あやしがたり

華翔誠

第1話 あやしがたり

「般若姫の霊がでる。」

東京の寺社仏閣修繕相談所に、メールが、よせられたのは、夏も終わろうかという時期だった。

「夏も終わろうかというのに怪談とはのう。」

そう、古臭い言葉で言ったのは、谷岡杏子19歳。

今どきというか垢ぬけた雰囲気の彼女からは、想像が出来ない言葉使いだった。

「なんですか?般若姫って?鬼みたいな?」

そう言ったのも、谷岡杏子19歳。

見た目通りの言葉使いだった。

「日照様はご存知ですよね?」

そう、所長の神原将人は、谷岡杏子に向けて言った。

「名前だけならのう。」

「日照様が知ってて、私が知らないんですか?」

谷岡杏子が答えて、谷岡杏子が質問した。

「記憶は共有出来んじゃろうに。」

「体は共有してるじゃないですか?」

傍から見ると独り漫才をしてるようだった。

「私も般若姫は、聞いたことないです。」

そう答えたのは、もう一人の助手、夕禅字咲25歳。

ショートで黒髪の杏子とは違い、銀髪のロングヘアの美人だった。

銀髪では、あるが純日本人で、祖先にも外国の血は混じっていない。

銀髪は、後天的なものであった。

「めいるの送り主はなんと?」

谷岡杏子の中にいる日照様が聞いた。

「山口県柳井市に来てほしいと。」

「周防国(すおうのくに)か、魚が美味しそうじゃのう。」

ジュルリと涎を垂らす日照様こと谷岡杏子。

「日照様が食べても太るのは私なんですからね!」

自分に自分で苦情を言う谷岡杏子。

「行く気満々ですね、日照様。」

「なんじゃ、我(われ)を置いて行く気かえ?」

「日照様というか杏子を置いて行けるわけないでしょう。」

先日までは杏子君と呼んでいたが、本人からの苦情で、今は呼び捨てにしている。

杏子よりも前から助手をしている咲を呼び捨てにしてるせいだが。

「ならば、めいるを無視するかえ?」

「いえ、まあ行こうとは思いますが、問題が・・・。」

日照様とは、神霊山の守り神で、昇神した神である。

ひょんなことから、谷岡杏子の体に降神してしまい現在の状況となっている。

俗にいう神降ろしと言われるものだが、今までの日本の歴史を紐解いても成功した例はない。

その唯一の成功例が谷岡杏子であり、世には彼女を狙う者たちが存在した。


所長である神原将人は、術者の組織に所属している。

術者とは、陰陽道が日本に伝わる5世紀より前から、日本に存在した特殊異能者たちの総称である。

卑弥呼の鬼道やヤマトの神道など、多種多様であったが、5世紀に日本に伝来した陰陽道により、術者は、次第に影を潜めていった。

現在の日本で、術者と言えば2流派に分類される。

東家(あずまけ)と綾野家である。

神原将人は、東家の組織に所属していた。

組織のしらがみもあって、谷岡杏子を簡単には山口県へ連れていけない。

色々と根回しが必要になってくる。


難色が示されると思った山口出張だが、あっさりと許可がおりた。

「あっさり過ぎて、気持ち悪いくらいですが。」

将人は、杏子の中の日照様に言った。

「将人よ、つまらんことを気にするな。我は新鮮なお魚が一杯食べたいのじゃっ!」

欲望むき出しの日照様こと体は、谷岡杏子。

「新鮮な魚なんて、東京でも食べられるじゃないですか。」

自分で自分に苦情を言う谷岡杏子。

「ちっちっち、ふぐは、やっぱり周防の国で食べんとの。」

「ふぐは、石川県ですよ。」

神原将人がボソっと言う。

山口県が全力でアピールしている、ふぐ。

しかし漁獲量というか水揚げ量は、石川県、北海道、福岡についで第4位だった。

「東京で食べられない魚って、あんまりありませんよね。」

夕禅字咲が正論を言った。

「まったく、お前らは、風情というものがないのかっ。」


般若姫とは、炭焼長者の家に生まれた美しい女性である。

当時、朝廷の跡目争いに嫌気がさし、皇位を預け豊後国に身を寄せていた橘豊日尊(たちばなのとよひのみこと)は、般若姫の噂を聞きつけ、身分を隠し長者の家に住み込みで働くことになった。瞬く間に恋に落ちた二人は、長者夫婦にも祝福され結ばれた。

しかし、般若姫が子供を身ごもった頃に事態は急変する。

兄である敏達天皇が崩御したのだ。

橘豊日尊は、都に連れ戻されることになり、身重な般若姫は、真名野原に残る事になった。

橘豊日尊は、女の子が生まれた場合は、長者の跡取りに、男の子が生まれた場合は、共に都に来るように般若姫に伝えた。

娘の玉絵姫を無事出産した般若姫は、娘を両親に預けると千人の従者を引き連れ船で都へと向かった。

しかし、周防国田浦で暴風雨に巻き込まれ遭難。

地元の村人に介抱されるも19歳の若さで他界した。


彼女が村人に感謝し、井戸の傍に枝を指したところ、一夜にして、立派な柳の木になったという。

柳と井戸で、柳井という地名になったとの逸話が残っている。


「うさんくさいのう。」

新幹線の中、般若姫の話を聞いて日照様こと谷岡杏子が言った。

「いいお話じゃないですか。」

谷岡杏子が自問自答した。

「おぬし等、柳と井戸と聞いて何を思う?」

「幽霊ですか?」

夕禅字咲が答えた。

彼女の傍には、いつも白い毛玉がフワフワと浮かんでいた。人の顔より二回り小さいサイズだが、普通の人には見えない。

「それにの、周防の国なんぞ、般若姫の時代にありはせん。人は住んでおったろうが、普通の村人ではないな。」

「普通ではない、ですか・・・。」

「瀬戸内と聞いて何を思い浮かぶ?」

「海賊でしょうっ!」

元気よく谷岡杏子が自問自答した。

「伝説や伝承の類は、都合の良いものに書き換えらていくのが、世の常じゃからの。海賊共に嬲りものにされ、井戸に身でも投げたか、そういったことじゃろう。」

「まさか、それを恨んで幽霊に?」

「1500年前の事を今更のう。」

自問自答する谷岡杏子。

「将人は、何か知っておるのかえ?」

「いえ、何分、東京からは遠い山口県の事ですからね。」

「ほう。」

日照様こと谷岡杏子は、怪しむような目で神原将人を一瞥した。


一行はホテルに一泊し、柳井駅には翌朝早く到着した。

「本当だ、日照様の言う通り、般若姫らしきものが全然ない。」

谷岡杏子が駅周辺を見渡したが、それらしい物は何一つなかった。

「本当ですね。柳井市の由来なら、何かしらあってもよさそうですけど。」

夕禅字咲が言った。

彼女の傍には、フワフワと白い毛玉一つ浮かんでいる。

「ほれみろ、やましい事があるからに決まっておろう。」

日照様こと、谷岡杏子が自慢げに言った。

「これは手厳しいですね。」

そう言って現れたのは、今回の依頼者の市谷だった。

「どうも遠い所をわざわざすみません。地元で民俗学を研究している市谷と申します。」

市谷は一行に挨拶をした。

「やっぱり般若姫って、ここの海賊に襲われたんですか?」

谷岡杏子が、ずけずけと質問した。

「そう言った説もありますよ。何分当時のこの辺りには、海賊しか居ませんでしたし。そんな感じで、あまり般若姫で市をアピールという風潮も少ないです。」

「当時は、周防の国は無かったと聞いたんですが?」

夕禅字咲が聞いた。

「そうですね。周防の国は、用明天皇の時代に出来たと言われていますから、般若姫が没後に出来た国だと思いますよ。」

「用明天皇?」

「即位する前は、橘豊日尊という名でした。つまり、般若姫の夫ですね。」

「ほう、それは興味深いのう。」

日照様こと谷岡杏子が言った。

「それで、市谷さん。我々は何処へ?」

神原将人が市谷に聞いた。

「そうですね。まずは用明天皇が般若姫を弔うために建立した神峰山般若寺へ。」

一行は、市谷が運転する車に乗り込み般若寺へと向かった。

一行が神峰山般若寺を目指していると、道中の道沿いに小さな川が流れていた。川幅は2mくらいの小さな川だが、神原将人は、市谷へ質問した。

「この川は、意名川(いみょうがわ)ですか?」

「ええ、その通りです。」

意名川とは、別名を氏名川(うじながわ)ともいう。

川の名前に意味を持たせたもので、氏名が由来になってるものも多く、日本各地に存在する。

「都から飛ばされたって所じゃの。」

日照様こと谷岡杏子が言った。

「まあ、そんな所ですね。」

市谷が答えた。

夕禅字咲は、市谷を訝しんでいた。

通常始めて、谷岡杏子を見たものは、奇妙に思うものだが、彼は普通に接している。

杏子の中に日照様が居るという事は、術者の世界では知れ渡っている。

市谷の対応は、知っている者の対応としか思えない。

つまり、術者の関係者ということに。

「ボーちゃん、お願いがあるの。」

夕禅字咲は、小さな声で白い毛玉に伝えた。


神峰山般若寺に到着すると、市谷は3人を案内する為に先頭に出た。

そこへ、白い毛玉が目前を横切る。

とっさの出来事に、市谷は、手で払うように避けた。

「す、すみません。蜂か何かが居たようで。」

そう、市谷は誤魔化した。

白い毛玉、ボーちゃんは、普通の人には見えない。

ボーちゃんが、見えるという事は、術者もしくは、それにつらなる人間ということになる。

何らかの要因で、見える人になる場合もあるが、確率は恐ろしく低い。

咲は、確信して、神原将人に耳打ちした。

「先生、あの人は、術者の関係者と思われます。」

「そうだね。でも心配しなくても大丈夫。日照様も別段変わった様子はないだろう?」

将人は、咲に心配しなくていいと伝えた。

普段であれば、咲が神経質にならずとも将人や日照様が気づくはず。

という事は、市谷という男性は、東家の関係か。

そう思い、咲は将人の言う通りに、心配するのをやめた。


「先生、見てください。あの干上がった池!」

興奮気味に少し離れて前に居た谷岡杏子が戻ってきた。

「どうした?そんなに慌てて。」

「あれ聖徳太子が作ったそうです。」

将人は、杏子が指さした方を見た。

そこには干上がった池というか、水たまり?というかなんか湿っぽい物があった。

伝承によれば、聖徳太子が鞭を指した所、水が溢れだした場所だとか。聖徳太子鞭の池と書かれている。

「何とも胡散臭い。」

一番興奮していた杏子が冷めたように言った。

もちろん、言ったのは日照様だが。

「まあ、そうですがね。水が出たと言うのは作り話にしても、聖徳太子は用明天皇のご子息ですから、こちらに来られたと言うのは事実だと思いますよ。」

市谷が、そう説明した。

「それが、胡散臭いと言うのじゃ。そもそも聖徳太子が生まれたのはいつじゃ?」

「574年だったと思います。」

夕禅字咲が答えた。

「さすが咲じゃの。」

日照様は、咲を褒めた。

「敏達天皇3年の頃じゃ、さて般若姫伝説では、橘豊日尊は、何処に居った事になっておる?」

「あっ・・・。」

伝承では、橘豊日尊は即位前まで九州に居たことになっている。

「歴史とやらは後の権力者が都合よく作った偽物じゃからの。矛盾点なぞ簡単に出てくる。」

「そ、そのようで。」

本当に聖徳太子が訪れたか、どうかまで怪しくなってきた。

「いいじゃないですか別に。誰が困る訳でもないし。歴史なんて適当でいいんですよ。」

杏子がサラッと言った。

日本史は苦手な部類に入る。

「まったく、いつもいっておるであろう?過去を学ぶことは大事じゃと。」

歴史は誤りが多い。

推測されるとか、曖昧な記述も多く、それが子供たちに嫌われる要因ともなっている。

「他に何か有名なのってあります?」

ミーハー気分の谷岡杏子が、市谷に聞いた。

「そ、そうですね。枝垂桜とか時期であれば綺麗なんですが・・・。」

さすがに聖徳太子以上の物はなく、市谷は困り果てた。


「我らは、観光に来たわけじゃなかろうに。」

杏子が自分で自分を窘める。

「時に、市谷とやら。一つだけ聞いておきたいことがある。」

谷岡杏子が真剣な表情で、市谷に問い詰めた。


少女の真剣な顔つきに市谷は身構えた。

「今日の昼飯は、なんじゃ?」

「はい?」

あまりにも予想外の質問に、市谷は意表を突かれた。

昨晩は、ホテルの中華を食べ、朝食はパン。

日照様は、いまだ目的の新鮮な魚介類を食していなかった。

「も、申し訳ありません。特に考えておらず、どこかの定食屋で昼食を取れればと・・・。」

「くっ・・・。」

「観光に来たんじゃないって言ってませんでした?」

自分で自分に突っ込んだ。

「な、何をいう。観光と食事は別じゃろ。」

傍で見ていた将人と咲は呆れた。

「そ、その代り、夜は、ふぐ懐石を用意しております。夏ふぐも、おつなものですよ。」

「お、おおおおっ!」

日照様のテンションが最大級になった。


一行は神峰山般若寺を見て回ったが、特段変わった事は何もなかった。


が。


「な、なんですか、あの猫!」

そう言って、指さしたのは、杏子だったが。

「猫ですか?」

指さされた方を市谷が見たが、猫は居なかった。

決して見えない振りをしているわけではない。

「先生、猫が見えますか?」

咲が将人に聞いたが。

「いや。日照様、猫が居るのですか?」

「随分と不細工な猫じゃのう。」

「ボーちゃん、猫が見える?」

咲は、自分の周りをフワフワと飛んでいる毛玉に聞いた。

「いや、見えない。」

見た目に反して、随分と野太い声だった。


「髪の毛生えてますよ?気持ち悪っ。」

「ああいう不細工なのは、一周回って可愛いというんじゃないのか?」

「2周しても3周しても、気持ち悪いです。」

自問自答する杏子を尻目に猫は鳴いた。

「はんにゃあ~。」

随分と間の抜けた鳴き声だが、聞こえたのは杏子のみ。

「ついてこいと言っとるの。」

自分で言って自分で首を振る杏子。

「無理、無理、無理。」

「怯えるでない杏子。アレは悪いものじゃない。」

「無理なもんは無理です。」

嫌がってついて行こうとしない杏子だが、日照様は強引について行こうとした。

傍から見ると、ロボットダンスでもしているかのような滑稽な動きではあったが。


不気味な猫が向かった先は、見通しのいい場所だった。

眼下には、瀬戸の海が見渡せる。

「はんにゃ~。」

間の抜けた鳴き声で、右の前足を上げて、大島大橋の方を足指した。

「ふむ、橋元の海岸へ行けということか。」

日照様がそういうと、不気味な猫は姿を消した。


「杏子ちゃんにしか見えないということは、神霊でしょうか?」

咲が将人に聞いた。

「動物の神霊化は、人間に比べれば可能性は、なくはないが、しかし。」

元々、神霊は人に見えない。

つまり神霊化したとしても確認する方法がない。

「市谷さん、般若姫の時代に猫は日本に居たのですか?」

将人が疑問に思っていたのは、猫があの時代に日本に居たかだった。

「仏教や陰陽五行と共に日本に持ち込まれたと言われていますから、居た可能性は高いです。伝承の中には橘豊日皇子が般若姫に猫を送ったというものもあります。」

「市谷さん、あの橋へ向かって貰えますか?」

「わかりました。」

一行は大島大橋へと向かった。

昼食を取ろうという事になり、市谷の予算的な問題もあって、普通の定食屋へと入っていった。

市谷は4人分の日替わりランチを頼んだ。

「日替わりらんちは、なんじゃろうな?」

「魚のフライ定食みたいですよ。」

席に着くなり、自問自答する杏子。

杏子が魚のフライ定食だと気付いたのは、テーブルに置かれたメニューを見たからだ。

日替わりというのは、魚の種類が日替わりということらしい。


運ばれてきた魚のフライを一口頬張る一行。

「旨いっ!なんじゃこの弾力はっ!」

魚とは言いがたい身の弾力に日照様は驚いた。

「なんでしょうね、ふぐではないと思いますが。」

地元民であるはずの市谷も、何のフライか判らなかった。

「これは今まで食べた事が無い食感ですね。」

将人も感心したように食した。

「美味しいです。」

咲も満足のようだ。

「ちょっと何の魚か聞いてきますね。」

市谷は、席を外した。


「おばちゃん、これ何の魚かね?」

厨房のおばちゃんに声を掛けた。

「モサって魚なんじゃけどねえ。」

「ああ、モサかね。なるほどねえ。」

「モサ、知っちょってかね?」

「ああ、俺は、地元じゃけえね。」

厨房のおばちゃんは、少しバツが悪そうな顔をした。

今日は、いい魚が仕入れられず、仕方なくモサにしたようだ。


テーブルに戻った市谷は、一行に魚の種類を告げた。

「モサのフライだそうです。」

「モサ?」

将人と咲は、何の魚か判らなかった。

「ほお、瀬戸内にも鮫がおるんじゃのう。」

「サメと言っても、小さいサメですがね。釣りをしていると外道で釣れるんですよ。」

「ふむ、猛者と言えば人食い鮫じゃがのう。瀬戸内では違うのかえ?」

「ええ。」

一般的にモサ(猛者)と言えば、ホオジロザメの事を指すが、山口県の瀬戸内では、小さいサメをモサと呼んでいた。

「サメという割には、癖がまったくありませんね?」

将人は、サメと聞いてアンモニア臭を思い浮かべたが、このフライには、まったく臭みはなかった。

「そうですね。恥ずかしながら、私も食べたのは今日が初めてでして。」

一行は、大満足で昼食を終えた。


「まだ日は高いし、観光でもして時間を潰すかの。」

そう提案したのは日照様だった。

「夜まで待つという事ですか?」

将人が聞いた。

「いや、逢魔時でよかろう。」

「なるほど。」

日照様の提案に将人は納得した。

逢魔時とは、暮れ六つとも言われ、18時を意味していた。


「では、せっかくですからモサを見に行きますか?」

「さっきのフライですか?」

杏子が聞いた。

「ええ、触る事もできますよ。」

「えええー・・・。」

見てみたいとは思ったが、杏子は触りたいとは思わなかった。

「ほう。」

しかし、日照様は興味深そうに頷いた。

触る気満々である。


周防大島にある「なぎさ水族館」は、水族館という名はついているものの規模は小さい。

館内の広さといえば、田舎によくある民俗資料館と変わらない。

館内には、タッチングプールというものがあり、色んな魚やタコに触る事が出来る。

「おおー、猛者が居ったぞ!」

タッチングプールではしゃぐ日照様が、モサを発見した。

そんなに素早くないので、子供でも捕まえる事が出来るのだが、杏子の抵抗があり、日照様の動きは鈍い。

「ええい、杏子。邪魔をするでない。」

「日照様、私が。」

そう言って、咲が難なくモサを捕まえた。

「どっからどう見てもサメですね。」

咲は、モサを持ち上げて見回した。

「ほんにのう。」

そう言って、モサを触る手は震えていた。


「楽しんでもらえてよかったです。」

タッチングプールに入ってない市谷は、2人の女性が、はしゃぐのを見て、将人に言った。


観光を堪能した一行は、18時前には、大島大橋の付け根にある海岸へと移動していた。


まだ夏ということもあって、18時といっても外は明るい。妖や霊に会いそうな時間といっても、そんな雰囲気もない。


が。


雅な和服を着た女性が浜辺に立っていた。

明らかに人ではなく、禍々しい気を放ちながら。


「日照様、遠路はるばる、お越しいただきありがとうございます。」

そう言って浜辺に座し、深く礼をした。

「お主、体の半分を邪気に侵され、ようも正気を保っておれるな。」

般若姫の霊は、黒く禍々しい邪気に覆われていた。

「あは、半妖ですので。」

「半妖とな?」

「はい、母の玉津姫が、妖でしたので。」

そう言って、般若姫は、母親の事を語りだした。


辛亥の変にて、主を失った玉津姫は、命からがら都を逃げ出し、九州の山中で息絶えようとしていた。

既に人の姿を保つことも出来ず、半身は枯れかけの植物と化していた。

「許さん、許さんぞ、人間め。この身果てようとも。」

残る生命力を振り絞り、怨念を練り込んでいく。

意識を失う、その時まで、只管、人間への恨みを反芻した。

そんな玉津姫が、再び意識を取り戻したのは、山の中にある小汚い小屋の中だった。

「はっ・・・。」

起き上がり、当たりを見回す玉津姫。

彼女の目に写ったのは、炭で汚れた一人の男だった。

「なにやつ。」

「心配せんでええ、ここには、おらしかおらん。」

男は、口数が少なく、ただ一人炭焼きで生計を立てていた。

男の看病で、玉津姫は力を取り戻し、完全に人の姿が保てるまで回復した。

「わは、人ではない。怖くはないのか?」

「炭焼きは、植物と共にある。何が怖かろうか。」

「ふっ、おかしな奴じゃ。」

男の優しさに触れ、人への恨みも次第に薄れていった。

やがて二人は恋に落ち、夫婦となった。


「なるほどのう、玉藻の乱の生き残りが居ったのか。」

日照様が言った。

「はい、母は玉藻の配下だったと聞いております。」

「ふむ。」

辛亥の変は、今なお仮説と言われる内乱である。

歴史上の記録には残ってはいない。

しかし、術者の歴史には記録されていた。

玉藻の乱と。

「日照様がご降神されたと聞き、一矢(いちのや)の子に、頼みました。」

「ほう、市谷は一矢の末裔か。」

そう言って、日照様が、市谷を見ると市谷は礼をした。

一矢の一族は、術者の一族だが、玉藻の乱後に都を離れ名を変えた一族だった。

「わを滅ぼしたのは、一矢と西門(にしのかど)の者ですので。」

そう言って、般若姫は笑った。

「恨んではおらんのか?」

「彼らとて、命じられてやった事。それにもう大昔の事です。」

「確かにのう。」


「うちの一族は、元は東家に属するとは言っても大昔の事です。伝手も何もなく、それで神原さんにメールをした所存です。」

市谷が経緯を日照様に説明した。

「一矢と西門かあ。それは将人が断る訳はないのう。」

そう言って日照様は、将人を見た。

将人は苦笑いした。

「先生は、確か・・・。」

咲が呟いた。

「ああ、母方の姓が西門だよ。」

将人は、咲に答えた。

「それで、般若姫よ。我に何を望む?」

「邪気を浄化して頂きたく。」

「わかっておるのか?邪気を祓えば。」

「はい。承知しております。」

「そうか、覚悟は出来ておるのじゃの。」

「それにこれ以上、あれの影響を受けては、いくら半妖といえど正気は保てません。」

「わかった。将人、準備をせい。」

「はい。」

日照様に言われ、将人は般若姫の周りに札で陣をしいた。

「西門の子よ、あれが目覚めるのも、そう遠くない。」

「心得ております。」

般若姫に声を掛けられた将人は、そう答えた。

「咲、ついてまいれ。」

日照様に言われ、咲は舞を始める。

般若姫の周りにしかれた陣の外周を二人が舞う。

浄化の舞を。

浄化の舞は、失われた舞。

1000年以上、失われていた舞だが、日照様が降神され現代に蘇った舞の一つである。


般若姫の周りに纏っていた黒く禍々しい邪気が次第に薄れていく。

それと同時に般若姫の存在も薄くなっていった。

「ただの霊となってから、本当に楽しかった。子らが育ち親になり、そしてまた子が生まれ。」

般若姫は薄れていきながら、天を仰ぐ。

「日照様、ありがとうございます。」

般若姫は深く深く礼をした。

ゆっくりとゆっくりと存在が薄れていきながら、やがて消滅した。

最後に朗らかな笑みを浮かべながら。


「うひょおおおっ、見てみい、てっさじゃぞ。」

ふぐの刺身を前に大はしゃぎする日照様。

傍から見れば、若い女性、谷岡杏子がはしゃいでるだけだが。

「なんですか?てっさって?」

杏子が自問自答する。

「鉄の刺身じゃから、てっさじゃ。」

「鉄???」

自分で言いながら、自分で?マークを浮かべる杏子。

「ふぐが当たると死ぬ事から鉄砲って呼ばれていたんですよ。」

市谷が説明した。

「ああ、それで鉄なんですね。」

横で聞いていた咲が納得した。

「すみませんね、市谷さん。こんな席を設けて頂いて。」

「いえ、こちらこそ費用が払えず申し訳ありません。」

民俗学の研究者とはいえ、それで食えるはずもなく、市谷の本職は普通のサラリーマン。

一般的に除霊にはお金が掛かる。

浄化の舞といえど、将人が使用した札は48枚。

札の相場は、一枚が10万~100万。

安く見積もっても480万円の札代が掛かっている。

更には3人分の交通費もばかにならない。

交通費すら、市谷が負担するのも厳しいのが現状である。

「東家から費用は出ますので、心配しないでください。」

「そ、そうですか。」

そう言われて、市谷は安心した。

「術者にとって、般若姫事件は大事件ですから。」

「先生、玉藻の乱は学校で習いましたが、般若姫事件は習ってないのですが?」

咲が言った。

将人、咲、杏子の3人は皆、術者の高校を卒業している。

術者の高校は神霊山にあり、東家が管理している。

常に開校している訳ではないが。

「般若姫は、用明天皇のお后ですからね。」

市谷が言った。

「般若姫の件で、もぐもぐ。天皇の不興をかったからのう、もぐもぐ。術者はおはらい箱よ。もぐもごっ・・。」

ふぐを一生懸命頬張りながら、日照様が説明した。

「玉藻の乱で、大半の術者を失っておりましたしね。」

術者が都落ちした後、大陸から伝わった陰陽道が台頭する事になる。

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