第31話 背理様

 ***


「背理様」

 背後からふいにそんな声が聞こえたが自分のことだとは思わなかった。なんせ様がついていたから。

 登校して教室に一度荷物を置き、トイレに行ってきた帰り道。ピークタイムになったのか廊下には教室に向かう生徒たちがたくさんいたのだが、それにしたって同じ名前でしかも誰かに様づけで呼ばれている人間がいるとは。結構珍しい名前だと思っていたのだが。

「背理様、おはようございます」

 二回目だ。もしや自分のことなのかと一応振り返ってみるとそこには見慣れた女子が立っていた。艶のある長い黒髪、知性漂う黒く細いフレームのメガネ、白く細い両腕を胸の前でクロスさせて文庫本を抱きしめている。

「……三ヶ神?」

 見知った表情をしていた。しかし、それは自分に向けられたことはない顔だったため不思議に思う。その恍惚に染まる頬は対アキハ用だろう? いつもの、セミの尿を鼻で一気したような苦悶の形相はどうした?

「どうぞ零とお呼びください、背理様」

「じゃ、じゃあ、零? 今日は何かおかしくないか……?」

 そのやけにしおらしい態度は校舎を爆破してまで追い出そうとした背理に向けるべきものではない気がする。

「いえ、おかしかったのは今までのワタクシです! 背理様の聡明さに気づかなかったなんて……! ああっ! ちょっと固い物に頭を打ち付けてまいります!」

 零は突如廊下の教室側の壁に備えられた金属製のロッカーにガツンと額をぶつける。一切躊躇のない見事な頭突きだ。

「な、何してんだ!? やめろ!」

 慌てて彼女の二の腕を掴んでグイっと引く。強く握ったら折れてしまいそうな細さだが、実はとんでもないパワーを秘めていることはもう知っている。

「は、背理様。お優しいのですね……!」

 ロッカーはきっちり凹んだのに零の額は赤くなることすらなかった。色が変わったのは別の部位。

「ほ、頬を染めるな。その、様っていうのは何なんだ?」

「ワタクシは昨日悟ったのです! 背理様も神だと!」

 メガネの下の瞳には一切の迷いがなく、強い口調で言い切った。

「……俺は神じゃないぞ?」

 なんだか「象はガムテープではありません」とかそんな当たり前のことをわざわざ口にしてしまったような気分だ。

「いいえ! 転換という絶望的な立場になりながらあのアキハ様すら対抗できなかった問題を乗り越えたのですよ!? とても人間業とは思えません!」

「…………」

 ──議論をひっくり返すついでに彼女の背理への認識も180度ひっくり返してしまったらしい。

「……ということは俺は今後アキハと同じように扱われると?」

「そのつもりでおります!」

「やめてもらえませんかね?」

「やめません!」

 果たして迫害から逃れたのは良いことなのか悪いことなのか。信仰の対象であるアキハもそれはそれで苦しんでいた。どうにかちょうどいい位置で落ち着きたいが、極端な彼女の中には真ん中というものはないようだ。

「あの、今までの数々の無礼をお詫びしたくて……。ワタクシに何かできることはありませんか?」

「いや、いいよ。大人しくしててくれればそれで……」

 信仰心の強さのあまりまた爆破を試みられるのが一番困る。しかし、

「背理様に仇なす不穏分子が現れたら必ずワタクシが命がけで始末します。……となると武器が必要になるのですが、お腹に巻く用のダイナマイトを売っている店はご存じないですか?」

 彼女はそれを全く理解していないのだ。

「し、知らん。多分腹に巻くためのものじゃないぞ」

「そうですか……。とりあえずは欲しい時に確実に火を起こせるようにとライターを携帯することにしたのですが……」

 零は胸のポケットからピンクと黒の牛柄のライターを出す。可愛らしいデザインだが彼女が持つとどうにも禍々しく見える。

「それはやめろ! いいか、俺の周りは火気厳禁だ! 今すぐ捨てろそんなもん! 先生に見つかったらどうするんだ!」

「残念です……。かしこまりました」

 零がライターをグシャッと握り潰すと中身の液化ガスが飛び散る。あらやだと鞄から小花柄のハンカチを取り出して手を拭く。背理はただただ震えることしかできない。

「しかしこれではいざという時背理様をお守りできません……」

「ま、守らなくていい。俺は誰にも命を狙われてない」

「しかし、ワタクシ何か背理様にしてさしあげたいのです! 何でもしますからおっしゃってください!」

 目に少し涙を浮かべて懇願する姿は愛らしくもあるのだが……。内に秘めた狂気のせいで素直に受け止められるものではない。神として君臨してやってしまうと彼女の信仰心をさらに育ててしまう結果になりかねない。

 ──しかし、ある程度でも暴走機関車の零をコントロールできるならこんなにありがたいことはないのだ。背理は彼女の申し出に答えることにした。

「……よし、じゃあいくつか注文がある。絶対に守ってもらうぞ。いいか?」

「か、関白宣言というやつですね……?」

「ち、違う。あくまで仲間の一人としてお願いがあるだけだ。守らなかった場合、ええ……、お前に冷たく当たる」

「そ、それはそれでいいかもしれません……」

 紅潮した頬に両手を添えると抱えていた文庫本が落下する。冷たく当たるは彼女にとって罰則にはならないらしい。信仰とは恐ろしいもので、背理に何をされても喜ぶ体になってしまったようだ。

「……まず一つ。どんな事情があったとしても誰かに危害を加えるような行動は禁止だ。爆破や放火は論外」

「首を絞めるとかもダメでしょうか……?」

「ダメだ! 攻撃は禁止! 他人にも自分にもだ!」

「……わかりました」

 とりあえず一番危ないところは封じた。他に何をされた時に困ったか考えてみる。……基本的に困らされた思い出しかないことに気づく。

「もう一つ。何か気に入らないことがあったらまずは話し合おう。所構わず絶叫するのはもうやめてくれ」

「……そんなことしましたか?」

「自覚ないのか!?」

「はい……。努力はしますが……」

 自分自身でも制御できないものだとしたら注文したところで無駄かもしれない。今後も彼女のご機嫌を伺いながら行動しなければならないようだ。

「それとまだもう一つ」

「背理様は欲張りでいらっしゃいますね」

「いや、今の所普通のことしか言ってないぞ。次もまあ、当たり前のことだ」

 今の五人は以前よりまとまりつつあるが、まだいくつか嫌悪の矢印が消えていない。メンバーを決定した責任もあるし、一つずつでも潰していこうと考えた。

「俺だけじゃなくてななかのことを認めてやってくれ。あいつもあいつなりに頑張ってるんだ。ポンコツ呼ばわりはしないように」

「……昨日は使えなかったじゃありませんか」

「……まあそうなんだが」

 ななかの脱退はかかっていなかったため、彼女は実力を認められないままこの隊に在籍し続けることになってしまった。昨日は立論の最中にも衝突してしまった二人。このまま放置はできない。

 どうにか彼女の実力を証明できないかと考えを巡らせる。ないものを証明するというのは困難な作業だが……。一度だけ彼女にしてやられたことはある。

「ななかがどうやってこの論隊に潜り込んだか知っているか? アキハも、最初は俺もあいつの加入には反対だったんだ」

「知りません。……一体どんな方法で?」

「あいつは巧みな話術で俺を騙したんだ。お前が神と崇める俺をいとも簡単にだ」

 会話の流れで背理に「接続」と言わせてそれにかぶせるというシンプルな策略ではあるのだが、背理は見事に引っかかってしまった。あの凡ミスは背理が神に昇格した今なら零に甚大な衝撃を与えるはず。

「背理様を……⁉ 侮れませんね」

「だろ? 俺はあいつに大いに期待しているんだ」

 腕を組んで偉そうにしてみる。──信仰の対象らしく。

「し、しかしですね! あの女は背理様をつけ狙っているのですよね⁉ それが何より許せないのです!」

「……そうか、そっちの問題も出てくるのか」

 背理が昇格したからこそ生じる亀裂もあるのだ。相変わらず噛み合わない五人だ。結局仲直りさせることはできないのかと背理が頭を抱えていると、

「……ハッ。しかし視点を変えれば、彼女もワタクシと同じく背理教信者ということですよね?」

 ふと零は朝起きたら枕元でカマキリが交尾しているのを発見した時のような驚愕の表情を浮かべる。

「……いや、そういうんじゃないんじゃないか?」

 普通は同級生を神格化したりすることはないのだが……。

「ワタクシより早く背理様の素晴らしさに気がつくなんて、先見の明がありますね。もしかしたら、ワタクシが知らない背理様の魅力も知っているのかもしれません」 

「あ、いや……」

「ちょっとワタクシ彼女と語り合ってまいります! 何かデータを持っているのなら共有してもらわないといけません!」

「ちょっと……」

「ななかさ~ん!!!」

 突然フレンドリーになった呼び方。零は猛スピードで背理の目の前から消え、教室の中に飛び込んでいった。

「まあ、お前がそれでいいんならいいんだが……」

 背理はひとりごちてみる。この際、仲良くやってくれるなら動機はなんでもいい。

 教室から助けを求める声が聞こえる。

「は、ハイリくん! 三ヶ神さんに何言ったの⁉」

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