第32話 でも、自分から

***


 昼休み。

 前の座席にいる春樹が背理の方に体を向ける。

「背理、聞いたか? クラス代表に選ばれた奴は購買の物が全品10%オフで買えるっつー話じゃねーか!」

 ファストフード店では大量のハンバーガーを買っていた男だ。これで食費がかさまずに済むぞと春樹は大声で喜びをあらわにする。

「あいかわらず実力主義だな、この学校」

「だな。なんでも序列が上がれば最大半額まで下がるらしい。単純計算で倍の飯が食えるっつーわけだ!」

 胃の容量が倍になるわけではないので背理にはその計算が当てはまらないが、あまりに嬉しそうな彼に水を差すわけにもいかないので笑顔で頷いた。

「購買っていえば……、アクセサリーパーツも安くなるのか?」

「おお! 全品だからな。何だ? 指輪はやめるのか?」

「いや、実は前買いに行った時混んでたからろくに選べなかったんだ。おかげで妙にゴツいのになったからシンプルなやつにしたい」

 背理は左の薬指につけた指輪を眺める。春樹からも不思議そうな視線が注がれる。

「あれ? いつもは右につけてなかったか?」

「よく気付いたな」

「オレはお前のことずっと気にかけてたかんな。ずっとポケットに手突っ込んでたろ?」

 グレーの議具を隠そうとしていたのだが、隠していることはバレていたようだ。

「……実は昨日アキハのビンタを受けて倒れた時に右手をひねったんだ。特に薬指はあらぬ方向に曲がったらしく……」

 決勝戦の間もずっと痛みを感じていたが、結局あれからジワジワと腫れ始めてとても指輪は入らなくなってしまった。

「そんで左か。婚約でもしたのかと思ったぞ。相手は誰だ?」

 春樹はニヤリと表情を緩めて視線をななかに送る。零に絡まれて若干戸惑い気味だが会話は弾んでいるようだ。

 そしてその後アキハの席の方にも首を向けた。本人は不在だったが。

「……どっちでもねえよ。さあ、飯の時間だ」

背理が露骨に話を変えると春樹はさらに口を緩ませた。だがそれ以上は何も言わなかった。

「じゃあ背理。改めて誘うが、一緒に飯食わねえか? 満を持してだな」

ずっと断っていたお誘い。もう拒否する理由はない。しかし──、

「悪い。今日は先約がある。また明日誘ってくれ」

「先約?」

 春樹は大げさに腕を組んで眉を寄せる。

「ちょっとな。でも明日こそ本当に頼む。約束だ」

 春樹は再びアキハの座席の方を見て不在を確認する。そして何かに納得したかのように、

「……おう」

 と一言だけ口にして、手を払って行け行けと促した。背理は彼のご好意を素直に受け取って立ち上がる。

 ──向かうのはあの物置。

 二人で話したいことがある。昨日の夜そんなメールが届いた。学校で二人になるならあそこ以上にふさわしい場所はない。

 いろんな事件が起きた場所だ。その時々では大変な思いをしたが、今となっては全部良い思い出だったと言えなくもなかった。

 エレベーターホールを抜けて階段を上っていくと、少しずつ生徒たちの賑やかな声がぼやけていく。自分の足音だけがやけにはっきり聞こえるようになる。今日はこの上で揉めている生徒はいないらしい。

 そこにいたのはたった一人。御堂筋アキハだ。

「……来たわね」

 数枚重なった体操マットに腰掛けて、背理の姿も確認せずにポツリと呟く。

「そりゃ来るさ。呼ばれたからな」

 背理もあえて視線を送ることはせずに彼女の左隣に腰を下ろした。

「……何だ? 話って」

 誰もいない空間に二人。しかも今朝ななかにあんな話を聞かされたばかり。背理は少し緊張気味で、会話の間を恐れて早々に本題に入った。

「話は三つ」

 ナンバリングというスピーチの基本テクニックを駆使した合理的な喋り口はいかにも彼女らしかった。そして、

「昨日はごめんなさい」

 深々と頭を下げる。

「ビンタの件か?」

「……うん」

「あれならもう気にしてないって言ったろ」

 背理の言葉を聞いてアキハは頭を上げるが、視線は落としたまま。

「私が気にするから。……ちゃんと謝りたくて」

「いいよ。俺が情けなかったのが悪かったんだ」

「でもやりすぎよ。見て、これ」

 アキハはスッと右腕を持ち上げて背理に見せる。手のひらと薬指に包帯が巻かれていた。

「……どうしたんだ?」

「翼丸が審議を要求した時せんせいが言ってたでしょ?『第四中手骨と下顎骨が』って」

「……? ああ」

 確かに聞いた。状況的にあの妙におぞましい表現に恐怖を感じている暇はなかったが、確かに印象には残っている。

「第四中手骨って、手のひらの、薬指の根元の部分らしいの。普通にしてると手のひらの柔らかい部分に埋もれてるんだけど……」

 アキハは怪我をしている右手の代わりに左手の薬指を後ろに仰け反らせる。すると薬指の根元のあたりが少し出っぱる。

「ここがアンタの顎の骨にぶつかったらしいの。この指輪のせいでね。それであの後腫れてきて……」

「なるほどな」

 やけにボリュームのある指輪のせいでビンタと同時に薬指が後ろに倒れたのだ。自分の体を傷つけるほどの威力。背理が倒れてしまったのも仕方がない。そして、あの一瞬でそこまで見抜いていたえっちーせんせいはやはり恐ろしい存在だと再確認した。

「アンタは大丈夫だった?」

「顎はな。だが実は……、倒れた時の衝撃で俺も右手を」

「え⁉」

 背理は赤く変色した指を見せる。

「……本当にごめんなさい」

「いや、いいんだ。これのおかげで……。あ」

 言いかけて、背理は気がついた。アキハが太ももの上でスカートを握る左手。──彼女もまた指輪を左に移していた。

「何……? あ」

 アキハも背理の左手を見る。今二人の左薬指には同じデザインの指輪がはめられている。二人ともそれに気づいたが、二人とも言葉にすることはなく目を逸らした。

「……二つ目ね」

 アキハは話題を変えるという背理の専売特許を奪うが、そのおかげで背理は少し安心した。鼓動が早まって落ち着かなかったのだ。

「……ありがとう。背理のおかげで勝てたわ。助けられてばっかりね」

「やるべきことをやっただけだ。これから三年間ずっと一緒に戦うんだ。いちいちお互いお礼言ってたらキリがないぞ」

 一緒に勝つために、自分にできることをできる分だけやっただけだ。これからは皆がそうして戦っていく。いつか今回の背理の活躍もその中の一つに過ぎないものになる。

 ──だが、嬉しかった。アキハの期待に応えられたことが。

「なかなか役に立つ奴隷だろ?」

 背理は得意げに笑ってみせる。すると、

「いい働きだったわ。褒美を与えなくちゃ」

 背理の冗談に応えてみせる。柔らかく微笑む。いつもの厳しく凛とした面差しも美しいが、背理は滅多に見られないこちらの顔の方が好きだった。

「何が欲しい?」

「ん? 本当にくれるのか?」

「内容次第ね」

 一考してみるが、特に思いつかなかった。いや、これ以上必要ないと言った方が正確かもしれない。アキハにこうして信じてもらえていることも、アキハのおかげで少しずつ変わることができているという実感も、心地よく背理の心をくすぐるのだ。

「……何もないの?」

「ああ。思いつかないな」

「うーん。零だったらわかりやすいのに」

「……確かに」

 彼女が相手であれば頬にキスでもしてやれば三日三晩は陶酔してくれる。自分も信仰の対象になった以上、いざとなったらしてやらねばならないかもしれないと背理は気を重くする。女子同士ならまだしも、男が「俺が神だ。キスをくれてやる」と言うのはいかがわし過ぎる。


 ふいに、背理の右頬に柔らかいものが当たる。


 ──暖かくて瑞々しいそれは、確かな感触を残してすっと離れていった。

「……は、背理にはご褒美にならない?」

 唇と同じくらい顔を赤らめた彼女の言葉はたどたどしい。

 突然のことで眩む頭に、はち切れそうなほど響く鼓動がノイズとして走る。気の利いたお返事など思いつくわけもなく、

「……キスを要求するのは禁止じゃなかったか?」

 二度と耳にすることがないと思っていた不可思議なルールを口にする。

「でも、自分からしたから」

 逆接を使って反論する彼女のしなやかな髪の隙間から、赤く染まった耳がのぞく。

 沈黙が流れる。こんな時どうすればいいかなんて背理にはわからない。

「み、三つ目は?」

 背理は逃げてしまった。匂いすら甘く変わってしまったように感じるこの空気が、全身をざわつかせてしょうがなかったから。

「そ、そうね。昨日メールで言ったことなんだけど……」

 アキハも同じ心持ちだったのか、不自然なほど即座に背理の言葉に反応する。

 昨日もらったメールには続きがあった。「ご飯一緒に食べましょう。私が何か作っていく」と。だから背理は手ぶらでここまでやってきた。

「これだとちょっと難しかったの。お礼とかお詫びとか、そういうつもりだったんだけど……」

 アキハは包帯を巻いた手を見せる。利き腕がこれでは仕方がない。

「いいさ。何か買いに行こう」

 背理がそう言うとアキハは立ち上がって率先して階段に進む。

「購買行きましょ。おごってあげる」

 背中を向けてついてくるように促す。思えばいつもそうだった。真っ先に迷いなく突撃して、その背中で背理を無理矢理にでも引っ張るのだ。

 だが、今回は違う。彼女はこの落ち着かない空気から早く逃げたいのだろう。

 逃げてはいけないと背理を諭したのは彼女だ。だから背理は変われた。その彼女が逃げてしまうなら、今度は自分が逃げない姿を見せてやらなきゃならない。さっきの失態を取り戻す時が来た。

「いいよ。……もう十分もらった」

 アキハは足を止める。そして決して振り返ることはなく、

「……バーカ」

 小さく小さく呟いた。

 顔は見えない。誰にも見えないからこそ遠慮なくあの顔をしていてくれと、背理は期待をこめて願うのだ。

 言葉もなく二人は購買を目指す。──指輪はやっぱりこのままにしておくことにする。


 ところで。

 もしも目の前で女の子が悪そうな奴らに絡まれていたらどうすべきか?

 答えは簡単。見なかったことにして逃げる。これに限る。

 だが稀にいるのだ。そいつが逃げることなんて許さずに、あろうことか武器として振り回してしまうような女の子が。そんな時は素直に振り回されてしまおう。そうすればきっと、一人では得難かったこの温もりのある感情を、ちゃんと抱きしめることができるから。

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しかし、ところで、また、つまり。 竜児 @ryuji_takahashi

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