最終話 幸せな俺と少女の笑顔

 三月にもなると、さすがに少しは寒さが和らいで来た。気温はなんとか二桁台をマークしていて、そろそろコートやマフラー、手袋なんかの防寒具が要らなくなる季節だ。桜の花もチラホラと咲き始めているから、本格的に春が訪れたと言ってもいいだろう。

 もうあと数日で三学期も終わり、それからまた暫くすれば、俺たちも二年生。後輩も入ってくる。まあ、図書委員にしか所属していない上に二年からも続けるのかは微妙なので、後輩が入って来たところで俺には関係ないのだが。

 目下の問題はそんなことではない。それよりも、もっと重要なことがある。


「えっ、葵くん、白雪先輩とお付き合いしてるんじゃないんですか?」

「してるわけじゃないんですよ……」


 空き教室で向かい合って座ってる小鞠が、心底意外そうに目を丸める。その目が徐々に細められ、なんだかバツが悪くなって視線を手元の弁当に落とした。

 今日は火曜日だから、小鞠が作って来てくれた弁当を頂いている。相変わらず美味い。料理の腕前だけは小梅先輩にも引けを取らないんじゃなかろうか。

 とりあえずたこさんウィンナーを一口パクリ。


「いや、お弁当食べてる場合じゃないですよ。白雪先輩に告白したんですよね?」

「まあ、一応……」


 したのはしたけど、その直後に小鞠がやって来たからあやふやになったと言いますか。返事を貰うタイミング完全に逃したと言いますか。

 あの時は、ただ自分の気持ちを伝えることしか考えてなくて。俺たちの関係がまた元に戻ることをなによりも願っていて。だから、付き合うだのなんだのと具体的なことは何も考えちゃいなかった。

 そして結果として現在。小梅先輩は卒業してしまったから毎日三人でというわけにはいかないものの、毎週水曜は三人であの喫茶店に集まっているし、俺と先輩二人でと言うのなら、殆ど毎日会っている。昨日もそうだし、土日なんてモールの中を連れ回されて、なんか服とか色々見繕ってもらったりもした。

 だが、付き合ってるわけではない。

 あの人からはっきりとした言葉を告げられたわけではないし、俺も返事を乞うた覚えはない。

 もう本当、完全にタイミング逃しちゃってるだけなんですけどね。マジで。


「どうしたらいいんだろうな……」

「私に聞かないでくださいよ……まだちょっと振り切れてないんですから……」

「ああ、ごめん……」


 言葉尻は小さなものだったが、二人しかいない静かなこの教室ではしっかり聞こえてしまう。

 うん、今のは俺が悪かった。デリカシーなさすぎだろ俺。はーほんま、こんなんだから小梅先輩とも未だにそんなんなんだろ。


「そ、それよりっ!」


 漂う変な雰囲気を、小鞠の大きな声が払拭する。ちょっと頬が赤くなってるのは、見ないふりということで。


「今日の放課後、ちゃんとお返事もらって来てください!」

「え、今日?」

「はい、今日です」


 にっこりとそれはもう素晴らしい笑顔で無茶を要求してくる小鞠。こんな子じゃなかったはずなのに……。誰の影響を受けたのかしら全くもう。犯人一人しか思い浮かばねぇわ。


「ちょっと急すぎないか?」

「そうでもないと、葵くんはまたずるずるこのままで行きそうですから。多少急で無理矢理でも、急かさないとダメじゃないですか」


 ごもっともですね。


「葵くん、白雪先輩のことが好きなんですよね?」

「……おう」

「恋人同士になりたくないんですか?」

「まあ、なりたいっちゃなりたいな……」

「じゃあ善は急げですよっ」


 ファイト、とでも言うように、何故か小鞠がフンスと鼻息荒く拳を握る。

 ここまで後押しされてしまっては、退くに退けないか。


「分かった、今日中に頑張ってみるよ」

「報告待ってますね!」






 授業が終わり放課後になると、帰宅部のエースたる俺は真っ先に教室を出る。カースト最底辺ぼっちの俺のそんな様子を見ている奴なんて、教室内には一人しかいないから、クラスメイトは俺が帰ったことすら気づかないだろう。

 まあ、教室を真っ先に出る、と言う点については、以前からずっと同じだったが。

 違うのは、俺が向かう先。冬休み前までは即帰宅していたが、三学期に入ってからはあの空き教室に通い始め。そして今、卒業式から三週間の間は、蘆屋駅近くの喫茶店へ。

 教室を出る直前に小鞠と目が合えば、視線でエールを送ってくれる。それに小さく頷きを返して、そそくさと駐輪場へ向かった。

 あの卒業式の日から俺たちの関係が変わったのかと言うと、それは否だ。変わったのではなく、戻ったと言った方が正しい。

 バレンタインよりも以前の俺たち三人に。それを、三人ともが望んでいた。

 けれど同時に、変わりたいと思っていたのも事実だろう。少なくとも小鞠はそのつもりだったのだろうし、俺だってそう思ったからあの人に好きだと告げたわけで。

 まあ、結果はご覧の有様ではあるが。

 このままではダメだ。元通りの関係に収まるだけでは、足りない。今度は三人のことじゃなくて、俺と小梅先輩二人のことだ。

 まだ返事を貰えそうにないのなら、もう一度伝えればいいだけのこと。羞恥心がないわけではないが、これだけは何度だって分かるまで伝えてやる。

 自転車を走らせて辿り着いたのは、駅近くの喫茶店。ここ最近は毎日のように通っていて、店内に入れば、いつも変わらずあの人が、笑顔で迎えてくれる。


「こんにちは、葵くん」

「どうも」


 カウンター席に座っているのは、ニットのセーターとジーンズの小梅先輩。残念ながら制服姿はあの日で見納めとなってしまったが、今度は逆に私服姿に見慣れるまで時間がかかってしまったものだ。

 今日はマスターとあの背の高い男性の店員さんもいるようで、二人からいらっしゃいませ、と声をかけられる。もはや見慣れた顔の二人に目礼を返し、小梅先輩の隣に腰かけた。

 カウンターの向かいにいるマスターにいつものカフェオレを注文する。店内は相変わらず閑散としていて、潰れないか心配になってしまうほどだ。


「今日はケーキ食べないんだ?」

「高校生のお財布事情は色々と厳しいんですよ」

「あたしが奢ってあげるじゃん」

「それはなんか負けた気になるんで嫌です」

「素直じゃないなー」


 なんて会話をしているうちに、注文したカフェオレが出てきた。それで口内を潤して、ひとつ息を吐く。

 これ、無理じゃね? いや、この場でもう一回告白とか、控えめに言って無理みがパナい。

 まずもってマスターと店員さんいらっしゃるし。いつ他の客が来るかも分からんし。小梅先輩は相変わらず顔面偏差値高杉晋作だし。

 あー待って、やばい、めっちゃ緊張してきた。心臓うるさすぎる破裂すんじゃねぇのこれ。

 俺の様子がおかしいのに気づいたのか、小梅先輩が首を傾けてこちらを覗き込んで来る。やめて、今その距離感はヤバイから! あーくそ嫌味なほどに美人だなこの人!


「葵君、どうかした?」

「へっ? いや、なんでもないですよ?」


 若干声が裏返りながらも返すと、ニヤニヤと小梅先輩の口角が上がる。これはめんどくさいことになる時の笑顔だ。俺は詳しいんだ。


「え〜ほんとにござるかぁ〜?」

「本当ですよ。てか近いから」

「あら、好きな女の子からのスキンシップは嫌かしら?」


 瞬間的に顔が沸騰した。まさか、小梅先輩からそのワードを出すとは思わなくて。しかもそれが、丁度こんなタイミングだなんて余計に。

 小梅先輩の笑顔が近い。そこにはほんの僅か、喜色が混じって見えるだろうか。でも頬には少しだけ朱が差していて。

 目を逸らさなくなる。釘付けにされて、吸い込まれそうになって、思考が停止する。


「やっぱり。駒鳥ちゃんに何か言われたりしたでしょ」

「……なんで知ってるんですか」


 なんとか絞り出した言葉に、先輩が答える様子はない。小鞠から聞いたのかとも思ったが、この人なら聞いていなくても分かってしまうのだろう。


「あたしのお願い、叶えてくれてありがとね」


 質問の返答の代わりに発せられたのは、唐突な礼の言葉。だけど、俺にはその言葉が持つ意味が分かる。そこに込められた気持ちを、理解できる。

 先輩の言うお願いとは、即ち。出会った頃に、まだお互いのことをなにも知らない時に押し付けられた、あれのこと。

 なんだよ。わざわざこっちから切り出す必要もなかったじゃないか。


「最初はあたしも、本当に暇つぶしのつもりだったんだけどね。君を選んだのだって、適当に因縁つけるのが簡単なだけだったし、見るからに草食系だし、友達いなさそうだし」

「おい。最後おかしいだろ」

「大切なことだよー。だって友達いないってことは、言いふらす相手がいないってことだし。駒鳥ちゃんも抱きかかえちゃえば、君に味方はいないってわけ」


 汚い。さすが先輩汚い。


「駒鳥ちゃんと君のことも、本当に応援してたんだ。あのお願いは、たしかにあたしの本心でもあったけど、君たちがほんの少しでも進展すればいいなって、焚き付けるためみたいなとこもあったし」


 ほんの二ヶ月ほど前のことなのに。先輩は懐かしむように語る。

 そうだ、あの時は図書室で本を読んでいたのに、先輩に無理矢理拉致られて、小鞠に見つかって。多分、その時に一目で色々と察したのだろう。俺と小鞠の関係とか、その辺を。


「でも、いつの間にか本気になっちゃってて、駒鳥ちゃんに負けたくないって思っちゃって。でも駒鳥ちゃんもいい子だから、あの子も好きになっちゃって。こんなに誤算だらけなのは初めてだったよ」

「完璧超人の白雪小梅に一泡吹かせられたってんなら、名誉なことですね」

「なんかお兄さんみたいな返しで気にくわないわね」

「夏目さんが泣きますよ」


 てか、別にあの人っぽく言ったつもりはなかったんだが。ただちょっと挑発する感じで笑って肩すくめてみただけじゃん。

 いや、夏目さんっぽいなこれ。数回会っただけでも分かる。ちょっとキザったらしい笑い方とかもうまさしくって感じ。

 クスクスと笑みを漏らす小梅先輩は、とても楽しそうだ。今日はいつもより一段と。


「でも、本当に。あなたには感謝してるわ」


 その笑顔が、変化する。小悪魔じみたものから大人びたものへ。

 女性の色気を匂わせる妖艶な笑み。これには、どれだけ時間を重ねようと慣れる気がしない。可愛らしさが急に美しさへと移り変わるのだから。


「知ってる? あたしこれでも、葵君の言葉に救われたのよ?」

「俺、そんな大層なこと言ってないと思いますけど」

「ふふっ、あなたに自覚がなくても別にいいわ。あたしが葵君を好きなことに、変わりはないから」

「……っ」


 不意打ちで放たれた、好きの一言。初めてこの人の口から聞かされたその言葉は、俺の鼓動を加速させるのに十分すぎて。

 でも、それ以上に。胸の内がこんなにも満たされて、全身から嬉しい気持ちが湧き上がってきて。

 ああ、そうか。多分、これが。


「小梅先輩」

「ん?」

「俺、今めちゃくちゃ幸せです」


 これが、幸せを感じるってことなんだ。

 今まで不幸だらけの人生だったのに。この人のたった一言で、理解出来てしまった。

 一緒にいたいと願った誰かが、今隣にいてくれる。その人と、心を通わせることが出来る。そうして湧き上がった、言葉にするには大きすぎるこの感情こそが、幸せってやつなんだろう。


「バカね。葵君はこれから、あたしと一緒にもっと幸せになってもらうんだから。この程度で満足してる場合じゃないわよ?」

「お手柔らかにお願いしますよ」

「ふふっ、さて、どうかしらね。でも……」


 そこで一度言葉を区切った先輩。満面の笑みを浮かべたその顔は赤く染まっていて。


「あたしも今、めちゃくちゃ幸せだよ」


 この人と一緒なら不安なんてない。

 小梅先輩となら、俺の不幸なんてどこかへ吹っ飛ばして。一緒に幸せになれると、信じているから。

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あなたに贈るシアワセの涙 宮下龍美 @railgun-0329

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