第2話 忘れ屋の休業
しとしとと絶え間なく、重たい暗灰色の雲から雫が落ちてくるのを、私は窓からぼうっと見つめていた。
私と師匠の”住居兼お店”のあるこの街は、例年通りの雨季に入っている。
お店の外の街路沿いに咲き誇っていたピンクサブランの花は、ここ数日の雨ですっかり落ちてしまった。
道に幾重にも散らばった小さな花弁は、人に踏みつけられ、見るも無惨だ。
咲いているときは尊ぶのに、落ちた途端に見向きもされなくなるのは悲しいことだと、私は思う。
……この季節に入るとそんな風に、些細なことにさえ気が落ち込むのは、きっと私だけではないだろう。
・・・
「今日はもう店じまいするぞ」
師匠がそう言ったのは通常の閉店時間の1時間前の、午後4時のことだった。
珍しいこともあるものだと、私は返事を忘れてその端正な顔をまじまじと見つめてしまう。
師匠は薬の調合の腕もさることながら、その勤勉さにおいても町の人から評価され、信頼の厚い人だ。
なんの前置きもなくお店を早仕舞いするのは、私が知る限り初めてのことだった。
「もう、ですか?
何か用事でも……」
「この低気圧のせいか頭痛がひどい
商売なんてできたもんじゃない」
師匠は眉間に深いシワを寄せてそう言った。
成る程、私はこの天候において落花に心を寄せた程度だったが、師匠の偏頭痛は悪化の一途をたどるらしい。
薬の調合は非常に繊細な作業を要する。師匠が痛みを抱えて普段通りの仕事ができない以上、お店をお休みするのは当然の判断だった。
「わかりました。
臨時休業にしますね」
「あぁ、頼む」
師匠は返事をしてから薬棚の前に座ると、幾つもの材料を棚から手早くとり出していく。
おそらくこれから自分用に薬を調合するのだろう。その迷いのない手さばきは美しかった。
そんな師匠の様子を横目に盗み見てから、私はレジカウンターの下にある木箱をずりずりと引き出した。
中にはベニヤの板でできた札が入っている。
お休みときはこの札を扉の前に下げておくのだ。
「よいしょ……と」
【臨時休業】と書かれたものを見つけて中から引っ張り出した。
休業することは非常に稀だから、ずっとしまわれていた板の表面には薄く埃が積もっている。軽く手で払ってから携えて、玄関に向かった。
・・・
ドアを開けると雨の音が鮮明になる。
先ほどまでおとなしかった雨粒は、少々勢いを増してきているようだ。路面を跳ねる飛沫がその強さを物語っていた。
こんな天気ではお客さんはもうやってこないだろう。
唐突な臨時休業だが困る人はいないはずだ、と考えつつ、扉に麻ひもで【臨時休業】の板をくくりつけた。
(明日はもう少し弱まってくれるといいんだけど……)
板を付け終え、お店の軒先から曇天を見上げたそのときだった。
ぱしゃぱしゃと、この雨の中を走ってくる音が聞こてくる。
聞き間違いかと思いつつその姿を探せば、一人の少年が傘もささずにこちらに向かって駆けてくるのを見つけた。
「す、すみません!
”忘れ屋”さんって、ここであってますか?」
どこから走ってきたのか、少年の服はぐっしょりと濡れてしまっていて、短い頭髪からはぽたぽたと雫が落ちてきている。
「あってます……けど、その前にちょっと待ってください!」
私は慌てて店内に引っ込んで、脱衣所から新しいタオルを手にとり、玄関に戻る。それから所在なく玄関のところで待っていた少年に手渡した。
「そのままだと風邪をひきます。
しっかり拭いてください」
「ありがとうございます!」
少年はぺこりと頭を下げ、タオルを受け取って頭から雫を拭い始めた。
頭と上半身を拭いただけなのにタオルはみるみる水を吸って重たくなったので、私はタオルをもう1枚、少年に渡した。
少年はまた申し訳なさそうに頭を下げてタオルを受け取る。そうして2枚目のタオルがしとどになる頃になってやっと、彼から雫が落ちなくなった。
「タオル、ありがとうございます。
……それでその、今日は休業ですか?」
少年は私が今しがたかけた【臨時休業】の板をちらと見て、そう問いかけた。
「ええと……」
少年の問いかけに私は口ごもる。
この雨の中、ずぶ濡れになってまできてくれたのだ。ここにきて門前払いというのはいささか気が引ける。
しかしこの店の
「おい弟子、何ちんたらやって……
……誰だそいつは」
師匠は私が戻るのが遅かったせいか、様子を見に玄関に出てきてくれた。
そして濡れている少年を見て、怪訝そうに眉をひそめる。
「その……お客様です。」
師匠は扉に下がっている臨時休業の板と私を物言いたげに見たが、ずぶ濡れの少年を見かねたのか、
「……まぁ入れ」
と、そう言って、結局彼を店に招き入れたのだった。
なんだかんだ言って困っている人を無下に扱えないのは、師匠の美徳だった。
・・・
「”忘れ屋”をご利用にきたんですね?」
少年を薪ストーブの前の椅子に座らせて、温かいホルジ茶を出してから、師匠はそう口火を切った。
「はい……あの、ここにきたら記憶を消してくれるって聞いて」
少年の言葉に、師匠の整った形の右眉がぴくりと跳ねる。
私はひそかに息を飲んだ。師匠がそういう反応を見せるのは、決まって気に入らないことがあった時なのだ。
「消す、という表現はあまりふさわしくないですね。
人の、忘れたい記憶を忘れさせる……
それが私の——”忘れ屋”の仕事です。」
少年は師匠の張り詰めた声音に気づいたのか、慌てた様子を見せた。
「あ……ごめんなさい。
”忘れ屋”さんですもんね、消すというのは間違いでした。」
「構いませんよ。
みなさん最初はそう言いますから。」
師匠は営業用の柔らかい笑顔を見せる。師匠としては少年の気持ちをリラックスさせるために浮かべた笑顔なのだろうけど、少年の方は、やや威圧感を覚えたらしくぎこちなく笑って返した。
「それで、忘れたい記憶というのは?」
師匠が促すと、少年はまだ湿ったままのズボンをきゅっと拳で握りしめた。
少し手が震えているのは寒いからではなく、緊張からだろう。
「ある女の子から、僕の記憶を忘れさせてほしいんです。」
*
僕は6人兄弟の末っ子です。
家には祖父母と、父母と、5人の兄と、10人で暮らしています。
父母は身を粉にして働いていますが、それでも10人分の生活費を賄うには足りず、僕たち兄弟もみな新聞や牛乳の配達など、バイトをしています。
そんなある日、僕は東の丘のお屋敷に新聞を届けに行きました。
——えぇ、あのモスグリーンの屋根の立派なお屋敷です。
いつもは門のところに門番さんがいるので彼に新聞を渡すのですが、その日はちょうど交代の時間なのか、持ち場に彼はいませんでした。
門番さんが来るのを待っていては次の配達に遅れると思い、僕は門を登り敷地内に入りました。
庭に入って人を探そうとしたところで……庭の噴水のそばに佇んでいた彼女に出会ったんです。
「新しい使用人のひと?
ちょうどいいわ、私、噴水に指輪を落としてしまったの。
取ってくれるかしら」
赤の巻き毛をゆるく二つに束ねた、僕と同じくらいの年頃の少女は、僕の姿を見ると近くの噴水を指差してそう言いました。
人に命令することに慣れている口ぶりと豪奢な服装から、彼女がお屋敷のひとり娘だと合点した僕は、むやみに断るのもおかしいと判断して彼女のいう通り指輪を取ることにしたんです。
ズボンとシャツの裾をまくって靴を脱いで、僕は噴水に入りました。
「お嬢さま、指輪というのはどのような指輪ですか」
「うんと綺麗な、青い石のついた指輪よ」
少女は噴水の淵に腕をついて、
水の流れを考えれば落ちたものは排水溝に行き着くと考えて、僕は排水溝の周りを手でさらって、すぐに指輪を見つけました。
「ありがとう……私一人では見つけられなかったわ。
そうだあなた、明日も朝に庭に来なさい。
お礼にお菓子をあげるから。」
それからというもの、僕と彼女は朝の配達の時間に会い、会話を交わす仲になりました。
——けれど彼女の父親は貧しい僕が彼女の友人になるのを良く思わず、新聞の配達を別の人に替え、僕が屋敷に近づけないよう門番に言いつけたんです。
*
「僕が寂しいだけならいいけれど……あの子、他に友達もいないようだし。
僕が突然いなくなったら悲しむと思うんです。
だからあの子の中から、僕の記憶を忘れさせてほしいんです」
そういうと、少年はポケットの中から薄汚れた麻袋を取り出した。中にはコインが入っているのか、机の上に置かれた時に金属の触れ合う音が聞こえた。
「すくないですけど、僕のお小遣いを貯めたものです。
どうかこれで、お願いします」
師匠は麻袋を一瞥すると、そっと少年の方に押し返した。
「……お代は記憶を忘れさせる直前にいただきます。
事情はわかりました。その女性をこの店に連れてくることができますか?」
「は、はい!
最後の思い出にと……1日だけ外出の許可をいただきました」
「わかりました。引き受けましょう。
それでは明後日、ここに連れてきてください。
それと……君が持っているその子との思い出の品を持ってきていただけますか?」
「思い出の品、ですか?」
「えぇ。どんなものでも構いません。
記憶を忘れさせるのに必要ですので、お願いします」
「……わかりました。持ってきます」
そして少年はなんどもなんども頭を下げながら、私が貸した傘をさして、お店を出て行った。
少年の姿が見えなくなるまで見送って、私はお茶を飲んでいる師匠を振り返った。
「……師匠。
師匠はこの間、”その持ち主が望むなら、忘れさせるべき”だと、そう言いましたよね」
「あぁ、そう言ったな」
「でも今回は、記憶を忘れさせたいのは本人ではなくあの少年の願いです。
それでも忘れさせるっていうんですか?」
私たちは少女と少年の関係を少年に聞いた限りのことしか知らない。
彼らの間にあった確かな時間を私たちは慮ることしかできない。
でも少年が少女との思い出を語った時のあの表情を——優しい表情を見てしまえば、やはり忘れさせることが正しいなどと思えなかった。
「……お前はこの間も、今回も、そうやって人の意思や気持ちに寄り添おうとするんだな」
師匠は薪ストーブで爆ぜる木材を見つめながら、いつもより張りのないぼやけた口調でそう言った。
私に言っているというよりは、独り言のような口調だった。
「当然です!
だって、忘れ屋の仕事は人を助けるための仕事ですもん。
それで悲しむ人が出るなんて、元も子もないじゃないですか。
……師匠にとっては、違うんですか?」
師匠は物言いたげに私の顔を見つめた。深い濡羽色に艶めく瞳が意味するところは、見つめ返したところで何もわからなかった。
師匠は結局私の言葉に何も返さずに、無言のまま席を立って作業場に行ってしまう。気を悪くした表情ではなかったから怒らせてはいないと思うけれど、答えをもらえなかったことは魚の小骨のように私の胸にひっかかった。
・・・
そして約束の日、少年が少女を連れ立ってお店にやってきた。
「いらっしゃいませ」
師匠はまだ作業場にいたので、私が応対する。
少年は私に気づくと、先日貸した傘を手渡した。
「傘、ありがとうございました。
……それと、今日はよろしくお願いします」
師匠の真意は図れない。
だから私は、はいともいいえとも言えず、少年の言葉に静かに笑って返すことしかできなかった。
「リンドウ、あなたが来たいっていうからついてきたけど……
ちゃんと面白いものがあるんでしょうね?」
「あはは……
薬屋さんだから、そんなに面白いものはないと思うよ
でもアリサみたいなお嬢様はあまり利用しないだろうから、後学のためにもいいんじゃないかな」
「ふーん……」
少女は店内を興味津々といった様子で見渡している。
少年から聞いていた情報から察するに彼女はいわゆる深窓の令嬢で、こういった民衆向けのお店には馴染みがないのだろう。
「これは何かしら?」
窓際のキャビネットに置いてあった商品に少女が手を伸ばす。
「——山彦猫の糞を乾燥させたものですよ。
砕いて飲み薬に用います。胃の調子を整える効果があるんです」
「ふ、糞!?」
少女はギョッとして商品から手を離す。
落ちていく糞を受け止めたのは、今しがた商品の説明をした師匠だった。
「ごめんなさい、私——」
「いえ、驚かれるのも無理はありません。
いらっしゃいませ、お嬢さん」
師匠は山彦猫の糞を元の位置にもどすと、お客様用の笑顔を貼り付けて少女に笑いかけた。
私が少女と同じことをしていればきっと大目玉で、当分食卓に私の苦手な食べ物が並んだろうなと思う。
「……あなたが店主?
随分と若いのね、それにその顔立ち……異国のひとかしら?」
少女は師匠の顔を遠慮することなくじろじろと見つめた。
師匠はその視線を一切気にすることなく、涼しい顔で対応する。
「童顔なだけでこれでもそれなりに歳は取っていますよ。
——さて、本題に入りましょうか。
お嬢様、本日は ”記憶の忘却” を行わせていただきます」
「……?
忘却って、この人は何を言っているの?」
少女は傍に立つ少年を見る。このお店に連れてきた少年が事態を把握していると思ってのことだろう。
少年は硬く唇を引き結んだ後、意を決したように少女に向き合った。
「アリサから、僕の記憶を忘れさせるんだ」
「意味がわからないわ……
このお店、薬屋って聞いていたけれど、まさかそういうおかしな薬を扱う店なの?
……それに、なんで私があなたを忘れなきゃいけないのよ」
少女の拳は怒りにぶるぶると震えていた。
記憶を忘れさせると言う未知の体験よりも、少年を忘れること自体に怒っているようだった。
「僕は貧乏人。君はお嬢様だ。
だから友達ではいない方がいいと思うんだ。」
「……、お父様に何か言われたのね」
「僕の意思だよ。
僕は君と友達ではいられない。」
少年がそう告げた瞬間、乾いた音が店内に響いた。
少女が少年の頰を打ったのだ。
「あーそうですか!!
ばかみたい、ばっかみたい……!!
いいわよ、そんなのこっちから願い下げよ!!!」
肩を震わせながら少女は怒鳴る。
少年は何も言わずに唇を強く噛み締めたまま、その言葉を受け止めた。
「店主……あなたがリンドウの記憶を忘れさせてくれるんでしょ?
もうこれ以上ちんたらしたって時間の無駄だから、さっさと忘れさせてちょうだい。」
少女は苛立ちが収まらない様子で、お店の来客用のソファにどっかりと座り込んだ。
少女は怒りのままに少年のことを忘れようとしている。
そして少年はうなだれたまま、これから起こることに何も言おうとしない。
(こんな終わり方、あっていいの?
もっと話し合って解決できることがあるんじゃないの?)
「あの、——」
私が声をかけようとした時、師匠が私に合図を送った。
人差し指を軽く唇に当てる動き——黙るように、という意味だ。
師匠には、何か考えがあるのだ。
私は黙ってことの成り行きを見守ることにした。
「——わかりました。
それでは双方の合意が取れたということで、今から忘却を行わせていただきます。」
師匠は人差し指をそっと唇から離すと、恭しく演技がかった様子で少女に一礼した。
「それではリンドウさん、思い出の品を出していただけますか?」
促された少年はポケットからいくつものお菓子の包み紙を取り出した。
「それ……」
少女は包み紙を見て息を飲んだ。
少年は決心が鈍らないようあえて少女を視界に入れないようにしているのか、そんな少女の様子に気づかないようだ。
「アリサが今までにくれたお菓子の包み紙です。
模様が綺麗だから……全部取っておいたんです」
「いいでしょう。
それではその包み紙を全て、アリサさんに見えるように目の前で、この薪ストーブに放り込んでください」
「ま、待ってください。全部ですか?」
「えぇ、一つ残らず全てです。」
「……」
少年はたくさんの包み紙をぎゅっと握りしめ、その場から動けない。
包み紙の数は少女と過ごした日々の証左であり、思い出の形であり、記憶である。それを捨てられない、燃やせないと言うことは、それだけ少年が少女との日々を大切に思っていたからだ。
師匠と私と、それから少女が固唾をのんで見守る中、少年はゆっくりと薪ストーブに包み紙を近づける。
ナイロンでできた包装紙は、熱に揺らめき歪み始める——
——その瞬間、少年は薪ストーブから飛び退くように離れた。
「……っ、無理……です、こんなの。僕にはできない……」
両手でぎゅっと包み紙を握って、少年は祈るように瞼を閉じ、自分の額に拳をつけた。少年の頰にはひとしずくの涙が伝った。
「リンドウ……」
少女は椅子から立ち上がり、そんな少年に寄り添う。
そして硬く握りしめられた少年の拳に、白くて華奢な手を重ねた。
「リンドウさん、あなたがやろうとしているのは、そういうことです。
一息に燃やしてしまったものはもう2度と戻らない。
忘れ屋は、決意のない忘却はしません。その包み紙を燃やす勇気ができたら、もう一度ここに二人できてください。」
「はい……」
それから少年と少女は手をつなぎお店を出て行った。
彼らがこれからどんな決断をするかは、忘れ屋の関与することではない。
……それでも、彼らの紡いだ思い出がこれからも絶えることの無いよう、私は願っている。
(2019/1/6 初稿)
忘れ屋の弟子 アサミ @under_see
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