忘れ屋の弟子

アサミ

第1話 忘れ屋の日常

ザクザク、トントン、ザクザク、トントン……


一定のリズムで、薬草が刻まれる音と包丁がまな板に当たる音がする。

作業場の窓から風が吹き込んできたのか、薬草の、鼻をすっと抜けるようなさわやかな香りが私の寝所まで届いた。


目を閉じたままベッドの上でもう一度深呼吸をすると、薬草の匂いにほんの少しだけ朝露に濡れた土の匂いが混じる。

そのどこか懐かしいような、不意に泣きたくなりそうな優しい匂いが、私は好きだ。


ザクザク、トントン、ザクザク、トントン……


軽やかな音に、私の意識はまた泥濘へと沈みかける。


(……、……って、まずい! 寝坊だ!!)


まどろみそうになった意識を無理やり引き上げて、あわてて布団を跳ね上げ飛び起きた。

パジャマを脱ぐためにボタンに手を掛けるが、焦れば焦るほどもたついてしまう。


「もう!」


半ば強引に脱いで、作業着を身につける。

鏡の前で乱れた髪を手櫛で簡単に梳いて整え、私はばたばたと階段を駆け下りた。


・・・


「……遅い」


階段を降りて作業場へ向かうと、薬草を刻んでいたらしい師匠が顔を上げて文句をこぼし、私をひとにらみした。


その間も流れるような手つきは止まることなく薬草を細切れにしていく。先ほど私の寝所に届いた匂いも、ここから来るものだったのだろう。

起こしてくれたっていいのに…とも思うけれど、そんなことを言ってこれ以上師匠の機嫌を損ねてしまうのは避けたかった。低血圧な彼は、朝になると輪を掛けて虫の居所が悪くなるのだ。


笑顔になれば100人中99人が釘付けになりそうな美貌を兼ね備えているのに、師匠は普段、滅多に笑わないどころかむしろ不機嫌そうな顔をしていることが多い。


もちろんお店に出るときはお客様用の笑顔を貼り付けているから何も問題はないのだけれど……弟子の私にだって、少しは笑顔を向けてくれたっていいと思う。

しかし結局、そんなことは口が裂けても言えないのだった。


「おはようございます、ごめんなさい師匠!

すぐに取りかかりますね」


「先に朝飯を食え」


そう言って師匠はダイニングテーブルを顎で指した。

テーブルの上のお皿にはこんがり狐色のトーストと、ケチャップソースのかかったスクランブルエッグ。

それから私の好きな野菜たっぷりのスープが置いてあった。


(美味しそう……)


作られてから時間が経ったため、料理はすっかり冷めている。

けれど師匠の料理の美味しさは冷めてもちっとも変わらないということを、ここ数年一緒に住んで、嫌という程知った。

師匠の料理は珍しい料理でもなんでもない素朴な料理ばかりなのに、ほっとする優しい味をしているのだ。

空腹と相まって、私の喉はごくりと音を立てる。


「…けど、食べてたら作業遅れちゃいますし……」


師匠の料理は非常に魅力的だけれど、寝坊した分を取り戻すためには悠長に朝ごはんを食べているわけにはいかない。

しかし私の反論に師匠はさらに眉間の皺を深くした。


「へっぽこなお前の作業がいくら遅れようが大したことじゃ無い。

それより朝飯も食べずにミスをされる方が迷惑だ」


そう言って、虫でも追い払うかのように手をしっしと振る。

出会った時から今まで、彼の私への対応は非常に雑だ。


「はい……」


寝坊したことを反省しながら、私は少し冷めかけのトーストにかじりついた。

食事を終えると自分の作業スペースに小走りで移動する。

まず、手洗いをしてから作業用の手袋をつけた。

今日扱う、ナハチカという花の花弁にふれると肌がただれてしまう恐れがあるからだ。

昨日準備しておいたナハチカをボウルから水を切って取り出す。

ここで、多少水を含ませたまま取り出すのがポイントだ。

完全に水を拭き取ってしまうと、茎に浮き出た主要な成分も一緒に拭き取ってしまうことになる。

ナハチカの束を手早くまな板にのせて、次に花弁と雄しべ、雌しべを取り除く。ここはなるべく手早くやってしまうのがコツだ。

雄しべと雌しべは使わないので傍のトレーに移す。中身はあとでまとめてごみ箱に捨てる。

花弁はふれると手がただれるけど、熱したあとに塩で味付けして餅に練り込むととても美味しい。私の得意料理だ。というわけでトレーには入れずによけておく。

茎と葉だけになったナハチカをまず包丁でみじん切りにしていく。

ある程度細かくなったらすり鉢に入れて、ひたすらゴリゴリすっていく。


ゴリゴリ、ゴリゴリ…


根気も力も必要な作業だけれど、実はこの作業が一番好きだ。

ナハチカをすっていくと、どんどん粘性が増してきてすり棒に引っ付くようになっていく。その変化を見るのがなんだか楽しい。いつまでも見ていられる気がする。


ゴリゴリ、ゴリゴリ…


…まあ、時々やりすぎて師匠に怒られるのだけど。

ナハチカの緑がすり鉢の中で艶々てらてらと輝きだした。

頃合かな、と古びた壁掛け時計に目をやる。

針はお昼より少し前を指していた。

起きるのは遅かったけれど、一心不乱に作業したせいでそこまで遅れずにすんだ。


(よし……)


すり棒を軽くふきんでぬぐってから、洗い場に置く。

すり鉢には水で濡らしたガーゼをかぶせる。これから先ほどのナハチカを寝かせるのだ。


「……出来は?」


師匠がふらふらと私の作業スペースに来て尋ねた。


「なんとか遅れた分を取り戻せそうです」


私の返事を聴きながら、師匠は私がかぶせたガーゼを取り払ってすり鉢の中をのぞいた。

それから右手の薬指で、中身をほんの少しだけすくって手の甲に塗り広げる。


「ふん……これならまあいいだろう」


「ありがとうございます!」


師匠から合格が出たことに安堵の息を吐いた。

寝坊した上に作業も不出来では、ねちねちとしたお小言をもらう羽目になる。

自業自得ではあるのだけれどなるべく叱られたくは無いものだ。


「それじゃあ私は昼食の準備を………」


ちりりん…、涼やかな音が私の言葉をさえぎった。

お店に備え付けてある呼び鈴が鳴った音だ。

店員は私と師匠だけだから、二人とも接客できないときは呼び鈴を鳴らしてもらうことになっている。


「……客か。

俺が出るからお前はメシ作ってろ」


師匠は作業着を手早く脱いで、ダイニングの先にあるお店へと通じるドアから出ていった。

私の師匠は薬師だ。

午前中は主に植物を加工し粉末にする作業。午後からお店を開いてお客さんに合った薬を処方する。

師匠の調合した薬の効能は、この国で一二を争う効き目だと言われるほど評判が良く、お店の客足も上々だ。

私も1日のほとんどをそのお手伝いに費やしている。

先ほど擦っていたナハチカも、血行を改善する効果のあるお薬になるのだ。


(さて…今日のお昼ご飯はどうしようかな?


あ、昨日隣のおばさんにもらった山菜で天ぷらそばとかどうかな。)


(でも昨日の残り物もあるし……

う~ん…天ぷらは夜でもいいか)


「おい」


店に出ていったはずの師匠が戻ってきて台所にひょっこり顔を出した。


「どうかしましたか?

薬草の在庫ならまだ倉庫に……」


てっきりお客さんに出す商品の品切れかと思ってそう言うと、師匠は首を左右に振って否定した。


「”忘れ屋”の客だ。

お前も来い」


「!!

は、はい…」


師匠に促されて私もお店へと向かった。

師匠を”師匠”と呼ぶのはその調合の腕を見込んでのことでは無い。

もちろん調合の腕も素晴らしいものだし、見習いたいと思っているところではあるが……

薬師は師匠にとって副業でしかなく、師匠の本業こそが私が師匠を師匠と呼ぶ理由なのだ。

師匠の本業は”忘れ屋”。

人の記憶を忘れさせる職業だ。


師匠の後について店へと出ると、お客様用の席には赤いハイヒールの女性が座っていた。

歳は30くらいだろうか。

化粧は薄いけれどはっきりとした顔立ちをしているためか地味な印象は受けない。

女性はヒールをカツカツと床に打ち付けて、少しいらついたように私たちを待っていた。


「嫌な記憶を忘れさせるって店は、ここでいいのよね?」

私と師匠を一瞥して、女性はそう口火を切った。


「嫌な記憶に限った話ではありませんが……人の、忘れたい記憶を忘れさせる……

それが私の——”忘れ屋”の仕事です。」


師匠が普段とは打って変わって静かで丁寧な口調で答えると、女性は不躾に師匠を爪先から頭まで見回した。


「あなたが、ねぇ……」


絹糸のように艶やかな金の髪。白磁のように真白な肌。そして、底なしに深い黒曜石のような瞳。

師匠の異国めいた面立ちは、”忘れ屋”なんて言う聞きなれない職業への不信感を煽るか、神聖なものへと昇華させるかのいずれかだ。


今回の女性は前者らしく、胡散臭そうな目で師匠に向き直った。

とはいえそういう反応は珍しいものでも何でもない。

師匠は営業スマイルを少しも崩さずに、その視線を受け流した。


「では今回のご用件は記憶の忘却ということでよろしいですか?」


「それ以外に何があるって言うの?」


「無くした記憶を取り戻したいと当店にこられる方もおられますので。」


「へぇ……ちなみにその場合は?」


「私が当店でおこなうサービスは、”忘れさせること”のみです。

思い出すのは専門外ですのでお断りさせていただきます」


「断るってことは……不可能ではないのね。

ま、いいわ。私の用事はこの忌々しい記憶を忘れさせてもらうことだから」


そう言って彼女は”忌々しい記憶”について語り始めた。


ある夜、仕事から帰ると家の電気が付いていた。

自宅を出るときに消し忘れたのだろうかと思いつつ、リビングに入ると、テーブルには誰かが飲み散らかした酒の空き瓶が転がっている。

これはいよいよおかしい。家に、私以外の誰かがいる……。

恐怖に駆られ警察へ電話しようと携帯を取ったそのとき、風呂場から誰かが歩み寄ってくる音がした。

動くこともできずじっと息を殺していると、見るからに風呂上がりの男性がリビングに姿を現した。

この男…侵入するだけではなく勝手に風呂にまで入っていたのだ。


(どうしよう…!逃げる……?

いや、出口は男のいる方向にしかない……逃げられない!)


携帯を持つ手が震え…がたんと床に落ちた。


「ん……?

なんだアキ、帰ってたのか?」


男性が私に気づき、親しげに話しかけて来た。

”アキ”というのは、わたしの名前だ。


(名前まで知られてるなんて…こいつストーカー……?)


「アキ…?

どうした、そんなに青い顔して体調でも悪いのか?」


「触らないでっ!!」

気遣わしげに伸ばされた手は私にとっては恐怖でしかなく…乱暴に振り払って玄関から逃げ出した。



「……と、いうわけなの。

この記憶を忘れさせてちょうだい。」


「……え、あの…それって警察には届け出たんですか?」


女性…アキさんの話に私は思わず口を挟んでしまう。

弟子である私は、師匠と客のやりとりに割り込むのはご法度だったが……それにしても不可解なことが多すぎて黙っていられなかった。

家に全く知らない男がいるだなんて、忘れ屋に来るよりも先に行くところがある気がする。


「警察はあてにならないのよ!

説明しても笑われるばかりで……私もう、どうしたらいいか…」


「その男性は本当にアキさんのお知り合いじゃないんですよね?」


「知らないわよ!見覚えもない!」

本当に参っているのか、アキさんはわなわなと手を震わせながら神経質に叫んだ。


よく見ると、化粧では隠しきれない隈が目元に見える。


「…その男は今はどうしているんですか?」


師匠が問いかけると、アキさんは深くため息を吐いた後に答え始める。


「……3日ぐらい家にいたけど、私が出て行けと言い続けたらどこかへ行ったわ。」


「だからこそあの男に関する記憶を忘れて、元の生活に戻りたいの」


「なるほど、話はわかりました。

それでは早速忘れさせましょうか」


「え!!

ちょ、ちょっと師匠……それでいいんですか?」


二つ返事で請け負った師匠の袖を掴んで思わず引き止めた。


「それでいいのかって…何がだ?」


「……話に聞く男性は、本当にただのストーカーだとは思えません」

アキさんに聞こえないような声音でひそひそ話すと、師匠は私をにらんだ。


「確かにそうかもしれない。

だがそれがどうした」


「え……」


「忘れ屋の仕事は客が願った通りに記憶を忘れさせること…。

男の正体がストーカーだろうが、そうじゃなかろうが、知ったことじゃないんだよ」


「そ、そんな言い方って……!」


「俺の決定が不満なら弟子をやめろ」


師匠のその言葉に、私は結局何も言えなくなってしまうのだった。

……そして結局、師匠はアキさんの、男に関する記憶を忘れさせた。

アキさんはすっきりした顔で、——なんだかよく覚えていないけどありがとう——と言って、軽い足取りでお店を出て行った。

そのアキさんの表情だけ見れば良いお仕事ができたのだと胸を張って思えるのだけれど…どうしても私の心の底にはアキさんが忘れた男性の存在がちらついていた。


(本当にこれでよかったのかな……)


師匠は私が口出ししたのがよほど気に入らなかったのか、アキさんの記憶を忘れさせた後は私と目を合わせようともしない。

私の作った晩御飯は完食してくれたけれど…食べる間一言も喋ってくれなかった。

アキさんの記憶を忘れさせることで確かに彼女の心は軽くなった。

けれど…話に出てきた男性の心はどうなったのだろうか?

記憶は自分だけのものじゃない。人と人とをつなぐ、自分に関わる他人と自分のものだ。

だからこそ私は今日の師匠の仕事に納得できなかった。



ゴリゴリ、ゴリゴリ……

腕に鈍い振動が伝わってくる。

この振動は……ああ、そうだ。私はすり鉢で薬草をすりつぶしているんだ。

師匠は厳しいからもっと真面目に、真剣に、すり潰さないと。

ゴリゴリ、ゴリゴリ……

でも私は一体何の薬草をすりつぶしているんだろう…

…こんな風に赤い汁の滴る薬草は、一体何なんだろう…

不意にすりつぶす手を止めて手の平を広げて見ると、べったりと赤い汁が付いていた。

その色は拭っても拭っても、手に張り付くようにして落ちてくれない。

いやだなぁ、こんなにあかいの、いやだなぁ……

ゴリゴリ、ゴリゴリ……

でもどれだけ嫌でも辞めちゃダメ。これがわたしのお仕事だから。

ゴリゴリ、ゴリゴリ……

ゴリゴリ、ゴリゴリ……



「…………」


妙な夢を見たせいか、まだ日が昇っていない時間に目が覚めてしまった。

テーブルのそばに置いているフェイスタオルを手にとって、額の汗を拭う。

それから手のひらを見つめて、もう一度夢の内容を思い出した。

手から滴るべとべとした赤い汁……。

その感触は、夢であるはずなのにまるで実際に体験したことのように私に残っていた。

手を開いて、閉じて……それを繰り返し続けて、ようやく自分の手のひらの感覚を得る。


(……水でも飲んで気を紛らわそう)


もう一度布団に潜ったら、またあの夢を見てしまいそうで恐ろしかった。

私はまだ階下で寝ているであろう師匠の眠りを妨げないように、そっと自分の部屋から出た。

足音を忍ばせて階段を降り台所に行くと、人影が見えた。

誰などと聞くまでもなくあのひょろりとしたシルエットは師匠のものだ。

声をかけようとして…一瞬躊躇する。

喧嘩をしたつもりはない。でもだからこそ、仲直りという終着点も見つけられずに気まずい雰囲気を続けてしまう。


「眠れないのか?」


まごまごしているうちに、私に気づいたらしい師匠がそう声をかけて来た。

声色から察するに、今はそこまで機嫌が悪いわけではないようだ。

昨日の気まずい雰囲気から脱却できそうな師匠の物腰に、私は少し安心して安堵の息を吐く。


「はい。師匠もそうですか?」


「…そんなところだ」


「ホットミルクでも作りましょうか?明け方は冷えこみますから」


「そうだな、頼む」


師匠の返事を聞いてから、私は牛乳を鍋に入れて火にかけた。

師匠はお気に入りのダイニングチェアにぎしりと音を立てて座ると、瞼を伏せた。

私はくつくつと白い泡が弾けていくのをじっと見る。


「……」


師匠と一緒にいるときに訪れる沈黙は、不快な感じがしないから不思議だ。

もちろん仲違いしているときは気まずいけれど、それとは違う普段の静寂は、私を、暗い海の底でじっと海面に目を凝らすクラゲのような、ふわふわとした気分にさせる。


「……師匠。

師匠はどういう思いで…”忘れ屋”をやっているんですか?」


”忘れ屋”のお仕事はそう頻繁に舞い込んで来るものではない。

一ヶ月に一回あるか、無いか……しかもそのほとんどは、自分の恥ずかしい経験を忘れたいだとかそんな些細なものだ。

だからこそ、今回のようなアキさんの件を経て…私は師匠の職業観に疑問を抱いた。


「……記憶は一人につき一つ。

だから他の人間がどう言おうがどう思おうが……、その持ち主が望むなら、忘れさせるべきだ」


「それじゃあ……

私が…師匠に出会う前のことを何一つ覚えていないのは、私が望んだからですか?」


「……」


師匠が黙り込む。

…そう、私には師匠に路地裏で拾われる以前の記憶がない。

なぜなら師匠と暮らし始めて数日後に、師匠の手によって忘れさせられたからだ。

”忘れ屋”に記憶を忘れさせられると、”何かを忘れた”という漠然とした思いだけが残る。

私も同じく、何かを忘れたような思いを抱いて今まで生きてきた。


「……お前の記憶を忘れさせたのは、お前が望んだからじゃない。

俺が望んだんだ」


師匠の、いたって落ち着いた声が早朝のダイニングに響く。


「お前の記憶を勝手に忘れさせた俺を恨むか?」


「……いえ、私は師匠の弟子ですから師匠の決定に従います」


私が過去に何を抱えているのか知りたくないといえばそれは嘘になる。

本当の家族はどこにいるのか?どうして一人で路地裏にいたのか?

けど師匠は何の理由もなく人の記憶を忘れさせたりなんてしない。

きっと何か、私に過去を忘れさせたい事情があったのだ。


(そして多分、私はそれを思い出してはいけない気がする……)


今日見た、赤い汁を出す何かを懸命にすりつぶしていた悪夢…。

あれは今日初めて見たものではなく、今までにも何度か見たことのある夢だ。

きっと師匠が忘れさせた、私の過去に関するものだろう。


「私の記憶を忘れさせたことは気にしてません。

でも私の記憶を忘れさせたのが師匠の意思だというのなら……アキさんの記憶を忘れさせるのはやっぱり間違ってます!」


「……記憶は一人だったら絶対広がりません。

そこに誰かとの関わりがあるから……いろんな思い出ができて、記憶になっていくんです」


「師匠が私を思って記憶を忘れさせてくれたなら、その逆もあるはずです!

アキさんに忘れて欲しくないって思っている人もいると思います!!」


懸命に告げると師匠は伏せていた瞼をゆっくりと開けて、深い色の瞳で私をまっすぐに見た。


「……鍋」


「え、鍋……?

あ!」


師匠の言葉に、牛乳を火にかけたままにしていたことを思い出す。

慌てて火を止める…どうやら焦げ付いてはいないようで、安心した。

師匠のブルーのマグカップと、私のオレンジのマグカップを用意してすっかり煮えた牛乳をそそぎ、ハチミツも加えてかき混ぜる。

そして師匠の前に置いた。

師匠はすぐには手をつけず、じっとマグカップを見つめた後に深く息を吐いた。


「もし、今日の依頼者が言っていたストーカー男がこの店に来たら……

その時はもう一度考える」


「はい…!」



その日は想像していたよりもずっと早く来た。


「”忘れ屋”さんはこちらでしょうか?」


店番をしていた私に、そう言って話しかけて来たのは深い茶色の髪を短く切りそろえた男性だった。

仕事帰りなのか、少しくたびれたスーツにカバンを携えている。

優しげな垂れ目がちの紫の瞳にはほんの少しの迷いが混じっているように見えた。


「はい、そうですが……”忘れ屋”のご利用ですか?

でしたら今、担当の者を……」


「あ、いえ、利用ではなく聞きたいことが……

この女性がこのお店を利用したことはありませんか?」


そう言って男性は胸元からパスケースを取り出して私に見せた。

パスケースには夕日をバックに笑い合う男女の写真が入っている。

男性の方は、今目の前にいるパスケースを差し出した男性。

そして女性の方は、先日”忘れ屋”を利用した、アキさんだった。



…ありがとうございました。

落胆を含んだ力無いお礼が聞こえて、私は2階の自室の窓から外を眺めた。

ちょうどお店の玄関から先ほどの男性が出て来たところで、ぺこぺことしきりに頭を下げながら去っていく。

二人で話すからと師匠に言われ、私が自室に戻ってから2時間が経った頃だった。

慌てて階段を駆け下りて店先へ出ると、珍しくお客さんを見送ったらしい師匠が頭をぐしぐしとかき回しながら店内に戻って来た。


「…師匠、結局あの方とアキさんはどうなったんですか…?」


「最善は尽くす…が、俺にはおそらくどうにもできない」


「え…?

それってどういう意味ですか…?」


「まず、今日きたあの男と先日の依頼人は夫婦だ」


「!! そうだったんですか……」


やはりアキさんの家にいた男性は不審者などではなかった。

夫婦だからこそ、同じ家に戻り、生活をしていたのだ。

警察が取り合ってくれなかったと言っていたのも頷ける。

”知らない男が部屋にいる”…などと言っても、調べればすぐに二人が夫婦だとわかるからだ。


「始まりは些細な夫婦喧嘩だったらしい。

妻は家を飛び出して…”忘れ屋”で夫を忘れることを選んだ」


「そんな………」


「俺が今回依頼者から忘れさせたのは夫の記憶ではなくあくまで不審者の男の記憶だ。

元の夫婦に戻るためには…夫の記憶を忘れさせた”忘れ屋”を探さなくてはならない」


”忘れ屋”が戻せる記憶は、自分が取り扱って忘れさせた記憶だけだ。

つまり他の”忘れ屋”の手によって忘れた記憶は、師匠の手をもってしても戻せない。


「見つかるんでしょうか……」


「”忘れ屋”の数は少ない。

しらみつぶしに調べていけば、いつか見つかるだろう」


「……そうですよね!」


師匠の言葉に私の心は少し軽くなった。

アキさんが夫の記憶を取り戻して、その後どうするかは誰にもわからない。

また元の夫婦に戻れるかもしれないし、今度こそ本当に別れてしまうかもしれない。

けれどその選択の過程が何よりも大切なのだ。

師匠は”忘れ屋”。私は”忘れ屋”の弟子。

私たちができるのは、その人の心を軽くするお手伝いをすること。

…そう、私たちの仕事はあくまで”お手伝い”に過ぎない。

最後に自分たちの運命を決めていくのは、記憶だけじゃない。

その人が今まで築き上げた絆こそが、人を引き止め、つないでいくのだ。


「さてと、夕飯にするぞ」


「魚介たっぷりのパエリアがいいです!」


「んなもん急に作れるか」


私には過去の記憶がない。…でも今はそれでいいと思う。

他の人からすれば過去を忘れたままにする私の姿は逃げに見えるかもしれない。

けれど師匠と過ごすこの日々こそが、私を私でいさせてくれる。引き止めてくれていると思うから。

今日も私は忘れたまま、今を精一杯生きる。

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