?」
「つ、使わない……! 絶対! ……だから返して!」
「わかった、ほら」
いろはは差し出された小刀をひったくるように掴んでから、もう離さないとばかりに帯に挟む。
さっきまで少し離れたところにいた尻尾髪の男の人は、もうどこかに行ってしまったようだ。
眼鏡の男の人は、しばらくいろはの様子を見つめていた。それから、赤い乗り物に近寄って、扉を開ける。
「乗れ」
「……そこに座れってこと?」
「そうだ」
座れば、今度はどこに連れて行かれてしまうのだろうと、いろはは立ちすくむ。早く長屋に……自分の家に帰りたかった。けれどそれは、この様子では叶わないのだろう。
悔しさを噛みしめながら、重い足取りで赤い乗り物の座席に座った。
眼鏡の男の人は反対側の扉から入ってきて、内側に取り付けられた丸い輪っかの前に手をかざす。淡い光――魔力が、乗り物に吸い込まれていった。そういえばさっきも、この人が何か言ったあと動けなくなってしまった。この男の人は――魔術師様だったのだ! いろはがこの人から逃げるなど、不可能なことだったのだ……。
魔術師様は、丸い輪っかを握って右に左にと動かす――それに合わせて乗り物はなめらかに動いた。景色がどんどん流れていく。
「ねぇ……えっと」
「圭人だ。紫乃宮圭人。圭人でかまわん」
魔術師様こと、紫乃宮圭人はいろはを見もせずそう応えた。
「じゃあ……圭人、あの……」
「まさかのいきなり呼び捨てか……ん、まぁいい、なんだ」
「――私、もうお家に帰れないの?」
「しばらくは、そうなる。期限は二年程度と聞いているが、もしかするとそれよりもっと長いか……」
「……っ、う……うぅ……」
二年。二年もの間、家に帰れない。その間、貧民地区の仲間たちは心配することだろう。二年も経てば両親の小さなお墓は荒れ放題になるだろうし、お寺の尼ばあさまにも迷惑をかける。
そんなことを思うと、いろはの瞳からは涙が溢れて止まらなかった。だけど、大声で泣いてこの男――圭人に、弱いところを見せたくなかった。だから、懸命に歯を食いしばって、なるべく泣き声が漏れないように抑える。
「……お前は、自分が起こした騒動のけじめをつけなければいけない」
亡くなったお父さんお母さん、それに尼ばあさまは、悪いことをしたらちゃんと償わないといけないといつも言っていた。
そして、いろはは悪いことをしたのだ。だから、償いをしないといけない。自分の罪は、結局自分にしか雪げない。
「お前にはこれから俺の邸で『教育』を受けてもらう。我が国の女王陛下にも謁見できるような、レディ……和桜国の言葉で言えば、貴婦人、あるいは淑女になること。それが、お前が起こした騒動のけじめということだ」
事務的に淡々と告げる圭人に、いろはは小さく頷いた。レディも貴婦人も淑女も聞いたことのないよくわからない言葉だ。だけど、そのレディというものにならないと、自分の家に帰ることも許されない。
「……わかった」
「いい子だ。名前はなんという」
「いろは……。田原いろは……」
「そうか、いろはは……今までどんなところに住んでいたんだ?」
ぐすっと、鼻を鳴らして、いろはは応える。
「あの桜が咲くお城の公園がある街の、皆が貧民地区って呼んでたところに、お家があったの。お父さんと、お母さんと、私のお家。でも、お父さんとお母さんは雪が融ける少し前ぐらいに死んでしまって――お弔いをしたの。それで、私、お花をお墓に供えてあげたくて、でも、お花を買うお金なんてないから――」
「……そうか」
それ以降、どちらも口を開くことなくしばらく走ったあと、大きな建物の前で、圭人は乗り物を止めた。
いろははその建物を――月明かりと街灯によって照らしだされた西洋風のつくりのお屋敷を呆然と見上げる。いろはの住んでいた街にあったお役所のように、大きくて立派で圧倒されるほど綺麗な建物。
「いろは。今日からここがお前の家だ」
「嘘、でしょ…………」
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